昔のコラム知りたくもないこと
卒業論文の指導を担当すると、そ の学生の個人データが記載された状 況調査票というのを渡される。これ を熟読玩味して指導に役立てる先生 もおられるようだが、私はこれを見 るどころか持っているのも苦痛であ る。他人についての情報なんか中途 半端に知りたくはなく、余分な知識 はいっそ指導の邪魔でしかない。彼 らの理解力、分析力、構成力、感性 を見つめて評価し指導する上で、親 の職業や家族構成を知る必要がある と感じたことなど一度もない。
それは学生に限らない。私は長く つきあっている人の多くの、家の場 所も勤務先も知らない。学歴も貯金 通帳の残高も興味がないし、それで も彼らを充分に理解できる。
そんなのは普通と思っていた。少 なくとも生き方のひとつとして通用 すると思っていた。ところが、最近 いろんな場で自分の個人的生活に非 常に興味や関心を注がれることが多 くなった。どう考えても、そんなに 近しくない人が当然のように私の個 人的なことを知ろうとし、それを不 思議に思っていない。そしてどうや らそれが、今の日本の世の中では多 くの人のつきあい方であるらしい。
だとするとだ…私はレイプや性犯 罪を激しく憎む。それを防ぐために、 犯罪歴の公開が必要なら賛成したい。 だがその一方、これだけ、他人に関 する興味や関心に節操も歯止めもな い国で下手に情報を流して、きちん とうけとめる基盤があるか不安だ。
人の一部を、あるいは過去の一部 を知ることは、その人と真剣に向き 合い理解する上でまったく何の役に もたたない。そのことだけは少なく とも肝に銘じておくべきだろう。