昔のコラム偽善を攻撃する偽善

卒業シーズンになると、昔の学 生たちの誰かれを思い出す。私が 卒論を指導したのではないが、よ く研究室に来ては私とダベってい た、身体のでかい、シャープな感 覚の男子学生がいた。(その頃は 大学も今よりひまで、学生たちと おしゃべりをする余裕もあった。)
ある時、何かの話題で彼が「そ んなのは偽善ではないか」と言っ たので私は「かもしらんが、偽善 を攻撃するのも偽善だろ」と言い 返した。ふだん人の話に感心した り同意したりすることなどめった にない彼が、その時「そう言えば そうだ」と、やたらに納得したも のだから、逆に私もその時のこと が印象に残ってしまっている。
その時までもそれからも、私に はそれは普通の感覚だった。けれ ど政治にしろ文化にしろ、理想と かまっとうとかいうのも恥ずかし いほどあたりまえのことを、はっ きり発言し行動すると、言ってい る中身ではなく、そうすることそ のものに反感を示す人がいる。そ んな人は実はそれほど多いわけで はないが、そういう反感をかうこ とを恐れて沈黙を守る人は、これ はそこそこ多い気がする。
正義だ平和だ未来だ平等だと声 高に主張するのは、実は私も面映 い。だが、それに対して「鼻持ち ならない、きれいごと」と眉をひ そめて舌打ちするのは、これはこ れでまた面映い。同じ恥ずかしさ なら前者の方がまだ泥臭いだけ逆 にカッコいいかも、と思ってしま うのが私の屈折した美学といえば 美学である。

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カツジ猫