福岡教育大学物語12-研究科長の任命をめぐって

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123対88の投票結果を無視して、学外者をまじえた12名の学長選考会議が寺尾学長の再選を決めたことに対し、学内では当然驚きと反発があった。教職員組合は、このことに疑問を示した内容のビラをまいた。ビラまきをした執行委員の先生の一人は、そのころ、学内投票で大学院の研究科長に選ばれていた。

前にも書いたが、福岡教育大学はもともと教授会の議論も活発で、ほとんどの先生が組合に加入していた。執行委員になる人は毎年さまざまで、特定のメンバーに固定されてはいなかった。支持政党別で言うなら、あらゆる政党の支持者が執行委員になっていたと思う。

学内は人文系の第一部、理数系の第二部、実技系(体育、音楽、美術など)の第三部、教育系の第四部に分かれて教授会が開かれており、各部に主事がいて、教授会の議長をつとめた。その各教授会(部会)の結果を持ち寄った代議員会でさらに審議を行ったが、否決した学部があれば、結論は保留になっていたと記憶する。それとは別に、人事、予算、学生、などの委員会が数多くあり(多分何十という数だった)、それぞれの委員長を先生たちがつとめた。また、国語、理科、音楽など、最小単位の各講座はそれぞれ主任がいて、採用人事や学生指導などを話し合っていた。

何しろ二十年近くも前の記憶で書いているから、まちがいもあるかもしれないが、多分だいたい、そういう仕組みで、それらの主事や委員長の中から学長や副学長になる人も多かったし、学長や副学長になる人は、そういう主事や委員長をつとめた経験があるのが普通だった。(講座主任は、町内会の組長みたいなもので、ほぼ誰もが回り持ちでやっていた。)だから学長になった時点で自然に学内のしくみや、事務の人たちとの関係なども、把握できていたわけだ。もちろん、学外の人を推薦して候補者にすることもできたし、事実なった人もいたが、それはやはり苦労も多かっただろう。

組合に反発する人の中には、組合の委員長や書記長が、主事や委員長と似た、学長や副学長へのステップとなっていると感じている人もいた。事実そういう傾向もあった。つまり、ある程度主任や委員会の委員長として経験を積めば、組合の執行委員や書記長や委員長になり、そういう人の中からやがて、学長や副学長になる人も出るという流れは、ある程度自然にあった。

私が在職していた最後のころ、4つの各学部の教授会は統合されて、200人あまりの教員がひとつの教授会でいろんな審議をするようになり、4人の主事に代わって、1人の学部長が議長をつとめた。その教授会が終わったあとに大学院の授業を担当する教員だけが残って、大学院に関する議題を審議し、その議長は研究科長がつとめた。つまり、学部全体は学部長、大学院は研究科長が代表していた。どちらも選挙で選ばれていた。まあ、そのころは組織もいろいろめまぐるしく変わったので、細かいところはちがうかもしれないが、だいたいそういう感じだった。

こんな話を長々とするのは、要するに、組合の執行委員になって学長批判のビラをまく先生が、研究科長に選ばれるというのは、別に特別なことでも珍しいことでも不自然なことでもなかったということだ。私が組合の書記長をしていたころの委員長だった松尾先生は、その後わりとすぐ学長になったし、その前の菰口先生も組合活動や生協設立に熱心だった。そういう人も学長になると、組合からさまざまな件で突き上げられ、対立もし、批判も受けた。主事も、学部長も研究科長も、それは同じことだった。

その時に研究科長に投票で選ばれた先生も年齢や経験から言って、特にまったく問題はなく、私もいっしょにいろんな仕事をしてきたが(それを言うなら寺尾学長や櫻井学長ともそうだった)、もちろん研究科長として申し分ない、信頼できる人だった。あえて言うなら、ものすごく特別にずばぬけて優れていたということでさえない。もちろん優れていたし、魅力的で立派な人だったが、学長や副学長と同様、他にも同じように問題ない人はいた。要するに、くりかえすが、あらゆる点で、何も驚くことでも特殊なことでもなかった。

寺尾学長が、その先生を、絶対に研究科長として認めないという判断をした理由が、今でも私にはわからない。個人的な嫌悪で拒否したというなら、それも大問題だが、そもそもそんな個人的な好悪が生まれるほどの接点があったとさえ思えない。言っちゃ何だが、研究科長に選ばれた人が私のような性格なら、虫が好かんとか肌が合わないとかいうことはあってもふしぎはないが、その先生は私のような乱暴な自由奔放さはないというか、あるはずがない。ちなみにその人は男性だから女性差別もありえない。

だからもう、どう考えても、寺尾学長が公式に述べていた理由、「学長を批判するビラをまいたから、研究科長にはふさわしくない」しか理由がないわけだが、これももう、私にはわからない。雑な話で恐縮だが、寺尾先生が投票結果を無視して学長になるのを文部科学省が正式に認めて、それ以後、寺尾学長が強気になって報復としか思えない強硬手段を次々とったというのが組合の先生方の分析だが、それと、この「研究科長として認めない」と突っ張りつづけた過程とが、どのような時間関係にあるのか、多分ほぼ重なりはするのだが、私はちゃんと知らない。その間に学長と組合の関係がよくよく悪くなっていたとしても、組合に批判的な勢力だって、実際に寺尾先生に投票した88票分はいたわけだし、何というか、そんな微妙な時点で、組合だけでなく、全学の意志や、それまでの手順を否定するようなことをやってのける自信だか、やけだか、憎悪だかは、いったいどこから生まれるのだろう。どんな成算と展望があったのだろう。考えれば考えるほど、わからなくなる。

そんなことを考えるのは時間のムダで、学長はよっぽどのストレスで我を忘れていたのだろうとか、もう一歩進んで組合もたいがい学長を怒らせるような刺激的なことをしたのだろう(まあ正門前でビラをまくというのも、そうだという人もいようが)とか、言い出したらきりがない。
しかし、私の感覚では、そうやって、いわば学長がこれまでの慣習をふみにじって(しかし、国の法律はふみにじってはない、念のため)新しい独裁もどき体制に一歩踏み出したのなら、以後の混乱を抑えて自分の支配を定着させるためには、その瞬間こそ用心深く慎重であるべきで、仮に組合が少々暴走しようが過激になろうが、そこは落ちついて対処して、何もそれほど変わってないように見せながら、じわじわ地歩を築くのが支配者や権力者というものではないだろうか。
憎い敵なら孤立させるべきで、組合の中心メンバーと他の教員を切り離すよう全力をあげるべき時なのに、オタクやゲームの用語ではないが、自分からラスボスになってどうするよ。

学長は国やマスコミや社会のおかげで、絶対的な権力を持つにいたった。実際に、その後、この、選挙で選ばれた先生を研究科長として拒否しつづけた後、学長は自ら規則を変えて、研究科長は学長の指名で決めることとして、別の人を指名した。

ものすごく普通に、法律や社会的常識の基本の基本で考えて、それこそ学級会や町内会の基準で考えても、規則を変更するのなら、それ以前の規則に従わなければいけないわけで、従来の規則で選ばれた代表が現にいるのに、新しい規則を決めて別の人を選ぶというのは、もう民主主義どころか、江戸時代やマグナカルタのころでも通用しないのじゃないだろうか。

私の感覚では、そうやって代わりに指名された人こそ、本当に気の毒な気がするし、最大の被害者にしか思えない。誰なんだか知らないが、ほんとに同情するよ。

つまり、まちがいなく学長は強者になっているのだが、やってることが、とても強者のすることとは思えない。余裕がなさすぎ、追い詰められすぎ、あらゆる点で弱者のというか、弱者にしか許されない行動に見える。

前にも書いたように、私は主事になった時期に、もう二度と許さないぞと思う相手が、ものすごく増えた。今もその恨みは忘れてないくらい、ムカつくことが多かった。だから、学長が怒りに我を忘れても、その気分はある程度はわかる。と思う。
しかし、それでも、上に立つなら、権力を持つなら、それをほとばしらせてしまったら、自分にも他人にも、いいことはひとつもない。
本来なら、そうしたくてもできないように、強者の手を社会や法律がちゃんと縛っておくべきなのだ。

それとも、このような強者の暴走に、成算はあるのだろうか。それが続くことで、弱者は従順になり、多数が無抵抗になるのだろうか。その先にあるのはそれなりのユートピアか、強者も含めたこの世の地獄か。

私は安倍内閣の政治と国内の状況を見ていて、いつも初めて見る気がしなかった。教育大で起こりつづけていることが、そのまま大規模に再現されているとしか見えなかった。今もそうだ。これからもきっとそうだ。そこに見える風景は、似すぎている。絶望も、そして希望も。

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カツジ猫