福岡教育大学物語43-若狭之助の心境

私はそもそも、翁長知事に会わなかった首相から、砂漠で頭を砂に埋めて敵からかくれたつもりになるというダチョウまで、見たくないものから目をそらしていたら、いつかそれは消えてなくなるのではないかと思っているとしか思えない心理というのが、よくわからない。

その対極にあるような、ヘイトスピーチやホロコーストにも実はどこか似たものを感じる。それは、自分にとって不快なもの、都合の悪いものは、事柄にせよ個人にせよ民族にせよ、この世から消してしまえるという幻想を抱いているらしいことだ。いったん存在したものは、そう簡単には消せませんよ。比較的かんたんな個人相手だって、殺しても当面死体は残るし、解体や焼却の手間だってバカにはできない。

まあこの世には、絶滅してしまった民族や動物もいないわけではないけれど、韓国人でもユダヤ人でも自分が気に入らないからと言って、収容所に押しこめたりプラカード持って練り歩いたりするぐらいで、世の中からなくしてしまえると思うのは本当に甘いと思う。それは、ものすごく相手を苦しめるし傷つけるだろうが、それでもそんなことぐらいで、相手を消滅させてしまえる可能性が、どのくらいあるか、よく考えてみているのだろうか。

無視して相手にしないでいるのは、やってる方から考えるとヘイトスピーチやホロコーストに比べて消極的に見えるから、あまり罪悪感を感じてないかもしれないが、それは単にずぼらで省エネしてるだけで、相手に対するダメージはきっと同じぐらいに大きい。
「きっと」などと言うのは、私自身はあまり無視されるというかたちの攻撃を受けたことがないからで、しかし、その割に、他人のそういう体験を聞いたり見たりすると、ものすごく身につまされて腹が立つから、もしかしたら、記憶を封印しているが何か潜在意識下でそういう体験があるのかもしれない。あ、そう言えば幼いときに母が怒ると、よく口をきいてもらえなかった。あの体験のせいかしら。

大学時代からの親友で、ずっと中学の先生をしていた女性がいて、彼女があるとき、忘年会か何かの宴席で、ものすごく嫌われているとかではないが、そんなに好かれてはいない校長のところにあいさつしに行ったら、その校長ははいはいとかはあはあとか言って片手でのばした盃に彼女の酌を受けながら、ずっとよそを向いて他人と話していたそうだ。どうせ彼女も相手のことをそんなやつだと思っていたから、別に傷つくでもなく怒るでもなく、「そんなんやで、あんた」みたいに話してくれたが、私は会ったこともない、この先会うこともないだろうその校長を、ものすごく軽蔑し、汚らわしいとさえ思った。

彼女は身体も大きく一見女傑風であるが、実は女性的で弱気な面もある人で、私は若干なめていた。でもその話を聞いたときは、この人はそんなにすごい職場で日夜生きているのかと心の底から尊敬し、かなわないと思ったものだ。それからも時々聞いていると、そういうことは職場では普通どころか、それ以上のこともよくあるようで、どこもそうではないだろうが教育現場なんてほとんど人外魔境に思えた。

少し脇道にそれることを言うと、私自身も諸般の事情から、特に相手を嫌いでない場合も含めて、人を拒絶することはある。
だがその場合、少なくとも相手や周囲にはそれを気づかせないようにする。
また相手がもし、「何かあったのか」「何に怒っているか」と真正面から聞いてきたら、最大限(=最低限)誠実な応対はする。
そんな問いかけをするほどに私のことを尊敬も信頼も愛しもしていなくても、生きる上で全然問題はないのだから、中途半端な気持ちで聞いてほしくはないが。生煮えに関係を修復しても私の体験では、まず絶対にいいことはない。

手間を省くために最低限の基準を書いておくと、猫でも人でも、私を独占するために他を排除する相手を私は近づけない。
私にいくらつくしても、他の存在にまったく尽くさない相手も、近づける気はしない。

言うまでもないが、私がその相手に能力であれ外見であれその他の何であれ、めろめろになるぐらいの魅力を感じていたならば、上記の基準は多分すべて吹っ飛ぶ(笑)。
だが本当にふしぎなのは、自分にはそういう魅力と価値があると信じて、はじめからそういう対象のような態度をとる人が時々いることで、これは本当に謎だ。もしかしたら、そういうかたちから入ることで、そういう存在になれると思うのだろうか。

そういうことはどうでもいいので、話を戻そう。

赤穂浪士の仇討ちを題材にした歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」では、幕府に遠慮して、吉良上野介は高師直に、浅野内匠頭は塩冶判官という名に変えてある。何も知らないで(史実は知ってて)初めて見る人が多分あれっと思うのは、師直は上司に生意気部下には傲慢女にはでれでれの、完膚なきまでにろくでもないやつとして造型されているが、そんな彼が二人の部下の内で、目をつけていじめるのは、大人しい塩冶判官ではなくて、もう一人の気の強い桃井若狭之助の方ということだ。

師直が二人を無視して行きかけると若狭之助は、その前にまわりこんで足元に平伏し、「こっちは挨拶してんだろうが、無視すんなよくそじじい」みたいに、きっ!と大げさに頭を下げたりする。カッコよくてかわいくて笑ってしまうが、実は師直のふるまいに彼は深く傷つき、武士としての誇りから、師直を斬って自害し、家が断絶してもかまわないと覚悟を決めるのだ。

前夜にそれを打ち明けられたベテラン家老が、即座に師直にわいろを贈ってきげんをとったので、師直は手のひら返して若狭之助をちやほやし、その反動で塩冶判官を(不倫をもちかけた塩冶の妻から拒絶されたのもあって)めちゃくちゃ攻撃するため、急転直下そんなに悪い関係ではなかった塩冶判官の方が師直に切りつけてしまう。

どこからどこまで師直は最低だ。若狭之助のことは歌舞伎の作り話だが、小心で欲深で傲慢な上司像を浮かび上がらせるのに、このエピソードはすごく効いている。

師直はヘイトスピーチ系の攻撃型と、シカト系の黙殺型と両方を併用する、しかもとことん低級でチンケな小物だが、そんなつまらん人間からの無視でも、それにきちんと抗議の姿勢を見せる強さがあっても、若狭之助は深く傷つき、妻も家臣も代々の家もすべて犠牲にしてもいいから法律を無視し、彼を殺すことを決意する。無視されないがしろにされた人間の怒りと恨みはそこまでも深いことを、江戸時代の歌舞伎は表現し、その常識を観客と共有した。

教育大の件でいろんな資料を見せてもらう際に、大学を訴える裁判を起こした原告の一人で、講座主任と評議員をしていた教員が、それが理由で学長に評議員や主任として認められず、あらゆる交渉に応じてもらえず、文書を出そうが学長室に直接出向こうが、それを何度もくり返そうが、いっさいとりあってもらえず黙殺され玄関払いをくり返された、というご本人の細かい報告書を見たとき、私は目まいを通り越して身体の震えがとまらかった。

これがどんなに残酷なことか、主任をやった者は誰でもわかる。私の感覚では学部長にあたる学部主事や、けっこう重要な委員会の委員長などは、有能で優秀な担当事務がぴたっと秘書のようにはりついてフォローしてくれるので、方針やポリシーをきちんと持って指示を出せるなら、案外楽だし、ミスをする可能性もないし、ストレスも少ない。

それに比べて講座主任は回り持ちになることも多く、かなりの人が体験するが、多分これが一番激務だ。専門の事務担当はいないから、すべての雑用、書類仕事は自分でしなければならないし、人の運命も退職金も左右する、昇任人事や採用人事、入試関係などの最重要課題が、学生指導や研究室運営の細かい日常の仕事と、ごたまぜになって、のしかかる。

その中でも、学長や執行部との相談や交渉がなかったら、そういう業務は大半が滞る。大学に対して裁判を起こしたことを理由に、そのすべてに応じないということは主任どころか講座そのものの息の根をとめる。

だったらさっさと主任も評議員も交代させろよ、と言うかもしれないが、講座にも仕事の分担その他いろいろ都合はあるし、何よりビラをまいたり訴えたりしたことを理由に皆で選んだ主任や評議員をやめさせるのは、学長の権限が大きくなった今の法律下でもやはり大きな問題だ。だからこそ、講座もご本人もできる限りそこは譲らないよう努力したのだろうし、直接何度も学長室に、単身足を運ばれたのだろう。
それで、会おうともしなかったとは。百歩ゆずって学長の方もそれでやむなしという判断があったにせよ、どなたかのアドバイスや、いろんな事情があったにせよ、それが相手に与える傷の深さと、その結果生まれる怒りと恨みの強さとを、どれだけ計算に入れての判断だったのか、私は本当に戦慄する。

愛する家族や家臣や家名をすべて犠牲にしても、相手を殺そうと決意した若狭之助よりも、ご本人や講座が冷静で強い精神力を持っておられたことを、冗談でなく私はひたすら神に感謝する。

最終的にはこの方は評議員も主任も別の方と交代した。現実の講座運営上やむを得ない措置だったとはいえ、ご本人や当該講座だけではなく、これは大学にとって、もしかしたら日本にとってさえも、かなり大きな悪例を残したと私は思う。
私が大げさなのでもない。労働基準局つまり国の判断では、この人に対する学長の対応は「不当労働行為」という法律違反だということが今では決定している。最初にそういう判定が出たのを大学側が不服として、長期にわたり少なからぬ費用を使って最高裁まで争った。その間一度も、判決はくつがえっていない。

その間、それなりに長い時間が流れたから、学長も交代し、講座も解体された。それも理由にしているのかどうか知らないが、大学も学長もこの件について、主任だったこの先生にも講座にも、いっさいの謝罪もコメントもしていない。組合や講座はそれを求めて毎回教授会や交渉の席で抗議を重ね、大学の側は応じないで膠着状態が続き、これに疲れている教員も多いようだ。

賠償金を求められているわけじゃなし、とっとと謝っちまえよもうじれったいとか、ええかげんに放っておいて、他のことに取り組めよとか、大学組合双方に私はぼんやり思っていた。
しかし、この「謝罪はないのか」「必要ない」という、一見不毛なやりとりは、上のような事情を知るにつけ、火に油を注いで栗を投げこむような発言をすると、慰安婦問題などに通ずる、謝罪をめぐるいざこざとも共通する、かなり重要な問題にも関わっているという気がしてきた。で、次回にはこれを書く(あくまでも予定です)。

なお、大学が謝罪を固辞?するので、その主任だった先生は、自分に対する大学の対応の数々をパワハラとして申し立てたらしい。パワハラというのはちょっと軽い気もするが、まあそれはそれとして、これも当然受理されなかった。ほら、「学長のパワハラ、アカハラを審議検討する機関は本学にはない」ですからね。あはははは。で、事務方の事務的な回答で「こういう事例に対処するシステムは現在ありません」みたいな文書が一枚ぴらっと来ただけだったって。省エネですねー。(もう私も壊れてるかもしれない。)

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カツジ猫