福岡教育大学物語22-シャドウ・ワーク
今回ちょっとエッセイ風に、だらだら書くけど、ごめんなさい。
昔いた、ある大学で、主任になった年配の偉い先生が妙にぐだぐだ講座会議を長引かせるのでイラついたことがある。有能な方で、議事進行が下手でもないのに何で?と思っていたが、ある時にその方が「いやあもう、こんな時でもなければ皆さんと親しくお話をかわす機会もありませんから」と言われたので、納得するとともに、うんざりした。
実はその講座の中で気の合う先生方数人と、朝から晩まで大学前の喫茶店でだべっていて、学問論から政治論、文化論から馬鹿話まで談論風発、酒もないのに盛り上がり、授業のある人はそこから教室に行って、終わって戻ってきてまた話に加わるみたいなことを毎日していた。まあそういうのもそれはそれでどうかとは思うが、とにかく勉強にもなるし楽しくて、「親しくお話をかわす機会」にはまったく不自由してなかった。
自分にそれがないからと言って、講座会議という公式の場をそれに使って構成員を拘束し束縛して交流の場を設けるのはなんかとってもちがうだろと思った。その後、教育大に移って、国語教育講座に所属したとき、人間関係は特に悪くないが淡々としていて、講座会議はクールにてきぱき仕事の分担や方針の決定をして、ちゃっちゃと終わるのを私は大変満足していた。
その後、組織の改編で国際共生教育講座に移った。国語、社会、外国語から数人ずつが集まって新設された講座で、これまた別に不満はなく快適だったが、年度の初めの講座会議で、各委員会や学生指導その他の仕事の分担を決めるとき(これがけっこう膨大な数で十数人のメンバーが各自四つか五つの職務を分担しなければならず、当然その中には軽いものも激務も入り混じっている)、皆が和気藹々と「えー、去年私それやったのに」「あれ、そっちを取るんですか、うまいなあ」とじゃれて遊びながら押し付けあって決めて行くのが、私は寒気がするほどいやだった。どうしてそういう私に言わせればみっともない文化が生まれたのかわからないが、きっと他の二講座の伝統が引き継がれたのだろう。
国語教育講座の場合、誰もが決して聖人君子なわけではなくても、それらの仕事は自主的に「あ、私やります」「じゃ、それは私が」と各自が申し出、さっさと、あっと言う間に割り振っていた。古参も若手も、逃げようとか避けようとか決して言わず、そんな風に見られることは恥という美学が多分あった。何より時間がもったいなくて、講座会議は最小限の時間ですませて、各自の仕事に戻ろうと誰もが自然に考えていた。
今になって、こんなことを口走って、当時の他のメンバーにけんかを売る気は毛頭ない。ただ私が驚いたのは、最近その国語教育関係の講座の先生方が、講座のいろんな仕事について、決してすんなり引き受けないで、「業績として評価されないシャドウ・ワークになるのはちょっと」と拒否することも多いと聞いたことである。
私が不潔だ下品だそんなことで遊ぶないちゃつくなと内心げっそりしていた国際共生教育講座の仕事の分担して行き方も、私の趣味に合わなかっただけで、いわば気心知れた仲良し集団の楽しいひまつぶしのゲーム感覚がなせるわざだった。
評価されない、業績にならない仕事はしたくありませんと、きっぱり言える状況は、それなりの良さもあるのかもしれないが、おそらくそんな牧歌的なものではなく、もっとせっぱつまって追い詰められた状況が生んだ、かなり味気ないもののように思える。
この連載の最初に書いたように、状況で人はけっこうどんなにでも変わる。国語教育講座には私と同じころにいた人も、その後新しく来た人もいて、知る限りでは皆立派な人である。その人たちが業績や評価につながらない仕事を、公然と拒否しあうのは、やはり大学の状況がずいぶん厳しくなっているのだろうか。シャドウ・ワークという言葉自体、私は耳にしたこともなく、そんな意識も位置づけも思いつけず(だって、自殺したいの退学したいの子どもを堕ろしたのという学生と、研究室や自宅で時には酒を飲みながら、だらだら何日も語り明かすのなんか、そもそも人に知られちゃまずい仕事だろ。そういうことしていた先生は私の他にもいっぱいいたし、今だっているのじゃないのだろうか)、皆でボクシングでもやってるのかと混乱し、「はい?」と何度か聞き返して、ようやく意味が確認できた。
私は江戸時代にも昭和にも、まるで思い入れはなく、昔がよかったとはまず思わない人間だ。ただ教育大の先生方の今の状況がどんなものなのかを考えると、こういう話を聞くにつけても、知らないなりに、いろいろと、あれこれ気になってくる。