福岡教育大学物語50-なぜ、この三つ?

(49)の最後で最新版をあげた、私が選んだ三つについて、ちょっとだけ解説しておきます。

ついついでれでれ読み返してしまう文庫本に泡坂妻夫というミステリ作家の「煙の殺意」という文庫本があって、短編集なんですが、その中に「紳士の園」という話があります。ちょっとお洒落で風変わりな作風で、この話もそうなんですが、東京の公園で風流人の男が友人を誘って、池の白鳥をつかまえて鍋にして食おうとする、とんでもない短編です。

それはどうということはないのですが、たまたまその夜に殺人があって死体を目撃してしまう。でもその死体が翌朝行ってみたら消えてしまっている。それだけでなく、その公園にはその日どことなくおかしいところがある。花を折る酔っ払いもいないし、逃げようとしたスリは若者数人にすぐつかまってしまう。不健康なものが何もなく、皆がとても立派です。

その風流人の主人公は、それに異様さと恐怖を感じ、「何かがおかしい。すぐ逃げて、なるべく遠くに行かないと」と友人をせかして、そこから立ち去ります。
落ちも含めて、どうってことない、変わり種のミステリですが、何でそんなものここで紹介してるかって言うと、公用車にあいさつしない門衛さんに怒る学長や、逆に公用車の窓にフィルムを貼る学長や、研究室を明け渡さなくて講座主任とドアの紙のひっぺがしあいをする学長や、交渉の席で赤の他人をおまえとどなる大学理事や、ええとその他なんでしたっけ、あえて言うなら使えるプールの埋め立ても、見るに耐えない英語の大学名も、どれもこれも、本当にしょうもないし、脱力するし許せないです。

ただ、花見の公園の立ち小便やスリと同様、こういうことが、まったく何一つない大学というのも、それはそれでちょっと気味悪いかもしれないと思うのですよね。今の状況の中で、学長のものすごい権限の中で、その一環としてあるから、大変深刻なのですけど。何とかしなくちゃいけませんけど。

ますます脱線しますけど、私がまだ比較的若手の教員のころ、なぜか交通取締りに情熱を燃やしている大先生が学内にいらしてですね。学長も誰も頼んだわけでもないのに、朝や夕方やいろんな時にのべつまくなし正門に立っていて(そのころはまだ自動検札の機械もなかった)、出入りの車をチェックなさるのですよ。学内では駐車違反の車を見つけて、ものすごいことばで注意した紙をはるわ、待ち伏せていて、戻って来た持ち主にお説教するわ、皆大いに閉口していたのですが、つい放ってました。

その内にその先生は、自前で制服みたいなのを作って警棒みたいなのを持って見回られるようになり、一度私は正門でひっかかって、がみがみ注意されて、急いでましたし、とうとう「うるさいバカヤロー」とどなって、そのまま強行突破しちゃったのですよ。そしてそれきり忘れてました。

したらば、一年ほどした講座の飲み会で、思い出してその話をしたら、講座の中の気骨はあるけど穏やかな先生が笑って、「その直後に僕がたまたま通りかかったんですよ。そうしたら車をとめられて、『あんたんとこの講座のあの先生は、どうなってるんだ』と一時間ぐらい説教された」って。ひぇ~~~~~。

もちろん、ひたすら恐縮して謝りましたが、私とちがってその先生が一時間と言ったらほんとに一時間と思うし、それを黙ってなにごともなくすませておられた、その方のスケールというか底力というかも、すごすぎる。

後で、改革委員会の仕事をしていたとき、作業の間の時間つぶしの雑談で、生協の出資は共産主義国に流れるとか学生に言っておられた、剣道の大家の「街で奥さんたちが僕を見て『刑事?』とささやいてた」とかいう、強面のこれまた大先生にその話をすると、あの先生にバカヤローとどなったのかと確認されたあと、「おそろしー」とのけぞられました(笑)。

ちなみに、その交通取締りの大先生は、いろんな役職も熱心にちゃんとこなしておられたし、私とも普通に協力して仕事をしていました。退職されてからはなぜか年賀状のやりとりもあって、「あんたが学長になれ!」と何度も書いて来られて、正月早々笑かされました。

他にもそういう話はいくつもあっただろうし、そういう先生も何人もいたと思うのです。うんざりするけど、あほらしいけど、大学も社会も、そういう人を内包して動いて行くし、まったくそういうことがなくなったら、これはこれで、気味が悪いでしょう。

今、こういう大学の状況下で、そういったことの数々を、どう位置づけるか、こういう時期だからこそ、笑い話ではすまなくて徹底的に追求攻撃しなければならないか、見逃すことは許されないか、そこは私も微妙です。根本的なところが何か狂っていたら、立ち小便やスリクラスのことだって、殺人や放火と同じかもっとひどい結果を生みかねませんから。でも、それがそうなるのは、やっぱり根本か要点がおかしくなってるのが一番の原因ということは確かだと思います。

そう考えるときに、私は現在最も深刻で、すべてに継続的日常的に害毒を流し続け、状況を日に日にどころか毎秒単位で悪化させているのは、「昇任、採用の不透明さ」「懲罰、処分の不透明さ」「給与配分の不透明さ」の三つだと思うのです。これがある限り、誰もがどこかで縛られるし、恐怖にかられ、誘惑に負ける。何より、自分がどういう立場でいるのかさえ、ひとりひとりがわからない。どんな団結も抵抗もしようがない。

この状況は大学当局や学長にとっても、決していいものではありません。
そして、学長や執行部が、意図的に作ったものでさえ、ありません。
この間から、組合の先生方に(公開しても問題にならない)いろんな資料を見せていただいているのですが、それを見ていても、この救いのない三つの状況は、大学当局が作ったというより、法人化による学長の権限の強化の中で、あっちゃこっちゃ規則の手直しをし、組織も改編した結果、本当にミステリにある「偶然できた密室」風に、できあがってしまったものです。

私はこの間、組合の中心になってがんばって来られた、そして傷つき疲れておられる先生方を本当に尊敬し感謝しますけれど、「多分もう昇任とかあり得ない」「昔は時にはもらえた特別賞与はこの十年間まったくなくなった」と言われるその方々の「失うものは何もない」状況は、あえて言うなら、さわやかで選択の余地がない分、迷いもないのは楽だとも思うのです。いみじくもあるお一人は「私たちを懲戒や処分したら、それこそ大問題になる」と言われました。おそらくそれは事実で、公然と大学と戦い続けてきた人たちは、敵意を持たれてはいても、逆に権力を持っている方は手が出せないということもあります。セナガカメジローの映画見たいなあ。唐突ですみません。

だからこそ、そういう先生方は、特ににらまれてもいないけど、守られてもいない、多くの先生方の置かれている、不安定で危険な状況が、身につまされるほどには理解できないのではないかと思うのです。戦艦ポチョムキンの映画の甲板の場面のように、どっちつかずでいる人たちが一番無防備なのですよ。自分で自分を守るしかなく、下手するとものすごく孤立して誰からも恨まれてしまいかねない。要するに、すごく動きにくい。実際に失敗もする。

そういう人たちの状況が少しでも改善され、自分の立場もある程度わかり、恐怖や不安も少なくなって自由に勝手にものが言え、行動でき、昔の私がしていたように(今もか)、場合によってあっちについたりこっちについたり、事柄によって別の相手とけんかしたり協力したり平気でできるような流動的な状況が確保されれば、少々の暴言や非常識があっても、それは何とかしてしまえる、という私の読みがあるのですが、まちがっていますでしょうか?

あまり私を信用してほしくはないので、皆さんそれぞれ考えていただきたいし、この三つ以外でも、これがポイントと思うことは、どんどんこだわって、とりあげて、やってみてほしいのですが、学内学外どなたでも。もちろん学長や大学当局や、それを支持される方々のご意見もお聞かせいただければと思います。

 

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