福岡教育大学物語15-敵と味方と
だんだん教育大とは関係ない話になって行きそうだから気をつけないといけないが、どうせだから、ついでにもうちょっと言っておく。
これはあくまでも、私のやり方であって、夢にもくれぐれも万人に通用する話ではない。
そしてまた、私自身も、いつも守れているわけではない。
そこんとこ、しっかり確認した上で、私が人と戦うときの基本ルールをいくつかあげる。
まず私は、個人的に絶対許せない、大嫌いな人(国や団体、組織とも)とは対立しないし、戦わない。冷静に対応できないし、相手を完璧に滅ぼすまではやめられそうにないから、地球や宇宙を壊滅させる恐れがある。むしろ、そういう相手とは、できるだけ仲良くして、共存の道を探る。最低のつきあいですませて、傷つかないで距離をおく方策を考える。
とりわけ、相手をどのくらい嫌いかということを、相手にも周囲にも気づかせないよう注意する。だから私はヘイトスピーチをする人たちが、滅ぼしたい国を明らかにして大通りを練り歩くのなんか、あらゆる意味で気が知れない。きっと本当に真剣に憎んでなんかないんだろうなとしか思えない。
それほど嫌いな人や組織はめったにないから、実際にはけっこういろんな人や組織(めんどうだから、以下、人に統一)と対立するし、戦う。
その時に私が最初にやるのは、その敵の長所と魅力、自分と味方の欠点や弱点を、これでもかというぐらい徹底的に見極めることである。
たとえば相手の能力、魅力を、とことん見逃さない。上げた業績、重ねた善行、隠れた能力などなどなど。私には見せないが、笑顔や優しい声がどれだけ魅力的で人をひきつけるかとか、家に帰ればいい人だとか、ほれぼれするような絵を描いたり字を書いたり演奏をしたりしているとか、道でクモを踏みつぶさないで助けたりしてないかとか、かしこい判断を一度でも見せたことはないかとか、何しろ相手が人に支持され味方を集め神様に好かれ、勢力を維持できそうな要素があれば、すべて調べぬき、知り抜いておく。
同様に、自分が人に嫌われそうなところ、苦手なこと、劣っていること、顔や姿のみっともないところ、たたかれそうな過去の経歴、すべて見つめて数え上げ、修正できなければ、危険要素として確認しておく。
相手の欠点や弱点、味方の長所や強みも知っておくのは大事だが、それより相手の武器や装備、自分と味方の準備不足や不得意をすべて知っておかなくては、私は戦いに踏み切れない。
ただし私は、戦う相手を「手強い」とか「立派だ」とか評価するのは大嫌いだ。味方の前で、それを口にするやつなんか、まさに味方の「弱点」としてカウントする。「とてもかなわない」なんて発言は論外。絶対に敵はほめない。相手の長所や美点を確認するのは、それとはちがう。「よくやるじゃないか」なんて余裕見せるのも、いらんことだ。たたきのめし、ほろぼす相手としてしか、敵のことは認識しない。妙な親近感なんか絶対持たない。気持ちが悪い。
そして、戦いの終着地点を見極めておく。ほろぼして粉にして虚空に飛ばして消してしまえる相手なんて、実際なかなかいないのだから、どこまでやったら目的達成、勝利とみなすか、最初から考えておく。
戦いなんて、どんなものでも私にはちっとも愉快ではない。スポーツやゲームならいざしらず、嫌いな相手とつきあわざるを得ない戦いなんて、一日一刻一秒でも早く終わった方がいい。だから、かちとるべきものを得たら、さっさと終わらせ、別れたい。そのためには、目標をしぼり、そこに向かって集中すべきだ。
「汝の敵を愛せよ」ということばには、一面の真実があると、高校時代、私はよく考えていた。愛するのは勝利の予感、憎しみは敗北の予感だという気がしていた。イエスの言った本来の意味とは多分ちがうだろうが、私は敵を愛していられたら、戦いには多分勝てるといつも考え、そうするように心がけて来た。憎しみとは弱者や敗北者の特権だ。勝利をめざすなら、そんなものに近づいてはならない。そう思って来た。
実際には私も、人をどなるし、ののしるし、激しいことばで攻撃もする。しかし、それが本音にはならないように気をつけている(本当に狂気になるほど怒っていたら、絶対に見せたりしない。にこやかに、穏やかに、バターのようになめらかな声で話すことにしています)。あくまで効果を計算し、教育的配慮を忘れず、冷静に分量と用法を測りつつ、興奮も激昂もする。教育者ともあろうものが、そのくらいできなくてどうする。
こんなこと言ったら、教育大で学長に対立してがんばっている先生方に見限られるかもしれないが、あれだけいろいろ問題のあることばかりしている学長たちの、欠点やミスなど、数え上げても見つかりすぎて徒労感しか残らないから、たまには、皆で、学長の長所と魅力のいろいろを探して並べてみるというゲームでもしてみたらどうだろう。見つけるのが難しい至難の技かもしれない分、かえって気分転換にもなって、面白いのではなかろうか。
実は私は安倍晋三にもこれをしたくて、日夜(嘘です)彼の伝記など読んでみたりするのだが、いやーまあ、この人物ほど個人として面白いところがなく、怖さもかわいさも何もなく、平凡で陳腐で退屈で味気ない人物というのは書物でも現実でも見たことがない。憎しみや軽蔑すらも生まれないほど、ひたすらにただつまらなく、読めば読むほど不毛すぎて、すぐに本を閉じてしまう。そこが今の私の個人的にはなかなか乗り越えられないでいる壁である。ゆうちゃ何だが、櫻井さんや寺尾さんは、これに比べたらはるかに人間らしい凹凸が見られるのではないだろうか。知らんけど。