福岡教育大学物語65-見直すきっかけ

学長選を前にして、これまで書いたことのまとめをしようと考えていたが、福岡教育大学を考える市民の会(仮称)の方々が、市民に配布するビラを作ろうとしておられて(すでに何度か配布されている)、私も協力することになった。
その原稿や資料が、見やすくて、よくまとまっているので、完成原稿のかたちではないが、ここにも流用させてもらえないかと思っている。もう少し、お待ち下さい。

それにしても、その資料を見ている内に、正直、ここまで、こんなにひどい状況になっていたのかと、愕然とし、滅入って、しばらくは文章を書く気さえ失せるほど、私自身が落ちこんだ。

ちがう意見の人も多いだろうが、私はこうなったのが、寺尾学長、櫻井学長と、二代にわたる学長の個人的資質や悪意によるものだとは思えない。
法人化による関連法の改正で、国立大学の学長の権限は途方もなく増大した。
文字通り、「その気になれば何でもできる」ものになり、チェック機能は全然なかった。

今この現在、福岡教育大学の学長は、セクハラ、パワハラで訴えられても、それに対応し審議する機関もシステムもない。「学長がそのようなことをするとは考えられないから、想定していない」ということであるらしい。
この現代に信じられない状況だが、ある意味まことに象徴的ではある。

ともあれ、そのような大きな権限を持った以上、それを慎重に使って従来のあり方をなるべく変えないという選択をした学長も多いが、その新しい状況を大いに生かして、これまでにない大学運営をしようとする学長がいても、それは責められない。
むしろ、法律を改定した政府や社会にとっては、それが新しい法制を無駄にしないで活かす、望ましい学長でさえあるだろう。

寺尾学長は、その道を選んだ。追いつめられて、という言い方もできるだろうが、新しい法律を生かして、従来にない大学運営をして、これまでにない成果をあげようとしたと思えば、それはそれで誠実である。

当然それは学内に強い反発を招き、抗議や批判も強まった。
それを、圧殺と言ってよいほど強硬に寺尾学長は封じようとし、与えられた権力を徹底的に利用して、反対や不満を表明する教員を役職から排除し、教授会の決定権を奪った。

文科省が、政府が、社会が希望し期待した、強い指導者としての学長像としては、それは正しかったと言えるだろう。
だが、それが、現実の大学運営として成功するには、
1)反対勢力が孤立し沈黙し、全学の教員が学長に協力する体制が確立すること
2)批判や反対を封じ込め抑え込んで実行した諸施策が、それなりの成果をあげること
の二つが、最低でも絶対に必要である。
それも、できる限り早期にだ。もちろん、この二つは相互に連動する。

寺尾学長と、その方針を引き継いだ櫻井学長は、このどちらにも失敗した。
組合を中心とした強固な反対勢力は、疲弊し消耗しているかもしれないが、現存している。いわば、これまでの長い歳月をかけて、この勢力をたたきつぶすことに、学長は失敗した。そして、それは、その勢力が一部分の教員だけでなく、学内全体の教員に支持され共感されていたからに他ならない。

それはまた、学内外の諸施策を成功とは程遠いものにした。
細かいことから大規模なことまで、この間に大学によって行われた改変は、どれも大きな成果をあげたとは言い難い。

大学には本来なら学長になれる程度の能力や知識を持った教員は、常時十人以上はいる。その人たちが対立しながら協力もして、学長のブレインとなり、支えているから学内運営は可能になる。軍隊でいうなら古参兵クラスの、この層の協力と支持がなければ、どんな方針も計画も効果あるものは生めない。

そのようなメンバーは、もちろん個人で有能なだけでなく、講座やセンターといった各部署で、全教員の意見を吸い上げ、情報を収集する。それに基づいて議論するから、学長の出す方針や施策は現実的で、かつ将来も見据えたものになる。

学内運営には、文科省の意向を反映する、事務局長以下、事務方の役員も多い。それは貴重な存在で、意見も重視すべきだが、大学としてのあり方や特徴や伝統については、当然ながら考え方がちがう。
両者のバランスをとり、文科省の方針と、大学としての実情や理念を両立させるためにも、このような学内の経験豊かで有能な教員群を擁していなければ、学長は孤立し、事務局や文科省の主張や欲求に抵抗できない。その結果、効率や政府の方針のみを視野に入れた政策しか作れなくなって、現実的で総合的な方針が作れない。

これは結果としては、事務局や文科省にも不幸である。学内の声や大学の理念まで考慮し代弁する責任は、その人たちにはない。しなくてもいいし、できるわけのない仕事まで、やらされていることになる。その人たちに抵抗し、修正する学内勢力は、そうやって、よりよい方針を作るという役割を持つ。学長の味方であるとともに、文科省の味方でもあるのだ。

つまり、学長の権限をいやが上にも強化し、反対意見を抑えて行くという方策は、少なくとも福岡教育大学においては、うまく機能しなかった。
もともと無理だったのかもしれないし、両学長のやり方がまずかったのかもしれないが、そこのところはわからない。私は前者で、誰がやっても、これは難しすぎたと思う。もともと福岡教育大学は、議論や民主主義が、時には私でもうんざりするほど徹底していた大学で、それがひとつのエネルギーであり、財産にもなっていた。よかれあしかれ、独裁に近い強固な指導力を持ったリーダーを受け入れるには、ふさわしい土壌ではなかった。

私は、学長の反対勢力への弾圧が最高裁判所で「不当労働行為」という法律違反を宣告されたことを、別に神の声とか正義の審判とかは思わないが、少なくとも、寺尾学長がしようとしたことが、かなり無理があると世間ではみなされるということは明らかになったはずだ。これをきっかけに、両学長がこのやり方には限界があると判断し、メンツや対面があるなら目立たないようゆるやかにでも、従来の方針を再考し転換するのには、非常にいい機会だった。

だが、実際には学長は、このような「不当労働行為」を行う必要さえもないほど、徹底的にすべてを学長指名にして、批判や反対の可能性の少ないメンバーだけを集めるかたちで諸政策を決定し、学内運営をすすめるという規則の改変を行って、更に学長支配を強めた。

私は、このような方向から、いかなる未来も見いだせない。何らかのかたちで、学長の権限の強化をひかえ、少しずつでも学内の声をとり入れて行く手段を考えるしか、状況を改善する方向はないように思う。次期学長がどのような方になられるにしろ、そのような模索をされることを心から望んでいる。

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カツジ猫