福岡教育大学物語37-めりはり

ちょっとまた、いきなり変な話から始める。
私がまだ子どものころだったか、せいぜい高校生ぐらいじゃなかったかと思うが、フェミニズムの先駆けとも言える「第二の性」の著者ボーヴォワール女史が教育テレビか何かでインタビューに応じていた。

多分、母性愛は作られた神話にすぎないという話じゃなかったかと思うのだが、彼女は公園などで、母親が子どもに対して、いらだちや憎しみをこめたことばや態度をとるのに引き替え、犬に対しては優しく温かい声で話しかけると指摘していた。

私は彼女が偉い人で、しかも私の好きな考え方をする哲学者で思想家ということをよく知っていて、それでも何だかこの発言には、ちょっと「おいおい」と思った。いいのかそんなのでとか、えらくはっきり言うなあとか、妙なとまどいを感じた。
思えばそれから今日まで、すぐれた女性の活動家や学者などに対して、ときどき私が感じるとまどいの、それは最初だったかもしれない。

ただ、何度も思い出す内に、変にバランスのとれた四方八方に気を配った結果無難になってる発言よりも、あのくらい乱暴で雑で個人的感情的な方がいいのかもしれないという気もすることがあった。万人向きではないだろうが、それを覚悟で、ひとつのものの見方を示すという点では、ああいうのもありかな、とか。

私は学生たちや友人知人に何かを伝えるとき、「私以外の人の話も聞いて」「反対意見も聞いといて」とよく言う。言わずにはいられない。情報を閉ざして、禁じて、自分の意見だけを信用しろというのは、純然と、恐い。無責任でも卑怯でもない。たくさんのことを見聞きした上で、選択し、判断してほしいのだ。

だが、そう言いつつ、いつも私は「この新聞だけ読んでおけば大丈夫ですよ」みたいな話し方についなってしまう。「ここを見ておけば全部がわかりますよ」みたいな書き方をしてしまう。事実、そうありたいと心がけてしまう。
でも本当は、「他のも見てよね」と言うからには、私はもっと偏った、自分の好みを爆発させた話し方や書き方をすべきなのじゃないだろうかね。

教育大の現状について、いろんなことを知るたびに、あきれたりあわてたりあきらめそうになったりするのだが、一応ざっと私が聞いている、主として組合の先生方から聞いた大学側の問題点とは、大小濃淡まことにさまざまあるのだが、それらを並べて、ながめていると、私なりの感覚で、これはもう絶対に問題だというものと、ひどいっちゃあひどいがまあそれほどでもというのが、やはりある。私としては、そこは少しめりはりをつけて考えて行きたいし、人にも訴えたい。

ただ、その私の感覚というやつが、どうも一般的なものとは限らない。
公開の席で、個人的関係もない相手を「おまえ」よばわりするというのは、私にとっては考えられない非常識だが、これはどのくらい世間に通用するのだろうか。

また、名誉教授の先生方が配布したチラシで批判した、現学長が公用車に家族をのせて長期にわたって登校していたという事実は、「週刊誌はこういう点には一番敏感に反応します」と知人の一人が断言したほど、世間的にはもってのほかのことのようだし、以前に東京都知事もそれで失脚したのだった記憶がある。私の周囲もこぞって問題外だと否定する。

以前の学長の中には、そもそも公用車をまったく使わないで、運転手が失業するから使ってくれと頼まれた人もいたし、別の一人はしょっちゅうタクシーを使っていて、私が乗った運転手が、よくその学長を乗せていたらしく「立派な人でしたねえ、何でやめられたとですか」と聞かれて困ったこともあった。実際、その人の時には最後には公用車は廃止されていたらしい。

そういう学長たちは人間として魅力的だ。だが、高齢や身体の弱い学長なら、公務のために公用車はもちろん必要だろう。そして、ここからが問題だが、私は自分が学長や都知事なら、うっかり公用車に家族や知人を乗せて回りそうな気がする。公私混同の罪悪感より、あの大きな車の空間を、無駄に一人で占拠する罪悪感の方が強い。

そう言えば昔、岐阜の郊外の山裾(岐阜の山って、何だかおわんを伏せたように、平地からいきなり山になるので、山裾といっても、あたりはひらけて広々していた)の私立大学に非常勤に行っていたころ、そこはわりと辺鄙なところで、冬休み明けにあんな田舎に戻りたくないと言って自殺した学生もいたらしい。畑や森が広がるきれいなところだったのだが、若い女の子には魅力がなかったのだろうか。

バスもめったにないから、私は大学から支給されるタクシー券を使って駅から往復していた。でも、一人で乗るのがいつも申し訳なくて、たまたま帰りがいっしょになる学生数人をよく同乗させてやっていた。一度お礼に帽子をプレゼントしてもらったっけ。あれももしかしたら、いろいろ問題だったかもしれない。

というわけで、ボーヴォワール女史じゃないけど、私のこういう感覚って、あんまり正しくないのだよなあ。だから、学長や大学執行部の問題点のどれが重要でどれがそうでもないかというめりはりは、どうも私の感覚で決めて行っていいのかどうか自信がない。

しかし、そうでもしないと、とっちらかりすぎて前に進めないので、最初に言ったように、私のあくまでも個人的な観点なのだということを強調した上で、次回以下、問題となっていることのさまざまに、しょうもないけどランク付けをして行ってみようかと思う。そこから何かわかることも、きっとあるだろうから。

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カツジ猫