福岡教育大学物語54-会議は踊る
毎回長くなりすぎて、読む人も大変だと思うので、今回は少し短めに(笑)。
誰がどれだけ働いてるか、評価するのが難しい一例。
会議なんて短い方がいいに決まってますが、だからと言って資料も出さず情報も与えず質問もなるだけ封じて、株主総会なみにシャンシャンさっさと決めるのが理想というのもちょっとちがう。そんなことしてたら、皆が理解も納得もしないままに計画が実施されて、結局徹底せず実現できません。
マイナンバーなんて、その典型でしょ。私はあれは反対だし使ってませんが、もし、徹底的に普及させて百%使用できたら、それはそれで便利なこともあるとひそかに思ってますよ。
でも、反対意見が出るのを恐れて、どさくさまぎれにとにかくスタートさせようとして皆がよくわかりもしない内に決めてしまうもんだから、案の定普及しないし徹底しないし、いたずらに仕事と手間を増やしただけで、ものの役にもたってない。
このところ、日本の政府のしてることって皆そんなんばっかりですやん。こんなので決めた防衛計画も経済政策も、中途半端の役たたずにしかならないって、誰だってほんとはわかってますやん。
会議を茶話会もどきの友好の場にするのは私はむしずが走るほど大キライだし、水掛け論の応酬で泥沼化する長時間の会議は、民主主義に皆が嫌気を催して独裁期待する土壌を作りかねないし、正直大学の学長の権限強化も、それが一つの要素になってると思うけど、かと言って今の教育大みたいに、教授会の時間制限してとっとと切り上げてるらしいのも何だかなあ。
うちの地域の年に一度の総会で、ちょっと意見や質問が出ると、役員のまじめなおじさんは落ちこんで、あとの飲み会でも、くよくよ悩んだりしてるように、意見も質問も出ないのが成功!って意識は、多分公務員や事務員の人にも強いだろうけど、それはちょっとちがうと思うんだよね。
私は主事や委員長や主任で会議の司会をするときに、だから心がけてたのは、適度に意見や質問が出て議論になることでした。
ただし、泥沼化しないためには、その前に資料を自分で調べて、問題点をしぼりこみ、「要するに、こうするとああなる、ああするとこうなる、どっちを選ぶのがいいでしょうか」と整理して煮詰めて皆に選ばせるかたちで提案するのを基本にしていました。
いつもうまく行ったわけではないし、結局はどっちでもない折衷案になったりしますけど、そうやって皆で話している間に、問題点も修正点も、あきらめる部分もゆずれない部分も皆がわかってくる。最終的にはいいものができるし、できたものには皆が責任を持って協力できる。
(ちょっとまた脱線すると、これに慣れてくると、本当に突かれたらイタイ部分から皆の目をそらして隠すために、わざと別の部分をそうやって問題点にして議論させて発散させてごまかすということも、したくなって困りました。しなかったけど。
先日、卒業生に勧められて「女神の見えない手」というアメリカのロビイストの映画を見たのですが、楽しみつつもあんまりノレなかったのは、「そのくらいのテクニック、規模は小さくても私だっていつも使えるし、そんなに大げさにカッコつけなくても普通にいつもやってるやん」って気分が大きかったのもある。
私みたいな人はきっと山ほどいたはずで、その一方であの映画程度のことを「すごい」と感じる人も多いんだとすれば、金だけじゃなく悪知恵でも、世界の格差は広がってるのかもしれない。)
いやいや言いたいのはですね。
そうやって、司会者や提案者が、きちんと内容を検討し、問題点を整理して会議に臨むと、確実に早く終わるし、しかも充実した討論ができて成果も上がるし、参加者の疲労度も少ない。
でも、その分、司会者や提案者は、それ以前にすごく準備の時間がかかるんです。精力も体力も頭脳も消耗します。
そして会議は短いから、あまり働いたことにはならない。
事前準備は評価のカウントにはならないんです。
逆になーんにも準備をしないで、資料や議案をそのまま会議に持って来て、検討も整理も、その場で皆につきあわせる司会者や提案者もいるわけで、その場合会議はすごく長引きますが、事前の準備にかける時間はゼロですみます。
会議の時間の長さで働いた量を測ると、こちらの方が評価されてしまう。
三十分で会議を終わらそうと思ったら、一週間の準備が必要。一時間で終わらそうと思ったら三日間の準備が必要。これが私の実感です。会議に一日かけていいのなら、何の準備もしなくっていい。もしくは五分か十分もあればいい。
まあこういうのって、他の職種や普通の企業でもありますよね。よく言われるのが熟練者や有能な人は仕事が速いから時間給や残業代ではむしろ損をするって話。じゃ出来高で決めるかってっても会議じゃそうは行きませんからね。
だからもう、完璧な評価なんて、しょせん幻想なんですよ。そこを大前提に考えた方がいい。