福岡教育大学物語24-お金の問題

退職してしばらく、私は年金だけの収入があまりに心もとなくて、この先どうなるか気が気でなく、あっちこっちでひと月の収入を皆にばらして、「あんまり言わない方が」「もっと少ない人もいるし」と、いろんな人から注意された。

今考えると、何となく思っていたのは、自分が「このくらいしか収入なくて大変だ」と言って回れば、それこそ「私はもっと少ない、これぐらいだ」「自分はもっとましかな、それでもこれだけ」とか皆が応じてくれて、おたがいや、全体の状況が確認できれば、それなりに対策のたてようがあるのではないかと、本能的に感じていたのだと思う。

まさに本能的なだけで、見通しも計画もまるでなかったから、当然誰も応じてもくれなかったし、そのままになってしまったが、そういう風に私が感じたことだけは、今もまちがってなかった気がする。

つまり、苦しい状況にある者どうしが、団結して戦うにせよ、現状に甘んじて快く過ごすにせよ、各自で努力してそこから抜け出すにせよ、おたがいに情報を交換し、現状を確認しあうことがなくては、なかなか難しいのではないかということだ。

私は他人の私生活にまるっきり関心はないし、自分のそれに関心を持たれるのも好まないが、それとこれとはまた別だ。

プロ野球のソフトバンクホークスは育成選手を養成するのがうまいと、最近話題になってるようだが、別にソフトバンクホークスでなくても、更にはプロ野球に限らず、サッカーでも水泳でもフィギュアスケートでも相撲でも、各自の成績が明確にわかり、それに応じた待遇がなされるのが、細かい点はさておき、だいたいはわかるから、本人たちも見ている方も納得できるし、研鑽も激励もできる。厳しい競争や弱肉強食の世界でも、チームは団結できるし、ライバルどうしは和気藹々にもなれる。

普通の職場ではスポーツの世界ほど目に見えないかもしれないが、だいたいの年収の基準や、同程度の仕事をしている者どうしの収入は、わかるし、その気になれば調べられるだろう。私のいた頃の福岡教育大学でも、勤務年数などの等級表があって、誰でも見られたし、他の人たちの俸給はほぼわかった。

先日、福岡教育大学の各講座での仕事の分担について書いたら、現職の先生がフェイスブックで次のように現状を書かれた。それを見て私は腰を抜かしたが、どうやら、今の福岡教育大学では、最小限の末端組織で同じ仕事に取り組んでいる者どうしが、たがいの待遇や仕事の内容をほとんどわからないまま、共同作業をしているらしい。

 さて、本学の状況ですが、4月からユニット(講座はもうない)内の仕事もすべて、学部長研究科長からの指名となりました。英語と国語の両ユニットは、指名制度には無理があることを訴えるため、指名を断り続け、講座からの推薦で指名することを認めるよう、お願いしましたが、拒否されました。結果的に、学部長からの業務命令で、指名が遂行されたところもあります。

これまで、時間がかかっても、講座内の仕事を平等に割り振ってきたのは、ボーナスなどにつながる勤務成績評定がそれらの仕事と連動する部分があったからです。しかしながら、すでに数年前から、そのような仕組みは講座から奪われ、勤務成績評定がどのような形で各人の勤勉手当てに反映しているのか、全くわからなくなりました。ガバナンスだそうです。

 前学長が作った「教職教育院」の所属でない教員は、勤勉手当てや研究費において、所属教員と比べると、厳しい査定をされているのではないかと感じています。端的に申して、お金の面で、差をつけられているのではないかと強く感じています。我々がやっている仕事を公平に評価していただきたいと思います。そうかそうでないのかも、全くわからないのです。

 教職教育院の教員も多くの仕事をしておられるのでしょうが、そうでない教員も仕事をたくさん抱えています。
お金についての不安や不信は、年金制度のブラックさと同じ。恨みもまた同じです。

この人は「差をつけられているのではないか」「そうかそうでないのかも、全くわからないのです」と書いている。つまり、差をつけられているかどうかの検証さえもできないのである。

こんな職種や職場は、世間のまともな企業ではどのくらいあるのか知らないが、少なくとも私がこれまでいた、いろいろな大学では考えられなかった。

こうなった一因は、学内の組織の再編が行われる中、誰がどこにどのように所属しているかがわかりにくく複雑怪奇になっているからだろうと思うが、組織の再編自体は昔もあったし、どこででもある。
ただし、どんな共同体でもそうだと思うが、組織の再編や新設というのは、人間関係をぶちこわし、職場の状況を悪化させるにはこれ以上のものはないというような代物である。よほどの必要性があるのでなければやるものではないし、やむを得ずやる場合には、細心の配慮が欠かせない。

その配慮がないどころか、その結果生まれる待遇や職務内容の差をまったく見えないようにしていたのでは、そもそも現場では腹を割った話も不可能、細かい打ち合わせも不可能、思いやりや一体感さえ持ちようがあるまい。

私は大学執行部や学長が、こうやって各教員が連帯意識や共感を持てないようにすることで、自分たちへの反抗や抵抗をさせないようにしようとしたなどと思うほど、性悪説にはくみしない。しかし、万一そうだとしたら、仮にそうやって、自分たち上に立つ者への反対を封じこめようとしたのなら、それが成功したとしても、代わりに大学全体から失われる生命力、活気、明るさ、楽しさ、その他もろもろ人間が生きて行き、組織を支える上で不可欠なものの損失は、あまりにも大きすぎる。大学にとって命取りだ。角を矯めて牛を殺すどころの話ではない。

写真は、記事とは関係ないけど、叔母が遺したベルトのいろいろ。人にもあげて手元にはもうあまりないのですが、こうして見るとなかなかきれい。

 

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