福岡教育大学物語36-さしあたり、憎しみは消しとこっか
前回、私がまとめて見た、教育大の状況ですが、「いやこれは中国や北朝鮮どころではない」「町内会でもまだもうちょっと、ちゃんとしてる」などと、私の周囲の一般の方は驚いています。そりゃそうだろう、書いている私も驚く。
先日の、市民と教職員組合の話し合いのときに、市民のお一人が、「私たちは、大学の先生と言ったらちゃんとした立派な人たちばかりだろうから、まさかそんなことが行われているとは思わない」「それは、現学長や前学長や、その他トップの方々の個人的な問題なのだろうか。それとももっと大きなシステムなどの問題なのだろうか。そのへんも明らかにして、わかりやすく市民に説明してほしい」と、おっしゃいました。
たしかにもう、いろんな問題がからみあっていますので、わかりにくいと思います。
組合や、大学当局の見解は知りませんが、私は何度もくり返すように、こうなったのは学長たちの個人的な資質ではなく、国会で法律が変わって、学長の権限が途方もなく大きくなったことに原因があると考えています。異論はもちろん、認めます。
理由は二つです。私は、問題となっている、寺尾、櫻井の両先生以前の学長たちを思い出して、もし同様の状況だったら、同じことをした方もおられたのではないかと思うからです。それぞれ個性のある、魅力的な方々でしたが、これだけ強大な権力を持っていたら、使わないでいたかどうか、全部の方については、わかりません。私自身が学長であったとしても、わかりません。
また、どちらの先生とも学長になる以前から知り合いだったし、いっしょに仕事もしましたし、その時の印象から考えても、どうしても私には、そのお二人が他の先生や私自身と比べて、そんなにひどい、おかしな方とは思えません。
しかし、今の状態は、まったくおかしく、絶対にひどい。その責任は、やはりそのお二人にあるとしか言いようがない。どこでどうしてそうなったのか、わかるようで、わかりません。
お二人がされて来たさまざまな、組合や教授会に対する対応は、おおざっぱに言うと、「守り」と「抑え」にまとめられるように私には見えます。徹底的に対話や解答や討論を避け、システムを工夫して、事務的な手続きですべてを処理して行こうとされる。それは、上から見ていると、あるいはもしかしたら事務サイドから見ていると(事務の方々の立場や視点については、また書きます)、無難で、安定を保つために、やむを得ない方法に見えるかも知れませんが、現場で仕事をする者が下から見たときには、すごく窮屈で不便で、ひいては恐ろしいものに映ります。上に立つ者も、相手が恐ろしく見えているので、そのことに気がつきません。
これをどこからどうするべきか、私にはわかりません。そもそも自分にその役割や資格があるとも思えません。ひとつには、全国のどこの大学も、いつでもこのようになる可能性はあるということ、そのためにも、この状況を知っておいてほしいということです。そして、できたら、事態を改善する方向も示せたらよいのですが。
とりあえず、いろんなことを考えるにあたって、どんなかたちであれ、誰に対してであれ、憎しみだけは、こまめに消しておくようにしようと思っています。
怒りはまだいいのですが、憎しみは判断を狂わせ、ものごとをややこしくします。個人的には憎しみは人生の味付けで、面白いし、役にたつこともありますが、こういう大きな複雑な状況の中では、そうやって遊んでいる余裕はありません。嘘でももう、聖人か天使か神か仏のような心で、いろいろなものを見、ことにあたろうと思っています。…つっくづく、私のキャラじゃないよなあ。