福岡教育大学物語47-大学院がなくなる
「日記」の方で簡単にお知らせしましたが、福岡教育大学の大学院が廃止されるそうです。
「福岡教育大学の再生を願う教員の会」に詳しい説明がありますので、ごらん下さい。
私のフェイスブックにも記事をリンクしています。
清水義範だったかな、出る学校がどこも組織の再編で、自分が卒業するときは入学したときの学部はいつもなくなっていたとか書いてたのは。
この何十年か、ばかばかしい大学再編の動きが活発で、そういうこともよくありました。政党の再編もそうですけど、かきまぜてうまくなる(こともある)のは料理ぐらいのもんで、思い出を消し、記憶を混乱させ、私のようなケチから言うと、看板(現実の)から名刺から各種書類からホームページから、すべてを変更しなくてはならない費用と手間をかけて、ほんとに虚しいと思いますけど、動いてないと死んでるとみなされて墓場に放りこまれるみたいな風潮の中では、そうした根っから無駄な動きも、日常化していました。
清水義範みたいな例もあるし、有為転変も諸行無常も世の常だから、別にそう感傷的にはなりませんけど、一応思い出みたいなものを書いておくと、福岡教育大学に大学院が設置されたのは私がいたころで、まあ比較的新しいと言えば新しいです。
当時の教職員は皆大変な時間と労力を、設置の手続きに費やしました。担当する教員にはそれなりの業績がなくてはならず、それも教育大学ですから、それにふさわしい論文や活動でなければならず、学長はじめ執行部や担当の事務職員や教員は、資料の作成、文部省(たしかまだその時はそうじゃなかったっけ)との交渉などに、膨大な時間と精力をかけました。その他の教員もどれだけ書類を書かされたことか。手続きに走りまわらされたことか。
専門分野が大学院になかったり、年齢が若すぎたり、その他の事情で直接大学院を担当しない先生たちでも、講座会議や教授会その他の会議で、いつも議論や作業に長時間つきあわされ、大学院担当の教員が忙しくなる分の雑務が回ったりで、ある意味もっと消耗したかもしれません。そうやって、全学で作った修士課程でした。
大学改革がたけなわになって、学生数が減らされそうになった時、改革委員会で私はもう一人の大先生とともに大学院の担当だったのですが、二人で資料を作り書類を書き、結局大学院の院生の定員を増やすことができて、ある先生から廊下で会ったときか何かに「定員減をあれでかなり食い止めたよね」と、ほめられました。ほめてくれた人はそれだけだったけど(笑)、行政や書類仕事でほめられることなんてなかったから、うれしくて、今も覚えています。もっともそれ以後、定員割れを起こさずに、その定数を維持するだけの応募者数を確保するのに今度は毎年ひやひやしましたが。
今、日本近世文学の中堅の、専門分野では日本で一番ではないかという評価を受けている研究者で、そこに学んだ人もいます。私が知らないだけで、他の専攻でも、そういう人はいるでしょうし、現職で学ばれた先生もふくめて、いろんな場所で大きな役割を果たして活躍している人たちは多いはずです。その人たちは、このニュースをどんな気持ちで聞くのでしょう。
どんな組織にも携わった人にこういう思い出はあるだろうし、過度な感懐は持ちたくありません。
ただ私がやりきれず、そこで学んだ人たちに伝えるのがつらいのは、「再生を願う会」の報告にある、いつもながらの次の一文です。
大学院改組については研究科教授会で全く議論はされず、
(かなり以前一度説明会が行われただけです)
いまだに学内で内容も公開されていません。
ああ、またですか。
「禁じられた遊び」や「めぐりあう時間たち」の子どもたちみたく、墓を作って十字架立てて悼んでくれとは言いません。しかし、こうしてはたから見ると、ダンゴムシをふみつぶすようにむぞうさに、教授会でもその他でも議論もしないで廃止する。
しつこく毎度くり返しますが、「大学にさっさといろんな決定をさせて、社会に貢献させるために、学長の権力を強くする」と、政界(多分財界も)、マスコミ、社会がこぞって声をそろえ、私たちもそれに抵抗できずに、法律を変えた、これがその結果(のささやかなひとつ)です。
かなり前のことですが、私のいた国語教育講座でずっと出し続けていた学術研究誌も廃止されそうになったのを、歴代の先生方が守り育てて来た長い歴史や、執筆する卒業生や学生の発表の場としてなくすわけには行かないと、何とか継続するようにしたという、若い(いやもうベテランか)先生からのメールが来ました。
日々過酷になる状況の中で、学生や卒業生の研究発表の場を守るために、そうやって必死にがんばっている人たちが、福岡教育大学の中にはいます。そうした努力が日本の学問研究を支えています。まだその人たちががんばれる間に、何とかしなければならないと、あらためて、強く思います。