福岡教育大学物語14-抵抗と団結
突出して過激に戦わなければならない勢力というのは、どんな戦いにも絶対に必要である。どういうかたちであれ、それを批判するのは、多くの場合、結局はまちがっているし、敵を利することにしかならない。
少なくとも、そういう批判をするからには、自分もまた最前線で最高の犠牲を払って傷つきながら戦いつづけていなければならない。そうでなければ、どんな批判をしたって、それは説得力なんか持たない。
だが、そう思うから大半の人が「戦っていただけているから、ありがたいことだ」と口を閉ざして批判を慎み、自分は戦わないでいるとしたら、それはいったい、最低限のささやかな力強い協力なのか、それとも結局、それもまた無責任な批判と同様、戦う人を苦しめ疲れさせるのか、そこはもう、はっきり言って両方だろう。いやーもう、こういうのって、一番書きたくない結論なんだが、多分本当だからしかたがない。
どっちかわからないのだから、私も無責任な批判を口にする方を選ぼう。
これは教育大に関することだけではなく、もう何十年も前から、それこそ、団塊の世代に対する次世代の人たちの中からも、ときどき耳にした、「権力と戦う人たち」への批判のいろいろの、断片や色合いを、ぼやっと見つめてながめていて、それを適当に頭の中で毛玉のようにまとめていると、何となく浮かび上がってくるのは、「何かに抵抗して戦っている人たちは、自分に抵抗する人たちを許さない」という不満だった。
まあそれはしょうがないと言えばしょうがないのだよね。ケッセル「影の軍隊」でも、ナチスドイツに抵抗するレジスタンス組織は、裏切り者を処刑するし、歴史上、世界中で、抵抗運動とはそんなもんだ。だからって、いいってもんではないけれど。もちろん、一番悪いのがナチスドイツであることに変わりはないけれど。
それにつながるものとして、これは私もよくわかるのだが、「権力に抵抗、反抗する仲間として、いつも団結させられ、和気あいあいの、なれあい集団になることを強制させられるのがたまらない」という悲鳴も昔からよく聞く。ひいては「そこでは絶対の協調、恭順、忠誠、滅私奉公を要求されるのが、つらすぎる」という嘆きも多い。
ぶっちゃけ、これが教育大でもあるのかどうか、私は知らない。今の教育大の先生たちと私はほとんど長い話をする機会がないからだ。ただ、これまでの、いろんな場所での体験や見聞から、しょうもない支配者や権力者の下では、こういう事態が生まれやすい。また、そうでなくては、抵抗する人たちの安全も心の平和も、ひいては抵抗も戦いも守れないという事実も否定はできない。ただ、もしも、そういう「団結しなければならない状況」が生まれているなら、それで起こる不満や弊害への心配りも、こまめに行なっておかないといけないと思う。
少し私のことを話そう。
教育大のことについて、OBの先生や市民の方と話していると、情報交換や方針決定のための会議だけではなく、親睦を深めるための飲み会や食事会に誘われることがある。なつかしいメンバーや大好きな知り合いもいるし、正直行きたくてたまらない。だが全部断ってしまっているのは、基本的には忙しくて時間がとれないからなのだが、ひとつには、私は志を同じくし、共通の目的をめざす人たちと、ごはんを食べたりお茶を飲んだり酒を飲んだりするのが、どうも苦手なのだ。そんなところで、安倍首相の寿司会食や花見イベントに対抗したってしかたがないという気になる。
あくまでも、あくまでも、あくまでも、これは私の理想で、趣味だ。だから、戦い方でもつきあい方でも、いろんなやり方はあるのだから、それぞれが得意で、好きな、効果の上がる方法でやるのがいい。何も私の好み(しかもかなり特殊な)に配慮して合わせる必要なんか、決してない。
ただ、私の理想とする戦い方は、ふだんのつきあいもなく、食事や飲み会もしたことはなく、私生活などおたがいまったく知らなくて、それでも、何かの目的のために集まろうとか行動しようとか呼びかけがくれば、すぐにさっと集まって、行動して、終わったら即別れて、また次の行動までは、各自勝手に自分の生活をする、というやり方だ。
そうやって、ふだん会うこともなく連絡も取らず、打ち合わせさえすることがなくても、信じ合えるし理解し合えるし、声をかければすぐに協力行動できる関係だ。
私が戦争を嫌いで、平和を守ろうとする最大の、最初で最後の理由とは、結局、「敵が生まれれば、問答無用で味方どうしが熱く強くまとめてしばって、ぐるぐるまきにされて団結させられてしまう」という、身の毛もよだつ事態を絶対さけたいからなのだが、世の中には逆にそういうことが好きで、そういうことが幸せで、そういうことがないといけないと思う人もまた多い。戦争を望み、敵を作りたがる人の中には、その団結や連帯や共感を求める人も、きっと少なくないだろう。ヘイトスピーチもいじめも、結局は何かターゲットを作って、仲間と肌をよりそわせたいという淋しさが生み出す要素があるだろう。
私はこれが大嫌いだ。特に、強制されるのが。やんわりとでも、否応なしでも。
カレー殺人の林真須美被告は、やってないと冤罪を主張しているらしい。真偽のほどはもちろんわからないが、私はあの事件のことを聞くたびに、町内会の催しでカレーに毒を入れたくなる気持ちはよくわかると言って、皆にあきれられていた。もちろん、あたりまえだが、そういうことをしてはいけない。でも、逃げられないイベントや催しは、私にとってはたとえどんなにいい目的のためでも、あまり愉快なものではない。
独裁者や戦争が本当によくないし、許せないし、罪深いのは、自分たちも仲良しグループで固まって好きなことをするだけでなく、それに対抗して戦おうとする人たちまで、否応なしに強固に団結させてしまうことだ。それが成果で、喜ぶべきことだなどとは、私には到底感じられない。