福岡教育大学物語20-組織の改編
しつこくくり返すが、私は自分の退職後の福岡教育大学がどのようになっているのか、詳しい状況をほとんど知らない。
だから、いろいろと耳にする不満や嘆きの原因が、どこにあるのかも正確にはわからない。その、どれだけの責任が学長や執行部にあるのかも判断できない。
ただ、外から見ていて漠然と不安なのは、この数年間に大規模な組織の改編がいくつも行われ、講座の統廃合もくり返されているということだ。
前にも書いたが、組織の改編ほど人間関係を悪くするものはない。
もっと言うなら人間性を破壊し低下させるものはない。
これは理屈ではなく、単純に私の実感である。非常勤も含めると、初めて就職して以来私立公立国立といろんな大学を転々とし、その間大学改革の時期にもあたって、いくつもの組織の再編を経験して来た。そして常に「もう以前のような環境ではない」「人間関係がめちゃくちゃになった」という嘆きを耳にし、目にもした。
安定した状況の中で、ぬるま湯にひたっていた教授たちが、かき回された金魚鉢のメダカのように右往左往しているという見方もできるが、ことはそう単純ではない。
一番の問題は、そういう改革や再編の多くが、大学の内部の必要から出たものではなく、政府や社会の要請で、やむを得ず行われることである。
自分たちの研究や教育に不都合な点が多くなって、その改善のためにやるのなら、皆それなりの覚悟も予定もあるからいいが、いわゆる外圧に応じてやむなく作る組織だから、不安と不満がいたずらに積もる。誰もが疑心暗鬼になり、周囲が信用できなくなる。
幸い私は、大変幸福な恵まれた状況で、組織の再編に関わって来た。それでも、いろいろ今思えばぜいたくな不愉快さはあった、という体験を以下に書いておく。
私は教育大学で国語教育講座にいたが、国際共生教育講座が新設されたとき、他の二人の先生とそちらに移動した。国語教育の同僚とは個人的にもかなりよく話し合った上だったし、新設の講座には社会や外国語からも、新天地を築く意欲に満ちたやる気のあるメンバーが集っていたから、新しい組織に皆がいやいや行くような、よくある悪い雰囲気はまったくなかった。だが、その中でも私がしばしばぶちきれていたのは、他講座から来た先生たちが、やる気がありすぎて、私の場合だと国語教育講座を、「あそこより、ここがずっといいでしょ?」みたいな確認を、ともすればしたがることだった。
他の二講座についてもそうだったかどうかは知らないが、私はこれが限りなくうっとうしく、しばしば映画の中などで脳天気なアメリカ人が亡命して来た他国の人に「ようこそ自由の国へ」と言いたがる、あの無邪気な無神経さをいつも思い出した。
そんなもん、たとえ何があったって捨てた故郷が基本的には嫌いなわけないじゃないか。「ここに来たのは運がいい、幸せですね」と疑いもなく言える神経は、在日や移民の人を差別する感覚と反対なようで表裏一体と、いつも感じる。
一度私はかんしゃくを起こして、講座の中でも一番穏やかな外国語から来た先生と二人でいる時、「あのですね、はっきり言っときますが、私は国語教育も国際共生教育も、どっちの講座も、大っきらいなんですっ!」とどなりつけてしまったものだ。
その後くるくる変わる文科省の方針のおかげで、また国際共生教育講座が解体されて私たちはそれぞれ元の講座に戻ることになりそうになった。
実際にそうなったのは、それから十年以上たった、ごく最近である。私は結局最後まで国語教育講座に戻ることはなかった。
それはどっちでもいいのだが、またまた私がそこでぶちきれたのは、国語教育講座の先生方が多分皆さん一も二もなく、「そんな可能性があるのなら、こちらから行った三人は、帰ってもらうのがいい。ぜひ戻って来てほしい。三人にとっても絶対にその方が幸福だ」と、まるっきり何の疑いもなく信じておられたらしいことである。
いやさ、それって、もとを正せば、私たちを送り出す時、実はひそかに悪いなと思ってたってこと?
良心のとがめとか感じてたってこと?
私たちも望郷の念にかられてて、声かけたら二つ返事でうきうきほいほい戻るに決まってると思ってるってこと?
「ようこそ自由の国へ」もたいがいムカつくけど、「何てったって祖国が一番でしょ」と無条件に思いこむのも、たいがいムシがよすぎはしませんかっての。
自分らの、そういう心理がみえみえになるみっともなさに気づかずに、よく文学の研究とかしてるよなマジで。
で、私はまた、そんなある日の廊下で、国語教育の若い先生と同年輩の先生二人に、「えーかげんにして下さい。私たちが国語教育に移ったら、そりゃ人手も増えるしそっちは助かるでしょうが、こちらは今の体制でやってんだから、いろいろ不便なこともあります。そっちのメンバーはどかっと動かないで私たちを迎えりゃいいだけでしょうが、こっちは手続きから何からいろんな手間もかかります。そういうこと何も考えてもないでしょ。だいたい、私たち三人の幸せなんか、何ひとつ考えないで自分らの都合で言ってるだけでしょうが!」とどなりつけたのだった。
いや、「ようこそ自由の国へ」にしろ、「戻る(という言い方自体好かんですが)のが最高」にしろ、心から言ってくれてるし、ものすごくありがたいことなんですけどね。そして私がそうやって、どなったりふてくさったりできること自体、相手を好きで信頼できてるからですけどね。そうやってどなりつけた国際共生のお一人も、国語教育のお二人も、私は大好きだったし、今でも好きです、相手はどうか知らないけど(笑)。
言ってみれば、最も理想的に近い状況の、最も信頼できる人間関係の中でなお、そういう怒りや行き違いは生まれる。それが組織の再編だ。そういうものを乗り越えて、新しい体制は築いて行くしかない。
だから、何の資料も情報もなくても、教育大が大幅な組織改編をしているというだけで、たいがいいろんな対立や混乱が生まれるだろうことはわかる。
そんなのは当然で、むしろそれが、あまり醜いかたちで私の耳に入ってこないことに驚く。
さすがに教育大の先生方の人格や品性は保たれているのだろうと安堵し感動する一方で、それが学長や執行部への反発とか、大学と組合の対立とか、より大きくて深刻な状況の中で、かえって皆が慎重になり沈黙せざるを得ないのかという危惧もある。
私がぶちきれて、同僚に暴言を吐けたのは、むしろ牧歌的で幸福な時代だったのかもしれない。
とりわけ、一番恐ろしいのは、組織の改編や再編が、たとえば学長と組合の対立などの力関係にまきこまれ、利用されてしまうことだ。
何か大きな対立が、共同体の中にあるとき、組織の改編と、それにともなう諸手続きは、好むと好まざるにかかわらず、ひとつひとつの局面が双方にとって武器になり、戦場になる可能性が常にある。
本来は、組織の改編を打ち出す立場の人、今の教育大学なら多分学長や執行部が、そうならないための配慮を最大限に行わなければならない。
だがそれは、非常に難しく予測がつかないばかりか、どうかすると、この機会に相手を弱体化させようとかいう無意識の誘惑まで入りこむ。
その点で、学長や執行部が、少しでも鈍感であったり柔軟性を欠いたりしたら、事態は悪化する一方だろう。
昔、私が味わった、みっともなく赤裸々な対立や混乱は、多くの傷を残すにしても、必ず修復できるし、時には次へ進むエネルギーとなりさえする。そうやって共同体は再生し、次の時代は生まれる。
だが、大学であれ組合であれ、何らかの大きな対立や力関係の中で新しい組織が作られ、それが双方が意図するとしないとに関わらず、その対立に利用されることになったら、その組織と、それが構成する共同体は、硬直し、停滞し、病んで、腐敗し、滅びかねない。
今の教育大の状況では、そうなる危険はとても大きい。
どんなかたちでもいいから、それが回避し、阻止されることを願う。