福岡教育大学物語40-シカトはいじめ

(39)の最後のあたり、ちょっと補充しましたので、恐れ入りますが、もう一度チェックを。マムシと池と利権の話です。

さて、その(39)の最後に書きかけた、教育大の現職教員が、

対話なき世界からは希望は生まれません。一致団結して取り組むべき対象は、福岡教育大学なのです。話しをしましょうよ。

と呼びかけている、大学側の一切の対話の拒否について。同じ先生が以前に、

これまで国際共生講座から、また所属学生から、学長に対して、説明と話し合いを、何度も求めてきた。
それらに対して、学長はじめ、役職のどなたからも、1通のメールさえ、いただいていない。
ご意見いただきました、メールいただきました、の一言もないことが悲しい。
完全無視の現状。無視することは、いじめではないのか。
とにかく、対話の機会をいただきたい。

と書かれているように、とにかくあらゆる質問や意見について、学長や大学執行部からの答えはなく、「そういうことには答えられない」という回答さえ、担当事務の名前で連絡し(事務も気の毒に。それにしても、冷たい、心のこもらない、うわべだけの、というマイナスイメージだけで使われがちな「事務的な」ということばに、イメージ以前の、まんま文字通りの使用例があるとはね)、教授会での要望や質問や抗議は司会の学部長先生が、「学長に伝えます」と言ってそれきりになるのだそうで。企業や自治体の苦情処理係の人が聞いたら、うらやましくって泣きますよ。

私は名誉教授の先生方の学長へのお手紙が開封もされないまま、「受取拒否」で返送されたのに衝撃を受け、何で私が責任を感じなくてはならないかよくわからんけど申し訳なく、それをフェイスブックで読んだ卒業生からは「ひどすぎて、ことばもない」というコメントが寄せられましたが、いやもう、ある意味私も卒業生もウブすぎ無垢すぎ。
大学側を弁護するのもしゃくだけど、あの無回答や受取拒否にそんな悪意も決意も敵意もなかったのかもしれないですね。なかば無意識、いつもの反応、ゴキブリ見たら殺虫剤かける程度の条件反射だったかもしれず、「何をそんなに怒って騒いでるの」と、むしろきょとんとしておられるのかもしれず。

いや慰めにはなりませんよ。でもそういう流れ作業気分でやっておられるかもしれないことは、理解してさしあげておいた方がいいのかも。

もうひとつ大学当局のために弁解すると、初めからずっと拒否していたわけでもない。少なくとも前学長の寺尾先生は、自分たちの講座を解体しないでという要望の署名を学生が集めて持って行ったとき、お会いになって、「君たち、こういうことをするのは新入社員が企業主に経営を指図するようなものなんだよ」(うろおぼえなので、正確な表現がわかったら訂正します)と、ご指導をされて学生を帰されたそうで、そりゃつっこみどころがいろいろあるにしても、とにかく会ってお話はして下さったようです。これも、現職の先生がフェイスブックで、

寺尾さんが学長になられる前いっしょに仕事をしたとき、ずいぶん話好きの方だという印象を持っていた。それが学長になられたのち、何かを質問しても「大丈夫、ご心配なく」とか「気のせいですよ」という返答に変わった。これが高等教育の場での議論なのかと、非常に残念であった。
しかし、今思い返せば、寺尾さんはまだ我々の前に姿を現しておられた印象である。櫻井さんが学長になって、大きく変わった。我々普通の教員は、櫻井さんのお顔を見る機会が激減したのである。

と書かれているように、お二人のお人柄のちがいなのか、時の流れによる変化か、私にはわからない。とにかく今はあらゆる批判に返答しない、反応しないというのが大学執行部の対応マニュアルになっているっぽい。

前にも書いたように、批判や質問への弁明や回答を考えることで、自分たちのしたことや今後の予定の検討や検証や分析もできるわけなのだから、それをまったくしないというのは、目を閉じてバイクを運転しているようなもので、大学や学長にとっても危険だし、いいことはない。
しかし、それはそれとして、現職の先生の指摘にもあるように、これは無視、黙殺される側にとっては、大変な苦痛である。そして言うまでもなく、これは「シカト」と俗に言う、いじめの中でも一番ありふれた、おなじみの手段で、これをそれと結びつけて考えられないとしたら、教育大学としては、非常に、非常に、非常にまずい。
ついでに言うと、私は学生の卒論指導で、「都合の悪い資料や調査結果を無視したら、それはもう研究じゃない」と最初に厳重注意するのだが、こういう無視や黙殺に慣れるのは、研究者としてもかなりの危険水域である。

長くなりそうなので、続きは次回で。あの、でも、しつこく念を押しとくと、これもまた、私が一番憂慮している案件じゃありません(笑)。

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カツジ猫