福岡教育大学物語58-分割して統治せよ
昔、教職員組合の書記長をしていたことがあります。法人化前でしたから学長の権限もそう強くなく、教授会も普通に機能していました。大学当局との団体交渉も、紳士的淑女的に行われていました。それでも、もちろん、いろんな課題がありました。
今でもそうですが、特に事務職員の方々は、雇用形態が多様です。正規の職員の方もおられれば、三年の期限付きでの雇用とか、一年ごとの雇用とか。期限が来るたびに契約が更新されます。最近では教員でもこういう契約の人は多いですが、当時は職員の方だけでした。
教育大の組合の組織率は高くて、特に教員はかなり入っていましたが、職員はそれほどでもなく、その中で、そういう期限付きとか厳しい条件の方はわりと組合に入っておられたと記憶しています。
団体交渉の前に、実態を調べて資料を作るために、その方々と一人ずつお話をして、勤務の実態などをうかがうのですが、そういう中で実感したのは、同じ職場で同じような仕事をしていても、そうやって給与や条件や待遇がちがうと、なかなか要求がまとめられないし、最悪の場合は、表には出なくても、組合員どうしがおたがいに抱えている不満が大きいことでした。同じ仕事をしているのに給与に差があり待遇に差があることは、人を団結させにくくします。
そういうのは、大学以外の今のいろんな職場ではもっとひどくなっているだろうし、少しちがうけれど、女性どうしの未婚既婚その他の条件のちがいの中でも、うんざりして死にたくなるほど見せられて来た現実です。ただ少なくとも大学教員の同僚の中では比較的それを感じることはありませんでした。もちろん、いろんな点で仕事内容の差はあったし、「ちゃんとした評価システムができないか」という、私に言わせれば見果てぬ夢の幻想もそこから生まれたりするのでしょうが、それでもそれほど日常的に痛感したことはありません。
またまた教職大学院ですが、ここ数年、給与体系の不透明さを中心に、これまでとちがったもやもやが生まれ、「誰がどれだけ苦労しているかよくわからない」「自分が損をしてるのか得をしてるのか見えない」状態が強くなっているのは、この組織の作られ方とあり方が、かなり大きい気がします。単に新しくて皆が慣れてないというだけでなく、長く続けば続くほど、疲労や痛みが大きくなる存在なのではないかと思います。
いわゆる特別給与その他でも、教職大学院担当の人は優遇されているのは教員間ではわりと共通認識になっている印象を私は受けています。ちなみに、大学教員の給与というのは、多分世の中の方が思っておられるほど高くはありません。私の故郷の葬儀屋とガソリンスタンドを経営していた同級生が、私の収入を聞いて「そんなもんかえ」と驚いたことを覚えています。また、名古屋の公立大学にいたころ私の親しくしていた女子学生がコンパのとき、私の月給を聞いて「女ひとりが暮らして行くにはいい額ですね」と感心した時、私は即座に「女ひとりで生きて行くには十分かも知らんが、男一人養っていくには不十分だ」と答えた覚えがあります。それは私の実感で、でも男性の同僚はそれで妻子を養っていたのですから、決して楽ではなかったはずです。
具体的には私の年収は退職するころには手取り800万ほどだったでしょう。しかし、資料調査のための出張の交通費、何より一冊一万や二万は普通の専門的な研究書を毎月ばんばん買わなければならない書籍費は大学からの研究費ではまったく足りず、ほとんど自前でしたから、まるで余裕はありませんでした。
今の先生たちの収入は多分もっと減っています。年金も退職金も減るはずです。子どもの学費や老親の介護費もかさみます。決して楽ではありません。五万十万はもとより、二万三万の手当でも、本当にありがたいのです。
お金の話はまた書きますが、たとえば教育大の場合、現在は大学の規模に比べてかなり理事や副学長などの役職者が多いのも、財政的には厳しいでしょう(私のいたころは副学長が二人でしたが、今はたしか八人ほど)。
教職大学院担当の教員は、もちろんそれだけ仕事も増えるわけなので、給与が増えるのは当然で、その仕事の内容は学外の諸団体や教育現場に関わる業務も多く、それなりに過酷です。他の人と職種がちがうという点では、これまでの大学院や留学生担当などの教員も同じ苦労をしていますが、大学全体の多忙化の中、教職大学院の業務は、おそらく担当者の負担だけではすまない量に達しており、各講座では、担当外の教員も、そのあおりで仕事が増えている可能性があります。
これも連載の最初の方で私は、以前は講座の中で皆が積極的に引き受けて分担していた雑務めいた大量の作業が、現在では「評価されない仕事はどうも」と忌避されることもあるらしいのに、メンバーが同じなのに何が変わったのかとショックを受けたと書きました。しかし、おそらく(今は講座は解体されて、ユニットという名称になっているようですが)最小の共同体の組織の中に、仕事の内容も待遇もはっきりしない人たちが混在しており、皆の状況や負担を出し合って相談もできない状態では、それもまったく無理はない気がします。給与面その他で優遇されているかもしれない人たちの手に余る仕事を、他の人たちが負担するさじ加減の判断は、とても難しく、時間がたてばそれなりに定着するルールが生まれるよりも、人間関係や協力体制をこわしてしまう可能性が高い。
歴史上、強大な国が植民地や属国を支配するのに「分割して統治せよ」をモットーとしたように、そういう分断は、たとえば大学当局への抗議や要求をまとめにくくするためには、有効かもしれません。しかし、このように「誰がどれだけ得をしているか損をしているかわからない」状況は、信頼関係を生みにくく、各自の疑心暗鬼と孤立につながりかねません。それは、学内でも学外でも大きな仕事に取り組むためのパワーやエネルギーを生みません。
私は独裁も分割統治も嫌いですが、もしそれが、徹底した階級社会で上昇志向を生むのなら、それなりに共同体や組織を強くするかもしれないと思います。しかし、言っちゃ何ですが教育大程度の場所で、そこまで徹底した管理や独裁ができるはずはなく、結局は中途半端な迷走と混乱しか生みません。
たとえば教職大学院にしても、「そこに行ったらいい環境が保障される」という、あこがれや目的の対象などにはまったくなっている様子がありません。担当している先生も、むしろ犠牲的精神で行かれた方も多く、担当していない先生も、絶対に行きたくないという意志を表明している人は少なくないようです。いっそ優遇されまくりの特別区なら話はわかりやすいでしょうが、そういうことにさえなってない。
国でも組織でも、こういう状態はある程度はあるでしょうが、この硬直と不透明があまりにも広がると、いきなり個人的な水準に話を落としますと、こういう中では、能力のある善い人ほど消耗して滅びます。えげつない人は欲望をむき出しにして暴走し、最後はやっぱり滅びます(笑)。人材活用の面では、どっちもうまく使えば、とても役に立つ人なのに、各自の個性が悪い方にしか作用しないシステムの中では、そうなるしかありません。
民主主義もそりゃ大変ですが、分割統治も独裁も、やるからには、それなりの覚悟と工夫と能力は必要です。それもないまま、やっていたのでは、結局自家中毒を起こして全身に毒がまわって動けなくなります。給与をはじめとした、誰もが触れにくい不透明さの中で、私はここでも教職大学院が本来の目的とはちがった、悪い役割を果たしているように思えてなりません。