福岡教育大学物語61-大学の自治とは

教育大の問題について、福岡県議会でも宗像市議会でも議会で質問がなされたりして、知っている人も少しは増えたかと思うが、まだまだのようだし、次回あたりに、少しこれまでの私の意見をまとめておこうかと思っている。ここまで長くなったのじゃ、なかなか一気に読めないだろうし。

それと、ずっと前からもう気になってしかたなかったのは、この問題はやはり日本の戦後の教育行政とか政府の方針とか、そういうものの流れの中でも見ておかないといけないということだ。そういうこと私は全然詳しくなくて、例によって、自分のわずかな体験や見聞をもとに語るしかないのだけど、まあそれはそれで、何かの役にはたつだろう。

今回、超短めに簡単に、ひとつ指摘しておくと、県議会や市議会や、その他もっと大きく社会的にこのことを話し合おうと思ったときに、かなりそれを妨げるのが「大学の自治」という考え方だ。「それは大学の問題だから、口を出せません」という発言が、この問題について話し合おうとする提案をいわば玄関払いする。

もちろん県でも市でもそうだが、実際に大学内部のことにうかつに立ち入れないというのは当然だし、よくわかる。単に逃げとかいうだけでなく、たしかによそから口出しをするのではなく、大学の中で解決すべき問題というのは、まっとうで健全な意識でもある。そもそも私自身がそう思って十年近く、この問題に関わらないで来たのだから。

逃げや無責任の口実にしたい人がいるならそれは問題外だ。それより、そういう人たちや、本当に良心的な気持ちから「外部は関われない」と思っている人たちや、その両方に対して、かかわろうとか、かかわってほしいとか思っている大学内の教職員や市民が、この件をどう考えるか、しっかり理論をつくっておくことが必要だと、このごろ感じる。

ある知り合いの他大学の名誉教授は、「大学の自治ったって、内部で独裁に近い状態になってるときに、もう自治なんかはじめからないだろ」と言った。もっともなことである。だが、そこのところは、本当に難しい。

私はトランプなんてどこからどこまで好きじゃないが、金儲けで終始一貫しているだけに、アメリカが他国の政治に介入して戦争する、いわゆる世界の憲兵、世界の警察みたいなことはやめるといった方向を見せていることは、「そんなことに使う金はもうない」という身も蓋もない言い草なりに、筋は通っているなと思う。もともと自分のいうことを聞かない支配者や指導者を外から手を回してつぶそうとして、反乱勢力にせっせと武器や資金を貢いで強くした結果、それがテロ組織となって脅威となり、今度はそれをつぶす、というアホらしいことをずっとやって来たのよりは、ましだろうと考えもする。

ただ、アメリカのご都合主義な正義の味方のおせっかいぶりみたいなのとは、またちがって、真剣にまっとうに、開発途上国などの女性や弱者に対するとんでもない人権侵害などが日常化してしまっているとき、外部からそれを何とかしたいと願う他国や周囲や国際団体や国連が、まったく介入できないというのは、それはやっぱり、ちょっと救いがないとも思う。

身近な話ではDVとか児童虐待とかでもそうだ。家庭や夫婦の問題に他人が介入すべきではないというのは基本だが、それを言っていたら虐待を受ける側にはそのまま死刑宣告になりかねない。

すでに、社会に役に立つ大学、国のためになる大学の名のもとに、教授会を無力化し、大学の自治を圧殺して、学長の権限を限りなく大きくした学外の私たちは、その始末をどうするか、少しは現状を見て考える責任は、いくら何でもあるだろう。

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カツジ猫