福岡教育大学物語63-学長選のおさらい

福岡教育大学の学長選挙については、この連載でも何度かとりあげました。
教育大が今のようにいろいろと問題の多い事態になった、大きなきっかけの一つは、寺尾学長が再選の時に、新人の対立候補に123対88で敗れたにもかかわらず、そのまま学長を続けたことと私は考えています。

また、再選は一度だけしか認められていないので、次の学長が櫻井先生になった時、寺尾先生が、そのまま副学長として、学長室の隣に新設した副学長室で、その後の学内運営に大きく関わったことも異例中の異例であり、これもまた批判や抗議の対象になり、それも無理はありませんでした。

法人化以前には学長は教授会構成員全員の投票で決まっていました。まあ、ごく普通と言えばそうです。
私がこの連載で、口をすっぱくしてくり返したように、法人化によって法律が変わり、教授会の投票結果も決定権はなくなりました。
それでも学内全体の意志を示す「意向投票」として実施され、実際にはその結果が尊重されていました。多くの大学では今もそうだと思います。

123対88というかなり明確な結果を無視して寺尾先生は自分の再任を決めたのですが、それは学外の人も含めた、学長自身の選出による「学長選考会議」という十数名の会議での決定によるものでした。
そして、この措置を、文科省は認めました。

その後、「意向投票」も廃止されました。今、教授会構成員が学長選挙に関わって意思を示す機会はありません。
言いかえれば、仮に寺尾先生や櫻井先生が学内で圧倒的に支持されていたとしても、そのことさえも誰にもわかりません。

櫻井先生の学長就任にあたっては、したがって「学長選考会議」が決定しました。しかし、寺尾先生の副学長就任については、選考会議の人たちも知らされておらず、抗議した方もおられるとの話を聞きます。

昨日リンクした「公示」にもあるように、学内外から学長に立候補することは可能です。ただし何人かの推薦人が必要です。櫻井先生の時には対立候補がいました。しかし、もしかしたら今回はこの制度さえも廃止されるのではないかと、危惧する声もありました。

それはなかったようですが、その代わりにかなり唐突で期間も短い、選挙公示になったわけです。他大学と比べても、対立候補が準備をしにくい公示のしかたではありますが、もちろんこれも規約で決まっているわけではなく、十日ほどの期間があるのは私のダダ下がりの要求水準から見ると感謝すべき長さなのかもしれません。知らんけど。

ともあれ、学長選挙のたびに何か「ああ、もうまたそんなことして」「まさかと思っていたけれど、それってありなのか」みたいなことが目の前で実現する印象を私は持っており、その点では今回も何があっても驚かないはずですが、どうなのかなあ。

次回にまた、私の見解をまとめますが、私はこの前回二回の学長選挙における、寺尾先生の対応を、最善とも最低限善とも思ってはいませんが、これも何度も書いたように、理解できないわけではありません。
これもしつこく言いますが、法人化で国も社会も(これを読んでる皆さんも、といやみったらしく言いますが)認めたことは、大学における学長の権限を最大限にすることでした。
それが、大学の運営をスムーズにし、社会に役立つ大学になると、皆が考えたわけです。

寺尾先生のなさったことに法律違反はありません。その後の組合や抗議した先生方に対することのいくつかは、「不当労働行為」として、最高裁で法律違反が確定していますが、まあそれも含めて、寺尾先生というか、法人化の中で、その変化をしっかり利用し活用しようとする学長なら、そんなのどこまで許されるかやって見なけりゃわからないわけで、投票結果の無視にせよ、副学長としての学内行政への関わりにせよ、とにかく自分のよかれと思った大学運営のために、あらゆる手段を使おうとするのは、あえて言うなら悪いことでもありますまい。

それが、思ったよりも学内の反発と不信を招き、さまざまな混乱や不手際を今まで数限りなく生み出したのは、見通しが甘かったとか冒険が過ぎたとか、言ってしまえば別の問題です。いやそりゃ、つながってないことはないですけどね。何事も伝統を無視した新しい体制の中で何かしようと思ったら、しかたがないっちゃあ、しかたがないです。

ただ、その中で、学長や理事や執行部の人たちがよりどころにした、大学とは、教育とは、組織運営とは、人間とは何かという、価値観や判断基準がどういうものであったかが試されるとしたら、それはたしかにそうで、そこで学長の人格や器量が問われるというなら、それもまったくその通りです。
ものすごい権力を持つということはそういうことで、その点では私は寺尾先生も櫻井先生もそれぞれに、ご不運だったと感じています。
少なくとも、法人化以前の学長なら、教授会の声があり、各種の規則があって、規制され縛られていた。たくさんの家老や執事に監督される若殿みたいなもので、いろんな意味でボロを出さずにすみました。個人の価値観やモラルが厳しく試される選択を常時迫られる必要はなかった。個人の人間性をさらされるほど、すべてをひっぱがれることもなかった。

規制や束縛は、人を守るためのものでもあるのです。小学校以前から反抗と自由奔放をくり返して来た私が、こんなことを言うとは、いやこんなことをこの私に言われる世の中の方が末ですけど、私自身、そういう壁や鎖の中で、自分を試し鍛えて来たとも言えます。それがまったくない世界での反抗なんて、反抗でも自由でさえもありません。

教授会の権限がほとんど奪われ、学長や執行部を抑えるものがなくなりつつある今では、私たちがあらゆる方法で、その役割を果たすしかありません。学長や権力を持つ人を、縛り、抑える力になるしかありません。(おお、憲法の役割は時の政府を縛ることというのは、ここのことなのか。自民党や日本会議は、そういうのは外国の考え方で日本の伝統はまたちがうとか、むちゃくちゃ言うとるらしいけど。)
私たちとは漠然としすぎているから、それは具体的にどこの誰かというと、学内では教職員の一人ひとりだし、学外では地域を中心とした市民の一人ひとりです。

マスメディアや自治体、国の政治の役割も大きいですが、そんなものをあてにしていては間に合いません。
私たちの一人ひとりが、とにかく関心を持つこと。語り合うこと。知らせ合うこと。見つめる続けること。話題にして、広げること。
それが今、学長選挙を少しでもよいものにし、教育大や地域にとってよい結果を生み出すために、何よりも必要なことです。

それにしても、私のこの連載は長くなりすぎて、一気に読める量じゃなくなってるので、次回は要点だけをまとめてご紹介したいと思います。

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