小説「散文家たち」第18章 お茶の時間

冬子の言葉を聞いた瞬間、緑川優子がいつにない激しさで、大きく首を左右に振った。 「そんなこと───そんなこと!」
「それだけ即座に反応するのは、あなただって心の中では、うすうすそう考えてたっていうことじゃないの?」冬子はおだやかな口調だが、容赦なく言った。「あなただけじゃないわ。そんなおかしな怪談話が横行しているっていうのは、皆がその現実から目をそらしたがっているからこそでしょう?少なくとも、悪霊のせいにしておけば、誰も傷つきませんからね」
「だって、考えられません──」優子の声は震えていた。淡い水色と黄色の細いストライプのブラウスに包まれた、ほっそりとした、その肩までが小さくわなないているようだった。「私たちの中の誰かが、そんなことをするなんて、そんなことして知らん顔して、皆といっしょにいるなんて───そんな人、私たちの中にいるはずがないわ!」
「皆、そう言うのよね」冬子は唇のはしを軽くゆがめた。「でもねえ、緑川さん?そんなの、よくあることなのよ。うちの演劇部って、優秀な人がそろっているだけ、いい役をもらえなかったり、他人にとられたりした時の恨みって、けっこうすごいものがある。怒りにかられて一度やってしまったら、二度めからはもう癖になる。私たちが部長をしてた時だって、小さないやがらせのような事件はよく起こっていたわ。また、そのくらいのエネルギ-がなければ、いい劇を作るパワ-は生まれないとさえ言えるのよ」
優子は目を閉じ、両手で口を押さえていた。本当は耳をふさいでしまいたいところなのだが、冬子たちに失礼になると思って、かろうじてそれは制しているようだ。
「その可能性は、ずっと考えていました」黙っていた遼子が低く言った。
優子がびっくりしたように口にあてていた手を下ろし、顔を遼子の方に向ける。
「ただ、吉田さんのおっしゃるようなエネルギ-とかパワ-とかが、今のあたしたちにはあるかなと思います」彼女は言った。「正直言って、今のうちの部には、それほど夢中で演劇をやりたいとか、それを一生の仕事にしたいとかいう情熱を持っている人は少ないです。演劇部の伝統を築いた吉田さんたちから見ると腹立たしいでしょうけど、この部に入っていたら大学の推薦入試の時に書類の上で有利だとか、そういう気持ちで入った人も多いと思う。それでなくても、今のうちの部の連中って、きびしい競争の中で実力発揮したいっていうより、皆が不満のないようにバランスよく役がつく方がいいっていう感じだし、三年生の南条さんや朝倉さんも基本的にはそれに応える方向でやってると思うし」
「あなたは、そういうのって不満なんじゃないの?」冬子が聞く。
「そうでもないですよ」遼子は笑って答えた。「私は演技力なんてものは、現実生活に役に立てば、それでいいって思ってますから」
「でも、たしかに───そう言われて見れば」真澄が考え考え、うなずいた。「いい役をもらったライバルを蹴落とそうとわなをしかけるようなファイトなんて、このごろの人にはあまりないような気がするな。それは、たしかに吉田さんの頃とは違いますよ。私のいた三年間でも、ずいぶん変化しましたから。今の子って、単に皆で気持ちよく、仲良くやれたらもうそれでいいって思ってるみたいなところがあって。それに、それでは、いい劇ができないかっていうと、案外、そうでもないんですよね。京子やさつきだって、あんなに演技がうまいのに、何が何でも主役をやりたいなんてところは、ちっともなかった。美沙もそうね───まあ、あの子は脚本書く方に興味があったんだろうけど」
「あなたたちがそう言うのなら、それはそういうものなのかもしれないわ」言いすぎたと思ったのだろう、冬子は気持ちのいい笑いを浮かべて、あっさり妥協した。「たしかに市役所の若い人たちだって、私たちとは微妙に違いますものね。出世したいとか、結婚したいとかもあまり思ってないようだし。私はただ、呪いや悪霊なんてものはこの世に存在しない以上、何か起こるとしたらそこには必ず人間の意志が働いているのだと言いたいだけよ。───京子さんと、さつきさんって、ひょっとして、従者と二役で、王妃とバッキンガム公爵をやった人たち?」
「そうですそうです」どうやらやっと話題が変わりそうになったのに、心からほっとしたらしい優子が、明るい優しい声をあげた。「いつもだったら従者だけなんですけれど、ゆうべとおとといの夜は、さっきのような事情で役がいろいろ入れ替わっていて───お二人は得をされたわ。あの二人のラブシ-ンを、ごらんになれたんですもの」
「悪いけどね、私は、あの二人のラブシ-ンどころかベッドシ-ンを、一年の時の『キャメロット』で見ているの。でも」真澄が言った。「二人とも、その時とは比べ物にならないぐらい、うまくなってる。バッキンガムに手にキスさせている時の京子のあの表情と言ったらもう!いつから、あの子、あんなしっとりした切ない目ができるようになったんだろう?恋でもしたのかしら?」
「それは、でも、バッキンガムをやった子もよ」冬子が言った。「王妃の前に立ったとたん、すうっと何かが抜け落ちたように、政治家や武人の顔じゃない素直な表情になってしまうのが、ものすごく自然で。それに、あの二人の華やかさに隠れて目立たないけど、トレヴィル隊長をやった子もうまかったわね。あの子も三年生なんでしょう?」
「あれが南条さんですよ。脚本を書いた子です」
「三銃士からダルタニアンから王妃から、皆キラキラ派手だから、あの子の重厚でどこか素朴な感じが逆に目立って、いつまでも目に残って」
「───それで、あたしたち三人の演技はいかがでしたか?」話に夢中になっている二人に、遼子がいたずらっぽい口調で声をかけ、驚いてこちらを見た二人の顔をかわるがわるにじっと見つめた。
二人は顔を見合せ、吹き出したが、その笑い声は妙にはしゃいで、うわずっていた。そして、それぞれに遼子の視線から目をそらしてしまった。まるで、若い男の前で若い女がはにかむように。
「覚えてないわ」冬子は、彼女らしからぬふざけた口調で笑いながら言ったが、すぐに我に返ったように、だがやはり彼女にしては浮かれたしぐさで大きく首を左右に振った。「嘘よ、嘘!あなたのロシュフォ-ルは、とても魅力的だった。緑川さんのコンスタンスも可憐で、かわいらしかったし」
「ほんとかなあ?」遼子は軽くすねたように口をとがらせ、顔をそむけた。
「ほんとだったら。早く言わなくて悪かったわ」真澄も笑いながら言う。「そんなに怒らないで」
「それじゃコ-ヒ-、もう一杯注文してもいいですか?」
「あら、お安いご用だわ」冬子は伝票をとりあげて、ウェイタ-に手をあげた。
「それか、ココアにしようかな。いっそハ-ブティ-がいいかしら」
「何でもどうぞ」冬子が言った。「他の人たちは?何にする?」
ようやく笑うのはやめたが、彼女も真澄も、ほおにかすかに血が上っている。あたりの空気もどことなくまだ、熱っぽい。
「ここ、何だか暑いわね」真澄があたりを見回して、おしぼりで額をぬぐった。「ク-ラ-、効いていないのかしら?」

追加注文の品々が皆の前に並べられてからは、話題はもっぱら栗林真澄が独占して、京子やさつきや美沙たちの一年生の頃の思い出話に集中した。怪談話や犯人探しに結びつきそうな話になるのを、冬子も優子たちも、どちらからともなく避けていたからでもあり、真澄の話自体が面白かったせいもある。
「南条さんって、一年生の時から今みたいにいつも、おいしいお茶とかクッキ-とか、皆に作ってきていたんですか?」和子が聞いた。
「ううん、それがそうでもないんだな」真澄は紅茶のカップを下ろして、首を振った。「あたしの母なんかもそうだけど、おばさんたちにはよくいるでしょう?何かの集まりっちゃ『あたくし、ケ-キを焼きましたの、召し上がれ~』なんて、集まりの目的なんかそっちのけで、しょっちゅう自分の作った食べ物持ってきちゃ、やたらとお茶したがる人って。美沙は全然、そういうタイプじゃなかったの。だから、あの子が一年の時にはあたしたち、あの子がそんな、お料理やお菓子作りが上手だなんて全然知らなかったぐらい」
「へ~え、意外だなあ」遼子たちは顔を見合わせた。
「むしろ、お裁縫が上手な子って印象があったわ。演劇部の衣装が素敵になったのは、ほんとに、あの子が来てからよ。捨てるはずだったカ-テンのきれっぱしとか、体操服の袖口とか使って、あっというような宇宙服とか、妖精のかつらとかを作ってしまうの。そのころ、三年生で美人で演技もうまいんだけど、わがままでヒステリックで、何かが気に入らなかったら、すぐに泣きだして役を下りちゃう、弦巻って困った子がいてね。『キャメロット』の時だったかな。衣装が自分のイメ-ジにあわないって言って大泣きしてさ、皆がほとんど切れかけてたら、美沙がすきとおったきれいなピンクの布で、弦巻の黒いドレスにふわっとした大きな袖をつけてやったの。彼女それでいっぺんににこにこしちゃって、きげん直してさ、もう、それ以後は卒業まで、何かというと美沙にまつわりついて、『ね-、美沙ちゃ-ん、この上着、もっと腰のところしまらないかなあ。でも、きつくて息ができないようにはならないでさあ』とか『美沙-。この襟のところだけ、青いビロ-ドに変えてもらえないかな-。その方が絶対、あたしに似合うと思うんだあ-』とか言いつづけて、甘えてたわね。また、美沙がいやな顔ひとつしないで、『そうですね。弦巻さんのイメ-ジだったら、ここはレ-スにしましょうか』『銀のボタンがどこかにあったから、明日までにつけかえておきます。そうしたら、見違えるようになりますよ』なんて、いつも優しく相手してやってた。おかげでこっちは楽だったけど、何だかかわいそうでねえ、美沙が。卒業公演の『ウィルヘルム・テル』の時だったか、あの子が自分もテルの妻のヘ-ドウィヒって大役なのに、ベルタ姫やる弦巻のドレスに赤いバラの花をいっぱい、徹夜で刺繍して目を真っ赤にして持ってきた時には、あたしたち皆、有頂天になってる弦巻をしめ殺したろかと思ったものよ」
「弦巻さんね。よく覚えているわ」冬子が笑った。「ちょっと影のある美女とかやらせたら抜群の人だったけど。今、どうしているのかしら?」
「たしか、一流国立大学ってやつに行ったと思いますよ。大学では演劇はやらない、司法試験うけて弁護士になるんだって言ってましたけど、あたしが殺人犯になっても、あいつの弁護はうけたくないなあ」
「でも、何となく予想がつくわよね」冬子が辛辣な笑いを見せた。「もし、首尾よく弁護士になったりしたら、週刊誌のグラビアで、『最高学府を出て司法試験に合格した才媛は、高校時代は演劇部の花形』とか紹介されて、彼女の舞台写真が掲載されたりするんじゃないの?」
「また、きっと、ああいう人に限って、映りのいい舞台写真をちゃんと保存しているんでしょうよ、そんな時のために。───ま、そりゃいいんですけどね。その劇じゃ、あいつもそこそこきれいではあったけど、恋人役のル-デンツやった朝倉京子が、それこそ水もしたたるような美青年ぶりで皆の人気をさらったから、部長以下皆、胸がすっとして、おかげで弦巻に意地悪するのも忘れちゃって、まあ、よかったんですけど」
「弦巻さんは、そういう時に、朝倉さんにはあたりちらさないわけ?」冬子が聞く。
「いや、それは───さすがの弦巻も京子には何だか一目おいてましたからね。それはあたしたち皆そうでした。京子は下級生だったけど、あたしたち皆、意識の上じゃ同級生扱いして相談相手にしてましたよ。もちろん、京子は分をわきまえていて出しゃばりはしなかったから、はた目には、そんなにわからなかったでしょうが」
「それは、どうしてなんですか?」和子がふしぎそうに言った。「自然と、そうなっちゃったんですか?」
「う~ん、ひとつにはねえ」真澄は苦笑した。「あたしたち上級生のだらしなさを暴露する話になるんだけど、辛島圭子ってまだいるよね?退学にはなってないでしょ?」
「ええ。今、たしか写真部をのっとってるらしいですよ」
「そんなことだと思ったわ。相当ひどいことする子だけど、蛇みたいに頭いいから、退学にされるようなしっぽは絶対つかませないもの。あたしたちも、生徒会で、あの子のしてることいろいろ調査したんだけど、結局証拠があげられなかった。例の校門での遅刻チェックの時も、あの子、どこか抜け道を知っていたらしくて、あきらかに遅刻しているのに、絶対ひっかからなかったしね。その抜け道を他の子に教えて、お金をとっていたって話もあるし。とにかく、あの子は金もうけがうまかった。それも、とことん、よこしまな手段で。その金でまた、人をしばっていいようにする。本当に、最低のやつ!」
「それで、その子が?」冬子がうながす。
「一年生の夏の頃だったかな、演劇部に入ろうとしたんですよ。子分がもう何人かできていて、その子たちを連れて、部室に乗り込んできたんです。あの子の噂は聞いてたし、あたしたちはもうびびってしまって、とても入部を断れなかった」
「入部希望の生徒に、何か問題がある時には、非公開の部会を開いて多数決で拒否を決定できるはずよ」
「そうなんですけど、吉田さん、辛島圭子は凶暴だけど、決してバカじゃないんです。うちの部にのりこむにあたっては、サ-クル会議の規則ぐらい、ちゃんと調べてきてるんですよ。そして『文句ある奴が誰かいるんでなかったら、非公開の会議って開けないんでしょう?』って、あのねちっこい目で、じろっとあたしたちを見回すんですからね。それでもう、皆が何も言えないでいたら、向こうの隅にすわっていた京子が『私は反対です。この件については、非公開の部会で検討することを要望します』って、涼しい声で言ってのけたわけ。圭子は怒るよりあっけにとられて何も言えず、部長もそれで我に返って、まあ、そこそこしっかりした人ではあったから『こういう意見の人もいるから』って、圭子たちを追い返してしまったのよ。その後の部会で、もちろん入部は否決されたわ」
「ひょっとして、その部会では朝倉さんは、入部を許可すべきだって言ったんじゃありませんか?」遼子が口をはさんだ。
驚いたように真澄は軽く目を見張る。
「そのとおりよ───どうしてわかった?」
「あの人のことだから───ちょっと、そんな気がしたんです」
「ええ、京子は、辛島圭子がこれまで直接、演劇部に何かしたことがあるわけではないし、この段階で一概に入部を拒否するのはおかしい、と主張したの。何かあったら、退部させればいいんだからって。でも、あたしたちは皆それに反対したわ。何か起こってからでは遅いし、何か起こるのは目に見えているもんね。とにかく、結局、それで圭子は演劇部には入れなかった。かなり京子を恨んでいたらしいから、あたしたち心配していたんだけれど、その内に例の京子の中学の頃のレイプ事件の話が伝わってきて、彼女、ただものじゃないってことになって───それで辛島圭子も用心したのか、結局、京子には手を出さなかった。でも多分、今でも目の敵にはしてるだろうね」
「辛島圭子さんが部室に来た、その時に、美尾さつきさんはいなかったんですか?」優子が尋ねた。「何となく、そんな時に反発して何か言うのは、美尾さんの方が先みたいな気がするんですけれど──」
「たしか、その時にはさつきは、その場にいなかったと思う」真澄は思い出すように目を宙にこらした。「ええ、そうね。いたら、もちろん黙ってなかっただろうけど。それとも、どうかな───あの子、一年生の時は、今ほど迫力なかったもんね。むしろ、あの三人の中じゃ、一番おっとりしていて、かわいかった。そりゃ、負けん気は強いし、カンも良かったけど、一番、子どもっぽかったんじゃないのかな」
「美尾さんが?」とまどったように、優子が聞き返した。
「あのね、人によって程度の差はあるんだけどね、女子校って雰囲気になれてるかどうかっていう」真澄は言った。「あたしは中学も女子だけだったし、京子や美沙は共学だったみたいだけど、それでも多分、あの二人は女の子の友だちが多かったか、女子の多いクラスだったかじゃないのかな、女の子ばかりの世界に、あまり違和感なかったみたい。でも、これは完全に想像なんだけど、さつきは女の子の友だちって、あまりいなかったんじゃないかしら。入学してまもなくは、女子校ってものに慣れてないのがミエミエで、見るからに何かまごまごしてたし、それがまた、とても初々しかった───変な話だけど、男の子がひとり迷い込んでるみたいな感じだった」
「ふうん──」
「だもんだからさ、今考えるとあんまりいい趣味じゃないんだけど、あたしたち上級生は皆で、そんなあの子をおもちゃにして、かわいがって遊んでいたのね。だって京子には一目おいちゃってたし、美沙には弦巻ほどじゃないにしても、年下のお姉さんみたいな感じで皆何となく甘えていたし。結局、一番心おきなく、かわいがりまくれるのは、さつきちゃんしかいなかったわけ。また、ほんとうに、かわいかったのよ!いたずらしたり、だましたりしたら全部ころっとひっかかるしさ、怒った顔がまたかわいいし」
「あ~あ」遼子が頭をかかえた。「ものすごくよく見当つくけど、でも、それ、ちょっとひどいなあ───」
「一番よくしたいたずらは、上級生何人かで、いやがるあの子を、はがいじめにして動けなくしておいて、好きな髪型にいろいろしてやることだったの。あの子の髪、今もそこそこ長いけど、その頃はもっと長くて、ほとんど腰まであったんじゃないかしら。それを冠みたいに頭に巻いたり、細いお下げを百本近く作ったり、もうしたい放題にしてから放してやるの。あの子、怒った顔してせっせとほどくんだけど、授業の直前なんかにやられると、時々間に合わなくて、そのまま教室に行ったりしてた」
「朝倉さんや南条さんは、そんなの見てて、止めなかったんですか?」和子が聞く。
「あの二人がいるところではしなかったわね、そう言えば。だから、あの二人は多分、さつきがそんな目にあってたってこと、今も知らないんじゃないかしら」
「わお!」遼子が小声で言った。「どこから見ても、それはもう立派ないじめですよ」 「でも、さつきがいつまでも、そんなことされるままになってるわけがないことぐらいは、あなたたちだってわかるでしょう?」真澄は首をすくめた。「『キャメロット』が終わって次の劇を選んでたら、さつきがばっさり、髪を切ってきたの。ただ切ってきただけじゃない、頭をそりあげて、ほとんどスキンヘッド状態にしてきたのよ。さつきは、けろっと笑ってたけど、あたしたち皆、あいた口がふさがらないぐらいショックをうけたわ。それ以来、あたしたち、さつきをおもちゃにするのはやめた。美沙と京子にはさまれて目立たないけど、この子も本当はただのかわいいだけの子じゃないってことが、やっとわかったっていうのかな」
真澄は空になったカップをもてあそびながら、ちょっと窓の外の町の方に目をやった。 「ただ、さつきはもう、その頃は演劇部の看板スタ-だったから、次の劇には困ったわね。頭を丸坊主にした主役の出る劇なんてと、あたしたち皆、それこそ頭を抱えたわよ。そうしたら美沙が笑って、そんなの、日本の軍隊もの、ドイツの収容所もの、高校野球もの、仏教もの、インディアンもの───具体的には『パサジェルカ』でも、『西遊記』でも、いくらでもあるって言ってくれたのよ。あたしたちもそれで元気が出て、とうとう、『モヒカン族の最後』をやろうということになったの。もちろん、モヒカン族の若者で、まじめで清々しいアンカスを、さつきにやらせるつもりだったわ。ところが、さつきはアンカスなんかやりたくない、白人に恨みを抱いてて主人公たちを苦しめる、悪役のミンゴ-族のマグワがやりたいと言い張るじゃない」
「美尾さんの悪役趣味、端役趣味って、そのころから始まったんだ」優子が、おかしそうに笑う。
「それでまた、あたしたちが困っていたら、京子が『私でよければ、アンカスをやります』って言ってくれて、自分も頭を丸坊主に近いモヒカン刈りにしてくれて、アンカスを演じたのよ。美しくて誇り高い───目のさめるような『高貴な野蛮人』だったわ」
「その時なの?亡くなった牧さんが、チンガ-クックをやったっていうのは?」冬子が尋ねた。
「そうそう。そうですよ」真澄はうなずき、優子たちに向かって説明した。「『モヒカン族の最後』には、もう一人、主役級のモヒカン刈りのインディアンが登場するの。アンカスの父のチンガ-クック。牧さんっていう三年生の、ちょうどガンの治療の副作用で髪がなくなっていた彼女が、それをやってくれたの。がっしりした、大柄の重々しい顔だちの人だったから、これがまたぴったりで、劇は大成功だった。ちなみに、主役の開拓者ホ-キイ・バンボ-は美沙だったわ。鹿皮服着て鉄砲持って、森のことなら何でも知り抜いてるって中年男なんだけど、これがもう、ほれぼれするような色っぽさがあったっけ」
「それで、その───牧さんて方は結局、亡くなられたんですね?」
「卒業後、二年ぐらいして、病気が悪化してね。でも、最後にあたしたち同級生が何人かでお見舞いに行って、その劇のときの話になったら、もう口もきけないぐらい弱っていた彼女が、当時のいろんな失敗談や何かを思い出して笑い出してね。つられてあたしたちも次から次へと、さつきをからかった時のこと、弦巻さんの悪口だのに話が発展して、皆で苦しいぐらい大笑いして別れたわ。何日か後に彼女が死んだって知らせが来たけど、何だか悲しくなかったなあ。牧さん自身も、ものすごく楽しそうな笑いをうかべて死んでたらしい。『あの時の皆さんたちとの話をきっと思い出してたんでしょう』って、彼女のお母さんがお葬式の時、それも笑いながら言ってらして、あたしたちもいっしょになって、笑って彼女のお棺を見送ったわ。あんな死に方したいよねって、しばらく皆の話題になってた」

職場の仲間と、ゼミの教授にビスケットのお土産を買うと言う先輩二人に、ご馳走になったお礼とともに別れを告げて、三人の演劇部員は、そろそろ陽射しが夕暮れの色を帯びはじめた海岸通りに出た。
「牧さんていう先輩みたいに、病気や何かで死んだ人って、きっと他にも多いんでしょうね」和子が、海を見ながら言った。
二人の上級生は答えなかった。だが、三人とも互いが考えていることは漠然とだが、わかっていた。本当のところ、この学院の創設以来、在学中かあるいは卒業後まもなく死んで行った少女たちの数はいったい、どのくらいなのだろう?立花朝子が言っていた───占い師の女が、演劇部員たちの回りにつきまとっていると教えた、死んだ少女は、その中の誰かなのだろうか。それとも、別にいるのだろうか?
海の波は、やや弱くなったが、まだまぶしい太陽の光をきらめかせながら、ゆっくりと寄せては返している。

愛するネルヴァ
去年のクリスマスをあなたとすごしてから、長い旅をして来ました。あのような卑劣なやり方で、私が長いこと育て愛してきた劇場の支配人の地位を追われ、二十年あまりもつづけた「芸術展望」のコラム執筆の仕事まで奪われては私にはもう、生きていく目的すら失われ、あなたのやさしさに身をまかせるのが、かえって恐ろしかったのです。何の連絡もしなかったことをどうぞ許して下さい。
私は今、日本にいます。私たち欧米人が昔からあこがれた、東洋のはてのロマンティックな国。でも、大都会の喧騒はヨ-ロッパ以上で、今もこうして手紙を書いているホテルのへやの窓の下は、通りすぎる車の流れがまるで光の海のようです。
冬から春にかけて、ロシアからアフリカ、中東、そしてアジアとめぐって来ました。どこの町でも、大劇場や小さい場末の芝居小屋まで、結局、芝居を見て回っている自分に気づいて、何度苦い思いをしたことか。あれほど手ひどく裏切られ拒絶された世界なのに、結局私は、演劇や舞台から、はなれられない。そんな敗北感にも似た思いをかみしめながら、酔ったように、憑かれたように、バリ-島の舞踊劇を、アフリカの若者たちの演ずるシェイクスピアを、ロシアの田舎の女たちの仮面劇を、私は見つづけて、時間と空間を旅しました。
日本に来たのは半月前です。訪れたのは初めてですが、かねがね深い興味を抱いていた国でした。そして、私は失望させられることはありませんでした。カブキ、ブンラク、タカラヅカ、あちこちの夏祭りで演じられるさまざまな宗教的な伝統を持った寸劇の数々。見知らぬ人々とともに、私は笑い、楽しんで、ことばの壁を忘れました。
そして二日前、私は小さい海べの町に行きました。避暑客でにぎわう、昔は外国との貿易で栄えたという古く美しいその町で、私は長い伝統を持つ地元の女子高校の生徒たちが演ずる「三銃士」の舞台を見て、神秘的とも言いたいほどの深い驚きに包まれたのです。 この遠い異国の地の、小さなかわいい女子校のホ-ルで、十五才から十八才までの女の子たちが演ずる、私の故国フランスの作家による、フランス国民が深く愛した、男性たちの世界のおとぎ話を見る───その、すべてが何かちぐはぐな、愛すべきおかしさに、私ははじめ、ほほえみながら、私には読めない漢字が印刷してある、ピンクの紙の手づくりの、クッキ-の袋がおまけについた、小さい入場券を買いました。もう、夏休みで、昼夜二回の公演が十日ほどつづいているとのことでしたが、明日が最終日とあって客席は満員でした。家族連れも多く、私のような外国人の姿もちらほら見えました。
もちろん、ネルヴァ、私はこの話のすじをよく知っています。だから、すじがわからないのではないかという心配は全然していませんでした。けれど、見ている内に、また見おわって私がうけた衝撃とは、あまりにもすべてがよくわかったことでした。まるで私に日本語が理解できるかのように。パントマイムを見たかのように。
そう、せりふはもちろん、とてもたくさんありました。そして彼女たちは、美しい、歯ぎれよい口調と、魅力的な声でそれをしゃべっていました。けれど、その意味がまったくわからなくても、彼女たちの表情、しぐさ、姿かたちがすべて、何かを表現していて、何がおこっているかを細かい点まではっきりと、私たちに伝えたのです。
私が、すじを知っているから心配しなかったと言いました。けれど、もう一つつけ加えるなら、「三銃士」のすじなどまったく知らなくても、あの舞台は楽しめたでしょう。そこには、いたましいほどに輝く青春がありました。荒々しい、風のような友情がありました。恋の危険なときめき、得体のしれない大人たちの政治の世界、そして最後にそのすべてが、時にのまれて、消えて行く──。すべての話を語りおわって、背中を丸めてとぼとぼと舞台を去っていく、しがない哀れな中年男のボナシュ-とともに。───ネルヴァ、本当にふしぎなことですが、私はこの可憐な少女たちの演ずる劇を見ている内に、これまで自分がどうしても肌で理解することのできなかった、男たちの友情というものが少しつかめたような気さえしたのです。
舞台がおわって気がつくと、ふらふらと私は楽屋を訪ねていました。こんなことなど初めてです。故国でも私が決してしなかったことです。ことばが通じないことなど忘れていました。何をいったい言うつもりだったのかもわかりません。どこか、有名な劇場で、この劇をそのままに上演してみるつもりはないか、外国ででも、せめて日本の、もっと大都会の大きな舞台で───そんなことでもすすめてみようと思っていたのかもしれません。私にもう、そんな地位も力もないとしても、彼女たちがもしそれを望むなら、まだ私に充分に残っている、ありとあらゆる人脈を使ってでも、私は彼女たちを売り出そうとしたでしょう。なぜならば、私は、私がその夜味わった感動を、世界に伝えたいと思っていたからです───世界と、ネルヴァ、そしてあなたに。
少しとまどいながらでしたが、舞台衣装のままの少女たちは、快く私を迎えてくれました。涼しい風の吹く星空の下、砂浜の石垣の上に座って、私たちは話し合いました。少女たちの何人かは英語が、一人はドイツ語が話せたので、私の英語も下手ですが、これらのことばをつなぎあわせて何とか話はできました。少女たちは私に、冷たい麦茶と、切りわけたスイカをすすめてくれました。
けれど、少女たちとの話は、どこかまだ、私が舞台の上で見た美しい夢のつづきのようでした。すばらしい劇でしたよ、と言うと、彼女たちはうれしそうに笑い声をあげましたけれど、もっと大きな有名な劇場で、たくさんの人に見てもらう気はないかというすすめには、あまり乗り気ではないというより、よく呑み込めない表情をしていました。あなたたちには才能がある、私がそうくり返しますと、一人の少女がおだやかに私をさえぎって言いました。───「私たちに才能があることは知っています」と。
私は少々、驚きました。むっとしたかもしれません。私が何者か知らないので、私の賞賛と評価の持つ意味がこの子たちには充分わからないのだろう───そう思って私が自分は何者か説明しようとしていますと、また別の少女が、ていねいなしっかりした口調で言いました。「マダム、私たちはあなたのお名前を知っています。私たちの何人かは、もちろん翻訳でですが、あなたのご本を読んでいますし、『芸術展望』のコラムもいくつか拝見しています」。
今度こそ私はすっかり驚いてしまい、まじまじと彼女たちの顔を見ました。「ですからお言葉の重みを理解していないのではありません」彼女たちはそう言いました。「けれど今、私たちには他にしなくてはならないことがあるのです。いつか、お力をお借りしなくてはならない時がくるかもしれませんけれど、今はまだ、その時ではありません」
「チャンスは待ってくれません」私は言い返しました。「あなたたちも、こうやって劇を上演する以上は、より多くの人に見てもらいたいと思っているはずです。そうでないふりをするのは卑怯ではありませんか。有名になりたくないのですか?」
すると、ダルタニアンの従者プランシェを演じた、大柄な少女が、炎のように目をきらめかせました。「そのことばを、さまざまな人にあなたは言ってきたのでしょうね」彼女は言いました。「そして、そのことばをうけいれて、あなたの求めるたくさんの要求に応えようと努力した人たちは、きっと少なくなかったでしょう。それを、悪いというのではありません。けれど、なぜあなたは、私たちの求めているものと、あなたが私たちに与えられるものとが同じだなどと、そのように確信を持って思えるのですか?あなたにとって私たちが必要なら、そうおっしゃったらいいでしょう。けれど、あなたが私たちに何かを与えられるなどとは、そう簡単にお決めにならぬことです」
彼女は何かに怒り、いらだっていたようです。不機嫌な美しい牝獅子のように、長い髪を振り上げました。そして、荒々しく言いました。「チャンスは、私たちがほしい時によびよせます。その時来ないチャンスなど、大したものではありません」
満天の星が、私たちの上にありました。星たちは鋭く、まぶしく、彼女の背後で輝いていました。
ダルタニアンを演じていた、愛くるしい少女が───彼女は英語もドイツ語もそれほどわからなかったので───かたわらからプランシェ役の少女を心配そうに見上げて、何を言っているのかと、あどけない口調で尋ねたようでした。プランシェ役の少女は、答えるかわりに、聞いた少女の首に腕を回して、その髪をくしゃくしゃにかき乱しましたが、それをきっかけに落ち着いて、あたりの雰囲気はまた、なごやかなものとなりました。他愛ない話をつづける内に、少女たちは私がそこにいることも、やがて忘れてしまったかのように、衣装を脱ぎ捨てて浜辺に下りて行って、波とたわむれたり、砂浜の上でふざけあったりしていました。コンスタンスを演じた美少女と、アラミスの従者バザンを演じた背の高い少女が、いつの間にか私の足元で、石垣にもたれて眠っていました。
気がつくと、一人の少女が私のそばに座っていました。彼女の顔には見覚えがあるような気がしましたが、何の役をやった子か、思い出せませんでした。衣装ももう脱ぎ捨てていて白い短いシャツとショ-ツだけになっているその少女の、星の光におぼろに浮かび上がる影は、まるで、この世に生まれてくる前の夜空のどこかにただよっている、少女の魂のように見えました。
波の音、遠い少女たちの笑い声。それを聞きながら、別れを告げようと私が立ち上がると、その少女は私を見上げ、「お帰りですか、マダム」と、美しいフランス語で言いました。「いつかまた、お目にかかりましょう。私たちのことを、どうか忘れないで下さい」 星あかりの中で身体をかがめて、私は彼女にキスしたような気がします。
旅のおわりに来た、とその時思いました。
ネルヴァ。明日、日本を発って、あなたのもとに帰ります。
何かが解決されたのかはわかりません。そもそも、解決しなくてはならないことなど、何もなかったのかもしれません。
遠い国の、波の音の中で、思い出すこともできないほどはるかな昔に知っていた、なつかしいものに会ったと思うばかりです。
それが、私の心の中にとどこおっていた何かをつきくずし、すべてを流し去った後、再び、ひとりでによびさまされた豊かで暖かい潮のような限りない力、それが私を押し流して、あなたのもとへと運ぶのです。
愛する人。私をうけとめて、そして、二度とはなさないで。
あなたのシモ-ネ

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