小説「散文家たち」第7章 葡萄の門

拝啓
フランス旅行のお土産は、先日宅急便で送りました。洋服があなたのサイズに合えばい いがと思っています。白いカラ-が、かわいいでしょう?お菓子の方は、また、お友だち と召し上がって下さい。ワインはあなたは未成年者だからどうかなとも思ったけれど、あ んまりおいしかったものでね。ついお土産に三十本も買ってしまったほどなのよ。お世話 になった先生でもいたら、さしあげたらいいでしょう。
あなたは、私に手紙をくれないのは別にいいけれど、お父さんとお母さんには、たまに は葉書ぐらい出しなさいよ。この前、遊びに行ったら二人とも心配していました。
「姉さんのとこには、いくら何でも手紙ぐらい出しているのでしょうね。授業料も出し てもらっているのだから、ちゃんと学業のこととか報告するように、と言ってあるんです が」と、あんたのお母さんが言うから、一通も来ませんよともまさか言えなくて、「ええ まあ、何度か手紙は貰ってますよ」と嘘をついたら、「まあ、うちには一通も来ないんで すよ」と、お母さんは傷ついたような顔しているし、私も困りましたよ。あなたのおかげ で、嘘つきになってしまって、おまけに恨まれて、ほんとに割に合わないわ。
でも、お母さんは、職場の上司の娘さんが麗泉にいるとかで、その娘さんは結構まめに ご両親にお手紙をお出しになるらしくて、その上司からいろいろ麗泉の情報を聞いてきて いるみたいでした。麗泉の演劇部はあいかわらず派手に活動しているようですね。その娘 さんの手紙にも、演劇部のことばかり書いてあるようで、「あんなにミ-ハ-な子とは思 わなかったのに」とご両親は嘆いているとか。レスビアンになるんじゃないかと、お父さ んは心配なさっているようです。何とも馬鹿な話ですね。
「あの子もミ-ハ-なところがあるから、ひょっとしたら、演劇部員になっているのじ ゃないだろうか。それで忙しくて手紙も書けずにいるのじゃないかしら」なんて、お母さ んはいい方にいい方にと解釈しようとしていました。私は、あなたみたいな顔の大きい、 サ行の発音がめちゃくちゃな人が、どうして演劇部になんか入るものかと思いましたけれ ど、あえて黙っていました。
その演劇部が、創立記念日に「プラト-ン」の劇をやるのですって?「まあ、あの子た ちにベトナム戦争や七十年代がわかるんでしょうかねえ」って、あんたのお母さんが笑う こと笑うこと。
それはまあ、笑いたくなるのも無理はないかもしれません。あなたのお母さんも私と同 じ世代で、大学に在学中、あの学園紛争のまっただなかにいた人だもの。
「毎日ねえ、もう授業なんかそっちのけで、ベトナム戦争反対のデモに毎日行ってまし たよ。機動隊と衝突して靴が飛んじゃったこともあります。あの頃、ベトナムで死んでバ ラバラになった米兵の死体を死体袋に入れて日本に運んできて、洗ったりつなぎあわせた りしてきれいにして本国に送り返してるって情報が入って、それは戦争協力じゃないか、 憲法違反じゃないかって、皆でビラまいたり討論集会したりしませんでしたか?『プラト -ン』の映画見た時、一番印象的だったのは、冒頭に出てきた黒い死体袋で、さんざんビ ラは作ったけど、実物は見たことなかったから、ああ、こんなものだったのかと思っちゃ ってねえ」などと、お母さん、妙に興奮して、思い出話をしていました。
そういえば、私が大学に入る直前の麗泉学院にもたしかに、そういう時代の波は押し寄 せたけど、それはむしろ、ベトナム戦争とか、学園の民主化とかより、女性解放がメイン テ-マだったわね。あの頃はまだ、フェミニズムなんて言葉はなくて、ウ-マンリブと言 っていたけど。男女共学にしようとか、性の自由とか、過激な主張がいっぱいなされて、 皆、よく徹夜で議論したわ。今、考えると何もかも嘘みたい。麗泉にも、そんな時代の痕 跡は今、何ひとつ残っていないようだしね。
あの時代って何だったのでしょう。あなたのお父さんが出張で留守だったから、お母さ んと久しぶりに夜遅くまでウィスキ-や、フランス土産のワインを飲んで、「七十年代に 革命を起こして、こんな国、つぶしておけばよかった」なんて、おばさん二人でくだまい て、最後はインタ-ナショナルなんて、あなたは絶対知らないだろう古い歌を歌ったりし ましたけどね、夜が明けるとさすがに何だか虚しくて、二人で黙って、カニサラダなんか 食べてたわよ。
とにかく、私にはいいから、お父さんとお母さんには、時には手紙を書きなさい。元気 でいます、とだけでいいから。くれぐれも、頼みます。
それから、だんだん暑くなってきましたが、食べ物には気をつけて、あまり冷たいもの を飲みすぎないように。
敬具
姪御殿
胴長おばさんより

「教訓、その一」浜辺の石垣の上に腰を下ろした美尾さつきが、ふさふさと豊かな髪を ゆすって後ろにはねのけた。「これからは、飲んだり食べたり、しゃべったりする時は、 必ず見張りを立てること!」
「教訓、その二」峯竜子が仏頂面で続ける。「互いの顔を見なくても、背中あわせにな ってても、意志の疎通ができるように、テレパシ-なり手話なりの訓練を日頃から怠らな いこと」
「教訓、その三」南条美沙がくすくす笑う。「ウェイトレスのミカちゃんをあなどって はいけないこと。・・・ねえ、彼女にかわいいポ-チかマグカップか、何かそういうもの プレゼントしない?あ、ケ-キ作りの道具でもいいわ。そのくらいのことしてもいいと思 うわよ。彼女のおかげで私たち、廃部をまぬがれたんだから・・・それどころか、退学も ね」
「ちがいない」竜子はごろりと砂の上に転がって、よく晴れた空を見上げた。「それで もですよ、創立記念日のことを思うと、頭が痛くなりませんか。『プラト-ン』に『カル メン』!ひょっとしたら、単に死刑の執行日が先へ延びたってだけのことかも」
今は、麗泉学院の昼休み。グラウンドには人が多くて、はしゃいだ歓声がここまで届い て来る。赤きじ猫のジャコポが石垣の上で前足を身体の下に折り畳んで香箱を作り、うつ らうつらと眠っている。
「だいたい、まあ、よりにもよって、何で、あんなとんでもない劇を二つまで、お互い 思いついたんだろう」さつきが、ぐちった。「せめて、『夕鶴』とかさ、『森は生きてい る』とかさ、そういうものにでもしておけば・・・」
「つうが、くわえ煙草ではた織ってる影を、障子ごしに与ひょうが見るんですか」竜子 が反論した。「十二の月の森の精が、焚き火の回りで集まって煙草ふかしたりしてたら、 そりゃ単なる公園のホ-ムレスじゃないですか。今更泣き言言わないで下さいよ、美尾さ ん。あなたがしっかりしてくれなけりゃ知りませんからね。朝倉部長はあれ以来、何かや っぱりまだ普通じゃないし」
「そうね」美沙がため息をついた。「京子、一応きちんと仕事もしているし、おかしな ことはないようだけど、時々ぽうっと上の空になったりするもの」
「まったく、もう!」さつきは舌打ちした。「どうしてよ?レイプされても平気だった 人が、嘘を一回ついただけで、ショックうけて立ち直れなくなるなんて、どう考えてもお かしいだろう!?」
「声が高いわよ、さつき」美沙が注意した。
「わかった。声も低める、しっかりもする」さつきは約束するように、両手を上げた。 「でもね!『カルメン』は、ご存じのとおり、まじめな軍人ホセを、煙草工場の女工でジ プシ-のカルメンが、誘惑しまくって堕落させ、あげくにホセに殺される話で、超有名な 歌や踊りが目白押し。一方『プラト-ン』は、真面目なアメリカ青年のクリスが、ベトナ ムの戦場で、対照的な生きかたをする二人の古参兵・・・勝つためには手段を選ばないバ -ンズと、良心的な正義派のエリアスの両方にひかれながら、結局はエリアスを殺したバ -ンズを殺すという筋で、全編ものすごい戦闘シ-ン、登場人物はほとんどが、ごっつい 兵士で男性。これっていったいどうするの?緑川さんや、日村さんまで兵士にしなきゃ到 底人手が足りないわよ」
「いやあ、しかしなあ・・日村さんの迷彩服姿なんて、嘘をついてる朝倉さん以上に、 ちょっと想像できませんね」竜子が首を振った。「『ごめんあそばせ、その手榴弾を、ひ とつこちらにいただけませんこと?あらまあ、失礼』なんてやられた日にゃあ、全軍、戦 意喪失もいいとこですぜ」
「ホウリュウシ、あんた、やる気があるの、ないの?」さつきがかみつく。
「まあまあまあ」美沙がなだめた。「演出係の那須野さんと上月さんが、今夜、他の二 年生も何人か集めて相談すると言っていたから。それがどうなったか聞いてから、また考 えることにしましょうよ」

その日の夜、南条美沙の言った通り、地下の演劇部室では、バラ色の明かりに包まれた ソファ-のある一角で、遼子と奈々子、朱実と通子がテ-ブルを囲んでいた。
「実力テストも間近いっていうのに、まったくもう、こんな夜中近くまで」朱実がぼや く。
「しかたないでしょ。配役だけでも早く決めておかないと、ほんとに時間がなくなるん だから」奈々子が珍しくまじめなことを言って、テ-ブルの上の配役表をにらむ。
「とにかく『プラト-ン』の方の兵士になるメンバ-として今のところ候補にあげられ そうなのはさ」遼子が手にしたメモを見ながら提案する。「クロフォ-ドに日村さん、バ ニ-に斎藤さん、キングに大西さん・・・」
「ずいぶんすいすい決めていくわね」朱実が気にした。「どういう基準で、選んでいる の?」
「これか?別に。ただ単に、アンダ-シャツ一枚になった時に胸のめだたない連中を選 んでるだけさ」
奈々子があきれた顔で、遼子のメモをとりあげ、目を通し、「な~るほど」とだけ言っ て返した。
「ま、美尾さんたち三人はしかたないけど」遼子は首をすくめた。「胸があろうとなか ろうと、主役はやっぱりあの鉄壁の三人トリオではっていただかないことには、創立記念 日はのりきれまい。新歓公演はまだ一年生デビュ-のご愛嬌ですむけどさ、今度は真剣勝 負だよ」
「そうはいうけど」朱実が反論する。「あの三人は一年の時、その創立記念日の公演で 『キャメロット』の主役をやったんでしょう。いくら、あの三人は特別だ、別格だと言っ てもよ、今度もせめて、どっちの劇にも一人か二人は一年生を主役級にすえておかないと 来年に続かないのじゃない?」
「わかるけれども、かと言って」遼子は配役表をのぞきこんだ。「ホセのいいなずけ役 のミカエラは、朝倉さんで動かない。魔性の女カルメンと張り合えるだけの対照的な強力 な清純さを持ってなくっちゃいけないんだから。エリアスの南条さんも。狂気の戦場で一 人まともでいられそうな雰囲気の人って、あの人でなきゃ、見てて説得力ないよ」
「あのう、それで、美尾さつきさんは?何の役をなさるの?」日村通子が、『青い地平 線』の公演以来、ガウンがわりにいつも部室で羽おっている舞台衣装のうす緑色の部屋着 ・・・何しろ、細身で背の高い彼女にしか身体にあわず、色も他の者が着ると病人のよう に見えるので、通子がなかば私物化しても誰も文句を言わなかった・・・の袖口の黄ばん だレ-スをゆっくり細い指でなでてしわをのばしながら、おっとりと口をはさんだ。「あ の方ねえ、この前わたくしに、端役をやりたいってそれはもう熱心にお頼みになったのだ けれど、聞いてさしあげなくてよろしいの?バ-ンズ・・・でしたっけ、悪役の方にむざ んに殺されるベトナム女性でもいいとおっしゃっていらしたようだったけれど?」
「そんなの、だめっ!」奈々子が小さいこぶしでテ-ブルの上をたたいた。「絶対にだ めっ!彼女がベトナム女なんかやったら、たとえ出るのが三十秒でも、見おわった時には 皆はそれしか覚えていないわ。無線係でも軍用犬でも、ううん、村に飼われてるブタやっ たって、絶対、次の日には問い合わせが殺到するに決まってるんだから!『あの、ブタを やっていたすてきな人は誰ですか。あの人が出てきた時から、クリスもエリアスもバ-ン ズも皆忘れて、私は目が釘づけになってしまいました』とか何とか」
「どっちみち、エスカミリオは彼女でしょう」朱実が言った。「あんな派手な闘牛士、 他の誰がやっても滑稽なだけよ」
「ねえ・・どちらか片方の劇にしぼって話しませんこと?」通子が貴婦人のように一本 立てた指を優雅に頬にあてながら提案した。「さっきからわたくしの頭の中では二つの劇 が入り交じって、闘牛士がベトナムの水牛に乗っていたり、殺されるベトナム女性とカル メンが同じ顔に見えたり・・・」
「あ、ちょっと待って、でもそれ、いいな」奈々子が目を輝かせた。「ベトナム女とカ ルメンを同じ人がやるっていうの」
「いっそ、それ、あんたがやったら?」遼子が言う。「はじめから思ってた。カルメン やれるの、あんたしかいないよ。踊って歌って男をだまして・・・」
「そう、気まぐれでかんしゃくもちで」朱実もうなずく。
「けんかっぱやいときているのですものね」通子が今度は二本の指を唇にあてて、目を みはる。「そうなると、カルメンの恋人のホセは那須野さんでなければなりませんわ。ミ カエラの朝倉さん、エスカミリオの美尾さんと太刀打ちできる方なんて、他にどなたがい らっしゃるというのでしょう?」
「いいけどね」遼子が首を振る。「あたしたち二人、演出もやるのよ」
「あら、美尾さんや峯さんがいらしたのでは、どのみち、お二人が演出しようとお思い になっても、何もお出来になれはしませんことよ」無邪気に目をみはりながら、通子はけ っこう恐ろしいことを涼しい顔で言ってのけた。「どうせお株を奪われるのでしたら、は じめから、あの方々におまかせなさるおつもりでいらした方がよろしいわ」
三人は顔を見合わせた。
「そんな気もする」奈々子がしぶしぶ認めた。
「とてもする」遼子もうなずいた。

それからまた、一週間ほどすぎた日曜日の朝である。
浜砂寮の建物の壁はほんとは白いのだが、風雨にさらされて黒ずんでいるのと、朝の光 の加減とで淡いうす紫色に見えていた。その上を濃い緑のつたがまばらにおおい、あちこ ちに雨のしみやひびわれが模様のように入っている。やや洋風の形の屋根の、黒い瓦も色 あせて灰色がかってきていた。
一階から五階までの各階に二十あまりの部屋の窓がずらりと並んでいるが、まだ朝がと ても早いので、ほとんどの窓のカ-テンやブラインドは閉じられている。
もともとの建物についていたカ-テンの色は、一階が淡いピンクや赤、二階が赤味がか ったやわらかい灰色やクリ-ム色、三階が明るい黄色やくすんだ緑色、四階がうす緑色や 水色、五階が明るい空色と藍色だった。何年か前にいくつかの部屋につけられたブライン ドもだいたいはその色調を維持している。カ-テンやブラインドをつけかえるのは自由だ が、お金がかかるため、ほとんどの生徒はそのままにしている。中に何人か自分の好みの 色にしている者がいて、ぽつんぽつんと花模様や周囲と違った色の窓もあるのが、かえっ て面白いアクセントになっていた。窓は出窓で窓枠と手すりは明るい茶色だ。それぞれの 窓には鉢植えや鳥籠や小さい洗濯物が見えている。
四階のはしに近い四一四号室は、朝倉京子と那須野遼子のへやだった。寝巻がわりの白 い長いシャツを着て、すみにある少し黄ばんだ古めかしい洗面台で歯を磨いていた那須野 遼子が、驚いたように眉をひそめてコップと歯ブラシを手にしたまま、京子の方を振り返 った。
「小石川さんから、また呼び出された?いったい、何の冗談です?」
「ゆうべ、ドアの下にメモが入っていたわ。生徒会役員の畑さんの名で」すでにもう、 身支度をととのえて、髪もきっちりリボンで結んでいる京子はブラウスの袖のボタンを留 めなおしながら、さりげない声で言った。
「行くんですか?」
「行かないわけにはいかないわ」京子は遼子を見て笑った。「食堂から牛乳のパックが 来たら、悪いけど冷蔵庫に入れておいてくれる?」
遼子はうなずいたが、何か気にかかるらしく、ベッドの方に戻ってきて、軽やかな音楽 を流していた棚の上の赤いラジオのスイッチをひねって消した。
「誰かに連絡とった方がよくないですか?」彼女は言った。「美尾さんとか、南条さん に・・・」
「だめよ」京子は首を振った。「日曜の朝できっとまだ、皆よく寝てる。どうせ昼から また部室で練習だもの」
遼子は不安そうな不機嫌そうな顔で、じっと京子を見つめていた。
「心配しないで」京子は軽く遼子の腕にふれてそう言うと、ドアを開け、へやを出て行 った。

休日の校舎はしんと静かだ。いつもなら少女たちのざわめきで聞き取れもしない時計の 音が、七時をうつのがどこかで聞こえた。らせん階段を一人で上がって行った京子が、塔 のへやのドアをノックすると、すぐ返事があって、入って行くと、ナンシ-と二人の生徒 会役員・・木村芳江と畑幸子がいた。
ナンシ-が落ちついていたら、京子の表情がいつもほど毅然としてはおらず、この前の 嘘のことで何か言われるのではないかという、かすかな緊張がただよっていたのに気づい たはずだ。演劇部員の特に上級生たちは多少の差はあれ、皆気にしていたように、京子の 深部では何かが崩れはじめており、一見変わらない表面を突き破ってそれがあらわれはじ めるのは時間の問題であるのかもしれなかった。だが、あいにくとナンシ-は、京子をこ こに呼びつけた時の中でも今日が一番激怒しており、われを忘れていたために、そんなこ とには無頓着だった。
休日なので私服姿のナンシ-は、灰茶色の着心地よさそうなゆったりとしたカ-ディガ ンに短いスカ-トをはいていたが、怒りのあまりにそのカ-ディガンのポケットにつっこ んだ両手をねじくっているために、カ-ディガンのすそがのびてスカ-トをほとんど隠し てしまっている。怒っているのは、その後ろに立った二人もそうである。身体はでかいが 神経質な幸子など、両手のこぶしをぶるぶる震わせ、今にも泣きそうになっていた。  もはや生徒会長でなくても、こういう時には本能的に気になってしまう京子は、思わず ナンシ-を無視して幸子に声をかけてしまった。「どうしたの?」
ナンシ-が荒々しく椅子の方に手をふったので、とりあえず京子は座った。ナンシ-は 腰を下ろさない。大股にへやの中を歩き回りはじめたその様子は、熊とまではいかなくて も猛牛かシャモを思わせた。
「あなたのところの、美尾さつきさんときたら!」何度めかにくるっと振り返ってナン シ-は、ほとんどわめくように言った。「いったい、何を考えているの!?」
「さつきの考えていることなんて、本人だってきっとわかっていないと思うわ」京子は おだやかに答えた。「心のおもむくままに生きている人だから。・・・何をしたの、彼女 ?」ことばの最後にはなかばあきらめたようなひびきがあり、「今度は?」という一言を すんでのことに呑み込んだようでもあった。
ナンシ-は足をふみならさんばかりにしてテ-ブルを回ってきて、京子の真ん前の椅子 にどしんと腰を下ろした。
「校門での、遅刻チェックの時・・・」
「ああ・・・」京子は苦笑した。
寒い冬や、夏休み近くなど、生徒たちの遅刻がめだって多くなる時期には、それを少し でも防止するため、浜砂寮と校舎との間を隔てている門に生徒会役員が立って、遅刻者の チェックを行う。そして授業開始三十分前のチャイムと同時に、古めかしい鉄さくの門を 左右から閉めて一人だけ通れる程度のすきまを残し、それから来る者は一人ずつそこを通 して名前をメモし、罰として荷物を一時預かり、グラウンドを一周走らせてからやっと、 荷物を返して教室に行かせる。それがいやなら、寮の正門からいったん外の国道(海岸通 り)に出て、学校の正門から入る方法もあるが、距離的にはグラウンド一周と変わらない ほどの大回りになるし、どっちみち授業には遅刻する。
朝っぱらから、時には朝食抜きの起きたばかりの身体でグラウンド一周など、誰だって したくはない。グラウンド側の校舎の窓からは教室にいる生徒たちが見ていて恥ずかしい し、先生方も職員室の窓から見ていて、中にはそのことでからかったり叱ったりする先生 もいるので、何度もいやな思いをすることになる。それやこれやで、何とか門内にすべり こもうとする生徒たちでチャイムの鳴る直前は門の前はいつも大混乱になった。殺到する 生徒と門を閉めようとする生徒会役員との間で押し合いへし合いの騒ぎが毎朝続く。
京子が生徒会長だった頃は比較的混乱は少なかった。だいたい京子は遅刻の多い週の初 めの月曜と、気分がゆるむ水曜か木曜、それに週末の土曜以外は遅刻チェックをしたこと がない。そして、彼女は門を閉めるのではなく、役員たちとともに自分が門の外に立って おり、チャイムの後の人波がとぎれた頃を見はからって、「奥田さん!」「桂さん!」と 通りすぎようとするひとりひとりの名を呼びかけた。最初の数人が名前を呼ばれてびっく りして立ち止まると、後はもう気が抜けて、皆その後ろに並んでしまう。それでも強引に 突破しようとする者がいると、いつも京子の後ろにひかえている峯竜子が、数人がかりで 対抗してもかなわないという噂の、丸木のように太い腕で、力まかせに門を閉ざしてくい とめてしまうのだった。
今、小石川ナンシ-は一週間毎日連続で遅刻チェックをすることも、決してまれではな いらしい。門を閉める時の騒動でけが人が出たとも聞いている。しかし、朝早く登校して しまう京子は、そんな騒ぎを実際に目にしたことはまだなかった。

それでも、遅刻チェックとさつきの名を聞いてすぐ、京子が事情がわかった気になり苦 笑したのは、美尾さつきが上月奈々子や那須野遼子とともに、この遅刻チェック破りの常 習犯として有名だったからである。
特に、この三人は今にも閉まりそうな門の間をすり抜けて飛び込むのがうまいというだ けではなく、門やその両側の鉄さくに飛びついてよじのぼって越えてしまうという特技を 持っていた。
鉄の門やさくは、同じ黒い鉄でできた葡萄の葉や実の飾りがからみついた古風な美しい 門だが、高さは背伸びして両手をせいいっぱいに伸ばしてもまだてっぺんには届かないぐ らいで、二メ-トルは優にある。それなのに、この三人は一気にジャンプして鉄の格子に つかまり、身体をひきあげたかと思うと、ほとんど空中で一回転して反対側にひらりひら りと飛び下りてしまうのだった。「七人の侍」でさつきが野武士をやった後では、あれな ら村は野武士に侵入されるだろうと皆が冗談にして笑っていたほどだ。
京子が生徒会長になって、遅刻チェックをするようになってからというもの、三人はさ すがにめったにチェック破りをやらなくなった。それでも一二度、閉めた門の前で遅刻者 の名をメモしていた京子に、「ごめんっ!」と叫びながら、さつきがひらりと門にとびつ き、まるで大きな鳥のように頭上を越えて行ったことはある。

「さつきのあれは、もう昔からなのよ」京子はナンシ-を落ちつかせようと、なるべく 気軽な声を出した。「私がチェックしていた頃も、ときどき彼女やってたわ。もちろん、 いいことではないわ。へいを飛び越えるなんて。でも、彼女にして見れば、別にあなたを バカにしてやっているというわけなのでは・・・」
「誰が、彼女がへいを飛び越えるなんて言ったかしら?」ナンシ-は冷やかに言った。  「門を越えるの?どちらにしても・・・」
「へいも、門も、彼女は飛び越えたりなんかしないわよ!」ナンシ-は怒りで声を震わ せた。
木村芳江も畑幸子もあらためて思い出したかのように、怒りに身体をふるわせんばかり の表情をしている。
ことここにいたって、京子は完全に何がなんだかわからなくなった。
「・・・遅刻チェックの話なんでしょう?」
ナンシ-は黙ってうなずいた。
「さつきはそれを・・・突破しようとしたのではないの?」
「全然、そんなことはしていないわ」
「じゃ、あなたたち皆いったい、何をそんなに怒っているの?門を越えようとも・・・ 突破しようともしないで、どうやってあなたたちがそんなに怒るほど、彼女はあなたたち をバカにできるの?」
「話してやりなさい、畑さん」ナンシ-はそっけなく言った。
ほとばしるように畑幸子はしゃべりはじめた。「もうがまんできません、朝倉さん!あ たし・・・もう、美尾さんにバカにされるの・・・昨日で六日目なんですよ!毎朝、毎朝 ・・・もう、他の子たちまで、あたしたちのこと、笑いものに・・・」
幸子の声はつい京子に訴えている口調になっている。京子もつられて、幸子の方に椅子 を向けかえた。
「遅刻チェックの話よね?さつきはあなたに、いったい・・・」
「毎朝、本を読むんです!」
「本・・・ですって?」
「へいによりかかって、これ見よがしに・・・わざとらしく、そりゃもう、ゆうゆうと ・・・」
「三十分も前からですよ」木村芳江が、むっつり言う。「もっと早くからの時だってあ る」
「本を、どこで読むのですって?」
「へいに、よりかかって!」
「どこの?」
「だから門の・・・あたしたちがチェックをしている門の外の、へいです!」
「・・・外?」
「外ですよ!」幸子は叫んだ。「いいですか、あの人、チャイムが鳴る三十分かそれ以 上も前から来て、門の前まで来ておいて、中に入らないんです!あたしたちにも、通りす ぎる他の子たちにも、皆によく見えるところで、へいによりかかって本読んで、チャイム の鳴るのを待ってるんです!そして、チャイムが鳴って、門が閉まって・・・騒ぎが一段 落して、あたしたちが遅刻者をチェックしはじめようとすると、ぱたんと本閉じて入って 来て・・・『三年一組、三十五番の美尾さつきよ。グラウンド一周ね?』って言って、に っこり笑って、荷物をぽいとそのへんに置いて、世にも楽しそうに全力疾走でグラウンド に走って下りて行くんです!」

京子は思わず唇を固くかんだ。幸子と芳江は興奮していて気づかなかったが、ナンシ- はさすがに見逃さず、「笑ってる場合じゃないわよ」と注意した。「笑いたくなる気持ち はよくわかるけれど」
「美尾さんには、きちんと注意しておくから」京子は立ち上がって幸子の肩に手をかけ た。「遅刻チェックが大変な仕事だということは私も知っているわ。彼女によく言ってお く。そんな、一人でこれ見よがしにグラウンドで走ってみせるのは、もうやめるようにと ・・・」幸子が首をふったので、京子は言葉を切った。「・・・ちがうの?」
「一人じゃないんですよ」芳江がそばから口をはさんだ。「朝倉さん、本当に知らない んですか?美尾さんが毎日そうやって走るのがカッコいいからってんで、わざと遅刻して いっしょに走るバカな子が毎日どんどん増えてるんですよ!演劇部の人たちはもちろん何 人もいっしょです。美尾さんは『プラト-ン』で兵士の役をやるからトレ-ニングにちょ うどいいって言って、かけ声がわりの歌だか何だか大きな声で皆といっしょに歌いながら 走ってるんです!」
「今朝はもう、五十人をこえていました、いっしょに走ってる子が!」幸子はべそをか いていた。「あたしたち、もう、どうしたらいいんですか!?」
返事ができなくなった京子は、幸子の肩をなぐさめるようにたたきながら、せきばらい して顔をそむけた。
「一分間、あたしは向こうを向いているから朝倉さん」ナンシ-が皮肉たっぷりの口調 で言った。「思いっきり笑った方がいいわよ。吹き出したいのをこらえながら困ったふり をしているのって、結構つらいものがあるでしょう?」
「さつきはね、多分、これって・・・」京子は小さく首を振り、ナンシ-に言うともひ とりごとともつかぬことばをつぶやいた。「彼女なりに私を元気づけようとして・・・そ れと、あの、この前のことで・・・彼女あなたに、私のことで腹を立てて、いやがらせを してるんだわ・・・あなたにしたら迷惑よね・・・申し訳ないわ・・・」
ナンシ-が何か言おうとした時、突然激しくドアがノックされた。

あわただしく入ってきたのは、生徒会役員の桜木千里だ。彼女はすばやくナンシ-に近 づき、一言二言耳打ちした。
ナンシ-はちらと京子を見ると立ち上がり、早足に窓の方へ行って、まだ朝もやの漂っ ている海のかなたへじっと目をやった。すぐに彼女は幸子と芳江を手招きし、四人でまた あわただしくささやきあう。その中に「レスボス島」「演劇部」という言葉を耳にした京 子は思わず耳をそばだてた。
レスボス島の本当の名はわからない。入り江の外の沖にある岩だけの小さな小島で、麗 泉学院の生徒たちの間では昔からその名で呼ばれていた。危険なので、そこまで泳いで行 くのは禁止されていたし、見つかればそれなりの処罰もあったが、水泳部員や、たとえば さつきや竜子のような泳ぎに自信のある連中は、暖かくなるとこっそりそこまで泳いで行 ったりする。
「すぐに、モ-タ-ボ-トを出して」ナンシ-は千里にそう命令した。「今度こそ、ま ちがいなく規則違反の現場を押さえられそうね」
「もちろんですよ」千里は自信ありげに言うと、ちらと京子の方を見てそのままへやを 出て行った。
「帰っていいわよ、朝倉さん」次第に不安の色をかくせなくなっている表情で、千里の 出ていった方をぼんやりと見送っていた京子に向かってナンシ-は、妙に落ちついた声で 言った。

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