小説「散文家たち」第36章 赤いテ-プ

低く、ものういシャンソンが、カ-テンをまだ半分しか開けていない、ほの暗い「オリエント急行」の店の中に流れていた。窓からわずかに見えている朝の海は、夜明けの白さをどこかに残して、静かに輝いていた。
「オリエント急行」の女主人───少女たちがママと呼んでいる女性は、ガウンを羽織ったまま、いつもはまとめている髪を長く肩に広げて、窓のそばのテ-ブルに座り、頬杖をついて海を見ていた。
ドアのチャイムが小さく鳴る。ママは振り向いた。
「ミカちゃん?」
いつも店にいる時よりは、やや低く太い、けだるい調子の声で呼んだママは、返事がないので立ち上がった。
しわがれて甘いシャンソンの声はつづいている。
わたしたちが愛し合った
夏の日は遠い昔
雨の中を走って
くちづけをかわして
薄暗い店の入口に立っている、鋭く暗い輝きを目にたたえた、すらりとした少女を見た時、ママの表情は一瞬こわばった。だが、すぐに、やわらかいいつもの笑顔が雲のようにその顔をおおって、やさしい声でママは言った。
「あなただったの、那須野さん?」
「私を見て───」遼子の声は静かで、力がこもっていた。「───誰を思い出したんですか、今?」
時は流れ過ぎた
わたしたちのまわりを
波に浮かぶ小舟が
川を下るように
歌声がつづいている。
ママは黙って、テ-ブルの方へ戻って行く。その後を追うように遼子も店の中に入ってきた。立ち止まって、低く、また聞いた。
「なぜ、いつも私だけに親切にしたんです?他の人より、大事にしたんです?」
「そんなことが珍しいの?」ママは、笑顔で振り向いた。「あなただけに親切な人なんて、たくさんいるでしょう?あなたは魅力があるのだし。そうさせようと思えば、いくらでも、人に、あなたのためにつくさせることなんてできるはずじゃないの?」
落ち着いた、からかいの表情。さっきの一瞬の動揺から、あっという間に完全に立ち直ったというだけではない。今までどうして気がつかなかったのか。寒気がするような戦慄に似たものを、遼子は感じた。目の前の女性から吹きつけてくる、ゆらぎない意志の強さと危険なまでのしたたかさは、遼子自身や日村通子の比ではない。心の用意のないままに思いがけない手ごわい相手と向き合ってしまったような、目まいを感じるほどの衝撃に、遼子は思わず口走っていた。
「そうよ。そのとおりだわ。でも、あなたは違うでしょう?あたしは、あなたに何もしなかったわ。その前に、いつもあなたが勝手にあたしに親切にしたのよ。だから、いつも───はっきり言って不愉快だった。あたしの力ではなかったもの。気味が悪かった。これまでそんなこと、あたしにはなかった。努力───とか、工夫とか、そういうことを何もしないで、人に愛されたことなんか。だから、ずっと、あなたは変だと───」
あなたのくちびるにも
あなたのためいきにも
よみがえる夏の夜
歌声の低く流れる中、ママが、かすかに目を伏せてそむけた。だが、そうする前の一瞬に遼子の目はとらえていた。ママのまなざしにこもる、いとしさと哀れみを。力いっぱい抱きしめたいと願いながら、かろうじて、それを押し殺しているとしか思えない、限りなく優しい表情を。
これほどに強くしたたかな人が、こんなに優しい表情をするのだろうか。それがまた、更に遼子を動揺させた。
「何か理由があるのだとは、思っていたわ。何もないはず、ないものね。私は誰かに似ていたのね?その人は誰?あなたの何?私の───何?」
ママは小さく首を振った。
「那須野さん。私があなたを大切に思ったのは、自分の知っていた人に、あなたが似ていたからだけではないわ。もちろん、それもあったけれど」
「いいわけはいいんです。別にがっかりはしていません。言ったでしょう?不愉快だったんですよ。気味が悪くって、イライラしていたんです。だから───はっきりさせたいの。誰のかわりに、私はあなたに愛されていたんですか?」
「棟方梨恵という人よ」ひっそりと、遼子が拍子抜けしたほど、あっさりと静かにママは言った。
「むなかた───りえ?」
「心当たりはなさそうね?」
ママは、ゆっくり椅子に座った。
「ありません。聞いたこともない名だわ」遼子はカウンタ-の椅子に座り、ママから半ば顔をそむけた。「どんな字、書くの?」
「木偏に東と書いて棟。方角の方。梨の実の梨に恵むと書いて梨恵」
遼子は首を振った。「知らない名です。まったく、心当たりがない」
「───そう」
ママは立って行って、音楽をとめた。店の中はしんと静かになる。今までは聞こえなかったク-ラ-の音がかすかに耳についた。遼子はママの方に向き直った。
「そんなに、あたしに似てたんですか、その人?」
黙ってママはうなずいた。
「ママも、その人も、麗泉にいたのね?」
「ええ───」ママは、ちょっといぶかしむような、けげんそうな表情をした。「あなた、まだ───私の名前を知らないのね?」
「知りません。ミカちゃんにでもユリちゃんでも聞けば、すぐわかると思ったけど、あなたから直接聞きたかったから」
「根岸昌代よ」やわらかく、ママは言った。「でも、それじゃどうしてわかったの?梨恵があなたに似ていることや、私たちが麗泉にいたこと───」
「壁画を見たから───」
「壁画?」
「この春、演劇部が図書館の地下室に部室を移されたこと、知ってますよね?その奥のへやの壁一面に、壁画が描かれていたんです。『ロビン・フッド』と『水滸伝』をいっしょくたにしたような絵で、その中に、死んだロビンを抱いているリトル・ジョンの絵があって───ロビンは私に、リトル・ジョンはあなたにそっくりだって、昨日、初めて気がついたんです」
ママ───根岸昌代の表情が、かすかにひきしまる。こわばったと言ってもいいかもしれない。
「ロビン・フッド───水滸伝───」つぶやくような声だった。「それじゃ、茜は本当に、あの絵を描いていたんだわ──」

「あの絵のことを、知っているんですか?」遼子は聞いた。
昌代はうなずく。「見たことはないけれど」
「茜───っていうのが───あの絵を描いた人ですね?」
「小田茜」もう何年も───ひょっとしたら何十年も口に出したことのない名を、自分の声で聞いて確認するように昌代は小さく何度もうなずいた。「彼女の絵は独特の色と形を持っていて、見るたびに印象がかわって行くような、とても不思議な魅力があったわ。市や県の展覧会に出品するたび、必ず賞をとっていた。美術の先生は彼女のことを、自分が一生の内に一度見るような天才だって言っていたわね。でも、今はどうしているのか。ロビン・フッドの伝説と水滸伝とを一つの世界に描き出すことによって、ある真実を表現する。その絵さえ描きあげられたら、死ぬまでもう何も描かなくていい。彼女はそう言っていた。自分をどんなにすりへらしても、魂を何かに売り渡しても、絶対、その絵を描きあげたいって」
何か言いたそうに、昌代はじっと遼子を見つめた。
「絵の中のロビンは、死んでいたのね?───どんな風に?もしかして───腐りかけていた?」
「いいえ。それは、他の人でした。『水滸伝』の中の、自殺した英雄たちが───。でも、なぜ、そんなこと聞くんです?」
昌代は、考え考え、用心深く言葉を選んでしゃべっていた。「あの頃、茜は傷や血や苦しんでいる人の顔、腐りかけている動物の死体などに異常な興味を示したわ。知り合いの大学生に頼み込んで、大学病院の死体を見に行ったとも言っていた。あの絵を描くために必要なんだと言っていたけれど、それにしても、あの頃の彼女の様子は少し不気味で、私たちは皆、何となく、彼女を少し避けていた」
なかば開いたカ-テンの向こうに輝いている海に、昌代は目をやる。
「描きのこすんだ───彼女、そう言っていた。あの頃起こったすべてのことをね。敗北、絶望、そして希望も、皆、ありのままに描きのこすって、熱にうかされたように言いつづけていた。でも、彼女が本当にそんな絵を描いているのか、どこに描こうとしているのか、私たちはもう皆、興味がなかった───あの頃の私たちは、疲れていて、ばらばらで、何ももう、気にならなくなっていたの。私たち皆が無気力な中で、茜ひとりは異様に陽気で元気だったから、それも何だか不自然に見えた。まるで、彼女、何かにとりつかれたようだった。弱り切った精神が、もっと強い何物かに食い荒らされていくように、あの頃の彼女は何かにのっとられたみたいで、それまでの茜のようじゃなかったわ」
「あの頃の───私たちって───?」
「図書委員会というのがあったの」何でもないことを告げているかのように、昌代の声はおだやかだった。「私たちの代を最後に崩壊したけれど、今の生徒会や寮委員会をまとめたような、大きい力を持っていたのよ。蘭の会とも、呼ばれていたわ。私も梨恵も茜も皆、そのメンバ-だった。皆で十二人いて、いつもはあだ名で呼びあっていて───梨恵がオ-ランド-、茜がアラン・ナデ-ル、私はラントナックと呼ばれていたわ」

どこか、森の中のような、薄暗い静かな店の中に、低くク-ラ-の音がしていた。遼子は根岸昌代を見つめた。初めて現実に見る、伝説の図書委員会のメンバ-の一人を。こうして間近によく見ると、根岸昌代は、実に堂々とした威厳を感じさせる女性だった。左右の大きさがやや違う目も、つけ根の高い長い鼻も、古代の石像のような重厚な静謐さをたたえていた。
「つまり」遼子はささやくように言った。「あの頃って言うのは、アスランが───関喜志子さんが死んだ後ってことですか?」
昌代はまた、ちょっとけげんそうな顔になる。
「そのことは、知っているわけ?」
「あの壁画の背景を知りたくて───私たち、学院の歴史をいろいろ調べたんです」
「それはそれは、ご苦労さま」意地悪とまでは行かないが、やや皮肉っぽい昌代の笑顔には、軽い自嘲もこもっていた。「さぞ、調べにくかったでしょう。あの頃のことは。私たちは皆、自分たちがここにいたことも、ここで何をしたかも忘れようとしてきたわ。卒業してからも連絡はいっさい、とりあわなかったし、同窓会にも参加しなかった。この年になってようやく、ここに戻ってきてもいいかって気になったけれど、二十代や三十代には、麗泉の二文字を見るのさえ、おぞましいって気がしていたわ」
「いったい、何があったんです?」遼子は単刀直入に切り込んだ。
「いったい、何があったのか」昌代は、疲れた声になって、遼子のことばをくりかえした。「今、思い出すと、よくわからないわ。オ-ランド-───梨恵と私は、一年生だったし。茜は二年生だったけど、子どもっぽい無邪気な人で同級生から子ども扱いされていたせいもあって、下級生の私たちといつもいっしょで、三人、特に仲がよかったの。それで───そうね───私たちにわかったのは、ある本の購入をめぐって、学生裁判が開かれてアスランが有罪になり、その数日後の学生大会の夜に彼女が死んで───」
「自殺?事故死?」
昌代が深いため息をついて、わずかにだが突然、顔をそむけたのを見て、遼子は早口に言った。「すみません。もういいです、どっちでも」
「いいの。あなたたちにとっては、気軽に聞けるし、どっちでもかまわないことだってことは、わかるの。ただの小さい一つの事実なんだもの。確認したくなるのは当然よ」
「すみません」遼子はくりかえした。「あたしって鈍感で。ただ───何かいろいろ聞いている間に、その棟方さんという人について、何かわかるかもしれないって思ったもんだからつい───」
「ええ、わかっているわ。あなたが、彼女のことを───彼女をとりまく当時のことを知りたいと思うのは」顔をそらしたままだったが、昌代は微笑してうなずいた。「ただ、今も言ったように私たちは一年生で、目の前で起こったことをちゃんと見ていても、そのことの意味が多分、今もあまりよくわかっていない気がするの。あれは事故死だった。公式にはそうだった。でも、たとえそうだとしても、上級生のメンバ-は皆、アスランの死に深く傷ついていたわ。まるで、自分たちが彼女を殺したかのように───それはもう、ひととおりの傷つき方ではなかった。皆がすっかり変わってしまった。ひとりひとりの性格も、お互いどうしの関係もね。図書委員会は二度と開かれなかった。まもなく、図書館の本の大量処分が行われた。それでも、図書委員会は動かなかった。それが、どういうことか、下級生の私たちに説明してくれる人もなかった。その中でアラン・ナデ-ル───茜だけが、変にうきうきしていたの。もしかしたら彼女は、ほんとに何かに魂を売ったのではないかとさえ、私は思ったことがあったわ」
「───サンド・クラブ・パ-ティ-?」昌代がうなずくのを見て、遼子はあきれた顔になる。「その頃からもう、あったんですか?」
「名前だけはね。麗泉の設立と同じ時からあるのじゃないかと思えるほどの、古い伝説だわ。そんな組織が実際にあるなどと、思っている者など、誰もいないけれどね」
「このごろじゃ、そうでもないですよ」
「そうなの?でもまあ、私自身、あの頃、何かそういう危険で頽廃的な集団に誘われたら、拒絶できなかったような気がするわ。蘭の会が崩壊して、学内から理想や信念のようなものは、すべて失われていたから。皆が自分の好きなように生きていた。先生たちが管理をどんどん強めたから、やっと混乱がまぬがれていただけで。もし、サンド・クラブが現実に存在していたら、あの頃の、あの学校の生徒たちは皆、恰好の餌食だったでしょうね。逆に言えば、そうならなかったということは、やはり、そんな悪の組織は現実にはないのよ」
古いたんすの奥の衣類から、ふと漂ってくるなつかしい香りのように、昌代の笑顔には今の若者たちにはない荒削りな暖かさと力強さが、かすかにだが確かにうかがわれた。
「そうですね───」
「まだ何か」昌代は少し硬い声で言った。「聞きたいことがあるなら、聞いて」
「もしよかったら教えて下さい───上級生の人たちの名前は?」
「ああ、それ?ええと───」意外なくらいに昌代はとまどい、かすかに眉をひそめて考え込んだ。「あだ名では皆覚えているんだけど、名前の方は───私たち一年生がまだ他のメンバ-とよく知り合う前に、あの事件が起こってしまったし。もちろん、リ-ダ-はアスラン。優しくて目立たなくて、臆病そうにさえ見えることがあったけど、本当は決してひるまない、逃げない、どんなことでも正面から立ち向かって、うけとめる力を持っていたわ。どんなに自分が傷ついても、人を許してうけいれて───王の特権も、神の威力もないくせに、王や神であるかのように、暖かく正しくふるまおうとする人だった。それからアルデバラン。はたから見ると、彼女の方がリ-ダ-に見えたかもしれないわね。背が高くて美しい、理路整然と話をする、とても聡明な人だった。ランボ-は、暗くて、気性が激しかった。ブランカは、可憐で、ほんとに女らしい人。オランプは、いたずらっぽくて陽気だったし、ランスロットは、いつも皆の花形だった」
「美尾さんのような?」
「いえ、あんなにおどけた、騒々しいところや軽いところはなくて───あら」昌代はちょっと口に手をあてて笑った。「さつきさんには内緒にしてね。ランスロットは華やかで、皆に愛されていたけれど、威厳や落ち着きもあって───京子さんとさつきさんをいっしょにしたような感じとでも言えばいいのかしらね」
「それって、ほとんど完璧ってことじゃないですか」遼子も苦笑する。
「ランスロットは完璧だったわ」昌代はまじめな顔で言った。「外見の美しさだけじゃなく、判断が正確で、行動が早くて、生まれながらのリ-ダ-だった。アルデバランもそうだったけど、彼女はもっと考え深い思索型だった。ランスロットはスポ-ツも万能だったし、一度、町でしつこい酔っぱらいを投げ飛ばしたこともあるぐらい、実際のけんかでも強かった。当然、劇の上演ではいつも男役で、皆のあこがれの的だったけど、ちっとも気取ったところがなくて、誰にでも気さくで親切だった。かっこいい男装のままでエプロンして、せっせと皆にお茶をついでくれたりして、ああ、そんなところは南条さんにも似ているわね。『三銃士』ではアトス、『モヒカン族の最後』ではチンガ-クック、『忠臣蔵』では片岡源五衛門、『八犬伝』では犬村大角、『ア-サ-王物語』では、もちろんランスロットだった」
「その人の名前は?」
「それがやっぱり、覚えていないの。ランスロットという名前が、あの人の場合、あまりにもぴったりだったから、先生たちまで、その名で呼んでいたぐらい。本名を知らない生徒がけっこう多かったと思うわよ。クラスの子たちは皆、ランスと呼んでいたし」昌代は小さく、首をかしげる。「それで何人、話したっけ?」
「あと───」遼子がつぶやく。「たしか、ロ-ランサンて人がいましたよね。それからタレ-ラン───森蘭丸」
「ああ!タレ-ランは覚えているわ。波勢真砂子という人よ。太って、陽気でおしゃべりで、皮肉っぽくて、すごく暗いものの見方をするくせに、それを彼女がしゃべると、エネルギッシュで滑稽なものだから、明るく思えてしまうような、何だかすごい人だった。ロ-ランサンも、演劇の時はいつも花形だったわよね。可憐な娘役とかさせたら、右に出るものがなかった。『ピ-タ-・パン』のティンカ-・ベルとか、『真夏の夜の夢』のパックとか。蘭丸は───吉川まりと言ったっけ。無口で、くるくる大きな目の、かわいらしい感じの人だった」
「結局、名前を覚えていらっしゃるのは、その吉川さんと波勢さんだけなんですね?」 「それと、茜と梨恵。茜に聞けば多分、もっと覚えているでしょうけど」
「でも、どこにいるかご存じないんでしょう?」
「茜だけは、わかるのよ。彼女、想理市の近くの和多田という町の、みかん農家の娘さんだった。いつも、家から送ってもらったみかんを皆にわけてくれたから覚えているの。おかしいわ。みかんをつめたボ-ル箱に印刷されていた、『想理の和多田はみかんの里』って、オレンジ色と緑の文字が今でも目にやきついている。にっこり笑った目鼻のついたみかんの下手な絵もついていて、それは何だかちょっと不気味だったわね。茜は、その絵のみかんを、みんみんちゃんと名づけて、いつも笑っていたけれどね。だから、そこに行けば、彼女が今どこにいるのかはわかると思う」昌代は、ちょっと言葉を切った。「ひょっとしたら彼女、梨恵のことも知ってるかもしれない」

「あたし───何だか、よくわからない」遼子はカウンタ-の上に目を落としたまま言った。「根岸さん、その棟方って人のことが、好きだったんですよね?それで、気にならないんですか?今、どうしているのかとか───」
「そうね。気にならないわけではないけれど」カ-テンに手をかけて、ゆっくりと開いて行きながら、昌代はつぶやいた。「たしかに仲はよかったわ。私はその頃───あなたたち、茜の描いた私を見て、よく今の私とわかったわ───その頃の私は今の倍も太っていたわ。髪も多くて、赤茶けて、それがぼうぼうと顔のまわりにたなびいているのを、ろくに手入れもしなかった。性格も荒々しくて厳しくて、大人が許せず、社会が許せず、あらゆるものに腹を立てていた。めったに口もきかなかった。いつも、怒っていたわね。人を傷つけることばばかり探していたわ。でも、オ-ランド-は、私をちっとも恐がらなかった。私を怒らせて、面白がってた」昌代は立ち上がって、カウンタ-に入った。「コ-ヒ-でも入れるわね」
遼子は壁の時計を見上げた。「でも、ママ、着替えないと。ミカちゃんたちも、そろそろ来るよ」
両方の腕を抱くようにして、昌代は肩を回して伸びをした。「今日はお休みにしようかなって、さっきからちょっと思っていたところ」
「そんなの、まずいよ」遼子は言った。「昨日だって臨時休業したんでしょう?」
根岸昌代はカウンタ-の向こうから、楽しさと切なさの入り交じった、不思議なまなざしを遼子に注いだ。「おかしいわ──」くっくっと彼女はのどで笑った。「そういうところが───ちがうのね」
「どういうところが───何がです?」
「オ-ランド-なら、きっと私がそう言えば、一も二もなく賛成して、大喜びしたわ。店がどうなるか、明日がどうなるかなんて、ちっとも考えようとしないでね。海に行こうとか、森に行こうとか───今、運河の向こうの美術館や幼稚園があるあのあたり、昔は森だったの───それともボ-トで川下りをしようとか───。彼女ってね、気まぐれで傷つきやすくて、先のことや回りのことを、あまり考えない人だった。それなのに、ふしぎにエゴイスティックな感じがしなかった。汚いところや中途半端なところや、計算高いところが、これっぽっちもなかったからかな───常識のない、無邪気な天使か、異星人に対するように、誰もが彼女のわがままや移り気を笑って許したわ。逆らえなかった。特に私はね」
昌代はコ-ヒ-を入れはじめたが、青い小さい炎の上にうつむけた顔の唇には、ひとりでに浮かび上がった微笑みが、まだ消えないままだった。
「あなたを見ていて楽しかった。そんなに似ているのに、とても違っているのが、時々よくわかって。あなたは、彼女のように、もろくない。安心して見ていられたのよ」
「それは、でも、ものたりなかったんじゃないですか?あなたが、その人を好きだったのは、その、もろくって、傷つきやすくて、危なっかしいところだったんじゃ───」
「そうだったけど、それは見ていて、つらくもあったの。オ-ランド-の一番私が好きなところは、どれも、見ているだけで苦しくて不安になるようなところでもあったの。喜びと苦しみを同時に与える人だった。あなたにそれがなかったのは、そうねえ───ものたりなかった?そうかもしれない。でも、それ以上か、それと同じくらいにね、あなたを見てると、私はとても幸せだったの。何があっても、この人なら大丈夫。そう思えるのって、本当に───何も心配しないで見ていられるのって、とても、ぜいたくをさせてもらっているような、とても甘えさせてもらっているような気がしたわ。いたわっているつもりなんか、あなたにはなかったでしょうけれど、いつも、あなたに、いたわってもらっているような感じがした」
コ-ヒ-の香りの中で、昌代はまた小さく声をたてて笑う。
「あの人も、こうなっていてくれるといいなと思ったわ。少々、汚れていたっていいから、強くなっててくれるといいって。変な言い方をしてごめんなさいね。でも、あなたが来た日の夜なんか、このお店の二階のへやで、一人でお酒を飲みながらふっと思うことがあった。時が人を変えるものなら──時代が人を作るのなら───あの人も変わっているのかもしれない。外見はもちろん、私と同じように年取っているだろうし、性格も、あなたのようになっていやしないだろうか───落ち着いて、現実的で、時には残酷なぐらいしたたかで、ぬけめなくて、しなやかに───あの感じやすさやもろさを失わないまま、上手にちゃんとコントロ-ルして生きられるようになっているのじゃないかって。そうなっていてほしいと思ったわ。そうなっていてくれたら、どんなにいいかって。───ごめんなさい。不愉快よね」昌代は夢からさめたように、ぐいと首を振った。「あなたは彼女じゃないのにね」
「ほんとに会いたくないんですか?今、どうなってるか、知りたくない?」
「会えたら、うれしいかもしれない。でも、会わなくてもいいって気もする。図書委員会のことは残念だったけど、彼女と、ここで過ごした三年間は楽しかったし。アスランのことには、私たち、それ以後ふれなかった。何か奇妙な痛みを共有したまま、私たちはお互いをいたわりあって、愛し合っていた。クラスが変わって、他の子たちと仲良くなったり、別々のグル-プで遊んでいたこともあったけれど、いつも誰より信頼しあっていて、誰よりも大切な友だちだった。お互いが、そう思っていることを知っていた。最後に会ったのは、卒業式の何日かあとだったわね。フェリ-で帰る私を送って、彼女が桟橋まで来たのよ。たしか、最終便で、お客さんも少なくて───売店で彼女が、ほこりだらけになって何個かボ-ル箱の中に転がってたテ-プを一つ買ったわ。そんなこと、それまでしたことなかったんだけど。桟橋にも甲板にも私たちだけ───私がテ-プのはしを握って、オ-ランド-が輪っかの方を持っていた。船が動きだすと、私が思っていたよりもずっと早くテ-プはほどけてなくなって、彼女が手をあげて、去っていくのが見えた。私は何だか、気になって───彼女がテ-プを途中で切ったんじゃないかって、ふっと思って。それで、たしかめようとして、波にひたって船のわきをついてくるテ-プを、たぐりよせて見た。でも、途中で何か照れくさくなってね、手の中にたまっていたテ-プを、そのまま海に落としたわ。船のそばの白い泡の中に、テ-プのかたまりが、赤いバラの花みたいに一瞬見えて、すぐ沈んで消えた」

昌代は、二人分のカップに、ゆっくりとコ-ヒ-を注いだ。
「しばらくは手紙のやりとりもあったけど、思っていることの半分も伝わらないような気がして、どちらからともなく、出さなくなったわ。そのまま、長い時が流れた。二年前に、それまでしていた仕事がひとくぎりついて、前からやってみたかった、こういうお店をやろうとした時、ふっと、彼女といっしょに過ごしたこの町に来てもいいなって思ったの。これまでそんなこと、思ったこともなかったのに、私も年をとったのね、多分。それでも、まだあまり本気じゃなくて、冗談半分のようにしてさがして見たら、まるで彼女が導いてくれたように、お店と土地を売りたいという方がいらして、めったにないようないい条件で───自分でも信じられないでいる間に、私が夢みていたことは、それこそ夢みたいに実現したの。それでも、始めるまでは自分の心に何が起こるか、不安もあったけれど、実際に来て見ると───楽しかったわ。昔と変わらない制服を着たあなたがたが、店に来てくれて、おしゃべりしているのを聞いていると、ただもう、楽しいだけだった。苦い思い出なんて皆、時が消すのかしらと思った」
コ-ヒ-カップのスプ-ンを動かしながら、かすかな吐息と笑いとを昌代は小さく吐き出した。
「そして、去年の秋だった───あなたが初めて来てくれた。峯さんと何か議論しながら入って来て、窓際の、あそこの椅子に座ったわ。声がそっくりだったから、あらっと思って、そちらを見たら、あなたがこちらを見ていて、目があって、あなたが笑った───人なつっこくて、いたずらっぽい、彼女とそっくりの笑顔で、一瞬、本当に、自分が五十近いことを忘れたわ。時の流れがとまって、戻って、太った気難しい高校生になって彼女の前にいるような気がした」
「声も───」遼子はぼんやりつぶやいた。「似てるんですね───」
「ものの言い方がね。カウンタ-の中で目をつぶって聞いていると、皆のおしゃべりの中から確実にオ-ランド-の声が聞こえている感じだったわ。あなたが、人をたぶらかそうと思って、ちょっと甘えたような口調になる時なんかも、彼女にそっくり。彼女のは無意識だったんだけどね。彼女、家でも末っ子で、お兄さんやご両親にかわいがられていたらしいから」
「お兄さんがいたんですか?」
「けっこう反抗的で、お父さんとも仲が悪くて、自分がいないと二人で家で何を話しているんだろう、殺しあってなきゃいいけどって、彼女ときどき気にしてたわね」
「どんな───外見だったんでしょう?」
「お兄さん?ちょっと暗い感じのする鋭い顔だちのハンサムだったらしいけど。背が高くて、中学の時、先生とけんかして、眉のはしに白い傷痕があるって言ってたわ」昌代は遼子の顔を見た。「お父さんか、誰か、似ている人がいる?」
遼子は首をふる。「まるっきり、いませんね」
「お年を召したら、変わっているかも」
「限度ってものがありますよ。それに、あたしの父も親戚も皆、臆病でおべっか遣いで長いものには巻かれろ主義で、先生に反抗なんかできる者はいません。先生どころか、子どものあたしが何をしても、手をあげるどころか、どなることさえできないんだから」
「じゃ、那須野さんのお家、お母さんの方がきびしいの?」
「まだ、母の方が口だけはがみがみ言いますからね。ほんとは、いっそ、あたしをなぐりたいんでしょうけどね、あの人。見ていてようくわかるんですよ」
「あなたに手をあげたりしたらどうなるか、恐いものね。お気持ちはわかるわ」
「───って言うより、なぐったらとまらなくなるのが恐いんじゃないかな。あたしのことが嫌いで嫌いでしょうがないのが、何かもう、ありありとみえみえで」
「嫌われるようなこと、あなたがするんでしょう」
「そんなこと、何でわかるの?」遼子は笑った。
「どうしたら人に好かれるかわかっている人は、人に自分を嫌わせるのだって得意でしょ?あなたはきっと、お母さんにめちゃくちゃ意地悪しているんだわ。それもけっこう、計算づくで」
「どうしてあたしが、そんなことするのよ?何のために?」
「それは、私にはわからないわよ」
チャイムが鳴って、ドアが開く。大きな百合の花束をかかえたミカちゃんが、息せき切って入ってきた。
「お花の生産者の方の家がわかりにくくって───遅くなってごめんなさい!お店に飾る花って、これでいいんですよね?」
「うん、上等よ」昌代はカウンタ-から出て、笑いながら花を調べた。「今、ちょっと那須野さんとコ-ヒ-を飲んでいたところ」
ミカちゃんは、にこにこしながら遼子にぺこんと頭を下げた。「さっき、港やバスセンタ-で、寮の人たちが何人も、お家から帰ってくるのに会いました。そろそろ、夏休み、おわりですよね」

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