小説「散文家たち」第11章 蛇

音楽はとだえている。ライトも動かない。舞台の上には戦闘服の兵士───美沙と京子が、ただ二人だけ。
広いホ-ルはしんとしている。通路までぎっしり埋めた満員の観客は、水をうったように静かだ。
若草色の着物を着て、髪を高く結い上げた、同窓会の役員らしい婦人客の一人が、パンフレットを口にあてて、隣に座った友人にひそひそ声でささやいた。
「たしか、ここで、このバ-ンズは、エリアスを、いきなり殺してしまうのではございませんでしたか?」
「え、あたくしも、何かそんな風に記憶していたのでございますけれどね──」
京子も美沙も、まだ動かない。京子の表情がこわばってひきつり、目がぎらぎらと輝くほど緊張しているのに比べると、美沙の方は明らかに呆然として、いったい何が起こっているのか、まだよくのみこめていない顔だ。
幸い、当座はそれが二人の、役の上での立場にあっていたために、観客はおとなしく、ひきつけられて見守っていた。
京子が再び、口を開いた。
「聞いてるのか?」
美沙が黙って、ゆっくりうなずく。京子が何を考えているのか、一刻も早く読みとろうとして、その視線が京子の顔の上をあわただしく動いている。
美沙の手の銃をもぎとりながら、京子は自分の銃口を相手の身体に押し当てて、わずかに二人の位置を変えた。
「───急げよ」美沙がようやく口を開いて、乾いた、かすれた声で言った。「ここでぐずぐずもたついてたら、おまえがおれを撃つ前に、敵のやつらに見つかるぜ」
「いいね。敵ってのは、どっちの敵だ?」京子は低い笑い声をあげた。「おまえは、やつらの味方じゃないのか?何で、あっちに行かねえんだよ?何で、おれたちを殺さないんだ?何で、やつらを殺すんだ?そんなに、やつらがかわいそうなら、おれたちを殺して脱走して、あいつらのところに行きゃいいじゃねえか。なあ、エリアス、なぜそうしない?ことばが通じねえってか?気は心って言うしな、一年もすりゃ言葉なんて覚えるぜ。髪の色かい?目の色かい?肌の色かい?関係ねえだろ、正しいことをしてるんならよ?」
再び、京子の手が美沙の肩を突き飛ばす。美沙は軽くよろめいてあとずさり、二人の身体の位置は完全に、最初と逆に入れ替わった。
「この戦争はまちがっている、とおまえ、クリスに言ったそうだな」京子の声は、聞く者がぞっとするほど暗く沈んできていた。「そんなら、なぜ、ここに来たんだ?徴兵拒否もせず、カナダにも逃げず?今からだって、間に合うだろう。戦うことを拒否すりゃいいんだ。どっかの大隊じゃな、納得できないからってんで上官の命令を拒否した兵士が、この間、ヘリにさかさにつるされてジャングルの上をひきずり回されて死んだそうだよ。おまえも、そこまでなぜしない?そこまでやったら、認めてやるぜ」

「し、信じられない──」舞台の袖で、細いのどをつかんで優子があえいだ。「あれって皆、アドリブですか?」
「知らんよ。きっと何かの霊が乗り移ったんだろ」さつきがやけ半分の声を出す。
「や、やめてください───」朝子はぶるぶる震えている。
さつきはふりむき、柱によりかかったまま、爪をかみつづけている遼子を見た。「那須野さん、どう思う?」
舞台の上に目をそそいだまま、遼子は小さく首を振る。「わかりません。ただ、───こうやって見てる限りじゃ、南条さんもまだわかっていませんね。朝倉さんがどうしてこんなことしてるのか」
「何か、わけがあるのですわ」日村通子も、じっと舞台の二人に目を注いだまま、つぶやいた。「どうして朝倉さんは、さっきから南条さんを突き飛ばして、二人の位置を入れ替えようとしていらっしゃるのかしら。それがわかればいいのですけど───」
京子の声が続いていた。
「エリアス、おまえはクリスを混乱させている。あいつを迷わせ、おまえと同じ、中途半端なできそこないにさせようとしてる。どんな汚い戦いでもな、始めたからには勝つしかねえんだ。いや、戦いは皆、汚い。きれいな戦い、正しい戦い───そんなものは、この世には存在しない。おまえは、それが、ここにはないが、どこかにはあるってなふりをして、クリスに戦いってものがほんとはどんなものなのかを、わからなくさせちまってるんだよ。残酷なことをしなきゃ勝てない。手を汚さなきゃ生きていけない。そんな現実をごまかして、戦争も、この世も、美化しちまってる。あいつに、よく思われたいばっかりにな。自分の中途半端さを、あいつに見破られたくないばっかりにな」
京子のせりふもさることながら、その声にこめられたいいようもない暗い絶望と、何に向けられているともつかない憎しみの強さとに、客席は凍りついた。観客の中には、両手で自分を抱くように、腕を抱え込んで、震えをとめている生徒が何人もいた。 「これって、朝倉さんじゃない──」友人と手をとりあっていた少女の一人が、うめくように、小さくつぶやいた。
「演技とは、思えないわ!」先生の一人が両手で口をおさえた。「この子、ほんとに何かに絶望してるとしか───」
「───おれは、親切な人間だ」京子はまた、低い笑い声をたてた。「だから、いいか───おまえがクリスに見破られない前に、今、ここで殺してやる。死んで、クリスの英雄になれよ。望むところだろうが?」
二人は今、舞台のかなり奥まで来ている。ちょうど最初に、美沙が立っていたあたりに近い。そして、京子の頭がこのとき、客席からではわからないほど小さく舞台の奥の方に振られ、目も何回もそちらに動いた。つられて、そちらに目をやった美沙が、突然ぎょっとした顔になり、とっさに舞台の前方へ飛び出そうとして京子にひきとめられる。
さつきと遼子は顔を見合せ、どちらもさっと立ち上がる。同時に通子も顔を上げた。
「舞台の奥に、何かがいますわ───」

息せき切って幕の後ろを移動して、舞台の奥をのぞきこんだ少女たちは、そのまま立ち止まり、たじたじとあとずさった。
舞台からそちらへ飛び込んで来る者が怪我をしないようにと、重ねておいてあるマットレスの上に、茶色と黄色の縞模様の蛇が一匹、とぐろをまいて、赤い舌をちろちろと動かしている。
息を呑んで見つめる少女たちの目の前で、とぐろをほどいて蛇はゆっくり移動した。だが、マットレスの周囲は壁や道具でさえぎられているのと、そこが気持ちいいせいか、遠くへは行こうとせず、またもとの位置に戻った。かなり前からずっと、このあたりをはいまわっていたのにちがいなかった。最初の予定どおりに美沙が撃たれてこちらに倒れ込んできていたら、まずまちがいなくかまれていたろう。
「冗談にも、ほどがある!」さつきは烈火の如くに怒った。「悪霊だろうと人間だろうと、こんなことして、どうするか、見てろ!」  「怒るのはあとです、美尾さん」遼子が、さつきの腕をつかんだ。「早く何とかしなければ、朝倉さんのアドリブにだって限界があります」
「あれ、まむしですか?」眉美がおそるおそる聞く。
「わからん。色は似てるけど。頭が三角かどうかもよく見えないし」さつきは途方にくれた。「まいったなあ。そういうことの一番よくわかる美沙が今、舞台の上なんだよ」
「変におどかして、どっかに逃げ込まれても困るし───」朝子が手をもみしぼる。
「とにかく、何か、袋と棒を!演劇部員でも誰でもいいから、そのへんにいる人つかまえて、さがして持って来させなさい!」
眉美がうなずき、かけ出して行った。

「今更じたばたすんなよ。往生際が悪いぜ。落ちつけよ」蛇に気づいて思わず舞台の前方に、とびすさりかけた美沙の腕をしっかりつかんでひきとめながら、京子が冷たい沈んだ声で、特に最後の一言に力をこめて言った。
ようやく美沙が立ち止まる。京子を見つめる目の色に、少しずつ、納得がいったという表情があらわれてきて、ほとんど目を伏せるだけのようにして小さく彼女はうなずいた。それを確かめた京子が、ゆっくり銃を持ち直し、美沙の胸に向けた。
「───おれが今、言ったことに何か文句でもあるかい?だったら言いなよ。聞こうじゃねえか」
銃口の先が狙いをつけなおすように、小さく円を描いて回った。
「それとも、黙って殺されるかい?」
また、長い沈黙があった。
さすがに観客たちが異様なものを感じたのか、ざわめきが起こりかけたその直前、美沙が、はりつめていた力を抜くように、長い吐息をついた。
「おまえなら、できるだろうな───」彼女は言った。
客席がたちまち、またしんとなる。美沙はひとり言のように、つづけた。
「そうだな。おまえならできるだろうな。クリスも、できるだろう。それが正しいと思ったら、脱走もするし、あっちに───」美沙はかすかなあこがれと恐れとをこめたしぐさで、森の向こうの方に手を振った。「あいつらの───敵の方に行って、おれたちと戦うだろう。それがどんなに苦しくても、そうすべきだと思ったらな。おまえは、そういう人間だ。そうできなくても、そうしようとする人間だ」
かすかに首を振って、美沙は足をふみかえる。動かないままのライトの中で、彼女の影が舞台にゆれた。
「おれには、そこまでやれないんだよ。そんな勇気や、確信はないから。漠然と、思ってるだけさ───この戦いは、まちがってると。だが、そこからのぬけだし方がわからない。だからと言って、おまえのように───正しいことができなかったからと言って、正しい側につけなかったからと言って、今、何をしたらいいのかわからないまま、ずるずる毎日すごしてるからと言って、だからと言ってだな、───それで、何もかも投げてしまって、人間らしさを失ってしまおうとまで思いつめるっていうほどには、これがまた、おれはまじめになれないんだよ」
美沙はまた、小さく吐息をつき、その目はじっと、京子に注がれたままだった。
「正しいことをつらぬけないからって言って、おまえは自分に怒ってる。自分を許すまいとしている。おまえをかりたてているのは、敵への憎しみなんかじゃない。自分に対する憎しみだろう?やめろよな──そうやって自分を追いつめるのは。中途半端になれよ。五十歩と百歩はちがうんだって思えよ。一度や二度、三度や四度、残酷なことをしても、女や子どもを殺しても、五度目にやらなきゃいいんだろうが。六度目にやっても、七度目にはしないとか、いろいろあるさ、人間らしさを守る方法なんて、人間の数だけな」
どこかうつろで、何かをあきらめているようなおだやかさがただよっているにもかかわらず、美沙の声には、今、まぎれもない静かな熱さがこもりはじめていた。それは、広げた両腕で何もかもをすっぽりと包み込んでしまうかのような、深い、強い、いたわりと愛情だった。その地熱のような暖かさは、美沙の一言一言とともに、ひとりでに会場に広がってゆき、人々のひとりひとりをおおいつくし、身体のしんからひたひたと、ぬくもりで満たすようだった。
「大地の女神マ-ファってあだ名は、本当にだてじゃないな──」舞台の袖で、壁によりかかったまま、峯竜子が目を閉じて、誰にも聞こえないほどの小さな声でつぶやいた。 美沙の声は、つづいていた。
「おまえは、前を向いているのが好きだから、ふんばっていられなくて、ずるずるあとずさりはじめると、めざしているのはこっちだってふりをして、後ろ向きになっちまう。そして、もともと行きたくもなかった方へ、まっしぐらに進んじまう。なあ──そういうのは、まずいって。みっともなくても、気分悪くてもいいから、押し流されて、ずるずるさがって行く時でも、顔はちゃんと行きたい方に向けとけよ。そして、なるべく、少しずつ、少しずつ、あとずさろうぜ。この戦争は、そういう戦争だ。生きてくってのも、そういうことだ」  舞台でも、客席でも、再び時間がとまったようだ。通路まで座っている客がいるとは信じられないぐらい、完全な静寂が客席を満たしている。
そして、京子も、ここが舞台の上であることを完全に忘れてしまったかのように、まじまじと美沙の顔を見つめたままで動かない。
そんな京子に今度は美沙があせったように、客席に見えないように何度も激しく目配せし、身体のわきにたらした片手の親指で舞台の奥を指さして見せた。
ようやく我に返った京子が、目だけを動かし、そちらを見る。
幕のかげで、さつき、眉美、遼子たちが、必死になって両手や指で、大小さまざまの大丈夫というしるしの丸を作っている。手招きしている者もいる。朝子は白い紙に大急ぎで描いたらしい下手なイラストを高くかかげていた。四角い箱の中に紐が入っているような絵だ。どうやら蛇は無事つかまえて、箱に入れたということらしい。
京子が美沙に目を戻すと同時に、美沙が京子の肩に手をかけようとした。「バ-ンズ。クリスに───」
「やかましいっ!!」
声を限りに京子が叫んで、力いっぱい美沙を舞台の奥へつきとばしたとたん、ライトが一気にすべて消え、ホ-ルは闇に沈んだ。その中に激しい銃声がひびき、いつまでもひびきつづける。
客席はまだ、水をうったような静けさのままだ。暗がりの中で観客は一人残らず息をのみ、目をこらして舞台を見つめつづけていた。

「あ-あ、もう、一時はどうなることかと!」
美尾さつきは戦闘服のまま部室のソファ-に身を投げて、長々とのびてうめいていた。 「いくらあたしが冒険好きといったって、一晩にこれだけあったら、もう限界だ、もう死んだ~!」
「ほら、美尾さんったら、そんなこと言ってる場合じゃありません」那須野遼子が、ホセの衣装の軍服のボタンをとめながら、荒々しくさつきの腕をつかんで、ソファ-からひきずりおこした。「まだ、おわっちゃいませんよ。そろそろファンが花束持って押しかけてきます。時間が延長した分、おわるのが遅くなって、ホ-ルじゃゆっくり皆の応対できなかったかわりに、部室で交流会しますからって、朝倉部長があいさつしちゃったんだから。早く起きて、闘牛士の衣装に着替えて、にっこり笑う準備をして下さい!」
「ああもう!」さつきは小さい子どものように、泣きそうな顔をしかめて、こぶしで目をこすりながら起き直り、部室の中をあわただしく行き来している部員たちをながめて深いため息をつくと、優子と朱実が両側から着せかける金ぴかの上着に、ふしょうぶしょうに腕をとおした。「もう、京子ったら何で、そんなあいさつしちゃったの~!?どうして皆に、とっとと帰れ、あたしたち、これから全員、ばったり倒れて死ぬんだからって、言ってやらなかったのよ!?」
「そんなんで、客が承知するわけないでしょうが?カ-テンコ-ルを二回で切ったときには、ホ-ルで暴動が起こるんじゃないかと思ったぐらいだったんだから。同窓会のおばさんたちが二人ほど、椅子の上に立ち上がって拍手してたの見ましたか?一人はすっごく太ってたから、椅子がこわれないか心配でしたけどね」遼子はあたりを見回した。「司!この皿は何?かたづけちゃっていいの?」
「あ、それ、さっきまで南条さんが蛇にミルクを飲ませてたんです」頭に巻いたバンダナもまだそのままに、くるくる飛び回ってパ-ティ-会場を作っていた司は、振り向きざま元気よく答えた。「すぐ片づけます、待ってて下さい!」
「結局、まむしじゃなかったんですね」朱実が、さつきの髪をまとめて、首すじで結んでやりながら言う。
「うん。ころがりこんできた美沙が、とんぼがえりうって起きなおって、かごの中の蛇を見るなり笑いだして、『あ-あ、近くで見たらすぐにわかったのになあ。まむしなんかじゃないわよ、これ』って言って、ひょいと首にまきつけて連れて行ったときにはもう、全身の力がぬけたよ」さつきはぼやいた。「あの人ったら、カ-テンコ-ルの時も、あの蛇ずっと軍服の胸に入れてたんだからね。『あ~、冷たくて気持ちがいい、汗がすうっとひいちゃうみたい』なんて言ってさ。そのあとも、ここでずっと手に巻いて、ミルク飲ませて人指し指で蛇の頭なでながら、『おまえに口がきけたらね。誰があんな危ないところに、おまえを連れ込んでおきざりにしたのか、きっと教えてくれるのに』なんて話しかけて、もう、観点が蛇の視点からもの見てるんだもんな~。しばらくそうしてかわいがってたけど、あたしが険悪な目でにらんでたもんで、『果樹園に放してくるわ』って、さっき持っていっちゃった。あんな人騒がせなバカ蛇、ジャコポが食べてしまえばいい!」
「で、南条さんはそれっきり?」遼子はカリカリした。「あの人も早いとこ、カルメンの衣装に着替えてもらわないと困るのに!」
「あの人の場合、エリアスのかっこうのままの方がいいんじゃないの?」新名朱実が言った。「いざとなったら、軍服のままで『ハバネラ』踊ってもらったらいい」
「───皆が来ます!」司が低い声で叫んだ。
階段の方から、どやどやと人声がして、何人かは卒業生もまじった大勢の少女たちが、わっと部室に入って来た。大きなピンクのばらの花束をかかえて、まっ先に進んだのは、あいかわらずころころ太った早川雪江だ。花束が大きすぎて前が見えなかったのか、どさんと前のめりにころんで、一瞬、皆がしんとする。腕を白い布でつったままの奈々子が、身体をかがめて起こしてやると、雪江は顔をかがやかせて、少しひしゃげた花束を奈々子にさし出した。
「お──お見舞いに行けなくて、ごめんなさい!こ、これっ、今日の公演成功のお祝いです!」
「まあ───」
奈々子はけがをした腕を、わざとのように痛そうにかばいながら、ぎごちなく片手でそっと花束を抱えて、天使のような美しい笑顔で雪江にほおえみかけた。「こんなことしていただく資格はないのに──あたし───でもうれしいわ───」
喜びに顔を真っ赤にして雪江が引き下がるとともに、他の少女たちがどっと声をあげて演劇部員たちと入り混じりはじめた。

演劇部室は、ごったがえすというよりは、もはや足のふみ場もない。押しかけるファンは次々に増えて、今では皆がくっつきあってほとんど動くこともできない状態だった。二人で向き合い、ジュ-スで乾杯しようとしても、片手を互いの肩につっぱって二人の間に空間を作り、そこでコップをあわせるしかないほどだ。
その人ごみをどうやって押しのけたのか、大きな花柄ス-ツを着た敷島夏子市長が、何かにぎやかにしゃべりながら階段を下りてきた。後ろから氷見学長も続いている。
「演劇部長さんはどこなの?主演の二人はどこ?」市長は選挙演説でおなじみの、やたらあたりによく響くガラガラ声で叫びながら部室の中に押し入ってきて、ちょうどメイクをほぼ落としおえた朝倉京子をつかまえた。
「まあ、ちょっと!あなたがバ-ンズやった人?嘘でしょう!こんなにきれいなお顔だったのね!?それで、もう一人の───あら、あなたね、エリアスの人は?まあ、最高だったわ、二人とも!何てすばらしい演技だったんでしょう。とりわけ、エリアスが殺される前のあのやりとりには、最高にあたくし、感激しましたよ。人間らしさの守り方はいくつでもある───いいわねえ!本当よ!あたくしもね、ご存じのように去年は海浜公園の入札疑惑の件で、いろいろマスコミにたたかれましたけれど、そのくらいのことでめげてはいけないと今日、あらためて強く感じましたわ!」
市長の大声に圧倒されて、へや全体は逆にしんとなっている。峯竜子が立花朝子の耳元に口をつけて、ささやいた。
「あの人、何か根本的にまちがえてないか?」
「あたしも、そう思います」朝子もひそひそ、ささやき返した。
「あなたたちは、この藻波市の誇りよ!」市長は太った両腕で、京子と美沙を抱きしめた。「今年の全国演劇祭でも、ぜひ立派な成績を───いえいえ、そんなこと言っては失礼ね。もちろん、優勝するに決まっているわ!」
京子と美沙は顔を見合わせた。ん?という顔で市長が二人の顔をのぞきこむ。
「私たち、今年は出られないんです」美沙が言った。
「え~っ!何で?また、何でなの?氷見先生、また、どうしてですの?」市長は目を丸くして氷見学長の方にふりむく。
氷見先生は、せきばらいした。「四月に、練習中の事故があって、その関係で今、謹慎中なものですから」
「まあ、そんな!氷見先生、どんな事情がおありか知らないですけれど、ここは学長裁量であなた、ぜひ一つ、処分をといてあげて下さいな!あたくしからも、お願いしますから!」市長は香水と、濃い化粧の匂いをあたりにただよわせながら、広い手のひらで氷見先生の背中をばしばしどやしつけた。「ほらほらほら、皆さんも、学長先生にお願いしなさい!」
「お願いしま~す!」向こうの方から、新名朱実と峯竜子が大きい声で叫んだ。
「お願いします!」回りの少女たちもいっせいに頭を下げる。
「え、そうですね───それはもう───市長のおっしゃることとあれば───」氷見先生は苦笑して、部員たちを見回した。「今夜の劇はたしかに私も感動しましたし───こんなに皆さんたちががんばられたことでもあるから、そのことについては前向きに検討───」
氷見先生のあとの言葉は、「え-っ!」というざわめきと、つづいて上がった歓声にかき消された。「やったあ!」「万才!」の声があちこちで上がり、たちまち廊下にまで広がってゆく。京子は静かに一礼しただけ、美沙も落ちついた表情だったが、部員たちよりむしろファンの少女たちの方が、皆抱き合い、飛び上がって喜んでいた。
「氷見先生───」低い声が呼んだ。
市長と学長が振り向く。少女たちをかきわけて、へやに入ってきていたのは小石川ナンシ-と細川詩子先生だった。
「どうかしましたか?」氷見先生が、けげんそうに聞いた。
「演劇部の処分について再検討なさるのでしたら、その前に、この資料をごらんになって下さい」細川先生がそう言って、うすいファイルを差し出した。
「何ですの、これは?」うけとりながら氷見先生が軽く眉をひそめる。
「このひと月の間に演劇部が、練習中に起こした事故と、規則違反の、公になっていない分の記録です」細川先生は眼鏡をかけ直して、腕を組んだ。「銃の暴発事件。ゲ-ムセンタ-での事故。今日は停学中の生徒が一人来ていました。上演中に上半身裸になっていた者がいました。それから、これはまだ未確認ですが、劇の間に舞台の上を、まむしが一ぴき、はいまわっていたそうです」

氷見先生はファイルをうけとったものの、手に持ったまままだ開けず、困ったような顔をしている。
細川先生は静かに京子の方を向いた。
「それとも、朝倉さん。演劇部長の名にかけて、これらの事故や規則違反が皆嘘だと、あなたは断言できますか?どうなの?」
京子は無表情で細川先生を見返し、それから氷見先生の方に向き直ると、「失礼いたします」と言いながら、先生の手のファイルをゆっくりと取った。
誰もが魅入られたように呆然と見守る中、京子はファイルを開き、最初のペ-ジに目を落とした。
「全部まとめて、言うのですか?ひとつずつ、確認して行きますか?」
落ち着いた声だった。だが、細川先生がまだ何も答えない内、誰かの手が伸びて、京子の手からさっとファイルを抜き取った。
美尾さつきだった。
彼女はファイルをぱたんと閉じると、それを細川先生にさし出した。
「どうぞこれを持って、おひきとりください。ここに書いてあることは全部、本当ですから」
さつきにこんな声が出せたのかと皆が唖然としたほどに、その声は冷たく鋭い。市長と学長の方にふりかえって、彼女はつづけた。
「市長、おことばはありがとうございました。氷見先生、お心遣いに感謝いたします。けれど、今お聞きになったとおりの事情ですので、処分を取り消していただく必要はございません。わざわざお越しいただきまして、本日はどうもありがとうございました」  彼女は静かに一礼した。
間が悪そうにあいまいにうなずいて、氷見先生は市長をうながし、へやを出て行く。細川先生も、その後につづいた。
「───小石川さん」最後にへやを出て行こうとしたナンシ-の背後から、さつきが声をかけた。
ナンシ-が振り向く。さつきは彼女をじっと見た。
「あなたの調査能力には、敬意を表する」微笑して、さつきは言った。
ナンシ-は笑わない。警戒するように黙って、さつきを見返している。
「けれど、言っておくわ」さつきは微笑したまま、つづけた。「これ以後、こそこそ私たちの回りをスパイするなら、私たちも、生徒会と新聞部のことを、とことん調べ上げるわよ。たたけば、ほこりの出ない場所なんかどこにもないってことぐらい、あなたが一番よく知っているでしょう。ありとあらゆる手段を使って、徹底的に学院中を洗いあげて、探しぬいて、あなたを失脚させる材料を、ひとつのこらず集めてやる。いいこと、私は、すると言ったことは必ずするわよ。よく、覚えておきなさい。もう二度と、あなたにこんなことはさせない」
二人はしばらく黙ってにらみあっていた。やがてナンシ-が軽く肩をすくめると、目をそらし、そのままへやを出て行った。
さつきは、どさりとそばのソファ-に身体を投げ出すように座る。ナンシ-の消えて行った方を見ながら、京子がそっとさつきの肩に手をおいた。
「───だめよ、さつき」京子はよほどよく彼女を知っている人が、それも注意深く聞かなければわからないぐらい、かすかに笑いのこもる、暖かい声で言った。「せっかく私が、少しずつ、ずるずるあとずさって見せてあげようと思っていたのに」
「いいんですいいんです」組み合わせた両腕の上に顔を伏せたまま、さつきはかたくなに首を左右に振った。「あなたにそんなことさせられません。あなたにそんなことさせられません!」
「───私がいつも、言ってるじゃないの」そばに立っていた美沙が、さつきを見下ろしてク-ルな声で言った。「あたしたち三人の中で、この人が一番バカなんだって」
京子は今度ははっきり苦笑し、さつきの肩に手をおいたまま、へや中にぎっしり立ってこちらを見ている少女たちを見回した。
「皆さん。お聞きになったとおりです」人前で話し慣れている人の、はっきりと落ちついた口調で彼女は言った。「ぬか喜びさせて本当に申し訳ありません。これでまた、ふりだしに戻ったわけですけれど、私たちはあきらめないで、処分が取り消されるように今後も努力していきますので、どうぞこれからも、力を貸して───」
「ちがうわよ!」
突然、さつきが荒々しく京子の手を肩からはねのけ、立ち上がった。
驚いて見つめる京子と美沙には目もくれず、ほとんど後ろ向きのまま、さつきは、かたわらのテ-ブルの上に躍り上がった。
「ちがうわよ!」彼女は皆を見回して叫んだ。「処分なんて、もうどうでもいいわ!そんなもの、永遠に取り消しにならなくてもかまわない!塔のへやになんか、戻らなくていい!全国大会になんか出なくっていい!ここで、この地下室で、私たちは最高のものを作る!世界に通じる仕事をする!それを、この学院の生徒に与える!明日からもう、毎日、毎日、学内のあらゆるところで公演するわよ!あらゆる劇を、最高のかたちで!全校生徒をひとり残らずファンにして、学内の話題を朝から晩まで独占するわ!皆さん───皆さん、そのために力を貸して!私たちの劇を見に来て!話題にして!」
一人二人を誘惑するなら、あるいはさつきは、遼子や奈々子に劣るかもしれない。しかし、集団への呼びかけとなると、その力はまさに爆弾なみだった。その声とまなざしは、一瞬の間にへや中に電流を流し、空気を染めかえ、陶然と人を酔わせた。たちまち、叫び声が起こった。
「まかしといて、さつき!」
「必ず見に行くよっ!」
「最高よ、オニ-ル!」
「エスカミリオ、万才!」
少女たちは夢中になって、声を限りに口々に叫ぶ。花束や、コップを持つ手が高くあがってふりまわされた。新名朱実と村上セイが笑いながらスイッチを押した、「カルメン」の中でさつきが歌った「闘牛士の歌」のテ-プが、その少女たちの声にからまって、ぞくぞくするような、はずんだ前奏を奏ではじめる。それに気づいて、きゃあっという少女たちの歓声がいくつかはじける中、さつきの明るいなめらかな歌声がひびきはじめた。
乾杯のお返しを あなたがたに送ろう!
私たちは 皆仲間
戦うこと それが生きがい
へや中にぎっしりとつまった少女たちの熱狂は頂点に達した。興奮と熱気で、あたりは息苦しいほどだ。テ-ブルに近づけない少女たちが、せいいっぱいにさしのべる手が、波をうって前後左右にゆれている。
今日は日曜日 広場へ出かけよう
命かけた 戦いが
くりひろげられる その場所へ
呆然と顔を見合わせながら、人に押されて壁際まで下がった京子と美沙は、ふと斜め向こうの壁際の、積み上げられたボ-ル箱の山の上に、迷彩服姿のまま長々とねそべっている堀之内千代に気づいた。二人と目が合うと千代は、ご愁傷さまですとでもいいたげに、十字を切って、両手をあわせた。
さつきの歌声がつづいている。
おそいかかる牛が 仲間をたおし
土煙が 血しぶきが
あたりを染めても ひるむまい
ひとりここに残り 剣をかまえて待とう
見つめている 黒いひとみ
恋がはじまる 予感がする!
少女たちの大合唱が、地下室をゆるがした。
トレアドル 身構えろ
トレアドル トレアドル
叫び声が どよめきが
広場を 満たして
命かけた 戦い
今 はじまる!

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