小説「散文家たち」第2章 地下室

和美、元気ですか?そっちの学校にはもうなれた?
私さ、今日何だかとてもすごいもの見ちゃったみたい。
前の手紙でも書いたけど、この麗泉高校の演劇部って、すごい美形やエリ-トが集まっ てて、生徒会とかそういうやつの役員なんかも全部かねてて、先生たちも手が出せないく らい、すっごい力を持ってたんだよ。
でも何かよく理由はわかんないんだけど(練習中に事故があって、けが人も出たとか何 とか)それで、いろんな特権を一度に全部とりあげられて、今までいた部室も追い出され ることになっちゃったんだって。
この、部室ってのがまたすごいんだから。私の入ったSF愛好会とかに比べたら、「え -、こんなんでおんなじ部室って言っていいの~っ!」とか何とかちょっと言いたくなっ ちゃうぐらい、超々々チョ-ぜいたく。校舎の本館の中心になる時計塔の三階にあって( 職員室より学長先生の部屋より上にあるんだよ~!)、三へやつづきで、広いし明るいし 窓からは海がずうっと遠くまで見えるしさ。冷暖房はもちろんばっちし完備。
一番大きいへやは、ほんとは生徒会のへやなんだけど演劇部がいっしょに使ってしまっ てたんだよね。先輩にいっぺんだけ見に連れて行ってもらったんだけど、へやのまんなか にまっ白い丸い大きなテ-ブルがあって、うすみどり色と黄色の蘭の花がほりこんであっ て、めちゃくちゃきれいでした。この学校じゃ、生徒会とサ-クル会議と寮委員会が生徒 の代表として同じ力を持っているんだけど、その三つの会の代表が毎週ここで話し合いを するの。円卓会議って言うんだって。生徒会のマ-クはユリと蘭、サ-クル会議はバラと 蘭、寮委員会はスミレと蘭で、それぞれの役員は皆そのマ-クをデザインしたバッジを制 服の襟につけてるの。何かめちゃくちゃカッコいいと思わない?
それで、その三つの会の代表が話し合う会のことを「蘭の会」って言うんだけど、この 前まではそれがほぼ全員、演劇部員だったわけ。だけど、今度のこの事件でその人たちは 一人残らず、その役員からもおろされたわけ。
今日見たすごいことっていうのは、この演劇部の「おひっこし風景」てやつ。もう、十 年以上も前から住んでた、住み心地最高の「塔のへや」を追い出されて、図書館かどっか の地下の汚いせまいへやに部室を移ることになって、その最後の期限の日が今日だったっ てわけ。「ね-、見に行こうよ、こんなのって十年に一回あるかないかの大イベントよ~ 」なんてクラスの皆が言うからさあ、人の不幸を見物するのも何かちょっとな-とか一応 は思ったんだけど、結局は私も見に行ってしまったんでした。
私たちみたいなやつは結構多いみたいで、塔のへやの前の階段や廊下は女の子たちでい っぱいでした。「わ~、取材カメラがないのが何か不思議な気がする~」なんて言ってた バカもいたりしてさ。
今日は土曜だったけど、もう夕方近くなってからやっと、「塔のへや」のドアが開いて 部員の人たちが最後の荷物をそれぞれ抱えて階段を下りて行きました。最初にバンとドア 開けて出て来たのは、小さくてかわいいけど、すっごいスタイルのいい、おしゃれな感じ の子で、集まってる女の子たちを見回して「何よ、これ?見世物じゃないわよ!」って怒 ってました。上月奈々子さんっていう二年生の人だって、あとで聞きました。体操選手で 身が軽くて、けんかも相当強いんだって。
他にもきれいな人がいっぱいいて、見ているだけでわくわくしてきちゃいました。中に はそんなでもないかな-っていう顔の人とか、はっきり言って太ってみっともない人とか もいるんですけど、それでも何だか普通の人とは違って見えるカッコよさがあるんだよ、 何でかな~?
でも、何といってももうすごいのは、最後に出てきた三人です。生徒会長だった演劇部 長の朝倉京子さん、サ-クル会議議長だった美尾さつきさん、寮委員長だった南条美沙さ ん、この三人!
皆、一年の時から演劇部の花形だったんだって。この学校じゃ、四月に新入生歓迎公演 として、入部したばっかりの新入生を一人か二人主役にしたみたいな劇をやるんだけど、 それでいきなり、シェイクスピアの「ジュリアス・シ-ザ-」やってさあ、私もちろんそ んなもん、読んでないから知らないけど、南条さんがロ-マの支配者のジュリアス・シ- ザ-、朝倉さんがシ-ザ-を殺すまじめな政治家のブル-タス、美尾さんがシ-ザ-の忠 臣でブル-タスをやっつけて仇をとるアントニ-で、それはもう目がさめるみたいな名演 技だったって、三人とも。その後も、「オセロ」とか「キャメロット」とか「ジ-ザス・ クライスト・ス-パ-スタ-」とか、次々三人で主役やって、全国大会でも入賞したし、 学内での人気もすごかったって。
私と同室の武田さんは「ジ-ザス・」と「オセロ」を見ていて、南条さんのマグダラの マリアとか、朝倉さんのデズデモ-ナとか、美尾さんのイア-ゴ-とか(そう言われても 私にはどんな役なのか全然わからないってのがつらいけど)、今でも時々夢に見るんだっ て言ってます。
次に「塔のへや」に入ることになってる新聞部の人たちに、へやのカギをあげなくちゃ ならなかったみたいで、三人は出て来てしばらく、ドアのそばの廊下に並んで立ってまし た。それがもう、そうやって立ってるだけで三人とも絵になっちゃうんだから!これまで 三人を一人とか二人づつ、食堂やグラウンドや図書館で見るたびに、カッコいいなあって ちらちら見とれてたんだけど、三人がいっぺんに並んでしまうと、もう本当にそれこそジ ャ-ン!って感じかな、それも長いことじっと見ていられるなんて初めてだもん、何かも う頭がくらくらして息がつまりそうになっちゃいました。「あ~、もう幸せ~」とか「素 敵~、死んでもいい~」なんて言ってる子も回りにいたけど、私はそこまでは思わなかっ たけど、その子たちのことバカとは思わなかったです。
朝倉さんは、いつもそうなんだけど制服をほんとに「一分のすきもない」って感じでき ちっと着て、本をたくさん入れたボ-ル箱を足もとにおいていました。まるで彫刻みたい に姿勢がよくて、きりっとまじめそうな顔は、ただもう「清らか~」としか言いようがな い。美尾さんは、大きなトランク下げて、舞台衣装と思うけど男ものの大きな黒いコ-ト を肩からひっかけて、ギャングがかぶるみたいなソフト帽を頭にのせて、だらしなく壁に よっかかっていました。足が長くて肩幅とかけっこう広いから、こんなかっこうするとめ ちゃくちゃ似合うんです。南条さんは洗いざらしのオ-バ-オ-ルのジ-ンズはいて、や っぱり舞台用らしい麦わら帽子かぶって、藤のバスケット抱えてました。朝倉さんや美尾 さんに比べると目立たないようだけど、南条さんて二人にない色っぽさがあるんです。清 潔そうで素朴そうなくせに。それと、いつでも本当にあたたかい優しい目をしているの。 それが今日も全然変わっていなかったので何だかすごく、ほっとしました。
待ってる間に南条さんが、ドアのノブにちょっとさわって「さようなら、なつかしい私 の夢の家よ」と言うと、美尾さんが肩をすくめて「おお、トロイアよ、トロイアよ」って 言い、すぐに続けて朝倉さんが「都の内にていかようにもなりはてんとこそ思いしに」っ て言って、三人で笑ってました。何言ってんのかわかんなかったけど、カッコよかったで す。
とうとう、新聞部の小石川ナンシ-さんと細川先生が階段を上がってきて、朝倉さんか らカギをうけとりました。二人は朝倉さんたちに何かいろいろ注意をしていたみたいでし た。朝倉さんと南条さんはまじめに聞いていたけれど、美尾さんは最後におじぎをして階 段を下りて行く時、小石川さんたちの方を見上げて「ごきげんよう、ミンチン先生、アメ リア先生」と言って手をふりました。回りの女の子たちがいっぺんに大笑いして、へやに 入りかけていた小石川さんたちは、何言われたかよく聞こえなかったらしいけど、それで もムカッとした顔してました。
演劇部はこれからどうなるんだろう?今、校内ではどこに行っても、もうその話題でも ちきりです。
和美にはあんまり興味のないこと書いたかな、ごめんなさい。でも、きっとまた書いち ゃうと思う!がまんして読んでよね!
洋子より
和美へ

京子、さつき、美沙の三人が、二人並んでやっと通れる、図書館の地下へ通ずる狭くて 暗い階段を下りて行くと、同じぐらい狭くて暗くて長い廊下の両側に、大きい荷物を足元 においたままの演劇部員たち十数人が、悄然として座り込んでいた。天井の明かりも薄暗 く、蛍光灯が一本、ついたり消えたり、またたいている。
「ちょっとまあ何よ、皆、その顔は?」さつきがコ-トの腕を組んだ指先で、頭からと ったソフト帽をくるくる回しながら、あきれたような大声を出した。「地雷源の上に降下 する直前のパラシュ-ト部隊みたいだわ。そうやって両側にずらっと並んで不景気な顔し てるところと言ったら!」
「我らが地下帝国にようこそ、ってドワ-フ音頭か何か踊ってお出迎えすりゃよかった わけ?」上月奈々子のカリカリ怒っている声が、薄暗がりの中から響いてきた。
「それで、我らがうるわしの新天地はどこにあるの?」美沙がいつものおっとりした声 でたずねる。
「多分、このドアじゃないかと思うんですけど」廊下の奥で新名朱実が立ち上がった。 「カギがかかっているんですよ」
「ボロッちいドアだから、蹴破ってもよかったんですがね」那須野遼子の声がした。「 ひょっとして南条さんたちがカギを貰って来るかもしれんって思ったもんですから」
「貰って来たわよ」さつきがコ-トのポケットからカギを取り出した。「ほら・・・」
「投げないで、こっちに持って来てください」遼子が言った。「こう暗くっちゃ、落と しでもしたら最後、カギは二度とは見つかりませんよ」
のろのろと立ち上がった少女たちと荷物の間をかきわけて、ようやくさつきは廊下のつ きあたりのドアの前まで行き、朱実にカギを手渡した。朱実がすぐに振り向いて、目の前 のドアの鍵穴に鍵を入れる。かちゃり、とかすかな音をたててドアが開いた。朱実が片手 でドアを押すと、押されるままにドアは内側へと開いて行った。
中はまるで、洞穴のように真っ暗である。
「たいまつでもあるといいのに」さつきは口の中でののしり、手をドアの内側に入れて 電気のスイッチをさぐった。「これかな?」
とたんにぱっと、へやの中に黄ばんだ光がいっぱいにあふれた。さつきと美沙がゆっく りと回りを見回しながら中に踏み込み、遼子と朱実がそれにつづく。他の少女たちもおそ るおそる入ってきて、やがて狭いへやの中はいっぱいになった。
さつきがあたりを見回して大きく首を振る。
「カギかけておくほどのへやじゃないわね」彼女は言った。

入る者の気持ちを落ち込ませようと思ったら、そのへやほどふさわしいへやは、この世 にあまりなかったろう。
十数人の演劇部員が入っただけで、もうぎゅうぎゅうになりそうな狭さだった。もっと もそれは一つには、へやの周囲にがらくたのような家具の数々が、実際のがらくたとまじ りあって、所狭しと積み上げられていたせいもある。
ガラスの割れた本棚、板のはげた机、中身のはみ出たソファ-、・・それらがいくつも 重なり合い、紙屑や折れたほうきや、ぼろぼろになった布などと乱雑にからまりあってい た。その上にぶあつく埃が積もり、くもの巣がいたるところにかかっている。その向こう に見える壁は、もとの色が何色だったかわからないほどにすすけて黄ばみ、あちこちが大 きくはがれて崩れ落ち、壁土があらわになっていた。天井はしみだらけで水もれのあとが 全体に奇妙な地図のようなかたちを描いている。裸電球が五つほどぶらさがっているが、 ついているのは今のところ二つだけだった。床のタイルはなかば以上がはがれてなくなり 黒ずんで埃のしまがしみついた土台がむきだしになっている。
周囲に窓はひとつもない。天井近くに昔スト-ブを使った時の名残らしい丸い黒い穴が ひとつぽっかりとあいていて、ふさごうとして貼った紙がぼろぼろになってたれさがって いた。
抱えた荷物を下ろすのも忘れて、少女たちはしばらく呆然と黙ったまま、へやの中を見 回していた。
「ひどい・・」おとなしくて気の弱い二年生の緑川優子が、今にも泣きだしそうな小さ い声でつぶやいた。
「ばっかにしてるわ!」上月奈々子がののしった。「ほんとにここなの?」
「ちがうと言いたいけど、カギが開いたもんなあ」朱実が情けなさそうに手の中のカギ を見つめる。
「すご-い・・」浅見司が吐息をついた。
両隣にいた美沙とさつきが思わず司の顔を見たのは、その声とため息がどう考えても悲 しい調子を帯びてはいなかったからだ。はたして二人の上級生が見た司の顔は、目が生き 生きと輝いて躍り、口もとにはおさえきれない微笑みが今にも浮かび上がって来そうだっ た。
「何かもう、わくわくしちゃう・・・」彼女はあたりを見回しながら、どこか熱にうか されたようなぼうっとした表情でつぶやいた。
今度はもう、皆が司を見た。狭い場所で全員が彼女の方に向き直ったため、いきおい司 は回りをぐるりと取り囲まれたかっこうになる。やや浅黒いがきめの細かい美しい肌と、 澄んでくるくるよく動く目の、明るくはつらつとした顔だち、それほど大柄な方ではない が、ほっそりとしなやかな長い手足が、どこかいたずらっ子の少年を連想させる司は、い つでもはきはき打てば響くように反応して、めったにたじろぐことなどない。しかしさす がにこの時は、どぎまぎした表情になって口ごもった。
「あ、あの、ごめんなさい。あたし、あの、別に全然そんなつもりじゃ・・・」
「そんなつもりもこんなつもりも、どんなつもりか聞きたいよ」峯竜子が持っていた荷 物を床にどしんと落として腕組みした。「わくわくするたあ、どういうことだよ?」
「あたし・・・だから、ほら・・・ごめんなさい、片づけるものがいっぱいあるから、 ・・・すてきだなあって、ちょっとそう思っただけで・・・別に、あの、ここに来たのが うれしいとか、そんなんじゃないの・・・本当よ!」
上級生たちは皆まだ、納得した顔をしていない。竜子が何か言いかけた。だが、その時 にあたりをなごませるようないつもの明るく快い声で南条美沙が笑いだした。
「まったく、司の言う通りだわ」彼女は麦わら帽子を斜めに倒れた机の上に放り投げ、 首に巻いていたスカ-フでてきぱき髪を包みながら、暖かい声で言った。「片づけがいが あるへやよ」
「ファイトがわくね、いっちょうやったるか!」さつきがソフト帽をあみだにかぶり直 して、今にもよじのぼりたそうに本棚の山を見上げる。
「いえ、人数を半分にわけましょうよ」京子がブレザ-の上着を脱いで腕にかけ、ブラ ウスの袖をまくりあげながら、数を確認するようにさっと皆を見渡した。「場所が狭すぎ るからこんなにたくさんいては仕事にならないわ。疲れてる人は荷物をおいて食事に行っ てきてちょうだい。戻って来たら交代しましょう。さつき、あなたどうする?」
「じゃ私は『オリエント急行』で何か食べて来よう。奈々子、あんたもどうせ食事組だ ろ?」
「あったりまえでしょ。昼からずっと片づけしてて、もうおなかがぺこぺこよ!」
「それじゃ帰りにあたしと京子に何か差し入れ買って来て」美沙はもう本棚の山の上に 登りかけている。「お茶は何とかそれまでに、ここで飲めるようにしておくわ。まずは、 どこかに水道の蛇口があるかどうかを確かめなくては」
誰が残るか小声で話し合いながら、少女たちはめいめいの荷物を床におきはじめた。
「村上さんも行こうよ」さつきや奈々子の後について、へやを出ていきかけていた新名 朱実が、同じ二年の村上セイを誘った。
やせて顔色が悪く、髪には白髪がまじり、顔にはいくつか吹き出物が出ている、いつも 病気がちのセイは、しかし笑って首を振った。
「私はあとで行かせてもらうわ。書類の整理をしておきたいの。ねえ、司さん・・・」
セイは、ひっくりかえったソファ-の上によじのぼって、天井近くの積み上げられたロッ カ-のはしにしがみついている司に声をかけた。「悪いけどねえ、コンセントがどこにあ るのか、できるだけ早く見つけてくれる?そして私のノ-トパソコンを置く場所を作って 下さったら、事務関係が整理できるの。このへやにあるもののリストも、へやの図面もす ぐ作成できる」
「まかして下さい!」ロッカ-の上から司の陽気な声が返った。
京子は机の上に上がって天井のくもの巣を、丸めた新聞紙で払い落とし、美沙は他の少 女たちと、ひっくり返った机や椅子を次々もとに戻しはじめている。こわれているのやい ないのや、さまざまな色と形の椅子が重なり合った山を崩すと、汚れて茶色と鼠色になっ ているが、もともとはどうやらピンクと白だったらしいタイルで張られた、けっこう広い 流し台が姿をあらわした。
「きゃっ!」動かしたソファ-の陰から掌ほどもある大きなクモが走り出たので、身体 の大きい色っぽいグラマ-のくせにやたら怖がりの一年生、立花朝子が悲鳴をあげて飛び のいて、他の少女たちが丸めた新聞紙でクモをたたいて殺そうとする。
「おやめなさいな」おっとりと美沙がとめた。「クモなんて、何も悪さはしないのに」
彼女は平気で両手をのばし、クモをすくいあげて手に包むと「逃がしてくるわ」と言い ながら、開け放しのドアから外に出て行った。

「浅見さんって、お掃除が好きなの?」
もう真夜中近かった。へやはかなり片づいてきている。食事に行った連中もほぼ皆戻っ てきていて、周囲のがらくたがさっきより片づいて広くなっているとはいえ、へやの中は 人でいっぱいという感じだった。
たためる机は皆たたまれて、へやの隅につみあげられ、古ぼけた木のロッカ-は横に寝 かされてクッションや布をかけられ、壁際の長椅子のかわりになっている。山ほどあった 本棚は、それぞれ扉をはずされたり横倒しにされたりして、食器棚やロッカ-に変身して いる。残ったまともな本棚には色とりどりのファイルに綴じて整理された書類がずらりと 並び、その前の黄色と青のビニ-ルクロスをかけた小さな机が置かれたコ-ナ-には、村 上セイのパソコン一式とフロッピ-ケ-スの大きな箱が並んでいる。
流しのタイルはあちこち少しひびわれているが、全体は見違えるようにきれいに磨かれ て、ピンクと白の色あせたほのかな色に光っていた。
大きさはちぐはぐだが、高さだけがそろった机の数々が真ん中に寄せ集められて、大き な薄紫と青の布がすっぽりかけられ、しゃれた奇妙なかたちのテ-ブルになっていた。回 りの椅子も皆、クッションの中身がはみ出たり、横木が折れてぐらぐらしたりしているし ろものだったが、数だけは何とかたりていた。
流しにあったガスコンロにはまだ火がつかない。しかし大きな三つのポットでお湯はた っぷりわいており、紅茶のポットやカップの類は、塔のへやから持ってきた美しい陶器が そろっていた。色とりどりの壺に入った紅茶の葉やコ-ヒ-豆も、流しのそばの食器棚に ずらりと並んでいる。へや全体にはどこかまだかびくさい匂いがして、それが洗剤の匂い と混じり合っていたが、テ-ブルの周囲には外出していた連中が仕入れてきたクッキ-や 菓子パンの香りと紅茶の香りがいっぱいに漂っていた。
紅茶のポットを回しながら浅見司に声をかけたのは南条美沙である。クッキ-をかじり かけていた司は、ちょっと顔を赤くしてもじもじしたが、同じ一年生の大西和子、斎藤眉 美、田所みどり、立花朝子たちは机の回りのあっちこっちで皆いっせいに声をあげて笑っ た。
「もう、有名なんですよ」眉美が言った。
「ほんっとにお掃除が好きなんですから、司って」と朝子。
「お洗濯とかも、きらいじゃないよね」隣に座っていたみどりが、司の顔を見ながら言 った。「お皿洗うのも、めちゃ速いしさ」
「この人のたんすの引き出しとか、ほんと、いっぺん見てやってください」和子も大き なごつい肩をすぼめるようにして、くすくす笑う。「下着の整理のしかたとかすごいです よ。まるで昆虫採集の箱みたいです。生理用品まで毎月使う分づつ、きれいに数えてレギ ュラ-サイズ何枚にナイト用何枚ってきちんとセットしてあるんですから」
「どっかのガラスが割れたとか、バケツがひっくりかえったとか、花瓶が棚から落ちた とか聞いた時の、うれしそうな顔ったら、もう」朝子が言った。「あっという間にモップ かついで、まっしぐらに廊下走って、現場に向かってますからね」
「洗剤おたくだし」と眉美。
「そんなあ・・」司は困って目を伏せて、口の中で抗議しながら、テ-ブルの上の汚れ た紙ナプキンをまとめ、きれいな一枚で、皿に残ったクッキ-をつまんでは種類別にきち んとそろえて皿に並べ直している。遼子と朱実がそれに気づいて顔をおおってくっくっ笑 いをこらえている。
「だって、びっくりしたよねえ」ショ-トカットの髪に太い眉、そばかすだらけのいか にも健康そうな斎藤眉美は、洗いざらしの白いシャツの袖をまくりあげながら元気にしゃ べりつづけていた。「入学して最初の日曜日、あたし、この人と知り合ってから初めてい っしょに町へショッピングに行ったんですよ。アクセサリ-とかブラウスとか化粧品とか 見ようと思って。だのに、この人ったらもう、そんなものには目もくれず、リビング用品 の洗剤コ-ナ-の前に座りこんじゃって動かないんです。それでもって『いや-、何これ -?こんな床みがきのワックスが出たのって知らなかったわ-!嘘、網戸のクリ-ナ-の 新製品、もう発売されてたわけ-?』とか、まるで口紅の春の新色見つけたみたいに!」  「中学の時、司と同じクラスだった子に聞いたけど、『黄金の指』って呼ばれてたって ね」朝子が言った。「司がしばらく、どこかに座って何気なく指を動かしていると、立ち 上がったとき、テ-ブルの上や椅子の回りは何もかも皆きちんと整頓されて、片づいて、 見違えるようになっちゃってる・・・って」
「大げさなのよ、皆はもう!」司は我慢できなくなったように、さらさらとなびく短い 髪の小さい頭を振り上げた。
「そうでもなさそう」いつの間にか、皿の中身もきれいに並べられ、砂糖のパックはま とめて、紙を折り曲げて作った即席のかごにつめこまれ、汚れた紙ナプキンは机の下のく ずかごに投げ込まれたのか影も形もなく、その捨てる前のナプキンで拭われて、ちりひと つなくなっている司の前のテ-ブルの上をながめて美沙がつぶやく。「うらやましい才能 だわ」
「美沙だって、家事は得意じゃないの。へやだって私たちの中じゃ一番きちんとしてる しさ」さつきが、ぐらぐらする椅子の背に器用によりかかって煙草をふかしながら、美沙 の方を見上げる。
「美尾さんに比べりゃ大抵の人のへやはきちんとしてますよ」竜子がまぜっかえした。  「ううん、あたしはだめなのよ」美沙は立ち上がって新しい紅茶をいれに行きながら言 った。「ケ-キ焼いたり、花を植えたり、スカ-ト縫ったり、そういう何かものを作るの は好きだけど、片づけるのはほんとは苦手。ちらかしたままにしておくと、次のものが作 れないから、いやいやきちんと片づけているだけよ」
「あたしは、ものを作るのはだめなんです」司は恥ずかしそうに笑った。「絵も下手だ し、文章書くのもだめだし。創造的なセンスがないって先生たちから言われてました。た だもう、磨いたり洗ったり、整理するのが楽しいだけで」
「でも、あなたのこのお皿の配置のしかたとか」テ-ブルの上をじっと見ていた京子が 言った。「さっき、このへや片づけた時の家具の配置や、テ-ブルかけの色づかいとか、 やっぱり絵画的センスだと思うけれど」
「あ、どんな風に片づけたら一番すっきりきれいに見えるかっていうことは、それは何 となくわかるんです」司はうなずいた。「それだけは!」
京子と美沙が顔を見合わせて微笑んだ時、塔のへやから持ってきて壁にかけていたふく ろう時計が、きしんだ音をたててゆっくり十二時をうちはじめた。
「さあ、パ-ティ-はもう終わり」京子が立ち上がった。「小石川さんと細川先生に、 今日は片づけで夜中までかかるかもしれないと言って、お許しは得てあるけれど、それに してもあまり遅くはならない方がいいわ。明日は日曜日だし、皆ゆっくり休んでちょうだ い。でも昼すぎに三年と二年は全員ここに集まって。今後のことを話し合いましょう」  皆うなずく。状況の厳しさをあらためて思い出したかのように、今まで笑顔だった者の 多くも、どこかひきしまった表情に戻りはじめていた。
「ねえ、朝倉さん・・・」
さっきから何か気になっているように、紅茶のカップを持ったまま、パソコンをおいた 机の脇の壁を何度も立って見に行っていた村上セイが声をかけたのは、その時である。  「どうかした、セイ?」
「ちょっと来て、見て下さい」セイは色あせた緑の羽目板が組み合わさった壁の一部を 指さしていた。「これって、ドアじゃありません?この向こうにもう一つ、へやがあるん じゃないのかな・・」

塔のへやの広い窓から一望できる夕暮れの海は、薄紫と金色の微妙な色合いに染まって いた。遠い水平線の方にいくつか光がきらきらしているのは、岬のはしにある人家か、沖 を行く船か、それとも気の早い一番星か。制服のブラウスの胸に腕を組んだまま、新生徒 会長で新聞部長の小石川ナンシ-は窓辺に立って黙って海を見つめていた。  ナンシ-は帰国子女で、十二才まではアメリカにいた。黒人の父の血をひいて肌はやや 黒く、髪は小さくくるくるとうずまいている。京子のような美貌ではないが、その血色の よい丸い顔にも、中背でずんぐりした身体にも、女王のような一種の威厳とあたりを払う 貫祿のようなものがただよっていた。
「それで、演劇部の連中は」海の方に目をやったまま、彼女は静かな声で聞いた。「あ の地下室を片づけて、結構いごこちよさそうに暮らしているというわけなのね」
「行って見たものの話では、見違えるようにきちんと片づいて、風変わりだが住みやす そうなへやになっているということです」ナンシ-の背後に立っていた二年生の沢本玲子 が無表情に答えた。新聞部副部長で、今は生徒会の書記長をつとめる学年トップの優等生 だ。生まれつき足が悪く、いつも片足をひきずって歩く。目が細く、鼻も口も小さい日本 人形のような顔だちは、あまり表情がないせいか、ひどく冷たく見えるのだった。
「あれからもう、かれこれ十日になるわ」ナンシ-の日本語は授業できちんと習って身 につけたものだけあって、なめらかで正確、アクセントにも発音にもまったく誤りがない のが、かえってどこか不自然で少し不気味な感じもする。「それなのに、退部した者は一 人もいないのね?」
「いません。入部希望者さえ出ているようです。ただし、部室が狭いし、処分中の部だ からと言って、朝倉部長は入部の希望をすべて断っているようですが」
ナンシ-はゆっくりと向きを変え、中央の丸いテ-ブルまで戻った。つるつると光るそ の表面を見つめながら彼女は薄く笑った。
「それにしても、さすがにしたたかな連中だわ。でも、予算が皆無の状態で、どうやっ て次の公演を?」
「四月後半に予定していた新入生歓迎公演の、『ハムレット』は一応中止になっていま す。しかし、五月の連休に『ハムレット』とは別の劇で新歓公演は実施すると言っていま すが、何をやるかは未定のようです」
「しかし、何かはやるでしょうね。あの連中なら、きっと」
しばらく沈黙が続いた後で玲子が言った。
「あの演劇部をずいぶん買っていらっしゃるんですね」
「それはちがうわ」ナンシ-は首を振った。「私は敵の長所と味方の弱点は絶対に見逃 さないようにしているの。戦いに勝つには、それが何よりの基本だから」
ドアにノックの音がした。
「こんな時間に誰でしょう?」玲子が眉をかすかにひそめる。
「お入りなさい!」ナンシ-が声を張り上げた。
しかし、ドアが開いて入ってきたのが他ならぬ演劇部長の朝倉京子だったので、二人は 思わずぽかんと口を開けてしまった。

窓の向こうの海の沖には、かすかな夕焼けの残りが淡い茜色を藍色の空に一刷毛はいて いる。十日前まではよく見ていた空の色のはずだったが、京子はそちらをちらと見ただけ で特に何かを感じた様子もなかった。「こんな時間に突然で申し訳ないわ」彼女はナンシ -に向かって、軽く目を伏せるような目礼をした。「お願いがあって来たの」
「何かしらね」ナンシ-は笑みを浮かべて、豪華な革張りの椅子の方にあごをしゃくっ た。「お座りになりませんか。沢本さん、コ-ヒ-をお出しして」
「いえ、このままでいいわ」京子は軽く首を振って断り、立ったまま話を続けた。「新 しい部室のことなの・・・」
「なかなか快適に暮らしているって聞いているけれど?」
「おかげさまでね」京子はにっこり笑って応じた。「ただ、ご存じのとおり、少し狭い のよ。劇の練習もやりたいし、大道具を作る場所もほしいし」
「学内にはもう余っているへやはないわよ」ナンシ-はそっけなく言った。
「知っているわ。実は、あの部室を片づけていたら、本棚で隠されていたドアが一つ見 つかって・・・開けたら奥にもう一つ、かなり広いへやがあったのよ。もっとも、そこも 窓はないし、今の部室よりもっとがらくただらけで、それこそ足の踏み場もないけれど」
「そんなへやがあるなんて話は、聞いたことがないけれどね」
「演劇部の記録を調べてみたの」京子は説明した。「そもそも今回、あのへやを私たち の新しい部室に選んで下さったのは、十年か二十年前はもともとあそこが演劇部室だった からというのが主な理由だったのでしょう?たしかにその当時は、あそこが演劇部室で、 今度見つかった奥のへやは演劇部の倉庫というか、物置として使用されていたらしいの」
「で、そのへやがほしいと言うのね?」
「ええ。もともとが演劇部の物置だったわけだし、他に出口はないようだから、私たち があの手前のへやを部室として使わせていただいている限り、他の部が使用するのも無理 だと思うの。第一、ぜひごらんになっていただきたいけれど、ものすごい散らかりような の。ネズミもゴキブリもいっぱいいそう。割れたガラスも散らばっているし、ちょっと手 のつけようのない状態ね。それを、私たちが片づけるから、かわりに使わせてくれないか と、それをお願いしに来たの」
ナンシ-は、テ-ブルの上を指の節でコツコツたたきながら、顔をしかめて思案してい た。「私の一存ではね・・・」
「このくらいのことは生徒会長の判断で決定できるはずだわ」冷やかに京子は言った。 「第一、今の部室を下さることだって、あなた一人で決定なさったのじゃなかったかしら ?」
「まあ、それはそうだけれども」ナンシ-はつぶやき、急に何かを思いついたような薄 笑いを浮かべて京子を見た。「いいわ。使っても。でも条件がある」
京子は無表情のまま、早く言ってというような目をした。ナンシ-の笑いは大きくなっ た。
「せっかく掃除をするのならついでにこの一週間、寮の風呂場とトイレの掃除もして下 さらない?あなたを先頭に、演劇部員全員で。あの地下室もあっという間に片づけて快適 な部室にしたぐらいだから、そのくらいのことは、あなたたちには簡単でしょう?」

塔のへやのドアを後ろ手に閉めて、もうすっかり暗くなっているらせん階段を京子が下 りて行くと、踊り場の手すりのかげから、小さな頭が三つ四つのぞいて「朝倉さん!」と 声がした。「どうです、うまくいきましたか!?」
人影は浅見司だった。それに大西和子、斎藤眉美、村上セイ。心配そうな顔の一同に、 京子は首を振ってみせた。
「断ってきたわ」
「え?・・・」
「あ、ごめんなさい。私の言い方が変だったわね」京子はあやまった。「小石川さんが 条件を出してきたのよ。あのへやを貰いたいなら、一週間、演劇部全員で寮のトイレと風 呂場の掃除をしてほしいって」
セイが首を振り、髪をかきむしってため息をついた。
「そんなことだと思ってましたよ!」
「条件って、それだけなんですか?」司の声には、信じられないといった響きが混じっ ていた。「それで、断ったんですか?」
「浅見さん」京子は司の肩に手をおき、優しく言った。「あなたがどんなにお掃除好き でがんばったって、寮の風呂場とトイレの掃除を一週間も続けられはしないわ。業者のお ばさんたちが一応やってくれてはいるけれど、風呂場もトイレも、ほんとに広いし、汚い し・・・」
「だから・・・だからやりたいんです、ずうっと、やりたかったんです!」あたりをは ばかって小さな声でしゃべっているが、司の目は真剣そのものだった。「寮に入ってから もうずっと、毎日気になって気になって・・・でも業者の人とか入ってるし、勝手にやっ ちゃいけないだろうと思って、ずうっと遠慮して我慢してたんですもん。こんなチャンス ってないわ!一週間もいりません。三日か、せいぜい四日もあれば、どっちもきれいにピ カピカにしてみせます!」
「私たちも手伝いますよ、大丈夫です」和子が言った。
京子はまだ、ためらっている。
「いっぺん、断って来られたんですよね・・・」司がちょっとしゅんとした。「もう一 度行ってOKしてくるのなんて、みっともないし、やっぱりおいやですよね・・・」
「そんなことないわよ」京子がきっぱり、何かをふっきったように言った。「あなたた ちが本当にそれでいいって言うんなら、私はもう一度、小石川さんのところに行って、お 願いしてくるわ。条件を呑むと言って」
司は顔を輝かせたが、すぐまた不安そうになった。
「いいんですか?」
「いいのよ」晴れ晴れとした表情で京子は笑った。「ここで待ってて。すぐ戻るから」
そして、手すりをつかんでくるりと身体をひるがえすと、軽やかな飛ぶような足どりで 再び塔のへやへと、京子は階段を上って行った。

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