小説「散文家たち」第38章 さまざまな風景

もう夜明け近いが、まだあたりはまっ暗い国道沿いのドライブインでは、赤っぽい光の中でカウンターに並んだ大型トラックの運転手たちが、疲れて油の浮いた顔で、黙りこくってコーヒーを飲んだり、スポーツ新聞を広げたりしていた。
自動ドアがかすかな音をたてて開き、背の高い、すらりとした、黒い革ジャンパーとジーンズに黒いブーツの若者が二人入ってきた。カウンターのはしに座って、かぶっていたヘルメットを脱ぐと、ふさふさとした長い髪が流れ落ちて、それぞれの革ジャンパーの肩をおおった。
運転手たちの何人かが、ちらと寝不足のはれぼったい目をそちらに向ける。目が合うと若者の一人は、人なつこい笑顔を返したので、ちょっととまどった運転手たちはあいまいに笑って目をそらした。
「コーヒー、二つ」もう一人の若者が、カウンターの向こうに注文し、黒い革手袋を歯でかんでひっぱってはずしながら、手にしていた道路地図をばさばさと広げて見つめた。 コーヒーが運ばれて来る頃には、運転手たちは皆もう店を出て行って、カウンターはがらんとしていた。黙ってコーヒーをすすっていた若者の一人───美尾さつきが、地図を見ていたもう一人───片山しのぶの方にちょっと身体をかたむけて、地図をのぞきこんだ。
「わかる?」
しのぶはコーヒーをすすって、首を振った。「いや───」
「やっぱり、さっきのあの道かな」さつきは、また身体を前に向けなおして、壁に張られたラーメンや貝汁定食のメニューの紙に目をやったまま、コーヒーを飲んだ。「あそこで右に曲がっておけば───」
「うん、どうもそうみたいですね」しのぶはうなずいて、地図をばさばさたたんで、ジャンパーの胸に押し込んだ。「あそこまで戻ってみましょう。急がなきゃ、夜明けまでに想理市に着かない」
「和多田に昼までに着けば上々さ」
「夜が明けてしまうと、道路が混んで来ます。知らない町の中は走りにくいですよ」
「うん」さつきは、あくびをかみ殺した。「でも、考えてたんだけどね」
「何を?」しのぶは、コーヒーを飲み干しながら、カップのふちごしにさつきを見た。 「小田茜さんにすぐ会うにしろ、いろんな人に尋ねてまわらなきゃならないにしろ、どこかでひと休みして、シャワーでも浴びておいた方がいいのとちがう?」
「さあ」
しのぶは、そんなことはどっちでもいいというような、興味のない顔をしていた。「そうですかね」
「ホテルかどっかで部屋借りて、休んでさ───」さつきはカウンターを片づけに来た赤いエプロンの女性をひきとめた。「すみません。あの、和多田ってここからどのくらいで行けます?」
「お兄さんたち、バイク?」さつきがうなずくのを見て、女は笑った。「まあ、その恰好で、歩きってことはないよね。そう、三十分もあったら着くんじゃないの?」
「このへん、ホテルはありますか?」
「ラブホテルならいっぱいあるけど、普通のホテルというのはねえ───ああ」女は思い出したように首をよじって、店の外の闇をすかすようにした。「あのね、このちょっと先の信号を左に下りたところにね、そう言えば、古い旅館があるよ。『油屋』って言ってね。大きな丸い提灯が下がっているから、じきわかるよ」
「こんな時間に、泊めてくれますかね?」
「ご主人は釣り好きだから、早起きしてちょうど出かける頃だと思うよ。ちゃんと話したら多分、大丈夫と思うけど」
さつきはうなずいた。しのぶはもう立ち上がっている。コーヒー代を払うと二人は、肩を並べて、店の外に出た。また、大きなトラックが一台、満艦飾の豆電球をぴかぴかとまぶしく光らせて、轟音とともに駐車場にすべりこんで来る。それを大きく回ってよけながら、二人はバイクのとめてある方へ向かって走り出した。

「油屋」は、真っ暗な田んぼが広がる道のかたわらに、ぽつんと建っている旅館で、軒先に下がった、ひとかかえもある大きな提灯の中で本物の蝋燭が燃えていた。
「風の強い日は消すんですよ」珍しそうに見上げている二人に、上品な顔だちをした年取った女将は笑って言った。
まるで満月のように闇の中で暖かく輝く、その提灯には、墨で黒々と「油屋」の文字が踊っている。
二人の少女の態度が礼儀正しく、挨拶もものなれていたからだろう、女将はあっさり宿泊を承知してくれ、お湯はもう落としてしまったが、水でいいなら風呂場で身体を洗ってくれと言った。
「今からお休みになるのなら、朝御飯もゆっくり作りましょう。十時ごろになってもいいですよ」二人の先にたって、黒光りするほどみがかれた板敷きの廊下を通り、狭い階段を昇っていきながら、女将は言った。「今、掃除してある部屋がここしか空いてないんだけど、いいですか?」
そこは物干し場か何かに面している小さな部屋で、昼間の陽射しの匂いがまだ残っていた。女将は畳の上に、とうがらしを入れて干してあった大きなざるが置いてあったのを、「ごめんなさい」と言いながら、網戸を開けて屋根の上に出した。
ふとんは自分たちで敷くからと女将に言って、風呂場で水浴びをした後、二人は月の光の射し込む白い布団の上で、うちわを手にしたまま横になった。
「こうなると、逆に眠れないなあ」さつきがつぶやく。
しのぶは小さな声で笑って、ぱたぱたうちわを動かした。

田んぼの上がうすあかるくなり、灰色に光る小川の水にまだ涼しい夜明けの風がわたりはじめた。
とぎれとぎれにちぎれた藍色と紅色の雲のかかる、黒っぽい山並みに近いあたりの空の群青色が少しずつ、水色へと変わって行く。
「油屋」の提灯が草むらの蛍のように暗がりにうずくまる頭上を大きくうねって横切っている国道の上には、夜が明けるまでに少しでも目的地に近づこうと最後の追い込みをしている大型トラックの色とりどりの光がまばゆく、じゅずつなぎになりながら、ちかちかとまたたいて動いて行った。
その、はるかかなたには、空と同じに次第に白っぽくなって行く朝の海が見える。今日は風があまりないのか、灰色がかった海面に波のうねりもほとんど見えない。空よりわずかに淡い色だけが、静かに横たわっている。
眠りからさめたのか、どこかで小さく寝ぼけたようにかもめの声が一つだけした。国道沿いの入江を細く長く、ふちどるように続いている漁業を営むらしい家々には、どこももう電灯が灯って、人々が起き出している気配がする。
入江をぐるっと遠く回って、岬の向こう側に出れば、麗泉学院のある藻波の町もかなたに小さく、目に入ってくる。こちらの町はまだ寝静まっているのか、明かりはほとんど見えない。港のあたりに出入りする大小の船のマストやへさきに灯った明かりが、少しずつ移動しているのが、目をこらすとようやくわかる。
その間にも、大きな刷毛で払われるように、海からも陸からも刻々と夜の気配は消えて行く。空気がゆらぎはじめ、海が動きはじめる。夏の終わりの、暑い一日がまたはじまろうとしていた。

───何か、とてもいやな夢を見ていた。
那須野遼子は妙に乾いて苦い味のする口をかすかに開いて、魚のようにあえいだ。
どこかで風鈴がちりちりと、朝の風に吹かれて鳴っている。薄目を開けて、寝返りを打つと、開け放しの窓とカーテンの向こうに枯れかけた朝顔が、かさかさと風にゆれているのが見えた。
部屋の中の方に、そうやって背を向けていても、京子がもういないのはわかっていた。このごろ毎朝、遼子が目を覚ますより早く、京子は起きて出かけてしまう。部室でパソコンを打っているのか、図書館で勉強しているのか。
皆の前では、京子の態度は以前と変わらない。そこがつけめかな、とも思って、あれから一、二度、遼子は京子にさりげなく接近しようとして見たが、それとなく、いつもぴしりとはねつけられた。落ちついて冷静な、まったく迷いの影もない拒絶で、その背後に、遼子と奈々子が雪江をだましていたと知った時のあの激怒が今もまったく衰えることなく燃えているのを感じとった時、遼子は京子に近づこうとするのをやめた。テクニックで落とせる相手ではない。むしろ、京子が今一番嫌って、憎んでいるのは、遼子のその種のテクニックなのだ。
目を閉じたまま、遼子は苦笑いする。
自分がいつか京子にこうして嫌われるようになることを、心のどこかで、ずっと予感していたような気がした。
京子を知れば知るほどに、強く惹かれていくほどに───この人は、きっといつか、自分を憎むようになるだろうと。
どうしてなのか、自分でもわからない。
───それにしても、何の夢だったろう。
思い出せるようで、思い出せなかった。
海からの風に、白いカーテンが大きくふくらんで、はためく。
そのぱたぱたと勢いよく、純白の布が風に鳴る音からの連想だろうか。ふと、ある顔が遼子の心をよぎった。率直で落ちついた、くっきりと青年のようにさわやかな目鼻だち。広い肩につづく、なめらかな白い首筋、少女にしてはたくましい、ひきしまった筋肉質の腕。若い兵士のような、影のない明るい微笑。
───片山しのぶ?彼女をまた、なぜ、思い出したのだろう。
さっきの夢に出てきたのだろうか。
そもそも、彼女が出てきたから、いやな夢だったのだろうか。
枕に頬を押しつけたまま、遼子がふと息をひそめた時、ドアをノックする音がした。
「那須野さん───那須野さん?起きてる?」
「開いてるよ」遼子は寝返りを打ちながら、ものうい声で答えた。
入ってきたのは新名朱実だ。早足で遼子のベッドのそばまで来ると、彼女は枕元にかがみこんだ。
「『松の実老人ホーム』から、さっき電話があったのよ。あのおばあさん───藤谷キミ代さん、ゆうべ亡くなったんだって」

はれぼったくなったまぶたの、充血した目をまばたかせて、遼子は朱実を見上げた。
「───何つった?」
「例の、女の子が墜落死した事件を担当した刑事の奥さん。私と、あなたが会いに行って話を聞いた人」朱実はベッドの端に腰を下ろした。「風邪をこじらせて、何日か寝ていたんだけど、肺炎を併発して───」
「煙草、持ってないよね?」
「肺炎と聞いて吸いたくなったわけ?どういう精神回路してんですか、あなたって。どっちみち持ってない。私が吸わないこと知ってるくせに」
「万一ということもあるからな」あおむけになったまま、遼子は拳をにぎった手の甲で力いっぱい枕をたたいた。「くそっ、それにしても何てまあ、年寄りがころころよく死ぬ夏なんだ!」
「あら、他に誰か死んだっけ?」朱実は冷静な声を出した。
「みどりが気にしてた、例の何とかいうばあさんも───」
「あの人は死んだんじゃないでしょ。どこへともなく、消えただけよ」
「家ごと、そっくりな」遼子は起き直って、ブラジャーとパンティだけのかっこうで、両足をベッドの脇におろして座り、両手で髪をかきむしった。
「行って見るでしょ?」朱実が聞く。
「どこにい?」両手に顔を埋めたまま、遼子が聞き返す。
「あんた、堀之内さんの二代目を襲名披露するつもり?老人ホームに決まってるじゃないよ?昼前に家族の人が来て、荷物を引き取って行くらしいよ。お葬式もあそこではしないみたいだから、行っとかなきゃもう何もわからなくなるかも。それにホームの人も何か話がありそうだったし、ひょっとしたら伝言か何か、あるのかも。だから、電話をかけてきたんじゃないのかしら」
「何の伝言?あたしとあんたに遺産でも残すってか?」
ようやく遼子は顔から手をはずしたが、海の方へとそむけたその横顔は、いつもの鋭さを失って、はれぼったくむくんで生気に欠けていた。
「今更行って、何になる?第一、あの女の子が自殺じゃなくて事故死でもなくて、他殺だとして犯人がいたとしても、どうせもうとっくに時効だろ?あほらしい」
朱実は舌打ちして立ち上がり、洗面台に行って荒々しく蛇口をひねって水をほとばしらせた。タオルをぬらしてぎゅっとしぼると、それを遼子に向かって放り投げる。あやまたず裸の肩にぴしゃっとのっかってきたタオルを反射的に遼子はつかんだものの、まだなかば目を閉じたままだった。
「顔でも拭いて、しゃんとしてよね」朱実が腕組みして、吐息をついた。「だいたい、忘れてしまったの?私たちが皆、こんなことに首をつっこんだのは、過去の事件の犯人さがしのためなんかじゃないわ。今、演劇部に起こっているいろんなことの原因をはっきりさせるためなんで───」
「それがどうした。演劇部?この学校?どうなろうと、んなもん、知ったことかよ」
「あっそ、聞かなかったことにするわ、今の───ねえ、目はさめた?」
遼子はタオルで顔を投げやりにこすって、また枕の上にひっくりかえった。「コーヒーいれて」
「ちょっともう、人を何だと思っているのよ」朱実はののしりながら、流しの方へ行って赤いポットをつかんだ。「何よ、この山積みになってる汚れたコーヒーカップは?まさかこれ、洗えっていうんじゃないでしょうね、私に?」
「何が山積みだよ、大げさな。たかが五個か六個だろ?」
「はい、問題は、それをそのままにしておいてコーヒーが飲めるほど、この部屋にカップがあるかということなんだわ」言いながら朱実は、がちゃがちゃ音をたてて、結局カップを洗いはじめていた。「ちょっと!そのまま、また寝たりしないでよね」
「大丈夫よォ。早くコーヒー入れてったら」
「何でもうまったく、こうなるのかしら」朱実はぼやきながら、ペーパータオルを荒っぽくひきちぎって、流しのステンレスの上にこぼれたコーヒー粉をふきとった。

「それじゃ、気をつけて」涼しげな薄水色の着物姿の女将は、二人の少女を送って出た玄関先で、板張りの床に手をつき、ていねいに頭を下げた。
「すっかり、お世話になりました。ありがとうございます」
ヘルメットを小脇に抱えたさつきが一礼して出ようとした時、しのぶが軽く腕にふれてきた。
「ん?何よ?」
しのぶの目は、昔風のがらんと広い玄関の、古めかしい土壁にかけられた大きな額の絵をさしている。ひと目見て、さつきの顔も緊張した。
水をたたえた田んぼの向こうになだらかな山が広がる、一見ありふれた風景画だ。だが手前のあぜ道に置かれた小さい丸テーブルに、大小さまざまのみかんがころがっているのが、風変わりで洒落た不思議な構図になっていた。少し不気味で、だが美しい、その感じには記憶があった。さつきは歩み寄って絵を確かめ、右下に小さく書かれた作者の名を見た。───Akane.Oda.
「いい絵でしょう?」女将が座ったまま、声をかけてきた。「地元の絵描きさんの絵なんですよ。女の方で、もう亡くなられましたけどね」
二人は振り向き、顔を見合せ、また女将の方に向き直った。
「亡くなった───いつごろです?」
「さあ、ねえ」女将は、膝に手をおいてため息をついた。「もう、七、八年にもなりますか。お嬢ちゃんがあの時、たしかまだ小学校に上がったばかりだったから」
二人はまた、絵の方を見た。
「ご病気で?」しのぶが尋ねた。「亡くなったのは───?」
「いいええ。交通事故ですよ」女将は大きく首を振った。「ご主人と二人、そこの国道を車で走っていて、大型トラックにぶつかって」二人の少女が、顔を見合わせている様子に、女将は何か感じたらしい。「お知り合いですか?」
「いえ、ちがいますけれど───この、小田さんという画家の方にちょっと私たち、興味があって」
「時々、そういう方がいらっしゃいますよ」女将はうなずいた。「ちょくちょく、うちにも訪ねてみえます。和多田か想理か、どっちかで、この方の作品を展示する建物でも作ったらいいって、いつも私たち、市議会の議員さんに言うんですけどね。この辺は他に有名な人も出ていないんだし」
「あの、けっこう有名な絵描きさんだったわけですか?」しのぶが聞いた。
女将はゆっくり、絵の方に顔を向けて、ながめた。「そうでもないけど───これから有名になるところだったようですよ。大きな展覧会で賞とかも取っておられたようだし。今でも好きな人の間では、とても人気があるみたいですよ」
「七年か八年前ということは、ご遺族の方とかは、残っていらっしゃらないでしょうか───和多田とか想理とか、このあたりに」
「その、お嬢さんがたしか、おばあちゃんといっしょに和多田にいたと思ったけれど」床に片手をついて女将は軽く腰を浮かせた。「電話帳でわかると思うから、調べてあげましょうか?連絡先を」
「よろしいですか?もしも、お願いできるのでしたら」
「ちょっと待っていてくださいね」帯の間から取り出した眼鏡をかけながら、女将は奥へ入って行った。
しのぶとさつきの視線はまた、ひとりでに壁の絵の方に吸いよせられる。
あの図書館の地下室にあった壁画の面影が、はっきりとどこかに残っていた。にじんで広がるような、すきとおって空に溶けだすような、さまざまな緑色の重なり。どこか非現実的なようでいて、ずっしりと確かな重みを感じさせる金色のみかんと、それをのせたテーブルの、宙に舞い上がっていきそうな、不安定な細い脚。
それでいて、病的なものは感じさせない。図書館のあの壁画以上に、この絵にはまがいものではない強さと明るさがただよっていた。
「美尾さん───」絵のすぐ前まで近づいて見ていたしのぶが、低い声で呼んだ。「これ、何ですかね?汚れじゃないよね?」
さつきもそばに行って、絵をのぞきこんだ。
絵の中の風景の、薄緑がかった空が山の稜線と接するあたりに、何か小さい棒のようなものが描き込まれている。
「鳥?───雲?でもないね」
「何だろうな──」
二人は顔を見合わせた。

「準備中」と札の下がった「オリエント急行」の店の前には、自転車が何台も重なり合うようにして止まっている。ミカちゃんが小さく鼻歌を歌いながら、テーブルの上の小さいガラスのコップに、ちょこんと小さく先だけ切った黄色やピンクのグラジオラスや、白いバラを入れて飾って回っていた。
カウンターには、浅見司に大西和子、斎藤眉美、それに田所みどりがいる。皆、ちょっと申し訳なさそうな顔つきで、カウンターの中で楽しそうにコーヒーをいれているママの方をながめていた。
「ごめんなさい」浅見司がわびた。「まだ、お店開ける時間じゃないのに」
「いいのよ」ママはコーヒーカップを選びながら笑った。「どうせ、ミカちゃんとお茶飲もうって言ってたところだし。でもまた皆、ずいぶん早く起きたのね。夏休みっていうのに感心」
「それもあと、二日で終わり」和子がため息をついた。「授業が始まるし、資金かせぎのめちゃくちゃマラソン公演も、また再開するって美尾さん言ってるし」
「何やるの、夏休み明けの公演は?」
「もう、今、やってるんですよ。近所の小学生とか中学生とか対象に」眉美が指を折って数えた。「ええと、寮のホールじゃ『小公子』、図書館の小会議室じゃ『小公女』、時計台下のテラスじゃ『野生の呼び声』───あと何だっけ?」彼女はみどりの方を向いて聞いた。
「二階の渡り廊下で『星の王子さま』、寮の地下室で『アンネの日記』、体育館の横の倉庫で『隊長ブーリバ』」みどりは思い出しながら、ため息をついた。
「ほんとに、とんでもないことしてるよね。こうやってあらためて並べてみると、ぞっとする」
「休み明けには、これにまた、小中学生には見せられなかったエッチな路線のが加わるんでしょ」眉美が言った。「『女の平和』とか『毛抜』とか。シェイクスピアのシリーズもそろそろ始めるって言ってたし」
「学園祭には、『風とともに去りぬ』なんでしょ?」ママがコーヒーをカウンターに並べながら聞く。
「それと、もう一つ『木曜の男』も。この二つはちょっと時間かけて、じっくり稽古してなんて言ってるけど、それだって、もうあと二か月そこそこだし」
「いつものことながら、本当に感心するわ」ママは小さく首を振って笑った。
「だからもう、手抜きのしかたばっかり上手になって」みどりが、悲しそうに言う。
「ごまかすのは、皆本当にうまくなったよね」和子もコーヒーをすすりながら、あいづちを打った。「舞台に立つ緊張感なんて、このごろ、お互い、見ててゼロだもん」
「お客が退屈してるなと思ったら、ぱっとせりふをはしょっちゃうしね」眉美が笑いながら言った。「覚えてなければ適当に何かしゃべってつないじゃうし」
「着替えとかも早くなったし」
「だけど、南条さんにだけはかなわないね」和子が思い出して言った。「あの人、ちょっと特別だもん。たった今、軍服着て後ろにいたよと思ってたら、もうドレス姿になって走って行っちゃう。どうしてあんなに早いんだろう?」
「こっちもいつもバタバタしてるから、ゆっくり見てる間なんてないけどさ」眉美が言った。「何か特に、上半身っていうか、ブラウスとかの脱ぎ替えがあの人、異常に速いんだ。袖口のリボンとかはずすのが」
「私たちの衣装にも、手首にゴムを入れてくれたり、ひっぱったらすぐほどけるリボンつけてくれたり、いろいろ工夫してくれるもの。自分の衣装にはもっとたくさん、秘密兵器があるんじゃないの?」
「歯を使うのもうまいもん」司が言った。「ドレスの肩から袖口までのファスナーを歯でひっぱってはずしながら、両手はズボンのベルトをしめてるとか、そんなことしょっちゅうだよ」
「でも何だか、こんなにいっぱい、やっつけ仕事みたいにして演技してると、たとえ見てるのが子どもたちでも、何か気がとがめるんだよね」みどりが苦にした。「昔の『蘭の会』じゃ、こんなハイペースで公演したことなんて、当然なかったんでしょう?」彼女はママを見て聞いた。
「そうね。学長の岡林先生が直接指導にあたられていたし、あの先生の演技に対する姿勢は、それは厳しくていらしたから」ママは思い出すように笑った。「だから、時々、息抜きみたいにしてこっそり、私たちだけで、親しい友だちだけ呼んで───って、それでも相当の数になることはあったけど───、気楽な秘密公演をしたりしていたわね。岡林先生も、それはご存じだったけど、見逃して下さってたのじゃないかしら」
「厳しい先生だったんですか?」
「ご自分に厳しかったの。納得の行く演技ができるまでは決して妥協されなかったし。でも、私たちに対しても、いつもいっしょに考えてくださるといった風で、怒ったりされることはなかったわ。先生を見ているだけで、こちらが自然と影響されるの」
てきぱきと手は動いて、ケーキを切りわけていたが、ママの声は何かを思い出している人の、ゆったりと遠いひびきになっていた。
「あの頃の先生方は岡林先生に限らず、生徒に厳しく何かをおっしゃるということはあまりなかったわ。少なくとも、ここの学校ではね。生徒たちの方が何かにつけて、むしろ意見をよく言って、大抵はとりいれてもらっていたわ」
「それが、ここの伝統?」司が聞いた。
ママは笑って首を振り、ケーキの皿を差し出した。「召し上がれ。───ミカちゃんも来て食べない?───いいえ、伝統ではないわ。この学校は、明治の創設以来、宗教色はなかったけれど、進歩的な女子教育がモットーでも、実際の管理とか指導とかは相当に厳しかったの。自由を口実に、ふしだらをしてるなんて、世間に思われたらおしまいという用心もあったんでしょうね。だから、寮にも門限があったし、生徒の手紙も勝手に開封されるとか、校則に違反したら反省室に監禁されるとか、ずいぶんひどいことが多かったのよ。私は直接知らないけれど、審問会というか査問会というか、宗教裁判みたいなひどいこともあって───」
「しんもんかい?さもん?」
ママはおかしそうに笑った。「そうねえ、あなたたちには、無縁のことばよね。どういったらいいんでしょう?先生たちに呼び出されて、取り囲まれて問い詰められて、それで自分が悪いと認めたら、署名させられて即退学、とかそういうシステムまであったわけ。それで、私たちの入学する少し前の頃から、そういうことに対する、ものすごい反対運動が学内で起こってね。アスランやランスロットやアルデバランは、一年生の時に、その審問会に呼び出されて、先生方から徹夜で質問されつづけても、絶対負けないできちっと反論しつづけて、署名をしなかった、初めての生徒たちだったのよ。彼女たちを中心に、生徒会が団結し、デモやストライキもして、町の人たちの署名も集めて、結局、当時の学長をやめさせて、岡林先生を学長としてお迎えしたの」
「すご~い」少女たちはケーキを食べるのも忘れて、目をみはっていた。「嘘みたい。そんなことが、生徒たちで、できたんですか」
「そういう時代、だったんでしょうね───」少女たちに横顔を見せるようにして、窓の方を向いて立ったたまま、ママは静かにコーヒーをすすっていた。「だから、あの時代の生徒会、サークル協議会、寮委員会を中心にした『蘭の会』は、職員会議よりずっと力があったの。クラス委員もサークル部長も皆、先生たちと同等に学校の運営に対して意見が言えるという、誇りと責任を持っていた。『蘭の会』は、その頂点にあって、皆の意見をまとめていたし、先生方も長く続いた戦いの中で、生徒たちを信頼して、尊敬して、意見を聞いて下さるようになっていた。そうね、今となっては、そこにいた私でさえ信じられない気がするわ。あんな学校、ほんとにあったのね───」
「もう、まるっきり、想像もできませんよ」和子が言った。
「どんな入学式にするか、卒業式にするか、一年間の授業の予定はどうするか、私たちは先生たちと話し合って決めていたものね」ママは苦笑した。「そうやって話し合うと、生徒たちだって、そんなに非常識なことは考えないのよ。学校はきちんと運営されていたし、授業も活気があったわ。それを支えているのが自分たちひとりひとりだっていう喜びが誰の顔にもあふれていたわ。その中心に岡林先生と、それを支える『蘭の会』があった───新しい時代の幕開けを皆が感じていた。本当に、あの頃の私たちは怖いものがなかった。まさに、我が世の春ってところ」
いつの間にママの声には、苦いひびきがまじりだしていたのだろう?飲みおわってないコーヒーを、彼女は顔をしかめて流しに捨て、「ミカちゃん」と、きびきびした声をかけた。「表の植え込みに水はやってくれた?」
「はい、さっき。もうお店あけますか?」
「そうね。少し早いけど。───コーヒー代はけっこうよ」いつものさばさばした笑顔をママは少女たちに向けた。「これは私のおごりだわ、昔話を聞いてくれた。───あ、そうそう。忘れていたけど」
ひきだしを探って、ママは小さなキラキラ光るビーズでできたキーホルダーをひとつかみ取り出して、少女たちの前に並べた。
「この前、海岸通りで、外国から来たパントマイムのショーがあってね。通りかかって見ていたら、そんなかわいいもの売っていたんで、つい買ってしまったの。早いものがちで来た人にあげようと思ってて。ちょうどよかったわ。貰ってくれる?」
「いいんですかあ?!」少女たちは歓声をあげ、頭をくっつけあうようにして、熱心にキーホルダーを選びはじめた。
「司、その青いのがいいんでしょ?」
「でも、眉美もそれがいいんじゃない?」
「ん、でもね。この白いのも───とか思って」
「青いのとっていいよ。あたし、この紫の、貰う。ママに送ってあげるんだ」司はショートパンツのポケットから封筒を出し、用心しながら、閉じてある封を開けはじめた。
「切ってしまいなさいよ。新しい封筒をあげるわ」ママが身を乗り出して見ながら、笑って言った。「何か入っているの?じゃ、少し固くて大きい封筒がいいのね。そのキーホルダーも入れるのなら」
「すみません。母のイヤリングが入ってるんです」
ママは新しい封筒とセロテープを渡し、司がひとつひとつ丁寧に紙につつんだイヤリングとペンダントを、包みなおすのをながめていた。「買ってさしあげたの?司さんが?」 「じゃなくて」司は恥ずかしそうに笑った。「あの、母が───うちの母、ママたちとちがって、すごい頼りない甘えん坊のバカなんで───この二つ、もつれあわせてしまって、ほどけなくなったから何とかしてくれって、小包で送ってきたんです」
「きれいね」
「母は、こういうのが何か、お気に入りで───好みはっきりしてるから、プレゼント選ぶのとかはわりと楽なんですけど」
ママは小さくうなずいて、何か他のことを考えているように、ぼんやり司の手元を見ていた。
「ママ、『蘭の会』の人たちの舞台写真とかないんですか?」眉美が聞いた。「あったら見たいなあ」
「さあ、そうね───探したら、どこかにあるかしら」ママは、ちょっと疲れたような笑いを浮かべて、軽く髪をかきあげた。「見つけておくわ」
「絶対に、見たいです」和子が力を込めて言った。

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