小説「散文家たち」第3章 ミ-ハ-精神
麗泉学院の建物は、入江のゆるやかにカ-ブする海岸線に沿って、校舎、サ-クル棟、 図書館、寮などが並んでいる。それぞれの建物はさまざまな高さの石垣や階段で浜辺とつ ながり、海と反対側にはグラウンドやプ-ルやテニスコ-ト、更に果樹園や小さな林が広 がっている。その向こうには高い石の塀があって、海岸通りと言われる静かな古い大通り と、学院の敷地を隔てている。
寮と図書館の間には高い鉄柵の塀と門がある。ぶどうの実や葉の美しい模様がデザイン された鉄格子なので、いかつい感じはしないが、いったん門が閉じられると行き来はほと んど不可能になる。もっとも門は大抵の時は夜中でも開け放しになっていた。寮の建物と 門の間には小川が流れており、その岸辺にはいつもコスモスや水仙などの野生化した季節 の花々がいっぱいに咲き乱れている。
小川が海に流れ込むあたりは、寮の食堂の横手になっていて、そのあたりの花壇も今は 桜草やパンジ-の花が満開だった。蓮華とクロ-バ-が争いあって広がる地面は、春の香 りをいっぱいにあたりに漂わせている。
まだ、朝はとても早い。寮の食堂もまだ開いておらず、あたりはしんと静まっている。 海岸へ下りて行く石の階段も、下の方は霧におおわれていた。
食堂の脇の、ふだんはほとんど人の出入りしない戸口が今朝は開いている。二つの人影 がそこから出て来て、つたにおおわれた低い石垣によりかかった。
「眠いよう、もう!」
とことん不機嫌な声をあげて、くしゃくしゃの髪をかきあげたのは上月奈々子だ。ピン クと白のパジャマのままで、手にはピンクのゴム手袋、足には赤いゴム長靴をはいている のが、おとぎ話か絵本に出て来る女の子のようで、変にかわいい。
「トイレのお掃除なんてあたし、生まれてからこれまでしたことないわ!」彼女はハ- ト型の小さなかわいい顔のほっぺたを、せいいっぱいにふくらませた。「高い授業料払っ て何で毎日トイレや風呂場をたわしでごしごしこすらなくっちゃいけないの!?」
「そんなにびいびい文句を言うほど、あんたは仕事をしてないだろうが」
いつもの低い、よくとおる声で笑って、石垣に肘をついたまま煙草に火をつけたのは那 須野遼子だ。灰色のタンクトップの上に羽おった半袖シャツと、ぴっちり身体にはりつい た黒いジ-ンズが、いつにもまして彼女を若い男のように見せている。
汚れた水の入ったバケツを下げて出てきた新名朱実が、花の間の排水溝に水を捨てたあ と二人を見つけて、黙って首をすくめ、眉を上げた。
「ちょっと休んでるだけよん」奈々子が甘えた声を出す。「それにもう、だいたい終わ ったんでしょ?」
「サボってるのがいけないって言ってんじゃない」空のバケツを下げたまま、朱実は二 人の方に来た。「那須野さん、煙草!・・・ちがうよ、くれと言ってんじゃない。こんな ところで堂々と吸っちゃヤバイでしょうが。規則違反じゃもうあとがない演劇部だってい うのに」
「こんなに朝早く、こんなところに誰が来るもんか」遼子は首をすくめたが、さすがに 気になったのか、短くなった煙草を消した。「京子たちは?」
「そろそろ、へやに引き上げてるわ。でもね、あれひょっとしたら、京子やあたしたち のこと、浅見司は足手まといになってるかもね。あの子の手際のよさって、ほんと、すご いわ。私なんかが見たこともないようないろんな洗剤使いこなして、どんなしつこい汚れ だって、みるみるきれいにしちゃうんだもの」
「感心してる場合じゃないでしょ」奈々子が唇をとがらせた。「あの子が変なことひき うけてくるから、あたしたちまで毎朝こんな苦労をすんのよ。実力テストも間近というの に、ほんとにたまったもんじゃない・・・でも、ま、いいか。あの子かわいいから許しち ゃう」
「少年みたいな身体が何とも言えないよねえ」遼子は頭の後ろで両腕を組んでのびをし た。「お尻はきゅっとしまって小さいし、胸もまだほとんどないしさ。あのまま大きくな らなきゃいいのに」
「びっくりした時の目がかわいいでしょ。長いまつ毛でぱちぱちまばたきなんかしちゃ ったりして。唇も小さいけどふっくらして、何か食べちゃいたくならない?」奈々子は笑 った。「からかうとすぐ赤くなるから面白くって。その内、あの子の相手役になってキス シ-ンをやりたいわ。舌を入れたらどんな顔するか、絶対見たい!」
「奈々子、あんたがそのかっこうで、その顔で、そういうこと言ってるのって、マジに 不気味よ」朱実が首を振った。
「うふ、そうかしら?」奈々子はこたえた様子もない。
「だけど、あんたのその願いがかなうかどうかはともかくとして、連休にやる次の劇、 そろそろ決めないとヤバイかもな」遼子が両腕を抱え込んで石垣によりかかった。「何し ろ去年の残りの予算はもう底をつきかけてる。あと収入の道と言えば・・・」
「学内でせいぜいうけそうな劇やって、バカなミ-ハ-連中からカンパってかたちで、 しこたましぼりとるしかないってか?」奈々子が、わざとのように乱暴な言葉づかいをし てみせて、大きな目をくるくるさせる。
「いくら何でも、それは禁止されたりしないよね」新名朱実が不安そうに言う。
「そりゃないよ」遼子が保証した。「他の部だってバザ-とか作品の販売とかで、けっ こう稼いでいるんだし、それを全部禁止するってことにでもなったら、どこの部だって黙 ってない。ク-デタ-が起こって、小石川ナンシ-は失脚するさ」
霧は次第に晴れはじめている。寮の建物の二階の窓や、石段の下の砂浜や、果樹園の木 立が見えて来はじめた。寮の食堂の方では、野菜を積んだ車の着く音がして、積みおろし をする人声が聞こえ、コ-ヒ-や卵やベ-コンの香りがどこからともなく漂って来る。
「でも、この学校のケチな女の子たちの出すカンパごときで、部の活動が維持できるわ け?」奈々子が細い眉をきゅっとひそめた。「だいたい、その、入場料がとれるだけの劇 を作る予算をどこからひねり出すの?けっこう、きびしいものがあるよね。ゆうべも村上 セイが説明してくれたけど・・・」
「コンピュ-タ-使っての、部活動と今後の予算の分析な」遼子が言った。「言っとく けど、あたし、あれ、半分もわからなかったぞ」
「あたしもよ」朱実が白状した。「だいたいあの、途中で出て来た緑のX曲線と、ピン クのM曲線っていうの、何?あそこまではまだ何とか話が見えてたような気がしてたんだ けどな」
「あんたはえらいよ。あたしはそのずっと手前で既に思考が停止した。奈々子、あんた は?」
「あんなもん、わかるわけないでしょ。とにかく状況はキビシイってことはわかったん だから、もうそれで充分と思ったの。結局さあ、あたしたちみたいな、中学じゃ優等生だ った子でも、このエリ-ト校に来たら、ただの人ってことだよね。それにしたってセイも すごいと思わない?いつも病気で半分死にかけてるくせに、もっと楽しいこと何もしない で、あんなコンピュ-タ-の世界にはまりこんでさ。いつ死ぬかわかんない身体抱えて、 よくあんな点とか線とか数字ばっかり見て暮らせるよね。あんなもん、何か死んだあとで も見られるような気がしない?」
「それはどうだか」朱実が言った。「第一、あたしたちがわかんなかっただけで、けっ こうやさしい話だったのかもしれないじゃない?現に京子とさつきとは、わかってたみた いよ。画面のぞきこんで、いろいろ討論してたから」
「あの二人はどっちかというと理系なんだよ」遼子が言った。「特に京子は完璧にそう よ。ずっと前、あたしに、恋愛映画や恋愛小説って、ときどきわからなくなるって話した もの。いったん、嫌いで喧嘩して別れた男女がよりを戻すのとか、もう来ないでくれと言 っていたのに相手が来たらうれしそうな顔するのとかが、どうしてかわからないって言っ たものね。『いったん決めたことをどうして変える気になるのかしら、来てほしいなら、 どうして初めからはっきり、そう言わないのかしら』って、ほんとに不思議そうに言うか ら、こっちは絶句しちまった。あのとき、つくづく思ったね。京子には文学は、全部とは 言わないが四十から六十パ-セントはわからんだろうなと」
「あの人はいいの!存在自体が文学だもん」奈々子がきっぱり断言し、また、くっくっ と思い出し笑いをした。「昨日ねえ・・・」
「何かまた、みだらなこと思い出したわけ?」朱実があきらめたような声でたずねた。 「その、コンピュ-タ-のぞいてた時よ。さつきと京子が頭をくっつけあってるから、 後ろから見てると、二人の髪の毛が入り混じっちゃってるの。どちらも多くて、長いじゃ ない?京子は黒くてまっすぐだし、さつきは栗色がかって、ふさふさうずまいてるし。そ れが重なり合ったり、もつれそうになったりしてるのよ。見ていて、ぞくぞくしちゃった わ。何か二人のベッドシ-ンを夢見てしまったりしちゃって、きゃっ!」奈々子ははしゃ いで、そばの朱実に抱きついた。
「そんなの別に夢見て興奮しなくたって、二人の髪のもつれあうベッドシ-ンなんて、 これまでいくらもあったんじゃないのか」遼子がク-ルな声を出した。「早い話があの二 人、『キャメロット』では、京子がランスロット、さつきがギネビア姫をやったんだろ」
「二人が一年のときだから、あたしたちは見てないじゃない!?」奈々子はくやしがっ た。「何で、ビデオとかないんだろ-!?」
「さつきに言えば?あの人、そういうの平気だから、その場面だけ、再現シ-ンでやっ てくれそう」朱実は身体をかがめて、空のバケツを持ち上げた。「そろそろ食事に行かな いと、食堂が混みはじめるわよ」
後の二人も石垣から離れて歩きだそうとした時だ。小川との間にある、バラの生垣の向 こうから、ころころ太った背の低い一人の少女が現れて、こちらに向かって歩いて来た。 「やだもう」奈々子が小声で言った。「あれって、早川雪江じゃない?」
「あの、一年の?」遼子も小声でささやき返した。
「奈々子があんまりミ-ハ-なことばっかり言うから、ミ-ハ-の本家を呼び寄せちゃ ったんだわ」朱実が少し恨みがましい口調でつぶやいた。
◇
さて、ここで話は、ほぼ半月前・・・新学期がはじまる直前にさかのぼる。例の転落事 故はむろん、まだ起こっていない。演劇部はまもなく訪れる悲劇などまったく予感もして なくて、塔のへやで我が世の春を謳歌していた。京子もさつきも美沙も、いうまでもなく まだそれぞれ、生徒会長、サ-クル会議議長、寮委員長をつとめていた。
入学式はまだだったが、新入生はもう全員、浜砂寮に入っており、部屋割りもすべてす んでいた。入学式前後はいろんな行事が重なって京子たちは皆忙しかったが、特に寮の新 しい部屋割りは、上級生たちの移動も含めてさまざまな希望が殺到し、友人関係や上下関 係が複雑にからみあうので、毎年何かと苦労するのが常だった。
それも何とか無事に終わり、他の仕事も一段落して、京子、さつき、美沙と他の数人と が塔のへやでくつろいでいた時、三年生で美術部長の十和田正子が、いつになく思い詰め た表情で塔のへやを訪れたのだ。
何か要望があるということではあったが、それが何かということを正子はなかなか切り 出そうとせず、すすめられたコ-ヒ-を何杯もお代わりした。
もう夜だった。カ-テンを開け放した窓からは、月の光にうかびあがる海と岬と、石垣 に沿って咲きはじめている桜の花の枝々がよく見えた。
十和田正子は、丸いきれいな額と澄んで涼しい目をした、生真面目そうな少女である。 あちこち絵の具で汚れた藍色のスモックを着て、片方の耳だけに赤い木彫りのイアリング を下げているのが、いかにも洒落た風変わりな美しさだった。しかし、その顔色は明らか に沈んでいて、いつもはきはき要点をおさえて、けっこうずばずばものを言うのに、その 夜は何か言いかけては結局口ごもってやめてしまう。
「ねえ、どうしたの?」たまりかねて、とうとうさつきが聞いた。「いつものあなたら しくないんじゃない?」
「そうよねえ」正子は何を言われているのかよくわかっているというように、ちょっと 情けなさそうな笑みを浮かべた。
「美術部で何かあったの?」
「ちがう。私の個人的なこと」正子はまだちょっとためらう風だったが、とうとう思い きったようにコ-ヒ-カップを置いた。「寮の、部屋割りのことなんだけど・・・今更変 えてくれと言っても、それは無理でしょう?」
「まあ、けっこう厳しいわね」美沙が答えた。「でももちろん、しかるべき何か理由が あるんなら・・・」
「理由でしょ?」正子はまた口ごもる。「理由は・・同室の子が、ちょっと・・・」 「十和田さんの同室の人って、たしか新入生ですよね」村上セイが口をはさんだ。「早 川・・ 雪江さんでしたか」
「ああ、あの子!?」上月奈々子がすぐ言った。「丸々太って、色が白くてちっこくて 大福もちみたいな顔した!あんな子、どうってことないじゃない。いつももじもじにこに こしてて、とことん人がよさそうで、けっとばしたらそのままにこにこ笑いながらどこま でも転がって行っちゃいそうみたいな。十和田さんみたいな人が、あんなマリネラ王国の 王子もどきに、いったい何を悩まされてるの?」
「うまく説明できないのよね・・」正子は片手を額にあてた。「とにかく、ロマンチッ クな子だから・・・」
「あの顔で?」奈々子が言った。
「黙ってらっしゃい、上月さん」美沙がやんわりたしなめて、正子の方に向き直った。 「ロマンチックな子は多いと思うけど・・・それが何か、困るの?」
正子はため息をついて顔から手を下ろした。「私が、同和地区の出身だということは皆 さん、ご存じよね」
「知っているわ。あなたがいつも、自分ではっきり宣言しているじゃないの」京子がう なずいた。「そのことでは、あなたを尊敬しているわ。共感もしているわ。それは私だけ ではないと思う。あなたはそのことをいつもきちんと公にして、同和問題だけに限らず、 あらゆる差別と戦ってきた。でも、そのことと、部屋替えを希望していることとは何か関 係があるの?」
正子はまた、答えなかった。
「その一年生に何か言われたの?」美沙が用心深く聞いた。「何か、傷つけるようなこ と・・・いえ、それはないわね」美沙は自分で否定した。「そんなことを言われたからっ て、部屋を替えてくれなんて頼みに来るあなたではないもの。あなただったら・・・」
「ええ、そう。私だったら」正子はうなずいた。「自分の出身地やその他の何かで不当 なことを言われたりされたりしたら、抗議するし、戦うわ。ここにめそめそ泣き言を言い に来たりなんかしない。そういうことではないのよ。あの子・・・早川雪江は小さい時か ら、差別とか、平和とか、環境問題とか、そういう社会的な方面のことをきちんと勉強し てきているわ。考え方もとてもしっかりしている。差別はいけない、同和教育は必要とは っきり言うし、どんな差別にも強い怒りを燃やす。本棚には『破戒』はもちろん、『橋の ない川』『青年の環』『神聖喜劇』まで、被差別部落を扱った小説がずらりと並んでいる わ。とてもよく、本も読む子よ」
「それじゃあ、何が問題なんです?」新しいコ-ヒ-を持って来た那須野遼子が正子の 前にカップを置きながら、そう聞いた。
「彼女が私に、あこがれるのよ」正子は片方の唇のはしだけを動かして、ちょっと疲れ た笑みを見せた。「まるで、悲劇のヒロインを見つめるように、いつもうっとり私を見る の」
「そんなの、どうってことないじゃありませんか。お砂糖は二杯でしたね?」遼子はス プ-ンで正子のカップに砂糖を入れながら言った。「見させておけば?」
「よく言うわよ!」正子は声の震えるのを必死で我慢しているようだった。「それは、 経験しなければわかりっこないとは思うけど、あなたにだって見当ぐらいつくでしょう? 毎日、毎日、朝から晩まで、十字架上のキリストか、火刑台のジャンヌ・ダルクか、ギロ チンの前のマリ-・アントワネットを見るような目で見られつづけるのって、どんな気分 か。キリストやジャンヌはいいわよ。数時間か、せいぜい半日で死んだのだから。私はも う、これで一週間、あの子の目に耐えてるのだわ。あの子は、私の家族、私の出身地、私 の小さかった頃の話をすごく聞きたがるし、涙をためて感動するの。同情し、怒るの。そ れが嘘だなんて言わないわよ。あの子の正義感が本物だっていうことは私、絶対疑わない けれど、でも・・。『江戸時代から幕府の政策にもとづいて、いわれなくさげすまれた人 たち』の一人として私が生まれて、『偏見にもとづく不当な差別を先生や友人からうけて 傷ついた』とかいうことを考えるたびに、あの子が興奮してぞくぞくしているのが、見て いてはっきりわかるのよ。その興奮をかきたてるために、私についてもっと悲惨な話を聞 きたがっているのも感じるの。それを、自分の読んで感動した小説の主人公たちと重ねあ わせて、うっとりしているのも!」
「それがわかっているのに、そんな話をなぜ話すの?」京子が静かに言った。「あなた には話さないでいる権利もあるわ」
「どうして、話さないでいなきゃならないのよ。恥ずかしいことでも、隠すことでもな いのに!」正子は怒った。「私は黙っていたくなんかない。ちゃんと主張もしたいし、抗 議もしたい。自分の置かれた環境についても、受けた不当なしうちについても。それが、 あの子といっしょにいると、まるで殉教者を見るようなあの目がいやで、ついつい黙って しまうのよ。それに第一、同じことだわ。私が何も話さないでも、あの子は勝手に空想す るし、それは私にはとめようがないから。夜、机で勉強していてふっと目を上げると、向 こうからあの子がじっと見つめているの。その目と言ったら、もう明らかに、私が友達や 先生にひどい差別的なことを言われて、屈辱にわなわな震えて立ちすくんでいる情景を、 ありありと思い浮かべている目で・・・」
「そいつは稀有な才能だ」美尾さつきがくすくす笑った。「あんたが屈辱にわなわな震 えて立ちすくむ様子を想像できるなんて」
「だったら、それに怒った私が相手をひっぱたいて、多勢に無勢でたたきのめされて泥 の中で血まみれになって倒れてあえいでいるところでもいいわ」
「あ、それならまあ、まだ少しは想像できる気がするなあ」
「さつき!」正子は叫んだ。「そんなにひとごとみたいに、冗談にしてとりあわないな ら、言うまいと決めていたけど私、あんたのことも言うわよ!」
「は?私が何か?」さつきは鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。
「早川雪江は夜毎あなたが、特高警察に拷問される場面を想像しては、『あ-、かわい そう、何とかしてあげたい』とうめいているのよ、知っていた?」
「いったい、何の話なの?」さつきは、しんから呆然とした。
「特高警察って、あの特高?」美沙も、わけがわからなくなったように口ごもる。「小 林多喜二とかを殺した、あの?」
「・・・戦後は、なくなったと思ってましたが」村上セイが、あやふやな声を出す。
「なくなってるわよ。もちろんよ」正子は頭を抱えた。「セイ、あなたまで何よ!とに かく、早川さんという人はね、たしかにいろんな本を読んでいるのだけど、何か勝手に自 分の世界にあてはめて読むらしくて、あっちこっちで普通の知識がすぽっと欠落している の。少なくとも、そうとでも考えなければ私にはあの人のこと、理解できない。森村誠一 か誰かの書いた戦前の特高の話を、今のことだと思い込んでて・・・」
「いや、それは・・・わからないでもないですけど」新名朱実が不思議がった。「わか らないのは、どうしてその特高が、さつきを拷問にかけなきゃいけないんです?何か理由 があるんでしょう?いくら早川雪江さんでも」
「ロシアのスパイだってことがばれるんだそうよ」正子は、それこそ何だか拷問にあっ たあげくに疲れ切って、すべてを自白することにした人はこうもあろうかというような、 変に無感動でやけっぱちな口調で、さらさらしゃべっていた。「さつき、あなたいつか寮 の電話で誰かとロシア語しゃべってなかった?あの子はそれを小耳にはさんで、そんな空 想、勝手にでっちあげたらしいんだけど」
「私がもし、寮の電話で同志と連絡とるようなまぬけなスパイだったとしたら、どんな 拷問にあったって文句を言わずに死ぬしかないわよ」さつきは笑った。「でもどっちみち ロシア語なんて、しゃべれないし、しゃべったこともないけどなあ」
「あの時じゃないんですか?」村上セイが思い出したように言う。「春休みに、美尾さ ん、ドイツのお友達が遊びに来るかもしれないって、国際電話で何度かうちあわせしてた でしょう?早川さんはきっと、それ聞いて・・・」
「だって、しゃべってたのはドイツ語だよ」
「彼女に区別が、つくものですか!」正子が力をこめて言う。「いいです、もう。言い だしたからには私も言ってしまいます。南条さん、数珠持ってるでしょう?いつもカバン に入れているわね?」
「ええ。亡くなった祖母の形見なの」
「早川さんはそれを見て、あなたが厳しい戒律を守る宗派の仏教徒だと思っているわ。 その宗派の経営する学校に入らなかったことで、あなたのご家族は一門の人に迫害され、 あなたは日夜苦しんでいるって。その迷いを断ち切るために、あなたはしばしば厳しい修 行をしていることになっているわよ。あなたが寝不足で辛そうな顔していると、前の夜に 山の中で滝に打たれたか、火の上を歩く荒行をしたと思って、『怖いわ-、かわいそ-、 でもすてき-』って、あの子、一人でもだえているの」
「それをあなたが、なぜ知ってるの?」美沙は、そのことの方に興味を持ったようだっ た。「彼女はそんな空想を、いちいちあなたにしゃべるわけ?」
「しゃべりますとも。こちらがおとなしく黙って聞いてりゃ、何時間でもしゃべってい るわ」正子はげんなりした顔になっていた。「しゃべらなくってもわかるわよ。ベッドの 中や椅子の上で、しょっちゅうひとり言言っちゃ、自分で自分の身体を抱いて一人芝居を してるんだから。まだ言いましょうか?上月さん、あなたは体操やってるわよね。そこで コ-チにしごかれて、ぐったり倒れてるあなたの姿を、あの子が想像して喜んでいるのを 知ってる?村上さん、あなたが病院の手術台の上で苦痛に耐えてる表情も、あの子が空想 してるの知ってる?那須野さん、あなたが暴走族の仲間にリンチうけて、息もたえだえに なってる顔を、あの子が思い浮かべて楽しんでるのも?そして朝倉さん、あなたが不良に レイプされる場面を、あの子が微に入り細に入り、ベッドの上で再現して『きゃっ、いや っ、どうしよう!』とか一人で興奮して枕につっぷして、シ-ツひっかぶったりしてるっ て聞いて、それでも平気!?聞かせてよ!」
「ちょっとっ!もうっ!」当然ながら、あっと言う間に激怒して、つっ立ち上がったの は奈々子である。「そんなエロマンガもどきのバカなトレ-ニング、あたしがしたことあ るとでも思ってんの、あのつぶれ甘食は!?」
「自分の身体にいろいろな処置を加えられることに、いちいち興奮したり緊張したり、 恥ずかしがったりしていたのでは、病院じゃ一日も暮らせないですよ」村上セイは別に怒 っている風はなかったが、おだやかに抗議した。
「別にどうでもいいけどさ」と遼子。「援助交際はしたし、下着も売ったけど、暴走族 とはかかわってないって、私は」
「まあ・・・やっぱり、少し無理でも部屋を替えた方がいいんじゃないの?」そう言っ た京子の声がかすかに震えているような気がして、美沙とさつきは思わずさっと京子を見 たが、京子は別に動揺している様子はなく、むしろ笑いをこらえているようでもあった。 「南条さん、何とか部屋割り、考えないこと?何なら、私の部屋でもいいわよ、早川さん は。むろん、今、私と同室の那須野さんが了承してくれるならだけど」
しょうもない話の数々を洗いざらいしゃべったことで、あらためて疲れたらしい十和田 正子が、それでもようやくほっとした表情になって、お礼を言って出て行った後、残った 演劇部員たちは、しばらく顔を見合わせていた。
「早川雪江ね!」遼子が言った。「そう言えば、あの子、廊下ですれちがう時、何とな く、不治の病にかかった人か、死刑台にひかれて行く人を見るような、変にうるうるした 目でじっと、私を見てたことがあったなあ・・・どんな空想してたんだか」
「もってのほかの変態だわ!」上月奈々子はまだぷんぷんしていた。「今度会ったら、 けっとばしてやる。せめて、目の前にいた十和田さんでもひっぱたいてやろうかと思った わ。朝倉さん、なぜそうしなかったのよ!?」奈々子は京子にやつあたりした。「ほんと に、せめて十和田さんでもひっぱたいてやればよかったのに!あんなこと言われて何で怒 らなかったわけ!?」
「早川さんが、私のレイプされた場面を再現して楽しんでるってこと?」京子は立ち上 がって正子の使ったカップを片づけながら、優しい笑いを浮かべた。「そんなに怒るほど のことではないわ。他の皆が頭の中でこっそり考えていることを、彼女は口に出してるだ けよ」
一瞬、皆が凍りついた。あまりに急にしんと静かになったので京子は手をとめ、立った まま、テ-ブルの回りの皆の顔を見た。さつき、美沙、遼子、朱実、奈々子、セイ。彼女 たちが皆それぞれに深く傷つけられた顔をして、じっと京子を見ているのを目にすると、 京子の顔から笑いが消えた。
「・・・ひどいですよ、朝倉さん」朱実が低い声で、ぽっつり言った。
京子は目を伏せ、その唇にまた笑いが浮かんだ。さっきと同じ優しい笑いだったが、深 くにじんだ後悔といたわりの色が、その笑いを更に優しいものにしていた。
「ごめんなさい」彼女は明るい、心をこめた声で言った。「謝るわ」
奈々子は軽く口をとがらせ、遼子は天井を見上げる。さつきは猫のように伸びをし、美 沙は京子に微笑みかえした。朱実は背中を丸めるようにしてカップに残ったコ-ヒ-をす すり、セイは手にした書類をぱらぱらめくる。テ-ブルの回りの緊張はとけて、くつろい だ穏やかな空気がそれにとってかわったのだった。
◇
話は再び、現在に戻る。すっかり明るくなって霧もあとかたもなく晴れた、寮の横手の 石垣のそば。朝の波がゆるやかに、石段の下の砂浜によせては返し、花壇の花々が色とり どりの花びらを朝の風に動かしている。
「あの、早川雪江か」腕組みしたまま、那須野遼子がつぶやく。
「あの、早川雪江よ」朱実がうなずく。「結局、あの子、どの部屋に行ったんだっけ? 那須野さんはへや変わってないよね?」
「うん、南条さんが寮委員長の責任だからって言って、自分の部屋に入れた。同室だっ た二年生の北野さんが、せっかく南条さんといっしょになったと思ってたのにって、さん ざん嘆いていたっけ」
「でも困ったな。どうするよ?」朱実はそわそわした。「今のあたしたち、不幸のどん 底で、あの子が最高に好むパタ-ンの境遇よ。顔をあわせたとたんにあの子、うれしさの あまり、ばったり倒れて気絶するんじゃないかしら?」
太って短い足のわりには、雪江の歩みは速かった。あっという間に三人の前までやって 来て、とまどいながらあいまいに微笑みかけた朱実に向かって、「あ・・・新名さん!」 と口の中で言った。「お、おはようございます!」
「そ、そうね・・」朱実はまごつき、ひきつったような笑顔になった。「たしか、あな たは・・・早川さんよね?・・・私の名前を知ってるの?」
「はい!入学式の後のアトラクションで『ピ-タ-・パン』のウェンディたちのお父さ んの役やられましたよね?すっごくカッコよかったから、よ-く覚えているんです!」 「まあ、それは・・ほんとにどうもありがとう」朱実は雪江の熱っぽいまなざしにたじ たじとなり、ちょっと後ずさりしかけた。
「那須野さんたち、どうかしたんですか?」雪江が気がかりそうに、朱実の背後をのぞ きこむ。
それでびくっと朱実が振り向いて見ると、何と遼子はなかば目を閉じ、青ざめた顔にひ とすじふたすじの黒い髪をぱらりと乱れかからせて、ぐったりと石垣によりかかっている し、奈々子はそれを抱きかかえて支えるようにしながらも、彼女自身、見る者の心をかき むしらずにはいられないような弱々しいよるべない表情になって、長いまつ毛の美しい小 さい横顔を絶妙の角度でこちらに向けているのだった。
「ちょっと、あんたたち・・・」ことの次第をのみこみかけた朱実は、奈々子の肩をつ かんでゆすった。「バカなことしないで、ちょっと・・・!」
「痛い・・・やめてよ・・」奈々子は、どこからこんなかぼそい切ない声が出るのかと 思うようなとぎれとぎれの声であえいだ。
「大丈夫ですか?」近づきかねた雪江が、亀の子のように首をのばして朱実の後ろから また声をかける。「誰か・・・誰か呼んできた方がいいのだったらあたし・・・」
「誰も呼んでくる必要なんかないわ」朱実はそっけなく言った。「二人とも!いいかげ んにしなさいね!」
しかし、あわてていた朱実は遼子と奈々子のけんか上手をうっかり忘れていた。二人の 腕を一本づつ取ってひきおこそうとしたとたん、雪江には見えない角度で、奈々子からは 力いっぱい脇腹をこづかれ、遼子からはいやというほど足をけられて、朱実はうっと息を つめ、そばにおいてあったバケツごと、蓮華の花の草原の上にひっくりかえって、身体を 丸めて転がってしまった。
「あ、あの、どう・・・」雪江は、苦痛にものも言えずに腹と足をかかえてのたうって いる朱実を見ながら、途方にくれた声を出した。
「・・・気にしないでいい、早川さん」遼子が目を閉じたまま、かすれた低い、そのく せ人の心をぞくぞくさせるような甘さのこもる声で言った。「疲れているだけだから。手 を貸して、立たせてくれる?」
おっかなびっくりの足どりで、雪江がおずおず近づいて来た。敷石にけつまずいて自分 がよろけて転びそうになりながら、ようやく遼子に近づき、高貴なものにさわるように、 こわごわと手をのばして支えようとする。
小さくつばを呑み込んで遼子は何度か立とうとしたが、「だめ・・・」とささやき、よ ろよろと雪江にもたれかかってしまった。
「あのう、しっかりしてください」雪江は泣かんばかりの顔をしていた。「寝てないん ですか?お腹すいてるんじゃ・・・」
「眠る気にも、食べる気にもなれない・・」遼子はまだしつこく目を閉じたまま、消え 入るような笑みを浮かべた。「演劇部が、もうおしまいと思ったら・・・」
「そんなことありません!そんなこと言わないで下さいっ!」雪江は興奮のあまり、す っかり大胆になって、太って頬のぷよついた顔を真っ赤に染めながら、悲痛な声を絞り出 した。「何があっても、絶対にあたし皆さんのファンですからっ!次の公演、楽しみにし てます、皆で見に行きますっ!だから、だから、そんなこと言っちゃだめ!」
「お金なの、お金がないの・・・」半ばうわごとのようにぼんやりと、遼子は唇を動か した。「次の公演をするためのお金が、私たちにはないの・・・」
「那須野さん!」石垣を離れて、とりすがるように遼子の腕にすがった奈々子が、ふわ ふわと渦巻く髪をゆすり、悲しみに満ちた目を大きく開いて訴えた。「そのことを言って はだめ!部員以外の人に話すことではないわ。ああ・・でも本当に、お金さえあれば、ま だ何とか望みはあるのに・・・くやしいわ!」奈々子は力つきたように雪のように白いの どをのけぞらせて目を閉じ、細いきれいな眉を寄せ、苦痛に耐えるかのように唇をなかば 開いてとめた。
「お金って・・・それ、いくらぐらいあったらいいんですか?」雪江が二人をかわるが わる見ながら、おそるおそる聞いた。「あの、五万とかそれくらいだったら、あたし何と か、何とか・・・」
「ありがとう・・」奈々子は首を振った。「そう言ってくれるだけでもうれしいわ。で も、二十万はどうしても・・・」
雪江は息を殺した。「二十・・・万!?」
「だから、もう、忘れて。私たちのことは」
遼子がつぶやき、そして彼女はこの時初めてゆっくり目を開け、吸い込むようなまなざ しでじっと雪江の目を見つめた。もともと鋭い顔だちで女らしいなまめかしさなどないは ずの遼子なのに、この時、雪江の顔のすぐそばで大きく開いたその目の深い憂いと苦悩に 満ちた切なさときたら、たとえ雪江よりはるかにしたたかな少女でも、海千山千の大人で も、背中に電流が走って頭の中に星が散り、現実的な判断はすべて吹っ飛んだにちがいな い。雪江はごくりと唾を呑みこみ、そのまま、熱に浮かされたように口走った。
「二十万、持って来ます。あたしにまかせて。何とかします」
遼子の目にぱっと希望の光が輝き、しかしすぐまた彼女は子どものようにやるせない、 あきらめた表情に戻って首を振った。「だめ・・」
「だめよ」奈々子も静かにつぶやいた。「あなたにそんなこと、させられない・・」
「いいんです!」雪江の顔は晴れ晴れと明るくなり、誇りと喜びにあふれて、一瞬彼女 はとても美しくさえ見えた。「皆さんのためになるのだったら、お金なんてあたし、ちっ とも惜しくない!明日、必ず、持って来ます!」
まだ何か言いたそうにしていたが、自分で自分のしたことに感極まったかのように、雪 江は突然身をひるがえし、どたどたと小さな土煙をあげながら食堂の方へと走り去って行 った。
肩を並べてそれを見送った奈々子と遼子は、どちらからともなく、ふんと小さく鼻を鳴 らした。
「目の開け方が遅すぎるわよ」奈々子が言った。「危うく開けるきっかけをなくすとこ ろだったじゃない」
「そっちも、首ののけぞらせ方が少し大きすぎる」遼子も言い返した。「あれじゃ、せ っかくの表情が、あのバカに充分見えていない」
「この次にはお互い注意しましょ」奈々子は振り向き、蓮華の草原の上の朱実を見た。 「大丈夫?」
とっくに起き直っていたが、さかさまになったバケツによりかかったまま座りこんでこ ちらを見ていた朱実は、大きく首を左右に振った。
「ミ-ハ-の神さまってものがもしいるとしたら」彼女は力をこめて言った。「あんた たちは二人とも、地獄のとろ火で焼かれるわ!」
「しかたがないでしょ」奈々子が言った。「あの子を見たとたん、十和田さんの話して たこと皆いっぺんに思い出して、ついでにあの時、腹がたったのまで皆思い出しちゃった んだもの。あの子があのぼた餅みたいな間抜けな顔でよ、京子やさつきや皆のことをあれ これ空想してるのかって思っただけで、どんな残酷なことでもできそうよ。三十万と言っ てやればよかったわ!それだって安いものでしょ、あたしたち、あの子が見たがってたも のを見せてやっただけなんだから。ねえ、遼子?」
「そうさ、金はバカからむしりとるものさ」頬のそげた青白い顔に遼子は冷たい笑いを 刻んだ。「服脱がないですむ分、援助交際よかよっぽど楽だし」
「ねえ、朝ごはん食べに行こっ!」奈々子がはずんだかわいい声で言って、草の上に座 った朱実の背中に抱きついた。「あつあつのチ-ズト-ストと目玉焼きとが、すっごく食 べたい!」
「悪いことした後って、人はおなかがすくんだわ」朱実は深いため息をつくと、奈々子 を腕にまといつかせたまま、バケツを拾って立ち上がった。