小説「散文家たち」第13章 月夜

「とても、美術部の部室だとは思えないわねえ」
新名朱実があたりを見回して、思わず声をあげた。
エアコンが低くうなって、快適な温度に保たれている室内は、ちりひとつない。壁際にずらりと並んだ大小さまざまな機種のコンピュ-タ-の画面が鈍く光っている。何台かの画面は色とりどりの不思議な模様を画面に描き出していた。真っ白い壁のあちこちには、さまざまな色や大きさの同じ写真が、所せましといくつも貼りつけられている。
朱実といっしょにへやに入ってきた村上セイは、目を輝かせてコンピュ-タ-のひとつひとつをのぞきこんで見てまわっていた。
「すごいなあ」声をひそめて彼女はささやいた。「最新の機種がそろってる。美術部って、どうしてこんなにお金があるんだろう?」
「先輩からの寄付がけっこうすごいんだって聞いたことがあるけど」朱実も小声でささやき返した。
洗いざらしたジ-ンズに、虹のような色とりどりの薄い長いブラウスを着て、小さい貝殻のブロ-チをつけた部長の十和田正子が、木製のサンダルをかたこと鳴らして入ってきた。
「ごめんなさい。今ちょっと、皆、夏の作品展の会場の下見に行っていて」
「こちらこそ、すみません」朱実は謝った。「忙しいのに、お邪魔して」
「いいのよ。昨日からの約束だもの。下見の件は今日の放課後になって、急に連絡があった話なの。さくら通りの広場の近くで、お店の二階にちょっといい場所が見つかったみたいで」
冷蔵庫からジュ-スと氷を出して、窓際のテ-ブルにおいたコップにつぎながら、正子は二人を見て笑った。
「びっくりした?美術部っていうと、キャンバスや絵筆が転がっていて、絵の具で床が汚れてるなんてイメ-ジは、もう古いのよ。今、うちの部で一番はやっているのは、コンピュ-タ-の合成画面で作る抽象絵画なの」
「じゃあ、彫刻とか油絵なんかやってる人って、もう全然いないんですか?」
「いるにはいるけど、少ないわ。本当は私も油彩なんだけど、ついついこっちが面白くって。あのドアの向こうのへやは一応まだ昔ながらの美術部室なんだけど、めったに皆、行かないの。まあね、先輩たちがうるさいから、夏の作品展には油彩も水彩も陶芸も、一応出品はするけれどね」
しめきった大きなガラス窓ごしに、輝いて流れる小川と風にゆれる木々とが見えた。校舎から少し離れたサ-クル棟のはしにある、この美術部室からは海が見えない。そのかわり、鉄さくの向こうから曲がって、こちらに流れ込んできている小川と、それをとりまく林に面している。窓を開ければ多分、川のせせらぎの音と木々の葉ずれの音にまじって、今日などは蝉の声がやかましいほどだろう。だが、そんな音の何も聞こえない涼しい室内にこうしていると、窓の外の見慣れた景色もどこかちがって、異次元の空間に迷い込んだような奇妙な気持ちになってくる。
「それで?」ちょっとぼんやりしていた二人は、正子の声で我に返った。「さつきの話だと、演劇部室の奥のへやの壁に、何か、壁画が描いてあったんですって?」
「そうなんです」セイがうなずいて、かかえていた茶色の大きな封筒の紐をほどいた。「来ていただいて直接見てもらってもよかったんですけれど、十和田さん、お忙しいからと思って───今日は写真を持ってきました」
セイがさかさにした封筒から、壁の色と同じ真っ白なテ-ブルの上にこぼれだした二十枚近い写真を、正子は手ですくうようにして受けとめた。なれた手つきで、トランプでもひらくように、すばやくそれらを広げて並べる。
緑の森の全景、戦いの場面の全景、そして、ひとりひとりの人物が大きく写っている写真───血の海の中の二人、首をつった死体、毒酒を飲んでゆがんだ顔。
「これ、何の絵かおわかりですか?」セイが聞く。
正子は小さく首を振る。
「何か、物語のようね。南条さんなら、わかったでしょう?」
「ええ。彼女が皆に説明してくれました」セイはうなずいた。「これ、二つのお話が、それぞれ向かい合った壁に描かれて、残りの二つの壁の中では、その二つの話がいっしょになっているんです。戦いの場面と、死の場面で」
「それは、何となくわかるわ」正子がうなずいた。「この、森で暮らす人々───もしかして、これ、『ロビン・フッド』?皆、緑色の服を着て、弓矢を持っているわよね」
「そうです。シャ-ウッドの森にたてこもって、残酷な王やノッティンガムの長官と勇ましい戦いをくりひろげたアウトロウたち、そのリ-ダ-のロビン・フッド───皆に愛されたイギリスの伝説です」セイが苦笑した。「私も子どもの本で前に読んでいたんですけど、この絵を見たときには、とっさにわかりませんでした。何だか、この死の場面の印象があんまり強烈だったせいか」
「その『ロビン・フッド』の話と、このもうひとつの世界───水辺の岩山で暮らしている人たちの世界とがあって、敵と勇ましく戦う場面ではそれがひとつになり、彼らが最後をとげる場面でもまたひとつになっている───」正子は写真をかわるがわる、とりあげて見つめた。「そういうことかしら?」
「ええ」朱実がうなずく。「この、白い服を着た人が多い、もうひとつの世界は中国の『水滸伝』なんです。いろんな事情からお尋ね者となった英雄豪傑たちが、梁山泊という天然の砦のような地形の土地にたてこもって、皇帝の軍と戦い、勝利しつづける───ちょっと『ロビン・フッド』と似ていますよね」
「そうすると、この赤い光りの中で、腕から血を流して死んでいるのはロビン・フッドなの?」正子が聞く。
「そうです」セイがうなずいた。「私、よく知らなかったけど、『ロビン・フッド』の最後って哀しいんですね。ロビンは少し年をとって身体が弱ってきたから、治療してもらおうと思って、針で血管から血をとって身体の調子をよくするのが上手な女の人のところに行くんですけれど、その人はロビンを裏切って、血をとめないまま放置する。やっとのことで吹いた角笛の音を聞いてかけつけてきた、一番の友人で忠実な部下のリトル・ジョンの腕に抱かれてロビンは息をひきとる───」
「『水滸伝』でも」朱実がつづけた。「ラストに近く、主人公───っていっても、あれは百八人もいるわけですけど、その大半が死んでしまって──。特に、一番乱暴で勇ましかった黒旋風李逵は、リ-ダ-の宋江に毒殺されます。宋江もまた毒をあおいで死にますし、弓の名手の花栄と、軍師の呉用は首をくくって自殺するんです」
「それが、いっしょにして描かれてるのね」正子は写真をじっと見つめた。「───すごいわ。古めかしいように見えて、とても新しさを感じさせる絵だわ。暗くて不気味なのに、華やかだし力強い──。いったい誰が描いたのかしら?」
「そこの、森の場面の写真の右下のところに署名らしいものが写っているでしょう?それが、作者のサインじゃないかと思うんですけど、よくわからないんです」セイが指さして、教えた。「長いこと放っておかれたにしては、よく保存されてるんですけど、やっぱりよく見ると、あちこちいたんで、はげおちているところもあるし、そのサインのところもちょっと───」
「これだけの絵を描く人なんだから、生徒だとしたら、まず考えられるのはやっぱり美術部関係だろうということになったんですけど」朱実が言った。「ただ、あのへやにつもりつもっていた、がらくたの様子から見て、十年二十年前の卒業生かもしれないんです。そんな昔のこと、わからないですかねえ?」
「難しいかもね」正子は首をかしげて考え込んだ。「でも逆に、有名な画家になっていらっしゃったりしたら、かえって簡単にわかるかも。作品展には、卒業生の方も大勢いらっしゃるから、この写真借りていていいのだったら、聞いてみるわ。早い方がいいんだったら、インタ-ネットでさがすけど。急ぐ?」
朱実とセイは顔を見合わせた。
「う~ん、微妙なとこですね」朱実がつぶやいた。「実は、朝倉部長は、この絵のことを全然気にしていないんですよ。皆がこんなこと調べているって知ったら、それこそ『いったい、何で?』って、びっくりするんじゃないのかな。それぐらい、気にしてないんです」
「異常なぐらい、気にしてません」セイも言った。「この絵を初めて見た時、私たち皆しばらく黙ってしまって動けなかったんですけど、朝倉さん一人は『あら、きれいな絵ねえ』とか言っただけで、さっさとへやのかたづけにかかってしまいました。今はもう、奥のへやもだいたいかたづいていて、劇の練習や大道具作りなんかもほとんどあそこでやってるんですけど、私たちはやっぱりちょっと、夜遅く一人であのへやにいて、この絵にとりかこまれていると落ちつかなくなるんですよ。でも、朝倉さんは平気で夜中近くでも、その首つりや毒殺の絵の真下で一人でパソコン動かして仕事してます。『何ともないんですか?』って一度聞いたら、『だって、壁画なんて、言ってみれば壁紙の模様みたいなものでしょう?』って、けろっとしていました。あの人にとっては、どうやらほんとに、これって、ただの模様なんです。まあ、そういうのを見ていると、私たちもずいぶん慣れてはきたんですが、特に一年生の何人かは今でも相当怖がっていて───」
「こんな絵を毎日見てたら、変な霊にのりうつられちゃうとか、この絵には呪いがかかってるんじゃないかとか、こそこそ言い合ってるんですよ」朱実が苦笑する。「情けないって怒り飛ばしても、こういうのってかえって逆効果ですしね。南条さんと美尾さんは、それを気にして、せめて、この絵の作者とか、なぜ、こんな絵が描かれたのか、その理由とかいきさつとかがわかったら、少しは皆落ちつくんじゃないだろうかって───」
「下級生って本当に、そういう話が好きよねえ」正子はうんざりしたように言った。
「美術部でも、そうですか?」朱実がパソコンの列の方を手で示した。「こんな最新技術をとりいれた芸術活動していても?」
「関係ないわよ、そういうこととは」正子は言った。「サ-クル棟の、このあたりに昔は大講堂が建っていたらしいの。とっくにとりこわされて、今は土台も残ってないけど、向こうのへやのすみっこに、講堂の正面にすえつけてあったっていう、サモトラケのニケの像───頭の部分がない、翼と身体だけの勝利の女神の像よ───がおいてあって、それにさわったり動かしたりしたら恐ろしいことが起こるって言われているの。そんな話、下級生にはするなって相当厳しく言ったんだけど、結局伝わっていくのよねえ。おかげで今年も一年生は、その像のそばにも寄りゃしない。めったに掃除もしないから、その回りだけ、いつだって、ほこりだらけよ」
「ともかく、それで、南条さんと美尾さんは朝倉部長には内緒で、この絵について何かわかることってないか、調べはじめているんです」セイが言う。
正子は何か気になるように、黙ってかすかに眉をひそめた。
「わかっています」朱実が言った。「朝倉さんに内緒で何かしようとすると、演劇部にはろくなことがないってことは。でも───」
「でも今度は、別に規則違反をやっているってわけではないし」そう言いながらもセイは少し気になってはいるらしく、髪をくしゃくしゃかきむしった。「とにかく朝倉さんには、皆がこの絵を怖がる気持ち、いくら説明して見てもわからないだろうって思うんですよ。だから───」
「でも、写真で見ただけでも、これは本当にすばらしい絵よ」正子は言った。「京子がどう感じているかはともかくとして、皆がそんなに怖がるというのも、私には理解できないわね」
「とても魅力のある絵だということは認めます」朱実がうなずく。「見ていると、ついいつまでも見つめてしまいそうになる。だから逆に怖いのかもしれません。美尾さんもそうじゃないかな。あの人、下級生を落ちつかせるためって言ってますけど、本当は自分がかなり気にしてるんですよ。創立記念日の夜に、地下室を離れないって宣言したのは、この絵があるからだったのかって、誰かがこの前からかったら、美尾さん、とんでもないって怒りました。この絵があるからこそ、何としても、ほんとはここを出て行きたかったんだって」
「この絵は、私たちに何かを伝えようとしているみたいだ───美尾さんはそう言うんです」セイがつぶやいた。「でも、それが何なのかわからない。それを知らない方がいいような気もするけど、それから逃げるのも腹が立つし、あれやこれやで、見てるとイライラしてくるんだって」
ガラス窓ごしに見える外の日差しが、こころもち弱くなってきているようだ。日暮れが近いのかもしれない。正子は二人の顔を見てうなずき、テ-ブルの上の写真をまとめて一つにそろえた。
「事情は一応わかったわ。朝倉さんに内緒でというのは賛成できないけれど、私の方で調べて何かがわかったら、すぐに連絡すると、さつきたちに言っておいて」
「助かります」朱実とセイは、ほっとしたように頭を下げた。
壁際のコンピュ-タ-の一台の画面に、真っ黒いおどけた小鬼が突然飛び出し、拍手をして、とんぼがえりをうちながら、斜めに画面を横切って行った。

それから、また数日後。
浜砂寮の二階、階段をあがったとっつきにある寮委員会室の大きなソファ-ベッドに堀之内千代は寝ころがって、例によって、ぶあつい本を読んでいた。
窓の外の藍色の空には、ぽっかりと大きく、黄色いバタ-のような夏の月が浮かんでいる。今夜はどうやら、満月のようだ。
夏休みも近くなった土曜の夜とあって、外出している者も多いのか、寮の中は静かだった。海から吹いてくる風が涼しいせいか、ク-ラ-をつけずに窓とドアをあけはなしているへやが多いため、あちこちのへやからテレビやラジオの音や、音楽が低く流れ出してきて、とぎれとぎれに入り交じりながら、このへやまでも届いてくる。
寮委員長になってからというもの、千代は放課後や休日や夜はほとんど、この部屋にいて、ソファ-ベッドに寝そべっている。ソファ-の背もたれはいつも倒されたままで、もはやソファ-として機能することは、ほとんどないと言ってよかった。
元寮委員長の南条美沙がおいていったキルトのベッドカバ-をふとんがわりにひっかぶって、千代は夜もよくそこで明かす。枕がわりにしているのは、これまた大西和子の祖母が、九十歳のお祝いに町役場から贈られた、紫色の真ん中に白で「寿」の一文字が浮かびだす、つるつるした大きな座布団だ。社交ダンスと海外旅行にうつつをぬかしている和子の祖母は「こんなの、あたしの趣味にゃあわない」と言って、座布団を和子にくれた。和子も少し始末に困って、寮委員会室に寄付したのである。紫の大座布団とキルトのカバ-とのミスマッチはものすごいものがあるが、千代はもちろん気にしていない。
美沙がいた頃には、いつも紅茶やクッキ-のいい匂いがたちこめ、小ぎれいにきちんとかたづけられていたこの部屋も、今は散らかり放題で、コ-ヒ-カップの大半は灰皿になり、誰が来てもお茶の一杯も出されることは決してなかった。ほこりだらけのテ-ブルの上には、千代の本や洋服が山積みになっている。しかし、それはそれでまた居心地がいいのか、このへやを訪れてしゃべっていく者はけっこう多い。ときどきやってくる美沙も、別に嘆く様子もなく、へやをかたづけるでもない。窓の敷居やベッドのすそに腰をおろして、千代としばらく小説の話などしては帰って行く。
その夜は訪れる者は誰もなく、一度窓から入ってきた猫のジャコポが、さつきがおいていった、えびせんべいの袋に頭をつっこんで残りをたいらげ、顔を洗って出ていっただけだった。だが、廊下の時計が九時を打って間もなく、あけはなしになっていたドアを、誰かが小さくノックした。
「お入り」顔も上げずに千代は言う。
返事がないので目をあげて見ると、浅見司が水玉模様のパジャマ姿で、ドアから半身のぞかせていた。
「千代さん───あの、今、ちょっといいかな?」
「ああ。お入りって言ったろ?」
「───一人じゃないんだけど、いい?」
「ゴジラかティラノサウルスの婚約者でも連れてきたかい?」
司がにこりともしないで、しょんぼり立ったままなのを見て、千代は首をすくめて煙草をもみ消した。「冗談だよ。かまわないからお入り」
やっぱり沈んだ表情のまま、司はふり向き、身体を開いて、後ろに立っていた少女たちを通した。片山しのぶ、立花朝子、そして田所みどり。皆、司と同じように、そろって、うかない顔をしていた。

一年生たちはあまり知らないことなのだが、千代は一年生たちが苦手である。
ついでに言うと、浅見司は全然知らないことなのだが、千代は一年生の中でも特に、司が苦手なのだった。
「お掃除好きやきれい好きは、別にいいのさ」彼女はある時、さつきにそうこぼした。「そりゃ、人間はどんな趣味だって持つ権利はあるからね。ただ、あの元気のよさだけは何とかならんもんかねえ!あたしはフクロウみたいなもので、明るい光りを見るともうそれだけで、頭がくらくらするんだよ。寝不足で半分ぼうっとして廊下を歩いている時なんか、あの子が底抜けに明るい元気のいい声で『お早うございますっ!』って遠くからあいさつするのを聞くと、身体の力がいっぺんにぬけて、ぐたっと倒れそうになる。どうしてあの子は、いつもああ、のべつまくなし生き生きはつらつ、元気でにこにこしてられるんだよ?いや、そりゃ別に不愉快じゃないよ。あの子が悪いわけでもない。ただ、疲れるのさ!実際、もうこのごろじゃ、廊下や校庭であの子が向こうから来るのを見ると、本能的に、思わずくるっと後ろを向いて、走って逃げたくなるんだよ」
ところが、千代にとってはありがたいことに、今夜の司は珍しくまったく元気がなかった。
もう遅いので四人の少女は皆、寝巻姿だ。しのぶは何の飾りもない白い長いネグリジェの肩に黒い髪をふっさりたらしていた。立花朝子は思い切りフリルだらけのピンクのパジャマで、いつもの倍もふっくらとして、まるで大きなマシュマロだ。みどりはミッキ-マウスの顔が胸いっぱいにプリントされた黄色いパジャマにめがねをかけて、何だかときどきアニメに出てくる科学マニアの少年に似ている。青と白の水玉模様のパジャマの司は、同じ模様のヘアバンドで、このごろ少し長くなった前髪をおさえている。
へやにある椅子の上には皆、千代の本や洗濯のすんだ下着やシ-ツがうずたかく積み上げられているため、このへやに来た誰もがそうするように、四人は千代のソファ-ベッドの足元や枕元に腰を下ろし、ベッドの上はたちまちさまざまな色彩があふれて、花が咲いたようになった。
ただし、四人の顔色だけはあいかわらず冴えないのである。
「うかない顔だね」本のペ-ジをめくりながら千代は言った。「どうしたのさ?」
「───というところを見ると、千代さんは」片山しのぶが考え込んだ表情のまま、千代の顔を見た。「まだ何も聞いていらっしゃらないんですね。夏季公演の配役のこと」
「『三銃士』の?ああ、そう言えば、ゆうべ部室で配役発表するから来てくれって、さつきが言ってたっけ。けろっと忘れてしまっていたよ。何か、あたしにルイ十三世をやってくれって言われて、ひきうけたような、そうでもないような」
「ひきうけられたんじゃないんですか、配役表にのってますから」司は、ベッドカバ-のはしの房がもつれてからまりあっているのを、いらいらしたように指先で荒々しくひっぱってほどきながら、珍しく投げやりな口調で言った。「『どうだ、君、ひとつ退屈しようじゃないか』なんて、臣下をつかまえちゃ言う王さまなんて、そりゃ、千代さんにはぴったりでしょう」
千代はちょっと驚いたように目を上げて司を見た。司はきゅっと唇をかんで、泣きだすまいとするように、いっしょうけんめい目を見張って、窓の外のまん丸いきれいな月を腹立たしそうに、にらみつけている。
みどりが深いため息をついて、パジャマのポケットから四つ折りにしてホチキスではしをとめた何枚かの紙を取り出し、広げて千代の前においた。
「ごらんになります?配役表です」

「やれやれ、かわいそうに」千代は首をふりながら、本はまだ手にしたまま、余った指を動かして配役表をとりあげた。「いったい、何の役があたったんだい、あんたたち?ダルタニアンが田舎から出てきた時に乗っていた、黄色い馬かい?最後の場面で登場する、不気味な首切り役人かい?でも、あの人は悪人じゃないよ。悪いのは、あの人に首を切られるミラディ-の方で───ははあ、もしかして、あの女にあたったのがいやなのか。美人だけれど、めちゃくちゃ悪人だからね、ミラディ-は。でも、それはそれでまた、魅力的というもので───」しゃべりながら紙を開いて、目を落とした千代は、一瞬けげんそうに黙り込んだ。
四人の少女も黙っている。
千代は目を上げ、次々に皆の顔を見回した。
「どういうことよ?あんたら四人が主役じゃないか?」
「そうですよ」司が月を見たまま言った。
「そうですよ」みどりが深いため息をつく。
千代は再び、紙を見た。「しのぶがアトス、朝子がポルトス、みどりがアラミス、司がダルタニアン。いいじゃないかね、イメ-ジだって、そこそこあってる。いったい何で、四人そろってそうやって世界の終わりが来たような───それともあれかい、ラストでダルタニアンの恋人のボナシュ-夫人コンスタンスが、アトスの元妻ミラディ-に殺されて皆が悲嘆にくれる場面の演技を、あたし相手に今から練習しておこうとでも?いい役もらってはりきって、やる気になると、そういうことにもなるのかね」
「───千代さん」しのぶが、陰気な顔で笑った。「その配役表、もっと先まで読んでみて下さい」
「そうしたら、おわかりになりますから、あたしたちの、今の気持ちが!」立花朝子がしおれかえった、恨めしげなまなざしで、つけ加えた。
吐息をついて千代は再び配役表に目を落とす。
「銃士隊長のトレヴィルは美沙やん。まあ、穏当なところだろうね。枢機官リシュリュ-が村上セイ。なるほど。それなりに雰囲気は出るだろう。ダルタニアンの宿敵の剣豪ロシュフォ-ルが那須野遼子?それは適役すぎて、恐いものがある。王妃アンヌは王銀花。ははあ、魅力的な外国なまりってやつをねらったか。なかなか」
「わざと時間をかけていらっしゃいません?」みどりが冷やかな声で聞いた。
「とんでもない」千代は首を振る。「この配役の中に、あんたたちをそれだけ落ち込ませる何かがひそんでいるんだろう?それを見つけようと思うから、じっくり検討してるんじゃないか」
「そんな必要ありません」みどりはそっけなく言った。「ひそんでるなんて問題じゃないわ。海岸通りにトラが昼寝してたって、これより目立たないだろうというぐらい、見たらもう、すぐわかることです。さっさ───失礼しました、早く先をごらんになって下さい!」
「その迫力ならアラミスは充分やれるさ」千代は冷やかしておいて、紙をめくった。さすがに少しスピ-ドをあげる。「王妃の恋人バッキンガム公爵は新名朱実、コンスタンスが緑川優子、夫のボナシュ-が大西和子、ミラディ-が上月奈々子、その侍女ケティ-は斎藤眉美、と。皆、悪くないじゃないか。いったいどこに問題が───あれ?───そうか───変だね」
千代は紙をめくり戻してたしかめた。
「京子は?さつきは?竜子もさ───それにあんた、日村通子はどうしたんだい?ミラディ-なんて、あの人のはまり役だろうに」
司が何か叫びそうに、突然身体の向きを変えたが、みどりがその肩をつかんで制した。「どうか───最後まで、早くごらんになってくださいますか?」
千代はどうやら本当に好奇心にかられたようだ。本を手からはなして枕のそばに置き、急いで紙をめくって三枚目を見た。

「グリモ-?」
千代の眉がつり上がった。
「京子がグリモ-?だって、グリモ-って、たしか、アトスの従者だろ?」半信半疑の表情のまま、彼女は次の名を読んだ。「ムスクトン?竜子が?これはポルトスの従者じゃなかったっけ?───う~ん、そうなると、もしや?───で?日村通子が、アラミスの従者のバザン?美尾さつきが、ダルタニアンの従者のプランシェ?───いったい、これ───」千代は四人の顔を見回したが、すぐに配役表を宙に放り投げ、いつもの彼女らしからぬすばやさで、本をベッドのかたわらのかごに投げ込み、ふとんがわりのキルトのカバ-を頭からひっかぶった。「ご冥福を祈るよ。お休みっ!」
「千代さんっ!もうっ!」
八本の手が同時に伸びて、キルトのベッドカバ-を否応なしに千代の上からひっぺがそうとした。
「そんなのってないでしょ!?」
「話ぐらい聞いて下さいっ!」
「千代さんだけが頼りなんだから!」
「起きてくれなきゃ、泣いちゃいますよ!」
「窓から、飛び下りますからね!」
「図書カ-ドのインチキしてること、先生たちにとっつけますよっ!」
「南条さんがジャコポにやったチ-ズ、横どりして食べちゃったことも、教えちゃうから、南条さんに!」
「美尾さんのシャンプ-、無断で使ってるでしょう!?」
「村上さんのパソコンいじってて、フロッピ-一枚こわしましたよね!?」
「ぜ~んぶ、報告しますからっ!」
「こら───待て、待て、ちょっと待てっ!」千代は四人の手を払いのけながら、ベッドの上に起き直った。「誤解だ、それは!あのねえ───ジャコポはアンチョビ入りのチ-ズはきらいなんだし、あのシャンプ-は、さつきが忘れて───何でだ、しかし、何でまた、あんたら、そういうこと、いちいち皆知っている!?」
「一年生の部員は、入る情報は互いに皆交換しあって、いつも団結してるんです」しのぶが息をきらせながら、乱れた髪をかきあげた。「こんな演劇部の中で、あんなものすごい先輩たちといっしょに生きていくためには、それでなきゃ、やってられません」
「そりゃまるで三銃士たちのモット-じゃないか。『一人は皆のために、皆は一人のために』ってやつだ」
「あ-っ!もう、そのことばはやめて下さい、聞きたくもない!」朝子は大きなピンクのリボンで結んだ髪をばっさり波うたせてベッドの上につっぷした。「どっちみち、そんなことしてがんばっても何にもならなかったってことが、今度のこれで、はっきりしました。これって絶対、下級生いじめです、美尾さんたちには、何かとっても悪い霊がきっととりついちゃったんです!」
「いや、これはまったく正直な話、あたしもちょっとそういう風に考えたくなるキャストではあるなあ」骨ばった長い指で千代はとがったあごをなでた。「いったい、さつきたち、何を考えて───」
「でしょう?」片山しのぶが吐息をついた。「誰が考えても、本来の三銃士とダルタニアンに一番ふさわしい人たちが、皆、その従者になってるんですよ。今度という今度ばかりは、美尾さんたちの気持ちがわかりません。私たち四人がどんなにバカみたいに見えるかってことは考えないでおくとしても、下手したら劇全体がめちゃくちゃになるとは思われませんか?」
「しのぶ、あんたやっぱりえらいわよ」朝子が、キルトのカバ-の上に両手をついて起き直り、くしゃくしゃに乱れた髪に包まれた、ほてった顔でつぶやいた。「あたしにはもうとても、そんな、全体のことなんて考えるような余裕ない!」
「自分のことを考えるのがいやだから、一生けんめい全体のこと考えるようにしてるんだ」今度はしのぶが両手で顔をおおってしまった。「いつも皆のリ-ダ-で、自然な立ち居振る舞いにおのずと貴族の風格があって、もって生まれた品のよさがにじみ出る───朝倉さんて、ただ立っているだけで、半分以上アトスじゃないか!?そんな人に従者になって、そばにいられて、私にいったい、何ができる!?」
「他のいろいろな点でも皆、あたしは日村さんにかないません」田所みどりも悄然とうなだれて、ミッキ-マウスのパジャマのひざを抱え込んでいた。「でも、アラミスって、三銃士の中で一番、優雅で色っぽい人なんですよ!殺人好きの兵士バニ-をやっていた時ですら優雅だったのが日村さんです。『フィガロの結婚』の時の貴婦人のあの上品なお色気と言ったら、あたしでさえがふらっとしました。ああもう、あの人があの雰囲気で、あたしより頭ひとつ高い、あのきゃしゃな細身でそばに立って、あの流し目と甘い声で『ご主人さま、シュヴル-ズ夫人からお手紙がまいっております』なんて言うんですか?考えても見てください!そのあとあたしが何言ったって、何をしたって、絶対にそのへんの、がさつな、ただの女の子にしか見えません!いいえ、そもそも、そんな時に誰一人あたしを見ている人なんて、もういるわけがないでしょう!?」
「しかしまあ、あの人は『プラト-ン』で初めてズボンをはいた人なんだからね」千代がなぐさめた。「あんたはずっと男役で、剣の使い方だって慣れてるし、身のこなしという点では何とか彼女に太刀打ちできるんじゃないのかい?」
「おことばですけど」みどりは言い返した。「あの人が生まれて初めて、ついこの間ズボンをはいただなんて、あたし絶対、信じられないんですけど。この前なんか、まるで乗馬服みたいな、ぴっちりした黒いパンツにロングブ-ツはいて、さっそうと大股に寮の中庭横切って行って、途中、果樹園のところの柵に指をかけたかと思ったら、ひらっと飛び越えてましたよ」
「うん、そう言えば」しのぶもうなずく。「昨日の朝、食堂でトレイ持ったまま、何でもないように、ぱっと片足宙に回して椅子をまたいで座ってたよな。回りの子たちが、食べるのやめて見とれていたっけ」
「そのズボンも、あの人の場合、絶対にジ-ンズじゃなくて、いつもレザ-やシルクやベルベットの、それも黒ばかりっていうのも、いやみだわ」みどりがため息をつく。「ズボンをはきはじめたばかりだから、ジ-ンズなんて自信がございませんのとか、色を選んでいる余裕なんてまだとてもとてもとか、本人、口じゃ言っているけど、絶対にちがうと思う。あれはあの人の美意識が、ジ-ンズなんてはくのをきっと許さないんだわ。だめ、だめ、だめ、ズボンが何なの、身のこなしが何なの!?どこをとってもあの人以上にアラミスに見える自信なんて、あたしにはない!」
「人にどう見えるかなんてことより」立花朝子は、ぼうっと宙を見つめたまま、ぼんやり首を左右に振った。「あの峯さんが従者の役でそばにいるって思っただけで、あたし、もうだめ。あたし、峯さんのこと、恐いもん。大好きだけど、でも、恐いんだもん。そりゃ峯さんは見るからに豪快で、派手で、絶対ポルトスにふさわしいけど、あたしなんかより、そりゃもうずっと───でも、そんなことより、あの人があたしのことずっと見ていてチェックしてると思っただけで、だめだよ、手足が動かない。せりふなんか覚えてたって、きっと皆忘れてしまうよ。それに、あの人───峯さんは、何かわかるんだけど、きっとこういうことになったら、他の三人よりあたしのこと、一番うまくやらせようと思って、きっとめちゃくちゃ、はりきるわ。あたしが失敗すればするほど、自分のことみたいに心配して、怒るわ。日村さんや美尾さんは、自分の主人役の人が失敗したって面白がるだけだろうし、朝倉さんもそういうところはク-ルだと思うけど、峯さんは───親切であったかい分、逆にそういうとこで、きっとやっきになっちゃうし、そうしたらあたし、ますますだめになる───わあ、嘘、どうして!?何か、先のことがつぎつぎ皆わかってしまう!ショックのせいで、予知能力がめざめちゃったんだろうか、あたし!?」
「まったくもう───」千代はさじを投げたように言って、司の方を見た。
司は黙って、千代を見返す。
「ずいぶん、今夜は静かじゃないか」千代は、まばたきして見せた。
「あたしが、何を言うんです?」司は本当に、不気味なほど静かな声を出した。「あたしに、何が言えるんです?何も、言うことなんかないわ!ひらがなだったら、たった五文字、それで、すべてが言いつくせるわ」彼女は開いた手のひらを前に出し、一文字ずつ指を折って数えて見せた。「美、尾、さ、つ、き!これでもう、充分じゃないですか!?これ以上、いったいあたしが、何を言うの?何の説明が、いるんです!?」

「たしかに、まあねえ」千代は腕組みして、うなった。「そりゃあ、さつきは、ベトナムの村で飼ってるブタの役やったってファンレタ-が殺到するだろうと言われた人だし、それに従者をやられた日には───だけど待ちなよ、司。あんたとみどりとは、この何か月かというものずっと、うり二つの役だの、二人一役だのばっかり、やってきたんだったろうが?ダルタニアンとアラミスが、そんなにそっくりでいいのかい?」
「それは、あたしたちもすぐ言いました」みどりがうなずいた。「アラミスは王妃の側近クラスの貴婦人たちと恋なんかして回ってる、洗練された宮廷貴族だし───」
「ダルタニアンは田舎からパリに出て来たばっかりの世間知らずのに-ちゃんです」司もつづける。「そんな二人がうり二つってのは、いくら何でもまずいんじゃないでしょうか、って」
「でも、そうしたら上月さんは、そんなのメイクや衣装の着方でどうにでもなるっていうし───」
「南条さんは南条さんで、だいたいアラミスとダルタニアンは、四人の中じゃ年も近いし、外見もそこそこ似てるはずだから、そう不自然でもない───って」
「そうだったっけか」 「あたし、めったに本読まないし、南条さんに対抗するなんて時間のむだとは思ったけど、でももしかしたらと思って、みどりと二人で、岩波文庫の『三銃士』をすみからすみまで読んだんですよ。アラミスとダルタニアンが、ものすごく見た目がちがうとかいう描写が一行でもないかって。そうしたらですねえ!」
「あったのかい?」
「いえ、その逆で」みどりが首を振った。「読んでてわかったんですけど、ダルタニアンがはじめエサ-ル侯の護衛士やってて、いろいろ手柄をたてたからって、初めて他の三人と同じ銃士になれた時、アラミスが自分の制服の余分に作ってたのをダルタニアンにやってるんですよ。作者のデュマが、ごていねいに書いてくれてるところによると、二人の体型はまったく同じだったから、それで問題なかったんですって」
「ほんっとに、そう書いてあるんですよ、岩波文庫の下巻の二一五ペ-ジに!」司が情けない声を出した。「アレクサンドル・デュマにまで見はなされたんじゃ、もうあたしたち、勝ち目がないって思われません?」
「まあ、そりゃ」千代は天井を見上げて、ひとりごちた。「───あたしがアレクサンドル・デュマだったとしたっても、そりゃ、あんたたちよりは、あっちの四人につくだろうなあ」
「───千代さん」片山しのぶが、ベッドの上で座りなおした。「お願いがあるんですけど───」
「だめだと言ってるだろう?」千代は首をふった。
「まだ何も言ってないですよ」みどりが、あきれたように言う。「千代さんも、しのぶも」
「聞かなくたって、そんなもんわかるわさ」千代は、ベッドカバ-をひっぱりあげた。「このキャスト、かえてくれって、京子やさつきに頼めってんだろ?できるわけないだろうが、そんなことが?京子はいったん決めたことは変えないよ。さつきは───ふむ、まあ、さつきなら少しは望みがないわけではないね。あんたたちが、このキャストをちょっとでも変えでもしたら退部するとか言っておどかせば、さつきのことだ、いつものあまのじゃくで───」
「だめです」司が首を振った。
「なぜわかる?」
「もうそれ、やってみましたもの。みどりと二人で今朝、美尾さんに言ったんです。あたしたち四人、今回のキャストには大満足です、ついては、どんなミスをしても、どんなに───とにかく何があっても、あたしたちをこの役からは下ろさないで下さい、もし、そんなことしたら、一年生は全員退部して、新聞部に入って、小石川ナンシ-さんの手足となって働きます、そうしたら美尾さん、さぞお困りでしょう───って」
「ふうん。さつきはどうした?」
「美尾さん、口を耳まで開けて笑ったみたいに見えましたよ。どういう感じか、おわかりですよね?そして『あ~ら、まあ、どうしましょう!?そんなことになるなんて、考えただけでも恐ろしくって、身の毛がよだつわ。まかしておいて。約束するわ。何があっても、このキャストだけは絶対変えたりしないから。美沙や京子にも、ようく言っとく。どうぞ安心して、心おきなく、最後までがんばってちょうだいな、かわいい、あたしのご主人さま!』って言って、あたしにキスしました」千代が、話にならんねと言った顔で見つめ返したので、司はキルトのカバ-の上につっぷして泣き声をあげた。「だから、もう、てんで役者がちがうんですったら!」
「千代さん───ねえ、千代さん」しのぶが千代のいつも着ている灰色のガウンのはしをひっぱった。「お願いです。どうしてこんなことをしたのか、そのわけだけでも聞いて下さい。今回、演出は峯さんだけど、キャストを決めたのは基本的には、三年生のあの三人だってわかってるんです。私たちが聞いてもだめですけれど、千代さんだったら、朝倉さんも美尾さんも、何か教えてくれそうじゃないですか───こんなキャストにしたわけを」
「正直言って」みどりも、立てていたひざを折って座り直し、片手をベッドの上について、千代の方へと身を乗り出した。「美尾さんや峯さんなら、ひょっとしたら、あたしたちのことからかうために、こんなキャストを思いつくかもしれないって思います。日村さんだってどうかしたら、けっこう一枚かむでしょう。でもですよ───朝倉さんと、南条さんは、こんなことする人たちじゃないわ!千代さんだって、そう思うでしょう?あの二人は、下級生が困るってことわかっていて、こんなとんでもないことを面白半分にするような、そんな人たちじゃ、絶対にない!もしそうだったら、それこそもう───」みどりは思い詰めた表情になった。「もう、何ひとつ、信じられない。もちろん、それは───それは、あたしも───」何かに思いあたったように、またその声が、低くなる。「それは、あたしも───いつも皆に正直だとは言えないけれど───人に誠実でいてほしい、ありのままの姿でいてほしい、裏表なんてあってほしくないなんて要求する権利はそれはないけど───たしかに、あたしも、それは、人があたしに対して抱くイメ-ジを裏切らないなんて言えないから───」
「───みどり!」しのぶと、司と、朝子とが同時に言った。「───また!」
はっと我に返ったように、みどりが片手を口にあてて黙る。三人の一年生は、いっせいに吐息をついた。
「その、あたしが悪い、あたしも悪い、って言っちゃうくせ、やめるって約束したでしょ!?」朝子が怒った。「ほんとにもう、何べん言ったらわかるのよ!?」
コンコンコンと、開け放しになっていたドアがまた、高い音をたててノックされる。振り向いた少女たちは、ドアによりかかって立っているのが竜子とさつきであることに気づくと、ぎょっとした表情になって、思わず皆、こころもち千代の方へと身を寄せた。
「いったいまあ、どこに隠れているのかと思ったら!」さつきがあきれた顔で言った。「忘れたの?九時から京子のへやで、美沙の脚本の検討をするって言っておいたでしょうが!?」
「え、でも一年生は今日はいいって、峯さんが───」
「あんたたち四人は別だよ!」竜子は半袖の赤いパジャマからむきだしになっている太い腕を組んで、ぎょろりと四人をにらみつけた。「かりにも、そめにも、主役だろ?何をぼけっとしてんのさ?第一、そのかっこうは何?千代の回りにそうやって、べたべたくっついてる様子ときたら───いいかい、いいかい、夏季公演でやる劇は『三銃士』だよ!『若草物語』じゃないんだからね!」
「それとも、マ-チ夫人に何かおねだりしてたわけ?」紺と黄色のチェックのガウンをかきあわせながら、さつきが涼しい声で笑う。「ねえ、千代、何か話があるんなら、聞くわよ」
「いいや、別に」
「───千代さん!」一年生の四人がいっせいに、小声だがせっぱつまった調子で叫んだ。
「そんな悲しそうな声を出さないでおくれ、胸がはりさけそうになるから」千代は笑いをこらえた顔でそう言って、再び本を取り上げた。
一年生たちは、まだ何となくあきらめきれないような表情で、しばらく千代をながめていたが、最初にしのぶがため息をついてベッドからすべり下りると、司とみどりもしぶしぶ続いた。朝子は最後にしょんぼりと、ベッドを下りてドアへと向かった。
「じゃましたね、千代」竜子が陽気ながらがら声で、何かからかったりののしったりしながら四人を連れて行った後、さつきはドアを閉めながら、へやの中へと声をかけた。
「いいさ。でも───」千代は本を下ろして、さつきの方をじっと見た。「何か、わけでもあるのかい?」
「何が?」
「いや、いいよ」千代は本に目を戻した。「一年生が嘆いてた、あのとんでもないキャストを決めたのは、何か理由があるのかって聞きたかったんだけれどね」
「聞かないことにしたの?」
「あんたの、その、そらっとぼけた顔見たら、何かわけがあるんだってことはすぐわかる。聞く必要もなくなったよ」
さつきはちょっと苦笑したが、何も言わずに、そのまま黙ってドアを閉めた。

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