小説「散文家たち」第28章 目撃者

昼食時の「オリエント急行」は、ごったがえしていた。赤い革張りの座席は、ほとんどが人で埋まり、海水浴帰りらしい日焼けした男女があちこちで笑い声をあげている。滞在が長くて、ママやユリちゃんたちと顔なじみになっている客たちは、カウンタ-を占領して、ママとおしゃべりしていた。
「───けっこう、新しいでしょう?」一人が言っていた。
「何、何?」テ-ブルの客と話していた、もう一人が割り込む。
「んん、このお店よ。いつ、できたんだっけ?」
「さあ、もう二年になりますか」ママは首をかしげて考えた。「前は、ここ、ラ-メン屋さんでしたの、ご存じありません?『角八』とかいいましたっけ。白髪のおじいさんがやっていらした」
「そうだったっけなあ」
「町なんて、すぐ変わるものねえ。それでほら、新しいお店とか建つと、前にそこに何があったのか、いくら考えても思い出せないってことない?」
「あるある。ほら、あの川沿いのブティックね、あなたが、あのブル-のス-ツを買おうかどうしようかって言ってたところ───」
金色のノブがついた、やや古めかしい入り口のガラスのドアが開く。紺色のサマ-セ-タ-に白いスラックスの那須野遼子が顔をのぞかせた。
「あら、どうしたの?お入りなさい!」ママが、優しい笑顔を向ける。
どこか野性の獣を思わせるしなやかな身のこなしで、するりと店に入ってきた遼子は、カウンタ-の端の椅子に、すべりこむように腰を下ろした。
「何にする?」ママが水のコップを置きながら聞く。
「ええと、クッキ-をお土産用に詰めてほしいんだけど」
「予算はいくらぐらいなの?」
「そうね、二千円ぐらいってとこかな」
「若い人?」
「おばあさんなんだよね」
「おばあさんと言ったって、あなたたちぐらいの年頃では、私たちなんか皆、おばあさんなんでしょう」ママは目元を笑わせた。「おいくつぐらいの方?」
「それがわかんない。今日、初めて会うんだよね」遼子は無意識にポケットから出した煙草をくわえかけたが、店の中の人の多さにちょっと警戒したのか、またポケットにしまった。「ま、電話の声の感じじゃ、けっこう七十過ぎってとこかな。────今日はあの人、来てないんだね?警察署長の灰川さんは?」
「そう言えば、お見えじゃないようね」ママは、コップを拭きながら、ちょっと背伸びして店内を見回す。
「お見えじゃないわよ。いらしてたら、ここにお座りになるはずだもの」カウンタ-の客の一人が言った。「いつも、ここに座ってママとおしゃべりするのを楽しみにしておられるみたいじゃないの、あの方」
「私はただ、お話をうかがってるだけですよ。──それじゃ、あっさりした、あまり固くないクッキ-を紙箱に詰めて、リボンでもかけましょうか。ユリちゃんがこのごろ、布で小さい造花作ってくれてるから、それを一本つけましょうね」
「うん」遼子はうなずく。
「ユリちゃん、ちょっと、ここ、お願い」ママは声をかけて、ケ-キの入ったショ-ウィンドウの方へ行った。
「ねえ、ママ、こちら、あなたの娘さんなの?」カウンタ-の客の一人が大きな声でママに聞く。
「そうだったらいいけど、ちがうんですよ」ママは金と銀の紙をたがいちがいに重ねて箱の底に敷きながら言った。「ただの、大事な、お客さまです」
「へ~え、だけど、あれよね、ママもちょうど、このくらいの娘さんがいていい年なんじゃないのォ?」
「あらまあ、うれしい。そんなに若く見えますか?」
「だって、そりゃねえ、あたしたちなんかと比べて見なさいよ。ママは、まだまだ現役よ」
「肌の張りからしてちがう。うらやましいわよねえ」
「あなたはね、でも何かまだ、ご主人さまとも、おむつまじくていらっしゃるようだから」
「あらっ、ちょっとあなた、まあ、それは、何の話でございましょうかしら?」
女客たちは太った肩をぶつけあって、けらけら笑いあっている。
「『若草物語』で、ベスをやって以来」ユリちゃんがカウンタ-ごしに、小声で遼子に話しかけた。「ミカちゃんが時々ポ-ッとしちゃって困ります。思い出してるんでしょうけどね。──次の劇は『アンの娘リラ』って言うんですか?もう練習はじまってるんですか?」
「そう。あいかわらず地獄のようなスケジュ-ル」遼子は肩をすくめて見せた。「しかもね、演出の峯さんたら、小川の川原を客席にして、橋の上と両岸とで三つの劇を同時進行させるっていう、途方もないこと考えてさ。半分、朗読劇みたいな構成だから、演技はそう大変でもないんだけど、舞台装置とか進行がややこしくって、もう皆、切れる寸前てとこね」
「『アンの娘リラ』って、『赤毛のアン』の続編なんですよね」
「うん、アン・シリ-ズの最終作で、リラはアンの末娘」
「那須野さん、今度は何の役です?」
「何だと思う?」
遼子が思わせぶりにまばたきした時、ママが片手にクッキ-の箱、片手に小さなカップを持って近づいてきた。
「はい、できました。これならきっと気に入っていただけるわよ」
「ほんと。きれいだ」遼子は箱をのぞきこみ、ママを見上げた。「これで二千円?冗談きついな、ママ。予算オ-バ-でしょ。出すよって」
「いいのよ。これでよかったらリボンかけるわ。それから、このパフェ、ちょっと食べてみてくれない?ミカちゃんと私の試作品なんだけど、味がよかったらメニュ-に入れてみようと思って」
「あらあ、まあ、いいのね」カウンタ-の客の一人が、脇から声をかけた。「ホイップクリ-ムがすごくおいしそうじゃないの。ママ、あたしたちにもちょうだいよ」
「こちらのご意見を聞いて、改良してから、ちゃんとメニュ-にのせて、お代いただいて、差し上げます」ママは指の長い大きなきれいな手をさしのべて、遼子の前にパフェのカップを置いた。
「これだから、ママにはかなわないわよね」客たちは笑い転げる。「じゃ、あたしにはコ-ヒ-のお代わり」
「はいはいお待ちを。ユリちゃん、頼むわ。───いらっしゃいませ!」ママは開いたドアの方に笑顔を向けながら、また奥へと入って行った。
遼子はちょっと苦笑して、黙ってパフェを食べはじめる。
「ねえ、ちょっと、あなたほんとに、ママの親戚でも何でもないの?」客の一人が、罪のないあけすけさで聞いてきた。「何か、すごっくいい感じなのにね、あなた方って」
「ほんとほんと」もう一人が笑う。「さっき、あんたが入ってきた時のママの顔って見てないでしょう?ほんとに、ぱっ!と輝いたんだからもう。あなたを見た瞬間」
「そうですか?」あいまいに遼子は笑い、再びパフェに没頭した。
入り口のドアがまた開き、新名朱実が入ってきた。
「クッキ-の箱、もうすぐできるから」遼子が朱実を振り向いて言う。「次のバスって何時だ?」
朱実はちらと腕時計を見る。「海岸通りのバス停に、十七分後」
「間にあうかもな。パフェ、食べる?」
朱実は軽く手を振って断り、遼子の隣の椅子に座った。

海岸通りの交差点を曲がる時、遼子と朱実を乗せたバスは、スピ-カ-で何か大きく叫んでいる右翼団体の街宣車とすれちがった。
「何かあったのかな?」朱実が窓から振り返って見る。
「日教組の先生たちの何かの会議が、昨日から始まったんだろ」面白くもなさそうに遼子が軽いあくびをする。「市内のホテルを借り切って、一週間ほど続くってよ」
「勉強会とか、そういうの?」
「さあ、知らんけど、そんなもんだろ」
「───ねえ」朱実はクッキ-の箱を抱えて座り直した。「『松の実老人ホ-ム』だっけか。場所、知ってるの、ちゃんと?」
「ま、だいたいは、見当ついてる」
「どういう風に話、切り出す?その、刑事の奥さんて人に会ったら」
「どんな人だか、見てみなくちゃわかんないけどな。案外、あっさり言っちまうのがいいかもしれない。あの事件を調べてるんだって」
「ショックうけないかなあ、そんなこと突然言われて。相手は七十過ぎてるおばあさんなんだろう?」
「今日びの年寄り、けっこう強いよ。刺激になって喜ぶんじゃねえの、案外」
朱実は首を振って黙った。
バスは走りつづけている。町並みを抜けて海沿いの道に出ると、あたりの風景は夏の盛りらしい、あふれる緑が多くなった。とうもろこし畑が風にそよぎ、小さい神社の鳥居には、夏祭らしい赤や水色ののぼりがはたはた、はためいている。
「結局、今度の夏休み、帰れそうにないねえ」朱実がぽつんとつぶやいた。
「ああ」ものうげに遼子が答える。「峯さんも『三銃士』の時と比べりゃ、まあ一応穏やかだけど、やっぱそりゃ、お盆に帰省なんて言える雰囲気じゃねえもんな、何となく。あんた、帰るの?」
「いやあ、そりゃ、全然帰らないっつうのも何だから、八月の終わりぐらいに何日かだけ、ちらっと帰ろうかななんて、今のところは思ってるけど───遼子は?」
「帰ってもあんまり面白いこともないしなあ」遼子は顔をしかめて、窓の外に目をやった。「いっぺん、台所でやかん投げつけて以来、おやじは、いつもあたしから逃げまくってるし、母親は何かぐだぐだうるさいだけだし」
「だいたい、どこも、そんなもんじゃないの?」朱実は笑った。「あ、だけど、そのやかんって空だったわけ?」
「熱湯満パイ」
「そりゃ、あんさん、ちょっと過激どっせ」
「何かもう、見てるとカリカリ腹立ってくんのよ、うちの親って。鈍いし、くどいし、怒る時でも、変に遠回しな愚痴みたいな言い方するし。神経逆撫でされるっちゃないんだよね」
「あんた、何か変なんじゃない?」朱実はあきれた顔をした。「年上の女の人や男の人をかたっぱしから手玉にとるくせ、何でもう、お父さんやお母さんのごきげんとって、うちん中うまくいかせるって風にはなんないわけ?」
「やなこった、気味が悪い」背伸びして、天井のエアコンのスイッチを調節しながら、遼子は鼻でせせら笑った。「そんな幸福な家族ごっこって、一番キモチ悪くて、むかつくんだよね。ホテルで女の子買っときながら、ケ-タイで家にかけて、お土産買って帰るけど何がいいかなあなんてしゃべってるバカおやじ、こっちは山ほど見てんだぞ。第一、こっちがたまんねえよ、家でまで気イつかってちゃ、ストレスたまってやってらんねえさ。家族の前じゃ、ありのままの自分を正直に出してんだから、あたしなりの家族愛ってやつかもね。どっちかつうと、親はあたしに感謝してほしい」
二人は、声をそろえて笑った。
「そりゃ、遼子ほどになると、別に親からお小遣いまきあげないでも、外貨稼げるからいいよなあ」朱実がまじめな顔で言った。
「外貨ねえ」遼子はふっと笑った。「あんたは?親のご機嫌とって、お小遣いもらってんだ?」
「いや、あたしはまあそこそこで」朱実は謙遜した。「だけど、妹がうまいのよ。いつも父や母のご機嫌とっちゃ、がっぽりお金もらってるわ。昔は、あたしにも分けてくれてたんだけどね。要領悪い姉ちゃんに同情してさ。でも、去年ぐらいからBFができて何かとものいりらしくって、さっぱりくれなくなったけど。あの子だったら、ひょっとして、あなたみたいになれるかもね。顔もまあ、そこそこだし。───あら?こんなところに小学校あった?」
「知らないなあ。こっちの方にはめったに来ないもん。帰省する時は海岸通りからフェリ-に乗っちゃうし」
「───あ!」朱実が小さい声をあげた。
「何?」
「今、『松の実老人ホ-ム』って案内板があった」
「うん」遼子は手にしたメモを見た。「この次のバス停で下りるらしい」
「じゃ、ボタン押す?」
「あの子が押すよ」遼子は、前方の席の親子連れの、小さい女の子が、降車ボタンを押そうとして、「お下りの方はボタンを押して下さい」というアナウンスを、一生懸命指を伸ばしたまま、今か今かと待っているのを、あごでしゃくって朱実に教えた。

バスは二人と、親子連れを残して走り去って行く。冷房のきいた車内から出ると、照りつける太陽の暑さで、目まいがしそうだった。あたりには見たところ、これといった林も大きな木もないのに、どこからともなく、せみの声がやかましく聞こえている。子どもの手をひいた母親は、海沿いの歩道を歩いて行き、二人は道路を横切って、どうやらそれが「松の実老人ホ-ム」らしい、砂色の建物の方へ向かった。
道路から玄関までの砂利道には、両側に大きな丸い石が重なり合ったような石垣があって、白い花を咲かせた昼顔がからみついていた。老人たちが手入れしているらしい小さい花壇には背の低いミニ朝顔が、青とピンクのつぼみをつけている。広い前庭には白いシ-ツや枕カバ-などの洗濯物がぱたぱた風にはためいていた。
「藤谷キミ代さんに面会のお約束をしている那須野と申しますが」玄関脇の受け付けの小窓で遼子は告げた。
「はいはい、はい」と、かけ声のような返事をしながら、丸顔の元気そうな中年女性が出て来て、二人にスリッパをそろえてくれた。寝巻やトレ-ナ-姿の老人たちが何人か、ゆっくり廊下を歩いていて、一人は黙って腕組みして、壁の掲示板を熱心に見ている。
「こちらへどうぞ」中年女性は二人を、玄関の右手に延びている廊下の方へ案内した。「このつきあたりを右に曲がって下さい。二十三号室です。名札も出ていますから。わからなかったら、また、ここに戻ってきて聞いて下さいね」
何か仕事の途中だったらしい、その女性に礼を言って、二人は廊下の先へ進んだ。
「あの人にも何か持って来るんだったね」朱実が、ひそひそ声で言う。
「藤谷さんがボケてなきゃ、あとで自分でわけてあげるさ」遼子が、ささやき返した。「年寄りは、その方がうれしいんじゃないか?」
二十三号室は、すぐ見つかった。木のドアには、小さい子どもが作ったらしい切り紙細工が画鋲でとめてある。ノックすると、「どうぞ」と返事があった。
ドアを開けて入ると、たたみの上に絨毯をしいて洋間のようにしたへやだった。小さい板張りの廊下とキッチンがついているが、家具は小さい食器棚と、低い四角いテ-ブル以外は何もない。奥の壁には折りたたみ式のベッドがたたんでたてかけられている。廊下におかれた大きな木製の揺り椅子に、明るい茶色のホ-ムドレスを着た白髪の老女が座っていた。年のわりには大柄で、顔も大きい。日焼けして、口が大きく、しわの多い顔だ。
「どうぞ、上がって、座って下さい」老女はしっかりした声で言った。「私は少し足が悪いから、この椅子で失礼しますよ。今、お茶をいれましょう」
「よろしかったら、あたしたちがやります」朱実はスリッパを脱いで、一段高くなっている、へやの中に上がりながら言った。
「いえもう、そんなことしていただかなくても」老女───藤谷キミ代は、あっさり言って立ち上がり、キッチンから、皿のないコ-ヒ-カップと、インスタントコ-ヒ-のびんを運んで来た。
「若い方はコ-ヒ-の方がいいと思って。お湯は、そこのポットにあります」
「あの、これ、よかったら召し上がって下さい」遼子がクッキ-の箱を差し出す。「クッキ-ですけど、あっさりしていて、おいしいと思います」
「それじゃ、あなたがたも食べて下さい」キミ代は箱を受け取って、リボンをほどきながら言った。「お菓子を買いに行くひまがなかったんですよ。ここのホ-ムの中にも売店はあるんですけど、あんまりおいしいのがなくてね」
二人がいれたコ-ヒ-のカップを一つ手にして、キミ代は窓辺の椅子に戻った。
ガラス戸の向こうの芝生には、まぶしい陽射しが照りつけているが、少し音がやかましいク-ラ-がかかっている室内は涼しい。
「いいお部屋だなあ」遼子が言った。「海が見えるんですね」
「ちょこっとですよ」キミ代は肩ごしにふりむいて見て笑った。「でも、見えすぎてもねえ、この前の台風の時なんかはきっと恐いかもしれないから、このぐらいがちょうどいいんですかね」
彼女はカップを、そばの食器棚の上に置いた。「麗泉学院の方たち?電話で、たしか、そうおっしゃっていましたね?」
「そうです」遼子は、銀紙の上に載せたクッキ-を、食器棚の上に置いた。「那須野遼子と新名朱実と言います。それで、少しお尋ねしたいことがあって」
キミ代は何だかひどく、おかしそうに笑った。「あは───昔、よく私はそうして、いろんな人に質問したものでしたけれどねえ。主人の仕事の関係で───警察に勤めていたんですよ、主人は。『女のおまえになら、話してくれるかもしれんから』なんて言うもんですから、事件の関係者に会って話を聞いたりすることもありましてねえ」
「ご主人は、刑事さんだったんですね?」朱実が聞く。
「そうですよ。亡くなってもう八年ですか。私がここに来てからでも、もう五年。あっという間ですねえ」
キミ代がへやの中を見回すのにつれて、二人も思わず、その視線を目で追った。
「何もないでしょう?規則がありましてね。何も持って来ちゃいけないっていう。残酷なような気もしましたが、いざ身辺整理をして身一つでここに来ると、それはそれで、けっこうせいせいしますねえ。アルバムなんかも皆処分したし、主人の写真と位牌も娘夫婦にやってしまって、情が薄いとあきれられましたけど、私が死んでごらんなさいよ、どうせ何もかも、そちらに───娘夫婦のところに行くんですからね」
キミ代は笑って、クッキ-をつまんだ。
「おいしいですねえ、これはまた。このお花もきれいだこと。造花ですか?このごろは本当に、こういう、きれいなものが多いから」
「友だちが作ったんです」朱実が言った。「そのお菓子、お口にあったら、時々持って来ます」
「ありがとう」キミ代は、おだやかな目を向けた。「でも、自分のことばかり話して悪かったですね。お聞きになりたいことって、何でしょうか?」

「実は、その、ご主人のお仕事に関することで」遼子が言った。「もう二十四、五年も前のことなんですよ。うちの学校で、生徒の転落事故があったの、ひょっと覚えていらっしゃいません?警察の調べでは結局事故死ということになって───この事件、担当されたの、ご主人じゃないかと思うんですけど」
「ああ───」キミ代は、たしかめるように、うなずいた。「麗泉の方と電話で聞いた時から、あの事故のことを思い出していましたよ。そう───その事故のことは覚えています。あの当時、かなり話題にもなりましたからね。あれはたしか───劇をやろうとしていたんでしょう?何の劇だったかしら。死んだ、その生徒さんが主役をやる予定だったですよね?」
「それは、あたしたち、知りません」二人は顔を見合わせた。「ご主人が、そう話しておられたんですか?」
「だと、思いますけれどね。それとも他の誰かに聞いたのか───ちょっとはっきりしませんけれども。でも、多分、主人だと思いますよ」
「他にも何か、あの事故のことについて、ご主人は話しておられませんでしたか?」遼子が聞いた。「ずいぶん、昔のことですから、無理なお願いだということは、それは、承知なんですが」
「いえ、あの頃のことの方が、かえって今のことよりも、よく覚えていたりするものです。年寄りというものはね」キミ代は言った。「主人が、その生徒さんのこととか、麗泉のこととか、いろいろ言っていたのは覚えているんですよ。ええとね───何か、裁判があったんじゃないんですか、その少し前に、学内で?」
「裁判?裁判って───」
「ちがいましたかね。他の事件とごっちゃになっているのかもしれません。でも、それが自殺の原因かもしれないって、主人が言っていたような気がするんですけどね」
「だけど、自殺じゃなかったんでしょう?」朱実が念を押す。
「そう、遺書がありませんでしたしね。で、他殺とも思えなかったので───結局、事故だと決まったんでした。あまり、すっきりとした解決ではなかったと思います」キミ代は残念そうに、また首を振ったが、その太い首のあたりや、強い光をたたえながらもおだやかな目の色は、夫婦は似るというように、どこか、この人の亡くなった夫の老刑事も、このような外見や雰囲気の人ではなかったかと思わせるものを持っていた。「そう、主人も何か、わりきれない感じはしていたようで、後になってからでも、時々口にすることがありましたね、あの事件のことを。───でも、すみません。今、お話したようなこと以上は、あまり思い出せませんね」
「いいんです」遼子はうなずいた。「いきなり来て、突然こんなことうかがう方が無理なんで、それだけいろいろ思い出していただいただけでも、すごく助かります」
キミ代は、鋭くはないが、注意深いまなざしで二人を見比べた。「亡くなった方の、何かにあたる方たちですか?」
「そういうわけではないんです。夏休みの宿題で学校の歴史を調べていて、この事件のことが何だかちょっと気になって───」朱実は口ごもった。「もっと、いろんなことを調べて、きちんとわかったら、また、ご報告にうかがいます。調べた結果は必ずお知らせしますから」
キミ代はうなずいた。「このごろは、学校でもいろんなことを調べるようになったんですね。この前は、孫が戦時中の特高警察の弾圧の実態を知りたいけど、おじいちゃんから何か聞いていないかと言って、やって来ましたよ」
「え、それはまた───それで、どうされたんですか?」
「あはは」キミ代は入れ歯なのだろうが、大きな白い歯を見せて笑った。「そりゃあもう、このホ-ムには、いろんな人がいますから。戦争反対してアカだと言われて逮捕されたっていうクリスチャンの人や、朝鮮人をかくまって逃がしたかどで拷問にあったって言ってる、もと共産党員の人に孫を紹介してやって、話を聞かせてもらいましたよ。お二人とも、私なんかよりもうずっと年上ですしね、このごろ少しボケておられて、時々ちょっと話のつじつまがあわなくなることがあるけど、だいたいのところは本当の話だと思いますから、まあいいんじゃないかと思って。ついでに、おじいちゃんの日記とかは皆、伯母ちゃんのところにあるから、見せてもらいなさいと言ったら、喜んで帰りましたけどね。その前は、この近くの小学校の生徒が、お手玉の作り方と遊び方を習いたいと言って大勢で来るし。でも、えらいものですよ。私たちの説明を聞きながら、ノ-トパソコンで記録している子がいましたからね。それから、八月に入るとすぐに、平和授業とかで戦争中の食べ物を作って子どもたちに食べさせたいから、すいとんや芋粥の作り方を教えてくれって、若い先生方が見えましたしね」
「はあ───でも、そんなの思い出して作る方は、あまり楽しくないんでしょう?」朱実が同情した。「いい思い出じゃないわけだし」
「それが、そうでもないんですよ」キミ代は笑った。「ただ、私の田舎はたまたま米どころで、終戦まで、ほとんど食べ物に不自由しなかったんですよ。でも、そんなこと、大きな声じゃ言えませんしね、何となく。すいとんや芋粥だって、作ったことなんかないんです。そんなこと言えない雰囲気だから、作り方知ってる方々にくっついて知ってるふりをしてましたよ。でねえ、そういう方々は皆、喜んではりきって作っておられましたよ。父親が戦死したとか、姉が栄養失調になったとか、悲しい話をいろいろしながら、それでも何だか大変、楽しそうでしたね。ただねえ、後で皆で言ったんですけどね───ああいうの食べたからって、子どもたちは、あの頃のことはわからないだろうねって」
「そうなんですか?」
「まるっきり、意味がないわけじゃないでしょうけどねえ。味は同じ食べ物でも、あの頃食べるのと、今、食べるのとでは、本当はそれは、同じ味とは言えないんじゃないかと思うんですよ。───でもまあ、それはともかく、生徒も先生も、今の若い人たちは本当にまじめで勉強熱心だと思いますよ」
あなたたちも──と言いたそうに、キミ代は二人を見て笑った。
「調べ物が、うまく行くといいですね。何か、新しいことがわかったら、主人も喜ぶと思いますよ。あの人の、口癖でね。『真実というのは、見つけたがってもらっているんだから、見つけてやらなくちゃいけない。真実っていうのは、恐ろしいもんじゃない。それが見つかって、人が不幸になるようなら、それはまだ、本当の真実じゃないんだ。あばきつづけていけば、必ず最後には、皆を本当に幸せにする真実が姿をあらわす。それが、本物なんだ』って、よく言っていました。まあ、そうやって自分に、空しいことしてるわけじゃないんだって、言い聞かせていたんでしょうけどね。つらいこともいっぱいあったし───だからって、やめるわけにはいかない仕事だったし」
「あの事件では、そんな風に、本当の真実を見つけたというようには、ご主人は思っていらっしゃらなかったんでしょうか?」朱実が聞く。
「思っていなかったんじゃないでしょうか」ゆったりとしたものの言い方だが、わりと即座にキミ代は答えた。「口に出して言ったわけではありませんが、何となく私はそんな風な感じがしていましたよ」
しばらく、沈黙が落ちた。へやの中の温度がかなり下がったのか、ク-ラ-が止まって音が静かになった。沈黙が続いても、キミ代は別にあわてる様子もなく、落ち着いてコ-ヒ-をすすっていた。
「あとひとつだけ、いいですか?」遼子が言った。「さっき、他殺とは思えなかったっておっしゃったと思いますが、それはなぜです?新聞には、犯人らしい人物が目撃されなかったってありましたけど、それでなんですか?」
「いえいえ、目撃者はいたんですよ」キミ代は大きく首を振った。
「目撃者がいた?」二人が思わず、聞き返す。
「その亡くなった生徒さんが、テラスからでしたか、落ちるところを、たまたま海岸の方から見ていた町の人がいたんです。若い女性じゃなかったですかね。名前はたしか、白里───白川───?何かそういうような名で───その人がいたから、死亡時刻がかなりはっきり、わかったんでした。それで、逆に、その時間には図書館にいたのは、その死んだ生徒さんだけで、入って行った人が誰もいないとわかったから───ああ、新聞の書いていたのは、きっと、そういう意味なんでしょう。犯人らしい人の目撃者がいなかったというのは。たしか、その夜は何かの行事があって、図書館の前にはずっと人がいて、誰にも見られないで入って行くのは、まず無理だった───そういうことではなかったかと思いますがね」
「その、目撃者の方の名は、思い出してはいただけませんよね?」朱実が聞く。
ドアをノックする音がして、小柄な白髪の老女がのぞきこんだ。
「藤谷さん。押し花教室が始まるよ」
「あら、今日は私はお休みさせてもらうよって、桜井さんに言っといたんだけどねえ」キミ代は答えた。「ちょっと、お客さんだから」
「だめよ。あんたが来てくれないと、長森さんがまた勝手なことするんだから、皆、困っちゃうじゃないの。班わけなんか、もう、あの人のしたいようにしちゃって、どうしようもないのよ。急いで来てよ」
「困るねえ。そう言ったってさ」キミ代は苦笑した。
朱実と遼子は顔を見合せ、どちらからともなく急いで立った。
「あたしたち、もう失礼しますから。お忙しいところ、申し訳ありませんでした」
「いいんですよ」キミ代は手を振った。「でも、それじゃ、行かせてもらいましょうかね。ああ、そうだ。帰るとき、玄関の受け付けの人───花村さんと言いますから、あの人にあなたたちの連絡先を教えておいて下さい」杖をつきながら、キミ代はゆっくりドアの方へ歩いて行った。「じっくり考えたら多分、私、名前は思い出せると思うんですよ。だから、電話ででもお知らせします。よかったら、またいつでも来て下さい。月曜と木曜は、わりと暇ですから」
「すみませんねえ!せっかく、おいでになったのに」入り口のところで、キミ代の手をとって支えながら、小柄な老女は二人に愛想笑いをした。キミ代を連れて行けそうなのでほっとしているのと、間に合うだろうかとあせっているのと、ちょっぴり勝ち誇っているのと、そうは言っても申し訳なさそうなのと、さまざまな思いが渾然一体となった笑顔だった。
大柄なキミ代と小柄な老女が手をつないで、廊下をせかせか遠ざかっていくのを見送って、朱実が感心したように言った。
「老人ホ-ムって、けっこう忙しいんだわ」
「ああ、でも、おかげで助かったじゃないか」遼子が首をすくめた。「言っちゃ何だがしょ-もない、いろんな調査にいろんな人が押しかけて来てくれてたおかげで、変な質問されるのに、あの人、免疫ができてたみたいだ。最近の学校じゃ、夏休みのレポ-トで三十年前の事故死の調査をするんだって、けっこうすんなり信じてくれてた感じだろ?」
「そうね、その点はほっとしたわ」朱実は言った。「でも、あたし、聞いてる内に、押し花教室の人間関係と長森さんて人の性格に、俄然興味がわいちゃった。事件の報告でも何でもいいから、何か口実作って、その内にまた来て、藤谷さんと長森さんの対決を見たいって思わない、遼子は?」
「───ちょっとはな」遼子は吐息をついて白状した。
ガラス戸の向こうの中庭には、マリ-ゴ-ルドと日々草が、黄色とピンクの雲のように地面に広がって、太陽の光をはねかえしている。

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