小説「散文家たち」第1章 春雷

すさまじい音をたてて雷鳴がとどろいた。たたきつけるような勢いで雨がアスファルト の道路にぶちあたってまっ白いしぶきを一面にあげる。まだ昼少し過ぎた頃だというのに あたりは既に薄暗い。
土曜の午後で町に人出は多かったが、あわだつ水が薄く広がって流れる街路の上に人影 はたちまち少なくなった。悲鳴をあげたり走ったりして、あわただしく人々は通りを駆け 抜けてゆく。その中にただ一人、かさもささず足を速める様子もなく、傲然と顔を前に向 けたまま、落ちつきはらった足どりで歩きつづけている少女がいた。
灰色がかった水色のブラウスも、明るい紺色のブレザ-の上着もスカ-トも既にびっし ょりぬれてほとんど黒に近くなり、えりからもすそからも、ひっきりなしにしずくが流れ おちている。藍色の運動靴ももうぐしょぐしょで、歩くたびにあたりにしぶきを散らして いる。首筋のあたりでまっすぐ切りそろえた髪からも、耳や鼻、まつ毛やあごの先からも しずくがしたたり落ちつづけるが、少女は気にする様子もなかった。
女の子にしてはふくらみのない鋭いほおの線である。やや青白い肌の色だが不健康な感 じはまったくなく、細く濃い眉や切れながの目は、むしろ荒々しい生命力にあふれて見え た。身体つきも中背でやせぎすだが筋肉質でしっかりしており、少年よりはどこか大人の 男を連想させるような落ちつきはらった雰囲気がある。
また稲光が街路を一瞬昼のように明るくしたと思ったら、たちまちそれにひきつづいて 耳をつんざく雷鳴がとどろいた。まだ道に残っていた通行人の何人もが立ちすくんで悲鳴 をあげたが、少女は顔色を変えず足どりもゆるめない。何事もなかったように平然と歩き つづけて、カモメの形をデザインした街灯の立つ街角を曲がり、やや下り坂になった道を 海の方へと横切った。
大きなトラックが一台、霧の中の影のように雨しぶきの中から姿を現し、角を曲がる時 にばしゃっと滝のようなしぶきをあたりにはねあげた。少女の半身にもしたたか泥水がか かったようだ。
少女は立ち止まりもしなかった。走り去るトラックを見て、ひどく薄いが美しく赤い唇 に、どことなく冷やかなかすかな笑いを浮かべただけだった。

喫茶店「オリエント急行」の大きなガラス窓からは、灰色と茶色の波をうねらせて荒れ 狂っている海がよく見えた。やや首をのばして外をのぞくと、ゆるやかにうねって海の向 こうに延びる岬と、その岬のつけ根近くのこんもりした森が目に入る。木々の間に見え隠 れしているのは、私立女子高校麗泉学院の白とクリ-ム色の建物だ。今は激しい雨に霞ん で、その古めかしい美しさを持つ校舎の屋根や時計塔がよく見えないが、明治以来の伝統 を持つ名門校で、この小さな海辺の町の名物のひとつになっている。
店の中は雨宿りをかねて入ってきた客で、結構さわがしかった。
「突然降りだすんだから・・・」
「すごい雷!」
そんな女性客の声もしている。
カウンタ-の中では黒とアイボリ-のワンピ-スを着た中年女性が若い女の子二人を指 図して、サンドウィッチやコ-ヒ-をてきぱきと客の席へと運ばせていた。
「遅いねえ。遼子のやつ何してんのさ」
窓際のテ-ブルを五人の少女が囲んでいた。明るい紺色のブレザ-は麗泉学院の制服で ある。皆、演劇部員だった。今しがた口を開いていらいらしたように大きな肩を左右にゆ すったのは二年生の峯竜子だ。顔も身体も太っているが鈍重な感じはない。エネルギッシ ュな光を放つぎょろりとした目や大きな鼻には、今のように不機嫌そうにしている時でも 何となく人をひきつける陽気さと、いうにいわれぬ愛嬌があった。
「どこかで足止めされてるのかもよ」同じ二年の新名朱実がなだめた。
「そうですよ。この雨だもの」向かいに座った一年生の大西和子もうなずく。
「ふん!」竜子はグレ-プフル-ツジュ-スを思い切りすすって顔をしかめた。「雨ご ときであいつが・・・」
「処分の結果が出るのが遅れているのかもしれませんし・・・」やはり一年生の浅見司 が言う。
「昼前にはわかってるはずだよ」竜子はますます不機嫌になった。「先生たちは朝から 会議をしてたんだから。もう結果は出てるはずだし、それが書面で部室に通達されてから 詳しい説明を聞きに朝倉部長たちが学長室に行くことになると思うけど、書類が届いた段 階でおよそのことはわかるんだもの。知らせに来れないはずはないだろ」
司は困ったように黙り込み、無意識のように片手をテ-ブルの上に延ばして砂糖壺や塩 のびんやナプキン立てをきちんと並べ直し始めた。
もう一人の一年生田所みどりも何も言わないまま、眼鏡をかけた、少年のようにすっき りとした清潔な顔をどこかつらそうに曇らせて、窓の外の荒れ狂う海を見ている。
むすっとした顔でジュ-スをすすりながら入り口の方を見ていた竜子が「来た」と言っ た。ドアが開いて、さっき雨の中を歩いていた少女・・・二年生の那須野遼子が入って来 たのだ。
ずぶぬれの彼女を見て、近くの座席の客たちが声をあげている。カウンタ-の中の女性 はそちらを見ると温かい笑みを浮かべて、女の子の一人に乾いたバスタオルを持って行か せた。
タオルを頭にかぶったまま、遼子は竜子たちのテ-ブルに来た。
「どうだったのさ?」と竜子が聞く。
椅子に腰を下ろしながら遼子は黙って首を振った。

麗泉学院の学長室に隣り合った応接室は広くて暗く、壁も大きなテ-ブルも背の高い椅 子も皆黒ずんで磨きあげられ、ぴかぴかと光っていた。重々しさとおごそかさで圧倒され そうになるその部屋のテ-ブルの一方に座っているのは、氷見淳子学長と生徒指導担当の 細川詩子先生である。
氷見学長は五十歳近いはずだが、ほっそりとした少女っぽい体型もあって三十代といっ ても通用するほど若々しい。化粧もごく自然で薄いように見える分、かえって手をかけて いるようだ。薄紫の春のス-ツに身を包んだその姿は優しげだったがきっぱりしていた。
「これが大変厳しい処分ということは承知していますよ」彼女は静かな口調で言った。 「特に朝倉さん、あなたは新しく部長になったばかりで非常によくやっておられたのだし 申し訳ないと思っています」
テ-ブルの反対側に座っていた三人の少女の内、右端の一人がかすかに頭を下げて一礼 した。演劇部長で生徒会長、三年生の朝倉京子だ。
背が高く色が白い。陶磁器のような美しい肌のすっきりと端正な目鼻だちで、黒くつや やかな長い髪が背中に流れ落ちている。まなざしは清々しく澄み、まっすぐに背中を延ば して座っている姿勢といい、一分の乱れもない制服の着方といい、すべてがどこか痛々し いほど整っていて清潔だった。
「ですが」氷見先生は続けた。「職員会議やPTA、生徒会やサ-クル会議、寮委員会 など、先生や保護者や生徒まで含めてすべての意見は、演劇部が特にこの数年間・・」氷 見先生は口ごもった。「この数年間というもの、少し・・・」
ちらとその視線が隣の細川先生に向く。やせて小柄で陰気な顔をし、化粧っ気のまった くないひっつめ髪に眼鏡をかけた細川詩子先生は顔色ひとつ変えないまま、冷たい声で言 い切った。
「伝統と実績に増長して、全体にあまりにも勝手気儘な行動がめだちすぎるという結論 でした」

「だけども、それはないよなあ!」峯竜子が大声を出した。「実績にうぬぼれるったっ て、うちの演劇部はこれまでに、うぬぼれていいだけの成果をあげてきたんだからね!去 年もおととしも全国大会じゃ三位以内に入っているし、県の大会じゃいつも優勝してるし さ。学校だって、この町だって、私たちのことを結構学生集めとか町の宣伝なんかに利用 してたじゃないよ?」
「でもまあ、その分予算もすごかったからさ」那須野遼子は首をすくめてポケットから ひっぱり出したびしょぬれの煙草の箱を破って開き、乾いていそうな煙草を探した。「特 別待遇だらけだったろ?授業さぼっても遅刻しても先生たちは何も言えない雰囲気だった し。とにかく予算のことじゃ他のサ-クルは皆頭に来てたんだよ。他のところのざっと五 倍か十倍は取ってたからね。特に新聞部や文芸部からはかなり激しい文句が出ていた」
「文芸部って去年つぶれたって聞きましたけど」司が言う。
「そう。同人誌で大幅な赤字を出して活動できなくなったの」新名朱実が吐息をつく。
「その部員がほとんど新聞部に入って、今、新聞部は結構大きな勢力になっているの。部 長の小石川さんは演劇部をずっと目の敵にしてるしね。今度のこの処分が出るにあたって も彼女がずいぶん動いたでしょうね」
「しかし、ふざけた処分だなあ!」竜子がうなった。「信じらんないよ。今年度の予算 の全額カット?学外活動の完全禁止?当然、すべての演劇祭や大会にも出られないってこ とだよな?しかも期限は無期限だって?」
「演劇部に反省の色が顕著に見られたら処分を解くとさ」やっと見つけた煙草に火をつ けて、遼子は煙を吹き上げた。「それってほとんど半永久ってことだよな。何でまあ、い っそ廃部にしないのかって言いたくなるよ」
「伝統の重みでしょ。ほとんど明治の創立以来続いている部を廃止したら、校史に残る 大事件になるわ」朱実が首を振る。「学長だって誰だって、手を汚したくないのよ。演劇 部がこのまま弱体化していって、ひとりでに消えてほしいのよ」
雨は小降りになってきている。窓から見える海の上が明るくなって、ほのかな大きな虹 の橋が入り江の上にかかっている。雨宿りの客たちがそろそろ出て行きはじめていて、レ ジのあたりが騒がしい。
「それを言うなら、今回の事件だってまったくの口実ですよね」大西和子が、じゃがい ものようにごつごつした顔と身体に似つかわしい、もごもごとした口調で言った。「そり ゃまあ、規則を破ったのは悪かったですよ。夜中に勝手に寮を出て、立ち入り禁止の古い テラスで劇の練習しようとして、それで手すりが壊れて片山さんが崖の下に落っこちて足 折っちゃったてのは、そりゃたしかにまずかったすよね。だけど、それだってあたしたち 新入生を歓迎する春の公演が迫ってたからだし」
「そう」司もうなずく。「『ハムレット』の最初の場面がもう一つ納得できなくて、そ れで日は迫ってるし、皆の予定はあわないし、結局あの時間になっちゃったんだもの。あ んな場所を選んだのも、大きな声出しても誰の迷惑にもならない所と思って、校庭のはし っこまで行っただけなのに!」
「結局、我々は全校生徒と先生から嫌われてたっていうことさ」遼子は煙草の煙を吐い た。「今回の事故をきっかけに、それが一気に噴き出したんだよ」
竜子は舌打ちした。「生徒会やサ-クル会議の役員も皆辞任しろってか?」
「ああ」遼子はうなずく。「この数年間、演劇部が全部の役職を独り占めして、したい 放題してるのがめだつとさ。したがって、朝倉さんの生徒会長をはじめとして、全学的な 組織の役員をしている演劇部員は即座に皆、辞任しろだと」
「手足をもがれて、目隠しと猿ぐつわをされるようなもんだな、そりゃ」竜子はうなっ た。「まったくもう、ようやるよ」

「即廃部にしてしまえ、という声も結構あったのです」氷見先生は言っていた。「ただ の不幸な事故なのに、と皆さん方は思っていらっしゃるかもしれませんね。でも、そんな 事故が起こったのは皆さんたちが規則違反の勝手な行動をした結果です。被害にあった片 山しのぶさんのご両親はとても怒って、学校と演劇部を訴えるとまでおっしゃっていまし た。無理もないわ。彼女は足を折った上に、頭も強く打っていて丸一日人事不省だったの だから。彼女の身体の回りにはこわれた手すりの煉瓦のかけらも散乱していて、その一つ でもが彼女にあたっていたら、こんなことではすまなかったわ。考えようでは今回の処分 はとても軽いのですよ」
「もし、今後少しでも、演劇部が規則違反をしたならば、その時こそは即廃部にする。 そういうことでようやく皆、納得したのです」細川先生は冷たく言った。「正直言って私 も、廃部にならなかったことを残念に思っている一人です」
「責任の重さはわかりましたね?」氷見先生は三人の顔を見渡した。「何か言うことが ありますか?」
朝倉京子は黙って首を振ると立ち上がり、ブレザ-のえりについていた百合と蘭の花を あしらった生徒会長であることを示す小さい銀のバッジをはずして、机の上に置き、一礼 した。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」低いけれどもよくとおる静かな声で彼 女は言った。
後の二人も立ち上がり、それぞれえりのバッジをはずした。大柄で、大輪の花のような 華やかな美しさの美尾さつきはサ-クル会議議長を示す薔薇と蘭のバッジを、小麦色に日 焼けした素朴で健康そうな温かい表情の南条美沙は、寮委員長を示す菫と蘭のバッジを。 二人はそれぞれ、それを京子のと並べてテ-ブルの上に置いた。
突然、さつきが口を開いた。
「ひとつだけ、申し上げておきたいことがあるのですが」
二人の先生は、さつきを見た。
美尾さつきは、朝倉京子と並んで学内の美少女ナンバ-ワンとよく言われる。二人のう ちのどちらがより美しいということになると議論があって一定せず、二人がつけているバ ッジのデザインそのままに、白百合と紅薔薇を比べるようなもので意味がないというのが いつも結論になるのだった。だが、京子がじっと静かに座っていても高貴といいたくなる ような完璧な美しさを感じさせるのに比べると、さつきの美はむしろ動きまわっている時 に輝く。その全身にも表情にも常にみなぎる生き生きとした生命力と、ほとばしるような 自信とが、人を圧倒し魅了するのだ。「たとえ彼女がぶくぶく太ってちんちくりんで、鼻 はぺっちゃんこであばただらけだったとしても、同じように皆をひきつけスタ-になるに ちがいない」とある上級生が言ったことがあった。
そう思って見れば彼女の身体は、胸は豊かだが肩幅が広く、腰もそれほど細くはないし 手足はやけに長いといった風にどこかちぐはぐだったし、目も鼻も口も長い眉も皆大きす ぎ派手すぎて、もしかしたらあまり美人ではないのかもしれない、とひとつひとつ冷静に チェックしていくと思えるのである。
しかし、そんなことを考える者は誰もいないと言ってよかった。いつもきらきらといた ずらっぽく輝くその目、太陽のように明るい笑顔、さわやかに響くその声、踊りのように 美しい流れるような身のこなしが、見る者すべてを陶然とさせた。彼女がいったん舞台に 立つと端役だろうが悪役だろうが観客は皆そっちを見つめてしまい、彼女が消えるまで目 を放さない。
今も彼女の前では、氷見学長も細川先生も何となく影が薄くて精彩がなかった。
「何ですか、言いたいこととは」細川先生が顔をしかめて聞いた。
「演劇部の責任については私どもも今回充分自覚しています」さつきは歯切れのいい抑 揚の豊かな声で言った。「けれども、あの夜の練習は私と南条さんが相談して下級生を集 めてやったことで、朝倉部長は関係ありません。彼女は何も知らなかったのです」
氷見先生はちょっと驚いたようにまばたきした。
「私たちは、今度の事件について、詳しい説明をする機会を与えていただけませんでし た。それほどに弁解の余地のない事件だったということで」隣に立った南条美沙も落ちつ いた穏やかな声で言った。「そのとおりですし、そのことに不満は持っておりません。た だ、そういうことでしたので、このことを今まで申し上げる機会がなかったのです。あの 夜、私と美尾さんとはどうしても練習がしたくて、朝倉さんには無断でやりました。言っ たらとめられると分かっていましたから。朝倉部長は規則を破ることを決して許しません でした。先生方もご存じのはずです。彼女は部長になってから、演劇部の特権意識をなく そうとしてずっと努力していましたから・・・」
「あの夜の練習を彼女が知っていたら、決して実行させなかったでしょう」さつきが続 けた。「演劇部が今度のことでどんな処分をうけようと、それはしかたがありません。私 たち二人も同様です」彼女は高く持ち上げた頭をかすかに隣の京子の方に動かした。「で も朝倉さんが処分をうける必要はありません。生徒会長をやめなければならないような責 任は彼女には何もありません」
「そんな見え透いた嘘を言って」細川先生が薄く笑った。「生徒会だけにでも演劇部の 影響力を残しておこうとしたってそうは行きませんよ、美尾さん」
するとさつきはにっこり白い歯を見せて笑った。
「私たちの言っていることが本当かどうか、朝倉さんに聞いてみて下さい」
細川先生は黙り込んで、氷見先生とちらと目を見合わせた。朝倉京子はどんな時でも、 たとえ自分や自分の仲間にどんなに不利になることでも、決して嘘はつかないことで有名 だったからである。先生たちも生徒たちも、たとえ彼女に反感を持つ者や批判する者たち でさえ、朝倉京子の言うことならば、何も証拠がなくても信じた。それはもう麗泉学院の 中では常識であり、信仰だった。生徒会長の選挙の時、彼女の対抗馬になった新聞部長の 小石川ナンシ-が、何ひとつ弱点のない京子のことを攻撃するのに、「嘘のつけないよう な融通のきかない人間を生徒会長にしたら困ると思わないのか」と言って回った話は有名 だ。そして、それは京子への批判の中では最も説得力のある批判だと誰もが思ったし、ナ ンシ-に入ったわずかな票はきっとこの批判の効果だろうと言われたのである。
氷見先生はせきばらいして京子を見た。
「本当にあなたは知らなかったんですか、このことを?」

「それで今、演劇部室には誰かいるの?」朱実が聞いた。
「村上セイと上月奈々子が、いろんなものを片づけているよ」遼子は煙を吐きながら言 った。「どうせあの部室も取り上げられてどっかにひっこさなきゃならんようだから」
「そうなんですか?」浅見司がちょっと悲しそうに言った。「せっかく、この前の日曜 日に一日かけて、天井近い所まで窓ガラス全部きれいに磨いたのになあ」
「他の一年生たちは?」
「塾か、バイトか、町に遊びに行ってるんだろ。日村通子はたしかお家の人が来て、い っしょに食事をするって言ってた。帰りにここに寄るかもしれない」
「みどり、コ-ヒ-もう一杯飲まない?」さっきからしょんぼり黙っている田所みどり を気にしたように、大西和子が声をかけた。
「うん」みどりはようやく我にかえったようにうなずき、和子が女の子を呼んでコ-ヒ -を追加注文すると、長い二本のお下げ髪を背中に払いのけながらほうっとひとつため息 をついた。
「どうしたの?」
「何か、朝倉部長に悪くて」みどりは言った。「朝倉さん、あんなに演劇部をきちんと 規則を守って、ちゃんとした部にしようって努力していたのに、あたし、何だかよく理解 していなかったなあと思って。彼女がどうしてあんなにそのことを気にしていたのか、あ たしわかってなかったわ。そして結局こういうことになっちゃって・・あの夜の練習の話 が出た時、あたしたち皆がもっとよく考えていたら・・」
「だって、美尾さんと南条さんがやろうって言ったんだから、それはもう」新名朱実が なぐさめた。「反対するのは無理というものよ。そりゃ、朝倉さんには悪いとは私も思う けど」
ちょっと皆がしんとした。竜子や遼子までが何となく沈んだ顔になっている。
「京子の顔をあの時思い出してたら、それは私もやめてたかもな」竜子がやがて冗談め かしたように言った。「だけどあいにく思い出さんかった」
「きっと頭が拒否したんだよ」遼子も小さく鼻を鳴らした。「あたしもいつでもそうだ もん。よからぬことをする時は京子の顔は思い出さないことにしている」
「朝倉さんって、左のほっぺたに傷がありますよね。光の加減で普段はあまりめだたな いけど」浅見司がちょっと遠慮がちに言いだした。「あれって中学の頃、不良にレイプさ れた時の怪我だって言ってる人がいますけど、それって本当なんですか?」
「本当も何も、有名な話さ」竜子が笑った。「何だ、知らなかったのかい?朝倉さんは 中学の時も生徒会長でね、不良たちのやってることを学校側と協力してビシバシとりしま ったものだから、脅迫されて、それでも全然妥協しなかったもんだから、仕返しと見せし めのために集団レイプされたのさ。それだけじゃない。不良たちはその時の彼女の裸の写 真を撮って病院の彼女に送りつけ、それを学内にばらまくから自分たちの要求を聞けと言 って再度彼女を脅迫したんだよ」
息を呑んだ表情になって三人の一年生は顔を見合わせたが、やがて大西和子が「本当で すか?」と少し疑わしげに言った。「いや、別に嘘だとか思いませんけど、ただ、この前 シェイクスピア劇で何をやるかって相談してる時、何かほらあの怖い劇の・・」
「『タイタス・アンドロニカス』?」
「その本を皆で読んでて、ものすごいレイプの場面が出て来ますよね、あの時・・・」
「あ、そうそう」司もうなずいた。「朝倉さんのその中学の時の事件の話を、その少し 前に聞いてたから、つい気になって何回か顔見ちゃったんですよ。でも朝倉さん、全然平 気っていうか」
「涼しい顔、ってあのことでしたよ」和子が言った。「そうかといってあの人は、そう いう時に無理に感情を隠して堪えるっていうようなタイプとも違う気がしたから、やっぱ りその噂、嘘だったのかなあって」
「ふん」竜子はせせら笑った。「君らまだ京子を知らんね。そりゃあの人はそのことで 心の傷なんか多分全然負っていないだろうと思うよ。何せあんた、その時彼女はだね、写 真が学内に配られる前に、それを全部コピ-して生徒会長としての声明文をつけて、生徒 会役員に命じて全学に配付させたんだから」
「えええええっ?」
「声明文の中身はいわずと知れた不良たちへの激しい攻撃と、戦い続ける決意表明。病 院のベッドの上でそれ書く人だぜ、もうまったく」遼子は首をすくめた。「当然、警察に も先生たちにも届けたから、加害者たちは即逮捕され退学になって、以後学内で不良たち の暴力は影もかたちもなくなったとよ。朝倉さんの人気はうなぎのぼりの天井知らず。卒 業する頃にはほとんど聖女扱いだったと」
「先生たちが『こんな写真を配付したら、あなたが傷つく』と言ってビラを回収しよう とした時の京子の台詞を聞きたいかい?」竜子が目をぱちぱちさせた。「『この写真を人 に見られたからと言って私は傷つきませんし恥ずかしいとも思いません。そう思うような ことを私がしている写真ではありません。これを人に見られて恥ずかしいと思うのは、私 にこういうことをした人たちです』と彼女は言った。それで結局、先生たちもビラを回収 できなかった」
「す、すみません」田所みどりが立ち上がった。「何か目まいがしてきたんで、コ-ヒ -もう一杯貰ってきます」
だが、ちょうどその時、カウンタ-の中から店の主の中年女性がにこにこ笑って歩み出 て来た。片方の手にコ-ヒ-ポット、片方の手に焼き立てのクッキ-を山盛りにしたガラ スの皿を持っている。
「ちょっと今、お客さんがいないようだから」彼女は片方の目を軽くつぶって、ちらっ と舌を出して見せながらクッキ-の皿を皆の目の前に置いた。「めしあがれ。ハ-ブを入 れて焼いたのよ。三年生の南条さんがこの間作り方を教えてくれたの。コ-ヒ-ついでも いいかしら?」彼女は少女たちのカップにコ-ヒ-をつぎたしながら首をかしげた。「ど うしたの?皆何だか浮かない顔して。何かよくないことでもあったの?」
「ああ、ああ、ママ」那須野遼子が大げさに情けなさそうな顔をして見せた。「私たち 皆、しばらくここにもう来れなくなるかも知れない。町のお店にお茶飲みに入るのって本 当は校則違反なんだもの。これから当分、演劇部は清く正しく規則を守った生活をしなき ゃならなくなりそうだし」
「なら、裏のベランダにいらっしゃい」女主人は遼子の肩を抱き、まだ濡れている彼女 の髪に優しく頬を寄せた。「あなたたち皆,私の個人的なお友達ということで、そこでお 茶とお菓子を出してあげるわ、いつでもね」
「うれし~い!」司と和子が手をとりあって喜んだ。
窓の外の海の上はまだ明るいが店内は次第に暗くなってきている。女主人が壁際に近寄 ってスイッチを入れると、あたりをやわらかな薔薇色の光が満たした。

「あなたは知らなかったんですか?」氷見先生は念を押した。「夜間に無届けで練習を するという計画について、何も聞かされていなかった。何ひとつ知らなかった。そう言う のね?本当にそうですか?」。
朝倉京子はまっすぐ先生を見つめ返して静かに答えた。「それはたしかに、そのとおり です。私は何も知りませんでした」
「美尾さんと南条さんの言った通りなんですね?」
「二人の言ったことは、その通りです」
二人の先生は明らかに困った顔になって、ちょっと目を見合わせた。実は職員会議や生 徒たちからの意見聴取でも、朝倉京子の生徒会長辞任だけは反対の声が多かったのだ。今 聞いた事実が明らかになれば、その声が更に大きくなることは明らかだった。京子が口を 開いて「・・・ですが」とゆっくり言った時、先生たちは思わず救いを求めるように、彼 女の顔をじっと見つめた。
「ですがそのことで、何か事情が変わるわけではありません」京子はしっかりした口調 で言った。「部長として皆のすることを把握できていなかったし、重要なことを相談され るだけの信頼もうけていなかったわけですから。このことを知らなかったということで私 自身の責任はかえって重くなると思います。生徒会長を辞任するのは当然です」
さつきは小さく肩をゆすってそっぽを向き、美沙は吐息をついた。
「そういうことになるでしょうね」細川先生がすばやく言った。「責任を自覚して、こ の厳しい処分をしっかりうけとめるようにして下さい。帰ってよろしい。あ、演劇部室を 今週いっぱいに片づけて、図書館の地下に移るのを忘れないようにして下さい。もし、一 日でも遅れたら・・・」
「遅れることはございません」京子は静かに一礼した。「それでは失礼いたします」
さつき、美沙、京子の順に三人は部屋を出て行き、ドアが閉まった。

「厳しい処分ではありますが」閉まったドアを見やって氷見先生が言った。「彼女たち に本当の力があれば、この経験を生かして立ち直ってくれることでしょう。私はそれを望 んでいるわ」
「どうですか。立ち直らないで、このまま、いっぺん滅びたらいいと思いますよ」細川 詩子は苦々しそうにつぶやいた。「私は、あの子たちが皆嫌いです」
氷見先生はちょっと何か言いたそうに、うつむいて書類を整理している細川先生の、眼 鏡をかけた暗く厳しい顔を見た。けれども何も言わなかった。

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