小説「散文家たち」第15章 運河
藻波市は、夏がたけなわになるほど活気づいてくる町だ。夕暮れの海岸通りには、避暑客らしいパラソルをさした婦人や、子どもたちを交えた家族などがそぞろ歩いて、ランタンや鉢植えの飾りもいつもよりは華やかになった店々をのぞきこんでいた。薄紫と紅色の微妙な色合いを見せながら暮れなずんでいく海を見ようとするように、海沿いの通りをゆっくり走って行く車の数も、ふだんよりずっと増えてきている。
その中を早足で歩く朝子の後を追っかけて、太った短い足をせいいっぱいに動かして、雪江はなかば走っている。しょっちゅう人にぶつかっては、すみません、すみませんと、かん高い声であやまりながら───。
海岸通りを横に折れて、銀行の裏の暗い運河に沿った石だたみの道に出る。とはいうものの、そこもまた、岸辺にずっと並んだ人魚の飾りがついた鉄製の街灯に照らされて明るく、人通りもかなり多い。あちこちに立った柳の枝を動かして、涼しい風が吹いてくる。 朝子が立ち止まり、追いついて来た雪江が息を切らしながら指さして教える。
「あそこ───あの人───」
運河の水際に下りて行く石の階段の、それも石づくりの古めかしい手すりにくっつくように見台のような小さい机を置いて、茶色のレ-スの服を着た小太りの女が座っている。髪は短い。首は太い。全体にずんぐりしている。退屈そうに見台の上に、指輪のいくつもはまった両手を置いて、ぼんやり運河の方を見ている。
「恋愛、商売、進学、就職、その他何でも占います」と、上手か下手かわからない、くねくねした書体で記された大きな紙が見台の前に垂れていた。
◇
日暮れの気配が深まるにつれて次第に増える人波をくぐって、ようやくみどりは運河のそばに出た。石づくりの橋の上に立って見回すと、少し離れた運河の岸の石垣のそばに、雪江と朝子が並んで立って、真剣な顔で何か話し合っているのが見えた。その向こうの階段のかげに、机を置いて誰かが座っているようだ。あれが占いのおばさんか。ほっとかすかな吐息をついて、みどりはそちらに動き出しかけた。
その時、腕をつかまれた。
緊張していた上に不意だったから、みどりは小さい悲鳴をあげて、文字通り地面から飛び上がった。
「しい───っ!」かすれた、小さい声が言う。
ふり向くと、白髪を風に吹き乱させ、あちこちが破れているのか、もともとそういうデザインなのかよくわからない、ひらひらとうすい長い銀白色のドレスを着た老女が一人立っていた。しわの多い小さい顔の、奇妙に生き生きとした優しい目で、彼女はじっとみどりを見つめた。
「そちらに行ってはだめよ、あなた」歌うような細い声で、けれどもはっきり老女は言った。「行ってはだめよ。皆、死んでしまう」
老女の顔にも姿にも、恐ろしいところは何ひとつなかった。にもかかわらず、みどりはこの時、背筋が凍りつくような恐怖を感じた。
「人違いだわ───どなたです?」
言ったとたんに、思い出した。これは、あの老女だ。「カルメン」の上演の後で、階段の上に立って、じっとこちらを見つめていた。誰かの───北原白秋だったっけ───短歌を口ずさんだだけで、煙のように姿を消した、あの───
老女はゆっくり首を振り、その目に初めてじわじわと痛ましいほどの深い悲しみがあふれあがって来るのを、みどりは見た。
「私は見てきたわ───そちらに行ってはだめ───きれいな女の子たちは、次々に死んでしまう───殺しあって、死んで行くから───」
老女に腕をつかまれたまま、みどりは肩をよじって振り向いて見た。雪江と朝子が、占い師のいる方へと歩き出している。二人の向こうに運河の暗い水が街灯の灯に鈍く光ってゆれている。
みどりはもがいて、老女の腕をふり払う。あっけないほど、あっさりと、つかんでいた指はほどけて、みどりは自由になった。そして、悲しい、小さい声が背後からとぎれとぎれに聞こえてきた。
「ランスロットも───アラミスも───皆、そうして死んで行った───ひとりぼっちで───大切な人を誰一人救えないで───世界が滅びるのを、とめられないで───見ているしかなかった───」
それきり、声が聞こえなくなる。立ちつくしていたみどりが、おそるおそるふりかえると老女はいなくなっていた。大きな白い風船を手にした子どもが、はしゃいだ声をあげながら両親らしい人の手にひかれて、みどりのすぐそばを通りすぎて行った。
よろよろと数歩歩いて、みどりは運河を見下ろす橋の欄干によりかかる。
「どうしてこんなに疲れるんだろう?」
小さく声に出して、彼女はつぶやいた。
けれどもう、歩けない。あの老女の言葉に身体中の力を抜き取られてしまったかのように、足がいうことを聞かなかった。
石の欄干には、まだ昼の陽射しの暖かさが残っている。それに温めてもらおうとするかのように、みどりは石にしがみついて、朝子たちがどうしているか、目でさがした。
◇
朝子たちが近づいて行っても、占い師は運河の方を見たままで、いっこうにこっちを向こうとしなかった。茶色のレ-スの服はよく見ると、けっこう古びてすりきれている。両方の耳にはガラスのように透き通った大きな丸いイヤリングがぶら下がっている。
女の顔の額は狭く、目は細く、鼻は小さな団子鼻で脂ぎった先がぴかぴか光っている。あちこち白髪のまじった髪は、かつらをかぶっているかのように、ごわごわと固そうだ。 この女は、太ってはいるのだが、それはたとえば、お掃除おばさんのような日夜労働に従事している人の、がっちりした太り方ではない。大きな胸も太い腰も、どことなく不健康でぶよぶよしていて、運動不足という感じだ。それが知的というか精神的な方面の仕事をしている人らしいと、言えば言えないこともなかった。
朝子と雪江が、本当にあと数歩のところまで近づいたとき、占い師の女はようやく顔をこちらに向けかえて、けだるそうに二人を見た。小さい、黒いビ-玉のような目には、何の表情も浮かんでいない。
「───はい?」女は何だか、ため息でもついているような口調で話した。「何ですかね?」
「運勢を、見てほしいんです」朝子が、思いつめた口調で言った。「あたし───あたしたちのこと───あたしたちの回りで、これから起こること───そういうのって、いいんですよね?見てもらっても?」
無表情で女はうなずき、石垣にくっつけて置いてあった小さな丸椅子をひとつひっぱって、自分と机を挟んで向かい合う位置においた。朝子はそれに座る。雪江は不安そうにもじもじしながら、わきに立っている。
気のない口調のままで女は、朝子の名前と生年月日を聞き、安物のボ-ルペンでそれを小さい紙に書きつけ、いつまでもじっと見つめつづけていた。
「あなたはね」しばらくしてから女は言った。「この町にはちょっと、合わないかもしれないね」
朝子がうなずく。
「星がね──」女は口の中で何かまた、しばらくぶつぶつ言っていてから「麗泉?」と聞いた。
「え?」
「麗泉の生徒さん?」朝子がまたこっくりうなずくと、女はにこりともせずに「学校は合ってるけどね、あなたに、とてもね」と言った。
「あの、その学校で───」朝子はおそるおそる言った。「このごろ、ちょっと、変なことばかりおこるんですけど、何かわけがあるんでしょうか?」
女はじいっと朝子を見つめた。あいかわらず、その目には何の表情もない。
「あんたの回りでおこるってこと?」
「あたしと───それと、友だちの回りでも、春から急に、事故があったり、変なことが次々に───それが、あんまり、たてつづけみたいな気がして───」
「麗泉──」
女は宙に目を上げて、方向としては背後になるのだが、まるで麗泉学院を薄青い夕闇の向こうにすかして見つめているような顔をした。
「何かが、入り込んだのかね───そうだとすると、やっかいだ───あの学校には宗教色というものが、まったくなかったからね、これまで──」
「邪悪なものが侵入したら、防ぎようがないってこと?」
「強力な科学的精神、徹底した合理的思考というものは」女の声は低かった。「本人たちは気づいちゃいないが、それ自体がすでに一つの信仰なの。チェスタトンも言ってるようにね。だから、信仰と同じように、悪をくいとめる力を持ってる。でも、それがゆらいで来ると───麗泉の生徒のあんたが、こんな占い師のところに来るなんてのが、そもそも、そうなりつつある徴候を示しているんだろうけれど───それに代わる信仰が何か確立するまでは、そこは混沌が支配する。精神の無法地帯、無政府状態──邪悪なもろもろのものたちが一番好む場所なんだよ。しかも、衰えたりとはいえ、強く残っている科学性や合理性が、かたくなに助けを拒む───救いの力も、入れないのさ」
「じゃ、これは、学校全体で起こりつつあることなんですか?」
「あなたたちの回りでおこりはじめていることが、ひとつのきっかけになる───そういう場合も、あるけどね」
「演劇部───あたしたちのところからはじまって、学校全体に広がるの?」
女は首を振った。「そんなことはわからない。そういう場合もあるってこと」
「なぜ?なぜ、あたしたちが、その入り口として、選ばれたの?」朝子は両手をにぎりしめて、はずみそうになる息をおさえた。「あたしたちが、きっかけになることになったとしたら、そうなった、そのきっかけは何なの?偶然なんかじゃないわよね?何か理由があるはずよね?」
「どんなことにも理由はあるよ」太ったずんぐりした指で、疲れたように女は鼻の横をこすった。「世間の人が考えているよりも、偶然ていうのは、とても少ないものなの」
「だったら、それ───」
突然、小さなベルの音がどこかで鳴り出して、朝子はびくっと言葉を呑み込む。女は、あわてた様子もなく、落ちついたしぐさで見台の下から銀色に光る携帯電話をひっぱり出して耳にあて、しばらく黙って聞いていた。
「煮豆」やがて、一言、女は言った。
雪江と朝子は目を見はって、女を見つめている。
「冷蔵庫に入っているから。多分、二段目。そう。あたためて、食べて」女はそれだけ言うと、電話を切って下に置いた。「───で?何?」
「あ───」朝子は何とか我に返って言葉をついだ。「さっきの───その───あたしたちの回りから、こういうことがはじまってるとしたら、その原因が何か───」
「手を両方とも、見せてくれる?」
朝子が広げて、見台の上に置いた手のひらを、女はひきよせたりさわろうとしたりはせず、こころもち首をのばして長いこと黙って上から見つめていた。
いつの間にか、あたりはうす暗くなっている。街灯の光が三人の上にふり注いで、ふっくらとした朝子の手をあたたかく包んでいる。
女はちょっと身体を引いた。
「死んだ女の子が一人いるでしょう?」彼女は聞いた。
◇
「いったい、朝子はどうしてるの?みどりも、まだ来ていないって?」寮のホ-ルのステ-ジの真ん中に仁王立ちになった峯竜子は、丸めた台本で色あせた赤いズボンの太股をばしゃばしゃたたきながら、腹にすえかねたような声を出した。「まったくもう、どこぞの大女優じゃあるまいし、自分の出番の時だけ来て、ささっと演技して帰ればすむなんて思ってるんじゃあるまいな?」
ノ-スリ-ブのTシャツ姿でモップを握って楽しそうに、ステ-ジの床をせっせとみがいていた浅見司が手をとめて、不安そうな顔で立ち止まる。向こうの方で京子と肩をくっつけあうようにして、せりふのやりとりの打ち合わせをしていた片山しのぶも、あわてたしぐさで立ち上がった。
客席の椅子に座って何かしゃべっていたさつきと遼子も、顔を見合わせる。
「みどり、さっき食堂にいましたよね?」遼子が言った。
「うん」さつきもうなずく。「あたしの前で、最後に残ってたヨ-グルトパフェ取って行って、くっそ~と思ったから、よく覚えてる」
「多分ね、その後、図書館に行ったのよ」トレヴィル隊長の扮装のままの南条美沙が、床に膝をついて日村通子のはいている黒いズボンの破れをつくろってやりながら、糸をくわえて切ろうとしているため、ちょっとくぐもった声で言った。「本を抱えて大急ぎで学校の方に行くのが見えたもの。日村さん、これでいい?後でもう一回、ちゃんと黒い糸でかがるから、今日はさしあたり、こんなので我慢しといてもらえたら───」
「ええ、もう、これでけっこうですわ。こんなことまでしていただいて本当に申し訳ございません」立ち上がった美沙の顔を通子は手にした扇であおいだ。「暑くはございませんでした?この通路、風が通りませんのねえ」
「あら、ありがとう。涼しいわ」
言いながら美沙は通子の手の扇を見て、ちょっとおかしそうに唇をゆがめている。この扇はもともと「カルメン」の劇のときの小道具だったのだが、握りのところに小さな髑髏の飾りがついており、色も灰色でぱっとせず、誰も気味悪がって使いたがらなかったために、いつの間にか平気で使う通子の専用になってしまい、劇が終わって、彼女がそのまま自分のものにしてしまっても、文句を言う者もいなかった。だが、美沙が先日、銃士たちのマントにユリの花を刺繍した糸の残りで、その小さい冴えない灰色の扇に金色の踊っている骸骨をいっぱいぬいとりしてやったので、まだ皆は知らないが、今はちょっと不気味ながら妙にかわいくもある、洒落た扇になっているのだ。美沙の視線に気がつくと、通子は扇を口にあてて、その上からなまめかしい、いたずらっぽい目を見せて笑った。
「日村さん、のんきにかまえてる場合かよ?」竜子が向こうの方からどなった。「あんた、みどりに何か聞いてないの?」
「いえ。でも、大丈夫、まいりますわよ」通子はおっとり首をかしげた。「まだ、二十分もありますわ。少しはのんびりなさいませ。人生は余裕、イライラは美容の大敵と申すじゃございませんこと?」
竜子が低くうなって何か言いかけた時、客席の後ろの方から通路を軽い足どりで走ってきた新名朱実が、ひらりとステ-ジに飛び上がった。
「ホウリュウシ、おとり込み中ごめんよ。ちょっとライトの調子見て。右の方にだけ赤を残すやり方が、ここの機械じゃどうなるか、いまひとつよくわかんない」
「はいはい」うなるように答えて竜子は、台本をそばの椅子の上に放り出し、どしんとステ-ジから飛び下りて大股で通路を歩いて行った。
小さい階段を上がって、客席の後方の狭い照明室に入る。
「どこだって?」
うす暗がりを竜子がすかして見ていると、朱実が竜子に椅子を押しやり、自分はもうひとつの椅子の背をかかえるようにして、逆向きに馬乗りに座った。
「悪かった。ライトは何ともないの。例の件よ」
「例の───?あ、壁画か?」
朱実はうなずき、ステ-ジの上でしのぶと何か話しながら歩いている京子の方を、ガラス窓ごしにちらと見ながら、ポケットから紙を取り出した。
「十和田さんがいろいろ聞いてくれて、何人か候補者が出ているんだけどね───あの絵を描いた人じゃないかっていう」
竜子は紙をのぞきこんだ。「望月二三子───土田ルリ───今西千鶴子───真鍋愛子───けっこう多いな。これ皆、美術部員だった人たち?」
「そのへんがちょっとややこしい。いずれゆっくり説明するわ。さしあたり言っときたいのは」腕時計をちらとのぞいて、朱実は早口になる。「この人たちがここの生徒だったのは、皆二十年以上も前でね。美術部にも全然資料が残っていない。卒業生の話などをかきあつめて、どうにかわかったのは名前だけ。フルネ-ムの確認だけでも楽じゃなかったのよ。もちろん、住所も出身校もつかめない」
「ふうん、意外とやっかいなもんだね」竜子はうなった。「うちの学校、同窓会組織とかけっこうがっちりしていると思ってたのに、そういう素性のわからん人がごろごろいるわけ?同窓会のあのケバいおばさまたちは、いったい何をしてんだろう?行事のあるたびやってきて、伝統だの卒業生の団結だのって、偉そうに訓示たれてってくれるくせにさ」 「まあ、これ、時期も悪いんだよね。二十年から三十年前って言うと、学生運動でかなり校内が荒れてた頃でしょ?そのころの卒業生って、この学校にあまりいい思い出ってないらしくって、同窓会に連絡を全然取らない人も多いらしいの。名簿とか今見ると、その前後数年間は名前が並んでるだけで、住所だの連絡先だの仕事先だの結婚後の姓だのなんて欄はもう、みごとにさあっと空白よ。名簿のブリザ-ド地帯と呼ばれてるらしいわ、同窓会の役員の人の間じゃ、ひそかに」
「やれやれ。じゃ、手がかりの糸はそこまでか」
「早まらないで。努力はつづけるわ。で、さしあたり手近なところから手をつけるとすると、その人たちに関する資料が残っている可能性のあるところと言えば、校史編纂室なのよ」
「ははあ」竜子も腕組みした。「まあ、そりゃそうだわな。生徒委員会じゃ、例年、捨てられない資料は皆さしあたり、あそこのへやに放り込む。だけどまずいな。去年までなら、そんなのすぐに見られたろうけど、今あそこの管理は小石川ナンシ-だ。見せてくれと言ったって、そうおいそれとは───」
「まあね。でも、校史編纂の仕事なんて、一応生徒会の仕事じゃあるけど、もう十年かそこらもだらだら続いていて、歴代の生徒会もそんなに熱心に取り組んではいなかったでしょ?他のさしせまった仕事が多くて、そんなのに手をつける暇もなかったしね」
「学校側もあまり協力的じゃなかったんだよ。予算請求したって、あの項目じゃちっともつかなかったしさ」
「それは小石川さんが生徒会長になってからだって同じで、だから彼女も、さほど興味は持ってないの。で、目下のところ、編纂室の管理は二年の沢本玲子さん一人にまかされているらしい。あの、三組の委員長の人。足の悪い優等生の───」
「知ってるよ。彼女、ナンシ-のふところ刀じゃないか」竜子は鼻を鳴らした。「やっかいなのは同じことだ」
「十和田さんが沢本さんにかけあってくれたの。演劇部のことは隠してね。美術部の先輩のことでこっそり調べたいことがあるからナンシ-に内緒で編纂室に入らせてくれないかって。そうしたら沢本さん、意外にあっさり承知してくれたんだけど、交換条件がひとつあってね」
「どうせ、ろくなことじゃあるまいね。何?」
「小石川さんに、もっと協力してくれって───十和田さんと、美術部が」
◇
「死んだ───女の子?」朝子は占い師の顔を見つめた。「うちの───麗泉の生徒ですか?」
占い師の女は、机の下から出した、すりきれた緑色の小さな折本をたしかめるようにのぞきこみ、朝子の手のひらと見比べた。
「まちがいないと思うけど──高いところから落ちるか、何か、そんな風にして」
朝子は目ばたきした。
「何かのまちがいじゃないのかな───落ちて、大けがした子はいますけど」
「その子は、本当に、死んだんじゃないのね?」女は、自分はどっちでもいいのだがといった調子で、念を押した。
「ええ!ええ!しのぶは生きてます!」朝子の声は不安を打ち消そうとして、かえって激しくうわずった。「そして、他にも、誰も、死んだ女の子の話なんて聞かないわ!これまで、そんなことがあったとも───あったら、きっと、何か話が残ってるはずだわ。うちの学校の子って、皆、そんな話があったら絶対、しゃべって、伝えますよ!」
「ふうん、そのへんのことはあたしにはわからない」女は言った。「けれど、とにかくあなたたちの近くには死んだ女の子が一人いる。年も同じくらいで───麗泉のかね、あんたとよく似た制服を着て───あなたがたに近づいたり、はなれたりしているよ。まだ大したわるさはしていないようだが───これからは、どうかね」
「その子は───何で死んだの?殺されたとか───誰かを恨むか──憎むかしているの?」
メインストリ-トではない、こちらの通りの方にも人通りが次第に増えてきている。笑いさざめきながら、赤ん坊を抱いた夫婦や、若い女性たちのグル-プが通りすぎる。運河の向こう岸の水銀灯にも灯がともって、青白い光が灰色の水にゆれた。港の方では花火があがって、人々のどよめきが遠く聞こえる。
「はっきりしないね───その子にも、よくわかっていないようだ」女はゆっくりつぶやいた。「なぜ死んだのか。死んでいるのか、生きているのか、それもよくは、つかめてないのかもしれない──」
「その子から身を守る、お守りか何かないんですか?」雪江が熱心に口をはさんだ。
「ないわけじゃない」女は、机の下に置いた木箱の中をかき回して、奇妙な紐やビ-ズ玉をつまみあげたが、何か考えるようにまたその手を止めた。「けれど、今はまだ何も、身につけない方がいいと思うね。かえって、その子をひきつけてしまうかもしれない。気を強く持っておいで。何が起こっても、恐れてはだめだよ。何か、新しいことが起こったら、知らせてくれるかな?手をうった方がいいと思った時は、私もできるだけのことはするから」
何度もうなずいていた朝子は、ふと時計を見て飛び上がった。「嘘!七時だわ!行かなきゃ───どうしよう、峯さんに怒られる!あの、すみません、また来ますので───今日のこれって、いくらお支払いしたら──」
「二千円。でも、あるときでいいよ」女は言った。
朝子はあわただしく、カバンから財布をとり出し、千円札をひっぱり出す。雪江も自分の財布から千円札を出して、二人はそれを一枚ずつ、占い師の前にさし出して、同時にぺこんと頭を下げた。
「ありがとうございましたっ!」
そして全速力でかけ去る。通りかかった上品そうな老夫婦がほおえんでそれを見送り、瀟洒なス-ツ姿の夫は、銀髪の小柄な妻の腰にそっと手を回して引き寄せ、二人は顔を見合わせて笑った。
「恋占いかしら───」妻はいとおしむように、金を数えて箱にしまっている占い師の女と、かけ去って行く少女たちとを見比べてつぶやいた。
二人の少女が、橋のたもとで、さっきからそこで行われていたピエロの皿回しのパフォ-マンスに見とれている人だかりにもみくちゃになりながら、心配そうにこちらを見守りつづけていたもう一人の少女と合流し、あらためて腕時計を見ていっせいに悲鳴をあげ、人ごみをかいくぐって走り去って行ったことなど、もちろん老夫婦は知るよしもない。
◇
「ちょっと、何だって?」竜子は目をむいて、朱実をにらみつけた。
かんべんしてくれよと言うように、朱実は両手をあげる。「言ったのは沢本さんよ。あたしじゃないわ」
「で、十和田さんは?」
「協力するって、言ったらしいよ」
「おいおいおい!」
「小石川さんだって、がんばってはいるんだし、自分はたしかに彼女のこと好きじゃないけど、だからと言って避けてばかりいるのは、サ-クル会議の議長としても無責任だと思うし、筋の通った協力だったら、するのが当然だろうって───これは十和田さんの言葉よ。近い内に千代さんとも協力して蘭の会の会合を開くつもりだって言ってたわね」
竜子は腕を組んだまま、天井を見上げた。
「十和田正子がナンシ-につくか。そいつはちょっと、やりにくくなるな」
「やりにくいって、何が?考えようによっちゃ、十和田さんがナンシ-と組んでくれた方が、生徒委員会もまともになるし、暴走はしなくなるし、いいんじゃない?」
「暴走しないってのがまずいのさ。暴走して、孤立して、崩壊してもらいたいのに」竜子は肩をすくめた。「まあ、しゃあないか。さしあたりは、あの絵の作者をつきとめて、うちの一年生たちの動揺を抑えるような情報をつかむのが、すべてに優先するってことにしとこう。それにしても沢本玲子もやるもんだね。京人形みたいなつるんとした顔して、食えない奴だよ。それで?校史編纂室には、こっそり入れることになったわけだね?」
「十和田さんが合鍵をもらってる。その前に実は、あそこのコンピュ-タ-に侵入できないかって、セイと二人でいろいろやって見たんだけど、あのへやのパソコン、大型の旧式のやつで、インタ-ネットも使ってなくて、それでかえって手がつけられない。結局、あのへやにしのびこんで直接キイをたたかなきゃ、何の情報も盗めない。で、セイとあたしと十和田さんとで、しのびこむことにした」
「いつ、やる?」
「それが、今夜なのよね」朱実はいたずらっぽく片目をつぶって見せた。「練習終わった後の夜中に。それを話しておこうと思って、だから急いでつかまえた。忙しい時に、ごめん」
「いや、そりゃいいけど───」竜子は緊張した表情になって、まじまじ朱実を見た。「気をつけなよ、あんた。そもそも十和田さんて人はほんとに信用できるんだろうな。それを言うなら、沢本玲子も。小石川ナンシ-にこっそり密告なんかされて、あのへやに侵入してる最中に踏み込まれでもした日には、目もあてられないことになる。校史編纂室の情報を盗もうとしたとか、改ざんしようとしたとかって、あらぬ疑いかけられたら、それこそ退学もんじゃないか」
「情報を盗もうっていうのは、あらぬ疑いじゃないって」朱実は首を小さくすくめた。「ま、バッキンガムとリシュリュ-が協力してやる仕事なんだ、そうそう失敗はないだろう───おや?来たよ」
「───誰?」竜子はぽかんとする。
朱実はおかしそうに笑い出した。「朝子と、みどり」
ガラス窓から見下ろすと、もうすっかり衣装も整えている皆の間を、息せききって走ってきた朝子とみどりがステ-ジにかけ上がるところだった。
「忘れてたっ!」竜子は椅子からおどり上がった。「十五分も遅刻じゃないか、あの二人!もうっ、どうしてくれよう!?」
そして、荒々しくドアを開けると階段を走り下りて行った。
朱実は苦笑して、自分も椅子から立ち上がりながら、また下を見下ろした。ステ-ジの上では今、朝子がしのぶに飛びついて、べそをかいた顔で、その腕や肩をたしかめるようにつかんでは抱きしめるので、とまどったしのぶが、朝子の肩をつかみかえして、何かしきりに問いかけている。