小説「散文家たち」第40章 ランスロットの娘
夏の間もずっと、図書館地下の演劇部室は、ひんやりと涼しかった。公演で獲得した資金で少女たちが買い込んだ、移動式の冷房機がときどき活躍していたこともある。
司や美沙がせっせと掃除をするせいで、広い二つの部屋はいつも何とかきれいに片づいていた。奥の部屋の隅には村上セイのパソコンをおいた白い木製のがっしりした机があって、傍らの棚には橙色や黄色や緑の箱に入って、きちんと分類されたフロッピーディスクがずらりと並べられている。あれほどたくさんあったボール箱も、すでにあらかた片づいていて、少女たちがそれぞれの部屋から運び込んだ、色もかたちもさまざまな衣装だんすやガラス棚の中に、中身はきちんとしまわれている。
手前の部屋は、例のバラ色のタイルの流し台のそばの、寄せ集めの食器棚にカップやグラスが並んでいる。すりきれた古いソファーと安楽椅子が大きなけものが寝そべっているように、一角に置かれ、部屋の中央には、例の高さも大きさもまちまちないくつもの机を寄せ集めて、大きなテーブルクロスをかけた周囲に、これまたあらゆるかたちの椅子が、ぐるりと並んでいる。
今、その椅子のほとんどには少女たちが座っていて、部長の美尾さつきの言葉に耳を傾けていた。
とはいえ、学内のあちこちでやっている昼の公演がさっきようやく終わったばかり、夜の公演はもうまもなく始まるとあっては、ほとんど全員が舞台衣装のままだから、何も知らない人が見れば、その雰囲気は相当に異常なものがある。
汚れたアンダーシャツの上に、古びた革の上着を着込んで、顔中をひげだらけにしている田所みどりがいる。ひらひら袖の白いブラウスに黒ビロードの上着と半ズボン姿の浅見司がいる。黄色と灰色のロシア風のシャツの胸を血(むろん本物ではない)で真っ赤に汚した片山しのぶがいる。洗い晒しの青いシャツの上に、えりの焦げた茶色のジャケットを羽織った新名朱実、真っ白い毛皮のタイツとマントに、頭にはつややかな小さい白い耳をくっつけた那須野遼子、縞模様の囚人服の袖から入れ墨の番号のついた細い腕をのぞかせている緑川優子、大きなコサック帽をかぶり、白く長い眉とひげをつけた峯竜子、禿げ頭のかつらに、大きなエプロンの大西和子、何の飾りもない黒いドレスの日村通子 ───そんな一同を見回して、頭にぐるぐるターバンを巻き、顔を茶色に塗りたくった美尾さつきが「───と、いうわけでね」としめくくりながら、机の上に置いてあるスーツケースに片手をのせた。「ここに入っている原稿やメモ───小田茜さんの娘である岸辺さんから預かった資料についちゃ、当分あたしが保管させてもらうことにする。ただし、コピーを一部作って、この部屋においておくわ。何かの手がかりになるかもしれないから、皆も一応、目を通しておいて。それからっと───」忘れたものはないかというように彼女はあたりを見回して、「そうそう」と言いながら、クリップでとめた紙の束を手に取った。「今回の最大の収穫かもね。蘭の会の全メンバーの本名および住所がわかったの。これは後で皆に一枚ずつコピーを渡して、今後の調査の打ち合わせとかするからね。───と、こちらはそんなところかな。しのぶ、つけ加えること、なんかある?」
ほおや額に赤い切り傷のあとや、紫色の打ち身のあとをくっつけたまま、しのぶは笑って首をふった。「ありません」
「よろしい」さつきはうなずいた。「那須野さんたちの方は?」
「収穫ほぼゼロ。───マイナスと言った方が近いかな」遼子はゆううつそうに片手を上げて、白い毛皮の耳の位置を調整した。「なにせ、聞き込みしてた相手がぽっくり死んじまったんですから」
「死んだ?」さつきが聞きとがめた。「たしか、あんたたちが調べてたのは、例の少女の───関喜志子さんの墜落死事件を当時担当した、刑事の奥さんて人だろう?松の実老人ホームとやらに入ってた」
「その人」ものうげに遼子はうなずく。
「死因は何だい?」竜子が気にした。
「風邪こじらせた肺炎よ。まあね、年に不足はないんだけど。死ぬ前に、あたしと朱実とにあてた伝言がひとつあったっていうんだけどさ」タイツの袖口から、紙切れをひっぱり出して、遼子は気乗りのしない調子で読んだ。「ええっと。───きてきを、さがしなさい───」
「それだけなんですか?」眉美が声を上げる。「それって、何か意味あるんですか?」 「いいや、お若いの」遼子はちょっとバカにしたような調子のしゃがれ声になって言った。「何もあるとは思えんよ」
「待ってよ、でも何かあるはずよ」淡いバラ色のひらひらした衣装に身を包んで、机の端に頬杖をついたまま、珍しくずっと黙っていた奈々子が、たまりかねたように声を上げてさえぎった。「きてきって、何よ?汽車の汽笛?」
「昔は、この町、鉄道が通っていて駅もあったんでしょう、たしか」緑川優子が小さい声で言う。「それとは関係ないの、何か───?」
「うーん、どっちみち、これは急にはわからんと見たね」さつきは片手を宙に振った。「あとでまた、ゆっくり考えよう。皆も考えておいてよ。他には───ああ、美沙。あんたも何か報告があるって、言ってなかったっけか?」
「言ったわ。でもね、これがまた」青灰色のドイツ軍の軍服のまま、皆の紅茶をついでいた美沙はポットを置いて、首をふった。「ぱっとした話じゃないのよねえ」
さつきは、ごましお色の口ひげをつけて、乗馬服姿で、机のはしにひっそりと座っている京子の方を、ちらと見た。
「たしか、あんた、あれだよね───何か思わせぶりなことばっかり言う、例の町の占い師の所に行ったんだよね?」
半白のかつらに中年婦人のスーツ姿の立花朝子が、向こうの方でちょっと居心地わるそうにもぞもぞしている。大丈夫よ、というように、そちらに微笑みかけてから、美沙はさつきの方を見て、しかめっつらをして見せた。
「そのとおりよ。立花さんが手相を見てもらいに行ったら、あなたたちの回りには、昔死んだ女の子がつきまとっておりますなんて、とぼけたことを言ってくれちゃったりしたおばさんよ」
「でも───あたってたんではありませんの、それ、ある意味では?」日村通子が、からかうような声を出す。
峯竜子が、うなり声をあげた。
「とにかく、抗議に行ったのよ」美沙は通子に笑い返した。「何の根拠もない無責任なこと言って、下級生を動揺させるのは、やめていただきたいってさ。したらば、何だか、どういうの───?変に哀れっぽく下手に出て来る割りにはよ、言ってることが何か強気なんだよね。要するに、根拠はあるといわんばかりなわけ。でもって、自宅まで来れば教えるって言うの」
意識してか、美沙はいつもより荒っぽい崩れた口調を使っている。皆を、特に一年生たちを緊張させまいとしているのかも知れなかった。
「行って見たわけ、それで?」さつきがあきれたように聞く。「自宅まで?」
美沙がうなずく。京子が心配そうなまなざしを向けて、ちょっと身じろぎした。竜子が大きな声を上げた。「ちょっと!それって、マジでヤバいですよ」
「そうですよ」朱実もうなずく。「一人っていうのは───」
「わかってる。今度から気をつける」美沙は疲れた顔でうなずいた。「ただ、あの人、こちらが一人で行かなかったら、また、のらりくらりと例の思わせぶりな調子で、結局何も言ってくれないような気がしたのよね」
「一人だったら、言ってくれたの?」奈々子が疑わしげな声を出す。
「だいたい、どこに住んでんだよ、そいつ」さつきも不安そうだった。「何回ぐらい、行ったの?」
「え、二、三回───もっとかな」美沙は、あみだにかぶっていた軍帽を取って、机に投げ出し、平手で髪をかきあげた。「場所はあそこよ。運河の向こうの、古い商店街の裏通り。氷屋さんとか、畳屋さんとか、小さいお店が並んでるとこ」
「あたしは行ったことないな。そこに、家があるの?」
「小さなアパート。それは新しいの。部屋は二間つづきで、別にどうってことない住まいだわ」
「なんか聞き出せたの?」
美沙は机の端の椅子に、腰をおろして足を組んだ。「何も。今のところはね」彼女は首を振った。「敵もさるものよ」
「でもさ、言ったんでしょ?」和子が身体を乗り出した。「来れば、何か教えるって。知ってることがある、みたいな───?」
「本当に何か知ってんだかどうか、わかりゃしないのよね、実は」美沙は、うんざりしたように、やさしい力の抜けた笑みを浮かべて和子を見た。「気になったのは、ただ、何か危険な、異常なもの───性にまつわる何かが、その、死んだ女の子には関わっていると言うのよ」
「その死んだ女の子って」通子が細い眉をひそめる。「関喜志子さんのことと思ってよろしいの?」
「さあ、それもまだわからない。ただ、あてずっぽうにしては、このところ起こっていることと一致するでしょ」美沙は言った。「辛島圭子のやってたこととか、ポルノの原稿の束とかに。あの占い師、自分じゃ何かよくわからないままに、何かのルートで情報を聞きかじっているのかも知れないって、ちょっとそんな気もするのよね」
「そうですかしら?占い師にはお得意の、はったりなのではございませんこと?」日村通子は、つまらなそうな、面白がっているような、微妙な声と表情で、耳のあたりを軽くこすった。「それにしても南条さん、いったい、いくら、お払いになったの?」
「───え?」
「ま!普通そんなに少しづつ気を引いて話すからには、節目々々できっちりと、お金を請求してくるはずじゃございませんこと?また、それを払うから、ついつい人はずるずると通いつづけてしまうものではございません?今まで払った分が、もったいない───これがネックでございましょう?───ですもの、きっと───ちがいまして?」
心配そうに朝子が、美沙をまた見つめる。ほろ苦く笑って美沙は首をふった。
「請求は、されたわね。お金じゃなかったけど」
「では、身体?」通子はすまして言ってのけた。
机の回りが、しんとする。美沙は、あきれたといった顔でそれを見回し、皮肉っぽい調子で投げ出すように言った。「ちょっと、もう、何なの、この沈黙は?」
「教えてやろうか?」さつきがカリカリした声を出した。「そりゃね、さっきからのあんたが、もう見るからに、何かそんなヤバいことでもあったみたいな、思わせぶりな態度を思いっきりとってるからだろ!?ほんとにもう、いい加減にしないかよ?もうちょっとそんな、意味ありげな深刻そうな顔つづけたら、しのぶと言わず、このあたしが痙攣おこしてぶっ倒れるぞなもし!人の背中がむずむずしてくるような、もってまわった言い方はもうやめて、具体的に、手短に、てきぱき、はっきり、言わんかい!占い師の、女は、あんたに、何を、要求したのさ!?」
「人には言えない病的な空想」美沙は、さつきを見返して言った。
「───何てった?」
「いわば、早川雪江さんばりの。誰の心にもあるはずの。それを、一つ言ったら一つだけ、自分も知っていることを教えると言うの。あらいざらいに、一度に全部と言いたいけれど、そういっぺんに思い出せるものではないでしょうから、一日一つということにでもしておきましょうかねって」
自分を見つめつづけている美沙の目に、ふとこちらにすがりついて来たそうな、助けを求めているような、恐怖の色が浮かんでいるのを、さつきは見たと思ったが───それはもしかしたら、見つめ返している自分の目に浮かんだ表情だったのかも知れなかった。
その耳に、京子の声が届いた。
「美沙」はりつめた、不安に曇る声だった。「話したの?」
◇
「話したわよ」美沙は、あっさり言い、今度ははっきり、いつもの彼女の声になった。「聞く?」
机の回りの皆がとっさに返事ができずにいるうちに、美沙は椅子の背に寄りかかり、身体をなかばよじって机の上をながめたままで、ひとり言のように続けた。
「こう話したわ。───昔、お手伝いさんの部屋で、古い忍者マンガを見ていたら、兄弟の忍者がいて、その中の一番下の弟が、敵に捕らえられて拷問される場面があった。二人の兄が窓の外から、それを見ていて、手の出しようがないままに、弟の苦痛を思って嘆いて苦しんでいる。なぜか、私はそれを見て、異常なくらい興奮したのを覚えています。───」
沈黙が続いたまま、やがて美沙がくすっと笑った。「そうしたら、その占い師の女がいわく、よ───お嬢さん。占い師だって、中島梓の本ぐらい、読みますよ」
「───な───何───?」さつきが、どもった。
「ええ。それって、昔、作家の中島梓が雑誌に書いたエッセイなのよね。本になったのは聞いたような気がしたけれど、忘れていたの。そいつはその本、読んでたってわけ。食えない顔して言うのよね。にせの告白には、お代はさしあげられませんので、あしからず───あっさり、追い返されたってわけ」
ほっとしたような、あきれたような、声を殺したざわめきが、少しづつ、机の回りに広がっている。緑川優子が、細い吐息をついてうつむき、新名朱実が首を振った。
美沙は椅子の脇で組み合わせた両手の指を見ながら、続けた。「それでね───」
「勘弁しろよな」さつきがぼやいた。「まだ、あんのかよ」
「二日後に行って、今度は別の話をしたわ」
「ふうん」
「小学生のころ、その前に通っていた保育園を舞台にした物語を、空想の中で作っていた、って。私は、お姫さまで、大勢の家来が仕えているんだけど、なぜかいつも、縛られたり鞭で打たれたりしていて、それが嫌で逃げ出すと国をあげて捜索されて、つかまって連れ戻され、罰として裸で縛られ、保育園の手洗い場で、ウンコを身体になすりつけられて、氷のように冷たい水を浴びせられる───そういう空想───というか、物語なんだけど」
「それは、あんたの体験というか、ほんとにやってた空想なのかい?」
美沙は首をすくめた。
「女は、にやりと笑ってね───」
「だと、思ったぜ」
「いやいや、お嬢さん、氷室冴子という作家もなかなか私は好きですが───」
「ちょっと、その女、本当にただの占い師?」奈々子が、たまりかねたような声をあげた。「そんな教養のある、本いっぱい読んでる占い師なんている?」
「知らないわよ。世の占い師というものの、平均的読書量とか教養水準とかが、私にわかるわけないでしょ」美沙は両手を開いて見せた。「で、帰り際にさりげなく釘さされたわ。───お嬢さん。郵便局や銀行のキャッシュコーナーの窓口じゃ、間違った暗証番号を三回入れたら、カードはそのまま機械の中に回収されて、二度と戻って来ないようですけど、ご存じですよね、そんなことぐらいは───」
「───ほんとに、ただの占い師ですか?」新名朱実が、今度は疑わしげに言う。
「でも、どうですかしらね。その変に泥臭い、はったりめいた言葉遣いは、何だか非常に、占い師らしくもありますわよ」通子が考え深げに批評した。
「なんにしてもだ」さつきが、げんなり疲れた顔で聞く。「いつまで続けるつもりなんだ、あんたは、そいつと、そんな、レクター博士ごっこを?」 「そうよねえ」美沙は考え込んでいた。「何か、あたしも意地になっているのかもしれないけれど、ここまでバカにされたんじゃ、このまま、引き下がりたくないのよね。こんな気持ちって、おととしの冬のクリスマスに、山ほどメレンゲ使ったアイスクリームの焼き菓子作るのを、四回失敗した時以来だわ」
「でも、今度そいつに見抜かれたら、カードは吸い取られるんだろ?ってことはつまりそいつは、もう何も話してくれなくなるってことだろ?」
「いっそ、あの、辛島さんのところから頂いてきた原稿の中から、何か題材を見つけてはいかが?」通子が提案した。「まさか、あの内容を、その占い師が知っているということは───」
「それも考えたのだけど」美沙は言った。「何か、気にかかるのよね。あのポルノ原稿の束と、あの占い師の持っている情報源とが、どこかで結びついている可能性もあるような気がして。あの女が聞き出したがっているのは、あたしたちが、あの原稿を持っているっていう確証なんじゃないかって、そんな気もちょっとして。あの原稿に関することは、だから、あんまり手がかりを与えたくない」
「でも、わかんないなあ───」司が、ちょっとおずおず言った。「何で、そんな、めんどうなことしなきゃならないのかが。ほんとのこと、言っちゃったらいけないんですか───人の引用とかじゃなく、南条さんが本当にしている、そういう空想を?だって、そうしたら、その人、話してくれるんですよね?」
「じゃ、司、あんたは自分のそういう話が話せるのか?」さつきが聞き返した。「今ここで、皆の前で?」
司は、ちょっときょとんとした表情になって、さつきを見返した。そして、すぐ口を開きかけたが、そのまま黙りこみ、数秒後にうなずいた。
「───わかりました」
さつきは、片手で顔をなでた。「わかったろ?」
「危ないことを。美尾さん」机の上にのせた両腕を、抱え込むようにしながらしのぶがつぶやく。「司のことだから、一瞬しゃべるんじゃないかと思いましたよ」
「いやあもう、言ったとたんに、あたしも自分でひやっとした」さつきは早口で、そう言った。「それでだ。司もわかったところで───美沙、あんたの方針は?」
「だから───そうね───何か方法があるはずだって思うのよね」美沙は両手の拳をにぎって、机の上でこつこつ叩き合わせていた。「ぎりぎり最低の、こちらの本音を吐いてみるとか、嘘と本当をつきまぜるとか」
「何となく、そういう話をうかがっていると、何をそれほどこだわるのかと、司と同じようなことを、わたくしも言いたくなりますわね」日村通子が優雅に笑った。「もちろんわたくしだって、自分では言うつもりはございませんけれど、そういうこだわりって、何なのでしょうね」
「あたしの場合はわかっているわ」美沙は言った。「そういう空想そのものが、人に話せば変質して、時には、まったく消えるからだわ。消したくないから、話さないのよ。人の中には、そういうものもあるわ。人に話せばはっきりまとまって、かたちが整うものもある一方で」
「あんたの考える、その方法ってやつな───」
顔と同じ薄茶色に塗った長い指を、あごにあてて、考え込みながら、さつきが何かを言いかけた時、奥の部屋に通ずるドアが荒っぽく開かれて、村上セイが珍しくあわてた足どりで入って来た。片手に、パソコンからプリントアウトしたらしい十数枚の紙の束を、ぎゅっとにぎりしめている。
◇
「どうしたの、村上さん?」何やらただならぬセイの気配に気づいて、京子が声をかけた。
「これを───」セイはあたふたと京子に歩み寄り、紙の束を差し出した。「見ていただけますか、ちょっと───」
「───何なの?」受けとりながら京子は、セイを見上げて聞いた。
「あのですね───」セイは、ちょっとためらった。
京子はそのまま、紙の束をさつきに渡した。さつきはそれをめくりかけたが、ふと、机の上に置いてある、「蘭の会」の名簿のコピーとごっちゃになりそうなのが気になったらしく、「先に、その名簿、ちょっと配っておいて」と、隣にいた竜子に指示した。「皆、それに目を通して、調査する分担とか決めてみておいてくれるかな?二人から三人いっしょのグループになって。ひょっと知ってる名前とかがあったら、それもチェックしておいてよね。───で?これは何?村上さん?」
「とにかく、ちょっともう、読んでみて下さいよ」ふけが落ちるのもかまわずに、セイは髪をかきむしった。「昨日の夜中ぐらいから、パソコンの、新聞部や生徒会や個人で開いてるページの、伝言板や掲示板にこういう記事がどんどん掲載されて、流されているんです。図書館や各サークルのパソコンでももちろん見られるし、こうやってどんどんプリントアウトもできますから、すぐ学内に広まるでしょう」
「───これ、劇の批評?」あわただしく、紙をめくりながら、さつきが聞く。
「そうですよ!それも、今、公演中の───」
がたあんと椅子の倒れる音に、二人は思わず振り向いた。
浅見司が立ち上がっていた。配られた「蘭の会」の名簿を机の上においたまま、恐いものでも見るかのように見つめて、呆然と目を見開いている。
「どうした、司?」竜子が声をかけた。「誰か、知ってる名前があったのかい?」
「だ、だって、───だって───」司はしっかり片手を口におしあてており、そのせいで、声はくぐもっていた。「り、領家和美って、こ、これ、ママだわ───でも、そんなはず───でも───ちがうわ!絶対、そんなはず、ないよ───」
「領家───和美?」
何人もの手が、あわただしく紙をとりあげ、めくり戻した。誰かの声がした。
「───ランスロット?」
「司のママが?」眉美が思わず大声をあげる。
「あの、ネックレスとイヤリングからまして、ほどいてくれって頼んできた人?」和子もぽかんと口を開いた。「ええ?でも───だってさ───」
「だから───だから───ちがうわ───ちがうわよ───!」声のする方に次々目を向けながら、泣きそうな顔で司は弁解した。「だって、ママは───ちがうもん!ママって全然、そんな人じゃないもん!たよりなくって、弱虫で───ランスロットだなんて───こんなの、嘘だもん!───」
「司!」
さつきは持っていた紙の束を、机の上に放り出し、少女たちの座っている後ろをまわって、司のそばに来た。倒れたままの椅子を起こして、押し込むように司を座らせる。「落ちついて。お母さんの名前、領家和美っていうの?」
「旧姓は。でも美尾さん、これ、ちがうよ!絶対、ちがう!だって、あれでしょ」泣き笑いのような表情で、司は肩ごしにさつきを振り仰いだ。「ランスロットって、蘭の会の中じゃ、一番か二番めぐらいにカッコいい人だったんでしょ?ね、那須野さん、そうなんだよね?」
司の顔を見ないまま、遼子は黙ってうなずいた。
「けんかが強くて、議論もうまくて、しっかりしてて───やった役はランスロットとかアトスとか、強い、誰にも負けない完璧に近い男の人の役ばかり───なんだよね?だったらちがうよ。そんなの、絶対、ママじゃない!ママにそんなとこ、ひとっつもないもん!カッコ悪くて、ドジで、まぬけで、かわいくて───パパとあたしがいなかったら、何にもできない人なんだよ!お隣のおばさんに声かけてもらえなかったとか、PTAの集まりで皆に意地悪されたとかって、しょっちゅう、ほろほろ、べそかく人だよ!ゴキブリだってクモだって、自分じゃ退治できなくて、電話で会社のパパ呼び出したり───ちがうよ───絶対───ママじゃない───もん───」
次第次第に司の声が小さくなって行って、消える。言っていることに無理があるのに、自分でだんだん気づいたらしい。日村通子がやわらかく聞いた。
「あなたのお母さまって、ここのご出身じゃなかった?」
「───はい───だけど───」
「ちょうど、時期も同じころよね?」
「───そうです───でも───」
「領家って、けっこう、珍しい姓なのではないのかしら?」甘い、ゆったりした声で、なかばひとり言のように通子は、そうつぶやいた。
何人かが、落ち着かなげに身じろぎし、数人は明らかに憤然とした目を通子に向けた。何も、そこまで言わんでも、という表情である。
「まあ、それは、お認めになりたくない気持ちもわかりますことよ」ほっそりとした、しなやかな指で、通子は机の上の紙をめくった。「これを拝見すると、あなたのお母さまは、モヒカン族の大酋長のチンガークックもおやりなのよね。その息子のアンカスも、アトスの息子のラウルも、ランスロットの息子のガラハッドも、皆、親より早死にするか、とっとと天に昇ってしまう役なのですもの。きっと、こういう不吉なこともあるから、お母さまはあなたに、何もおっしゃらなかったのかもしれませんことよ───ねえ?」
たまりかねたように、みどりが何か言いかけた。その前に、さすがに司が目をあげて、通子をにらんだ。それをしっかり見返して、通子はやさしい、からかうような笑いをうかべて見せた。
司が、ふっと肩の力を抜き、下を向いて苦笑する。通子は知らぬ顔で、さつきが机の上に放り出して行っていた、紙の束の方に目をやった。
「それで?」司の話はもう終わったといわんばかりの、のどかな調子で彼女は聞いた。「その紙、いったい、何ですの?」
司の肩をはげますように一つたたいて、さつきが席に戻って行く。その間に紙を一枚ずつ取り上げて目を通していた、京子と美沙が次第に緊張した表情になって、ちらと互いに目を見交わした。皆に話していいものかとためらうように、二人はどちらからともなく、他の部員たちの方に目をやったが、すぐに京子が首を振った。
「インターネットで流されているのなら」彼女は美沙に向かって言った。「ここで伏せても、意味ないわ」
そして、コピーをさつきに渡した。