小説「散文家たち」第16章 狂気の女王

拝啓
窓辺の風鈴の音が耳に快く響く季節となりました。先日はバ-スデイプレゼントをありがとう。かわいらしい鍋つかみがほしいと私がこの前言っていたのを覚えておいて下さったのね。うれしいわ。カ-ドも手紙も入っていないのが、あなたらしいと言えばあなたらしいけれど。
さっそく陶芸教室で使わせてもらいます。お礼に、この前、輸入物のお店で見つけた、ちょっと面白いデザインのドアストッパ-を送ります。お店の人は寝ているアヒルだと言うのですが、私にはカタツムリにしか見えません。でも、クリ-ム色と薄いブル-がきれいだったので買いました。そこは海からの風が涼しいから、ク-ラ-はあっても皆ドアを開け放すはずですから、役にたつと思いますよ。人にとられたりしないように、底にでも名前を書いておきなさいね。
演劇部の夏季公演は今年は「三銃士」になったのですってね。例年、夏には戦争反対をテ-マにした劇をするのが、暗黙の諒解というか伝統だったはずなのに、皆知らなかったのかしら?時代も変わってきたということなのでしょうね。この前の創立記念日の「プラト-ン」はなかなか見応えがあって、あなたのお母さんと二人で感心していたのですが。「若い人もなかなかやるわね」って。この調子で夏季公演も「神聖喜劇」か「真空地帯」か「裸者と死者」、せめて「火垂るの墓」か「れくいえむ」ぐらいやってくれるのじゃないかと期待していたのですけど。
まあ、夏といえば反戦というのも、たしかに芸はないけれどね。去年の夏のことを思い出すわ。ある市民団体のシンポジウムに招かれて、パネラ-として発言した時、私は言ったのですよ。「むろん、戦争より平和がいいのはわかっている。だけど、平和な時代を生きるということは、戦争の時代を生きることよりは楽だなどと決して言えない。『子どもにやるミルクがない』という悩みに比べて、『子どもをどの塾に行かせようか』という悩みが深刻でないとか、甘えているというのはよそう。それが、私たちの時代の悩みだったら、ちゃんと正面からそれにとりくもう。『戦争の時のことを考えたら、こんなことは大したことではない』と思うのはやめて、『お互いに大変な時代に生きていますな、よくがんばっていますな』と平和な時代を生きる大変さをねぎらいあうことから、私たちはまず始めなければいけない。平和な時代を生きるのは、きついことだ。それに耐えて一日でも平和な時代をひきのばし、平和の中身を本物にしていくのが、戦争をくいとめる大きな力になるのだ」ってね。それに対してフロア-からも「私は戦争を体験しているので、戦争よりはとにかく平和がいいと思っていたけど、平和だって大変なんだということを考える必要があると初めて思った」なんて発言も出たのよ。でも、後で送られてきた報告集を見たら「シンポジウムでは、戦争を体験した人の言葉に耳を傾け、平和はすばらしいと皆で確認した」とまとめてあって、私は腰が抜けました。
バカバカしくて腹もたたなかったけれど、その時思ったものでした。何を聞いても何を見ても、頭の中でこういう風に話がまとまってしまう人たちというのがいるのだなって。水戸黄門の印籠じゃありませんが、何があろうととにかく最後は「戦争はいけない、平和がいい」ということにしてしまわなければ、不安でしかたがない人たちが。
そのような人がふえて行くのは、私にはとても怖いことに思えるのだけれどね。それとも、平和を守る一番有効な方法は、このような人たちを一人でも多くふやしていくことなのでしょうか。そう思っただけで、世の中も生きていることも、ものすごくつまらなく思えてくるのは別として。
まあ、そんなシンポジウムに出たのがそもそもバカだと言われそうですけれど、この数年、本当にあっちこっちからよくお呼びがかかるのですよ。何とか委員会の一般有識者とか、何とか協議会の市民代表とか、あれのコメンテ-タ-、これのパネラ-、そういうのになってくれっていうのが。何しろ、世の中フェミニズムが隆盛で、いろんな委員会に女性を入れなければということらしいのだけれど、さて、そういうところに出てしゃべるような図々しい女の人はまだまだ少ないらしいのね。かくして私のようなのが、ひっぱりだこになるってわけ。
そういうのの一つに、精神病院に入っている患者さんが不当な扱いを受けていないかどうかチェックする委員会があって、先日その関係で精神病院に行って患者さんたちのお話や訴えを聞いてきました。今年になってから、もうこれで三回めです。
もちろん、専門のお医者さまたちと一緒ですから、私は「一般市民代表」として素人の立場でお話をうかがっていればいいのです。でも、そうやって、さまざまな経歴の、さまざまな年齢の患者さんたちのお話を聞いていましたら、ふっと、私たちが麗泉にいた頃の学長だった岡林先生は、今どうしていらっしゃるのかしらと思ったりしました。そんなこと、ずっと忘れていたのですけど。
あなたも岡林先生のことは、いくら何でも、お名前ぐらいは知っているのではないの?天才的な女優と言われた方で、デビュ-した年の演技賞は総なめにした方です。お身体をこわされて舞台を退かれて、うちの学長になられた時はまだ三十代でいらしたのではないかしら。ほっそりと色白の、白鳥の精のような方でした。
学長になってからも、ときどきは舞台に立たれていたけれど、その演技と言ったら、すばらしかった。あれ以後、外国の役者さんも含めていろんな舞台を見ましたが、岡林先生ほどの演技は見たことがないという気がします。羽のように軽やかかと思うと、大地のように堂々としていて、可憐で優雅でありながら、あたりを払う威厳と華麗さをお持ちでした。けれど、やはりお若かったし(思えば、今の私より、ずっと年下でいらしたわけですものね)、もともと、どことなく陶器のような危ういデリケ-トさも感じられる方で、特にまた、あの頃はウ-マンリブだの何だので学内も荒れていましたからね。妊娠して自殺未遂をした子もいたし、そういうことでいろいろと悩まれたのか、とうとう精神的におかしくなられて退職されて、どこかの病院に入院されたと聞いています。その後どうされたのか、同窓会などの時、皆に聞いても誰も知りません。
学長でいらした頃、秋の学園祭で『リア王』の劇を生徒といっしょにやられたことがあったわね。その劇では、リア王が年老いた女王になっていたのですよ。他の役は娘たちも家来たちも皆そのままで、リアだけが女性に変えてあったの。ちょっと処女王エリザベス一世を思わせる、聡明で誇り高くて、底力のある───。もちろん、岡林先生が、その女王でした。娘たちに裏切られて気が狂って荒野をさまよい、かつて怒りにまかせて追放した末娘に救われる演技は、美しくて鬼気せまって、哀れでした。でも、それからまもなく本当に、精神を病んでしまわれて───「あの劇の狂った演技って、本物だったんじゃないの?」って冗談を言う人もいましたよ。荒っぽいことを言うのが流行った時代でしたからね。
岡林先生、恋人はたくさんいらしたと思うけれど、結婚はなさってなかったし、ご家族もいらっしゃらなかった。でも、あの劇の中のように、いたわって救ってくれる末娘のような人にめぐりあわれていればいいがと思ったりします。でも、ひょっとしたらもうとっくに、亡くなられておいでなのかも知れませんけれどね。
さて、今夜は今から、パ-ティ-の招待状を二百枚ほどチェックしなければなりませんので、このへんで筆をおくことにいたします。ところで「三銃士」では、あなたは何をやるの?よかったら教えて下さい。手紙がめんどうなのでしたら、ハガキの真ん中に「宿屋の主人」とか「砦の死体」とかだけ書いてよこしなさい。ひょっと都合がついたなら、見に行けるかも知れません。例年どおりの公演スケジュ-ルなら、一週間か十日ぐらいは続くのでしょう?たとえ、砦の死体でも、身体をこわして休んだりしたら皆に迷惑をかけますよ。健康にはくれぐれも注意して、冷たいものなど、あまり飲みすぎないように。
敬具
姪御殿
胴長おばさんより

まっ暗い校史編纂室の中は、まるで蒸し風呂のような暑さだった。その中にコンピュ-タ-の画面だけが青白く四角に光っている。その画面の放つ光の中に二人の少女の顔があった。村上セイと、十和田正子。どちらの顔も汗にぬれ、正子はもう着ていたシャツをぬぎすてて、上半身はブラジャ-だけになっている。
セイの指がキイの上を走り、画面が流れるように変わった。ずらりと並んだ名前を、二人の目がくいいるように見つめる。
「───そこ」正子が指さす。
セイがうなずき、青白い光の中で、手にしたメモ用紙にすばやく鉛筆を走らせる。
「プリントできたら楽なんですが」彼女はつぶやくように言う。
「まったく」正子が小さく舌打ちする。「でも、この機械、印刷する時の音ってすごいのよ。昼間でも隣のへやまで聞こえるの。ましてや、こんな夜中だと図書館中に響きわたるわ。───今ので何人、チェックした?」
「八人、ですかね」セイは片手で額を押さえ、吐息をついて、ポケットからひっぱり出した小さいびんから出した丸薬を何粒か、あおるようにして呑んだ。
「大丈夫?」正子が画面を見たまま、聞く。
「ええ───いや、そろそろひきあげた方がいいかもしれないですね。暑すぎて、何だか考えがまとまらなくなってきた」
「そうね。私もなのよ」
セイがメモ用紙の束をポケットに押し込み、あたりをかたづけている間に、正子は手にしたペンライトをつけた。小さい光があたりを照らすのを確認して、セイがコンピュ-タ-のスイッチを切る。鈍い音をたてながら、ゆっくりと画面は暗くなって行った。
「別れを惜しんでいるようね」正子が立ち上がりながら言う。
正子と同じように、上半身はブラジャ-だけになって、入り口に立ち、外の気配に耳をすましていた新名朱実が、そっと細めにドアを開け、月光が流れ込んでいる図書館の廊下に三人はすべり出る。
そこも本当は暑いのだろうが、今までいたへやの中と比べるとまるでク-ラ-が効いているような涼しさで、三人は思わず口を開いて大きく何度も深呼吸した。
「私に近づかないでください」セイが小声で注意した。「汗びっしょりだから」
「皆、そうよ」正子がTシャツを頭からかぶりながら言う。
「私の汗は危ないんですよ」セイは首にまいたタオルで顔をぬぐいながら言った。「ウィルスだの薬だの、何が入ってるか知れたもんじゃない」
「山田風太郎の『くの一忍法帖』にそんな忍者が出なかった?」新名朱実がシャツのボタンをとめながら低く笑う。
「『甲賀忍法帖』じゃない?」セイが答えた。「は~っと息を吐いたら、口もとに飛んできたちょうちょがぱたっと落ちて死ぬ、グラマ-な美女の女忍者だよ、たしか」
突然、正子がぱっと動きをとめ、静かにしろと、手で制した。三人はしばらく黙って、広い図書館の中の静寂に耳をすませていた。
「───ごめん」やがて正子が低く言った。「何か、聞こえたような気がした」
「地下ですか?演劇部室にひょっとして誰か残っていて───」
「そっちの方じゃなかった気がする。でも、もういいわ。行きましょう」
広い、暗い階段を足音をひそめて三人は下りた。それも玲子から預かってきた合鍵で、正子が横手の入り口を開き、三人は外に出る。涼しい夜風と遠く聞こえる波の音が三人をまた少し生きた心地にさせた。寮に一応門限はあるものの、夜中に外を歩いているだけで罰せられることはない。ようやくほっとして、彼女たちはゆっくりと図書館の壁沿いに、寮の方へと歩き出した。
「今度は少し危険でも」正子が決心したように言った。「昼間、授業をサボって来ることにしない?それならク-ラ-も入れられるし、明かりがもれる心配もないわ。一回か二回サボれば、だいたい仕事はかたづくはずよ」
二人はうなずく。「そうしましょう」と朱実が言った。「言っちゃ何だが、あの暑さでは、とても仕事になりません」
「ひきあげたのは正解ね。今夜はもう、シャワ-でも浴びてぐっすり眠ることだわ」
「賛成、と言いたいところですけど」セイが吐息をついた。「困ったな。何だか興奮がさめなくて、シャワ-あびたくらいじゃ眠れそうにない」
「あたしもなのよ」朱実が情けなさそうに笑う。「てっきり今夜は徹夜仕事になると思ったもんだから、ゆうべはもちろん、今日も授業中ずっと寝るようにしてたし、さっき自動販売機のコ-ヒ-二本も飲んだから、もうめちゃくちゃに目が冴えちゃって、弱っちゃってるんだ」
三人は小川にかかった橋を渡っていた。夜の静けさの中に波の音とまじって、海岸通りの方から町のざわめきが、かすかに伝わって来る。夏になると、藻波の町は夜中を過ぎても開いている店が多く、人々のにぎわいも、むしろまだまだこれからだ。
「そんなに二人とも寝られないのなら、シャワ-浴びた後で、月がとてもきれいに見える場所、教えましょうか?」正子が立ち止まって言った。

斎藤眉美はため息をついて、すりきれた書き込みだらけの台本を、紺色のベッドカバ-の上に放り出し、自分もそのわきに、ぽんと沈み込むように腰を下ろした。
「あ~あ、どうしよう、もう!峯さんにどれだけ怒られたかしれないのに、やっぱり司とのラブシ-ンが、うまくできそうにない!」
緑とクリ-ム色のまざった、短いひらひらしたネグリジェ姿で、机の上にのせた小さい鏡の前で、髪にカ-ラ-をまきつけていた上月奈々子は、ふふんと軽く鼻を鳴らして笑った。
「そうお?あたしは司とのラブシ-ンが一番楽だわあ!」
「楽───っていうより、楽しい、んじゃないんですか?」眉美は力をこめて言った。 「わかるう?」
「司、こぼしていましたよ。どっちが誘惑してんだか全然わかんないって。いいですよねえ、それでも奈々さんは!そんなに小柄でほっそりしてて、見た目がかわいいもんだから、めちゃくちゃリ-ドしていてもリ-ドされてるみたいに見えちゃうんだから、はた目には!」
「あなた、それ何、あたしがチビだと言いたいわけ?」奈々子は真珠色のヘアブラシを机の上に放り出して、眉美の方に向き直った。「あれはね、演技力の勝利なの、演技力!くやしかったら真似して見なさい。そもそも、くやしいっていうんなら、あなた、司にもっとライバル意識燃やしていいはずよ。あの子がいるおかげで、あなた絶対、損してるんだもの、ちがう?あなたたち二人、やる役のタイプの範囲がわりと同じでしょ、やたら元気なばっかりの、能天気な男の子っていう。でも、そういう役って、どれもこれも皆、司に行っちゃうじゃない?」
「しょうがないですよ。司、かわいいもん」
「何でそうなるわけ?信じらんないわ、意気地なし!」奈々子は椅子の背に腕をかけ、眉美の方に向き直った。「そりゃあ、司はかわいいしカンはいいけど、せりふは忘れるしまちがえるし、毎回誰もが予想もできない失敗するし、あれで主役やってるのが不思議なくらいのおっちょこちょいだわ。半分以上、地でやってるだけで、ほとんど何も考えてないって話もあるぐらいだし、あなたがちょっとがんばって緻密な演技のひとつもすれば、あっという間に蹴落とせる相手でしょ。それこそ、今度のラブシ-ンなんて一番のチャンスよ。自分がまっすぐ客席の方向いて、両手で相手の両腕つかんでひっぱりよせたら、それだけでもう、相手の顔はお客には見えなくなって、あなただけが目立つんだから。そんなことでも何でもやって、司を食っちゃおうぐらいの気持ちにならなきゃだめ!」
「待ってくださいよ」眉美はとまどった顔をする。「奈々さん、司のこと好きなんでしょ?」
「好きよォ」奈々子は、とろんと目を細めた。「ラブシ-ンのたびに毎回もう、あ-、この子こんなにかわいかったかしらって感動して、食べちゃいたくなるくらい好きよォ。でも!」細めた目が再びぱっちり見開かれて、キラキラ光って眉美をにらんだ。「あなたは、そういうこと思ってる場合じゃないでしょ?あなたの場合は、食べちゃいたい、じゃなくて、食っちゃいたい!この違い、わかる?」
「奈々さんのすごいのは、食べちゃいたいとか言いながら、結局、人を食っちゃうところなんです」吐息をついて眉美は言った。「司とのラブシ-ンは事実上、奈々さんのひとり舞台だし、しのぶとだって───誰かが奈々さんのこと、熱帯魚みたいにきれいって言ってましたけど、相手を情け容赦もなく食うことにかけちゃ、まるでピラニアですね」
「まあねえ」奈々子は気を悪くした様子もなく、むしろ満足そうに振り向いて、また器用な手さばきで、くるくるカ-ラ-を巻きはじめた。「舞台の上は戦場よ。目立った方が勝ちだもん。それに今回は特にあたし、三銃士とダルタニアンを食うのって、ちっとも苦にならないの。だってあたし、ミラディ-のこと好きだし、ちっとも悪い人じゃないって思ってるもん。アトスなんて、何よ!?愛していた妻の肩に犯罪者の入れ墨を見つけたからって、いいわけも聞かずに縛り首にしちゃうなんて、そういうのって、そもそも愛していたなんて絶対思えないもんねっ!」
「でも、そんな大きな秘密を夫にかくしているミラディ-の方だって、愛していたとは思えないけど」
「いろいろ苦しんで悩んだあげくに、『明日こそ打ち明けよう』って決意したその日に秘密がばれたかもしれないじゃないの?人生なんて、そんなもんだわ」
「強引だなあ、いつもながら、奈々さんは」眉美は立ち上がり、へやの隅の、ピンクや黄色のメモ紙やメッセ-ジが、さまざまなかわいい形のマグネットでいっぱいとめつけてある、小さな赤い冷蔵庫を開けて、ゼリ-を二個出し、奈々子のところに持って行った。「どちらか召し上がりませんか?」
「ありがと。チェリ-のを貰うわ」奈々子は眉美がさし出したスプ-ンで、ゼリ-をすくいながら、しゃべりつづけた。「あのね、そんなこと言うんだったら、アトスは自分はいったい、どうなの?自分の実の子のラウルを、かわいがって育てながら、絶対に父親だって名乗ってやらない、あの神経は何なのよ?百合の花の入れ墨かくすより、よっぽどたちが悪いって思わない?それ言うんなら映画の『仮面の男』のダルタニアンだって同じだわ。言っとくけど、ああいう風に育てられるのって、子どもにして見たら迷惑以外のなにものでもないのよねっ」
ぱくんと小さいバラの花びらのような唇でゼリ-を呑み込んで、奈々子はきゅっと眉をひそめた。
「実の親でも、親でなくても同じよ。子どもの身近にいる大人が、とっても魅力的で、子どもはすごくその人を好きで、あこがれてるとする。その人にかわいがられると、他の誰にかわいがられたよりも幸福な気持ちになるとする。でも、その人は何かを自分に見せてくれない。ある部分に踏み込もうとすると、ばしゃあんと一気にシャッタ-が下りる。そりゃ、人には誰にも秘密はあるわ。親だって先生だって、子どもに見せたくない部分はある。だから、ちゃんとル-ルがあって、日没には閉まるとか、花畑には入れないとかわかるんだったらかまわない。でも、そのシャッタ-の下り方が何だか変で、一定じゃなくて、どこに踏み込んだら拒絶されるのかが不規則で、ル-ルがはっきりわからないと、子どもってすごく混乱するのよ、わかる?そういう、変にすごく魅力的なくせに、わけのわかんない秘密抱えた大人とつきあって育った子どもは、人の気持ちに踏み込まないようにしようとしはじめるの。好きな大人を傷つけまいと思うから。そっとしといてあげないと拒絶されて、自分が傷つくから。そうやってる内に、人の気持ちなんか考えないで、自分のことしか考えないで生きる技術を、次第次第に学ぶのよ。ルイ十四世だって、絶対、そうやってなっちゃったんだから、あんな暴君に!」
「それは『仮面の男』の話でしょ?」ゼリ-を食べるのを忘れて聞きとれていた眉美が言った。「ラウルはちゃんと優しい立派な青年に育ったんじゃありませんか?」
「ど~こがよ!?」奈々子は力をこめて言った。「好きになった女の子が心変わりしたからって、その子のことが忘れられずにくよくよくよくよ悩みつづけて、自殺同然の戦死をしちゃう男の子なんて、相手の女の子にして見たら、こんなに残酷なしうちってある?ルイズはかわいそうよ。ラウルは無神経よ。恋なんてさめるし、人は心変わりするわ。望みがない恋をあきらめきれないんだったら、せめて相手の負担にならないように愛してやったらどうなのよ?ラウルなんてあなた、現代に生きていたら絶対スト-カ-になるタイプだわ!ねえ、このゼリ-、すごくおいしい!また、おばさんの贈り物?」
「あ?──ええ───はい───そう───ですけど」考え込んでいた眉美は目を白黒させた。
「もう一個、もらっちゃおかな」スプ-ンをなめなめ考え込んでいた奈々子は、決心したように立ち上がって冷蔵庫の扉を開けた。「わあ、ピ-チのも、おいしそう!あなたのおばさんみたいなおばさん、あたしも一人ほしいなあ!」
「でも、そうやって、お菓子ばっかり送ってくれるから、あたし太っちゃうんです」眉美は台本をひきよせながら、首を振った。「四月からもう二キロ増えました。やだな、もう。肩はば広い上にお腹が出たら、あたしってもう最低!奈々さんはいいですね。いくら食べてもちっとも太らないんだもの」
奈々子は答えず、踊るような足どりで幸せそうに鼻歌を歌いながら、ゼリ-を持って机の方へ戻って行った。

寮の二階の廊下はしんとしていて、窓から月光が射し込んでいる。セイと朱実を手招きして正子は廊下の突き当たりに近い、トイレのドアを開け、中に入って行く。
二人は顔を見合わせた。
「トイレで月見かな?」朱実がささやく。
「床のタイルが冷たいから気持ちがいいとか?まさかね」セイも首を振る。
とにかく行ってみるしかないと思った二人が入って行くと、正子はトイレの奥にある、曇りガラスの窓を大きく押し開けていた。
そこからも月の光が流れるように注ぎ込んで来る。振り向いて笑顔を見せると、正子は窓枠をひょいとまたいで外に飛び下りた。
二人は思わず、かけよってのぞく。
ふだん開けない窓なので気づかなかったが、そこはちょうど食堂と寮の本体の建物がつながるところにあたる部分だった。食堂の屋根が重なり合うようにして寮の建物の壁にくっつき、このトイレの窓以外には、どの建物からも地上からも見えない、瓦屋根の広い空間がかたちづくられていたのだ。
正子はもう、屋根の向こうの方に歩いて行っていて、二人を手招きしている。
まずセイが、つづいて朱実が窓枠を乗り越えて、屋根の上に立った。
正子のいる方へ歩いて行くと、まるで山腹を歩いているかのように、回りの屋根の重なりが見せる空間の様子が変化した。正子が足をとめたところは、大きな屋根の傾斜が山裾のようにかたわらにそびえ、重なり合った屋根の間から遠い海の沖がちらりと見える以外には、空しか見えない、ゆるやかな斜面だった。
瓦の上に腰を下ろし、やがて横になった正子にならって、セイと朱実も屋根の上にあおむけに寝ころがった。昼の陽射しの暖かさがかすかに残る瓦の上には月の光がいっぱいに降り注いで、瓦の一枚一枚がまるで銀色に輝く波のように見える。
月は薄青い空の中に霞むように浮かんでいた。あまりの空の明るさに、星の光は色あせている。
「月がないときは、空が真っ黒で、星が手の届きそうなほど近くで輝くわ」正子が空を見ながら言った。「くさくさすると、よくここに来るの。まあ、別にそういうことがなくっても、冷たい飲み物とか持って星見てるだけでも最高だけどね」
三人は、しばらくそうして、月の光にうたれていた。
思い出したように、正子が言った。
「来週中に、校史編纂室の仕事は終わるようにしないと、次の日曜は『三銃士』の初日でしょう?」
「そうでしたね」朱実がつぶやく。
「そうでしたね?」正子は笑った。「学内、どこに行っても皆、今はその話でもちきりなのに。司やしのぶたち、どうなの?うまく行きそう?」
「う-ん、まあ──何とかなるんじゃないですか?」セイは、あやふやな声を出した。「何と言おうか、例によって、いろいろ、いやまあ、いいんですけどね」
「また何かあったわけ?」
「いやあもう、ホウリュウシ───竜子がかんかんで」朱実が苦笑まじりに吐息をついた。「そう騒ぐほどのことでもないと思うんですけどね、私は。遅かれ早かれ、そのうちに起こりそうなことではあったから。今日、いやもう昨日か。一年生の立花さんが、町で占いのおばさんに手相見てもらったらしくて。そうしたら演劇部が昔死んだ女の子の霊にとりつかれてるみたいなことを言われたようなんです」
「ああもう、いやねえ」正子は首を振った。「とうとうやっぱり、そんな話になったのね。そりゃ、どんな占い師だって言うわよね。麗泉の制服着た心配そうな顔の子が来て、いろいろとおかしなことが起こるんです、どうしてでしょうかって言えば、当然、誰か回りに浮かばれない人がいるでしょう──って。その一年生───立花さんだっけ、そんな風に相談して手相見てもらったんでしょう?」
「うん、らしいですね。というか、直接のきっかけは、あの子が部室に置き忘れた、舞台用の帽子の羽飾りが、赤から黒に変わってたんで、それでびびってしまって、占い師さんのところに飛んでっちゃったらしいんですよ。でも、それ、実はすぐ真相がわかったんです。やっぱり一年の田所みどり───」
「浅見さんとそっくりの人ね?『ハツカネズミと人間』でジョ-ジをやった?」
「ええ。今回はアラミスやる子」
「美術部じゃ、あの子のファンが多いわよ。『ハツカネズミ』の時は写真撮影まだ許可されていなかったから、今度の『三銃士』じゃしっかり舞台写真撮ってやるって、はりきってる部員が何人もいるわ」
「その田所さんが言うには、部室に置き忘れられてた帽子の羽飾りにまちがってコ-ヒ-かけて汚しちゃったので、抜いて洗おうとしたら、くしゃくしゃになってしまったんですって。とても使えないと判断して捨てたんだけど、代わりの羽飾りを買いにいく暇がなくて、そのへんの衣装箱の中の帽子から適当に抜いた羽飾りを当座のまにあわせと思ってさしておいたとか。まさか、それで、そんなに立花さんがおびえて手相を見てもらいに行くなんて、考えもしなかったそうなんです」
「新名さん、あの話、ほんとと思った?」セイが聞いた。
「う~ん、ま、あっちこっちおかしいとは思ったけど、田所さん必死だったし。でも、そう言えば、立花さんは全然信じてなかったよね。あなたは自分で罪をかぶって、誰だかわからない犯人をかばってるつもりなんだろうけど、犯人なんか全然いなくてこういうことが起こってるんだとしたら、どうするの、って、くってかかってた。───とうとう、峯さんが怒ってどなりつけて二人をひきわけ、立花さんには、もう二度と、その手の話をしたら承知しないって釘をさしたんです。だいたいからして、明治このかた百年もつづいた、こんな学校に、死んだ生徒や行方不明の生徒の十人や二十人いなかったら、その方がよっぽど怪談だろうがって言って」
「それは私もまったく同感」正子はつぶやいた。「でも、どうせ一年生の人たちは納得はしていないでしょうねえ。京子は、どうしてたの?何も言わなかった?」
「ええ、何も、一言も。南条さんや美尾さんは、峯さんを応援して一言ふた言、立花さんをからかったり、なだめたりしてましたけど、朝倉部長はほんとに、一言も。舞台のはしに黙って静かに立ってただけです」
「でも、あんなに雄弁な沈黙も珍しいんじゃないですか」その時のことを思い出したように、セイが小さく吹き出した。「黙殺、無視を通り越して、ばかばかしくってものも言えない、って思っているのが、ありありと、手にさわれるぐらいはっきりとわかる感じでしたもの」
正子も吹き出す。「想像がつくわ。京子らしいこと」
「まあ、それはそれでいいんですけど、問題は」朱実が言った。「昨日のその騒ぎでまた、立花さんを筆頭に主役の一年生たちが、峯さんや朝倉さんにすっかりおびえてしまってて、舞台の上で到底あの人たちを従者扱いできるとは思えないんですよ。その上、上月さんのミラディ-が近年まれなと言いたいような迫力で、悪役なのに何だか変な切なさまであって、しのぶや司じゃ、これまたもう、とてもとても太刀打ちできない。アンサンブルという点じゃ、今度のこの劇、はっきり言って最低ですよ。昨日の段階じゃ、一年生の中ではまだ、ボナシュウの大西さんとか、ケティ-の斎藤さんがしっかり、のびのび、いい演技してました。でも、あの人たちは脇役だし───ごめんなさい。もう、やめます。まったく、さっきから、こんなにきれいな月を見ながら話す話題じゃないですね」
沈黙が落ちると、また、かすかに聞こえる波の音が暖かくゆるやかに三人を包んだ。遠い町のざわめきも、まだ止まない。耳をすますと、音楽や人々の笑い声も伝わって来るようだ。避暑客たちでにぎわう藻波の町は、まだまだ眠らないようだった。

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