小説「散文家たち」第37章 占い師の家

父さんと母さんへ
さっき、浜砂寮に帰ってきました。窓辺のいつものクッションに座って、窓枠にもたれて、夕暮れの海を見ながら、この手紙を書いているところです。
帰ってきました、なんて言い方は、考えてみると、とても変ですね。でも、何となく、そういう感じがしたのです。別に、おばあちゃんが同居しはじめたから、うちが、よそみたいになっちゃったって、そんな意味じゃないから、気にしないで下さい。
フェリ-はいつものように正午に藻波の港について、桟橋に下りた時、あそこの白い大時計がちょうど十二時をさしたところでした。その前に、岬を回って、船が入江に入っていった時、緑の木々に囲まれた白い麗泉の建物と、薄紫色がかった浜砂寮が見えて、その時、本当に自然に、ああ、帰ってきた!って、思ったんです。
スーツケースをひきずって、海岸通りを歩いて行くと、私と入れ違いのように大きな荷物を両手に持って、フェリーの乗り場に向かって行く、避暑に来ていたのらしい家族の姿が何組も目につきました。陽射しはまだ強いのですが、どこか、ふわっとした色になっていて、通りのお店も、もう秋らしい落ち葉や木の実の飾りつけに入ってるところもありました。お店の間からときどき見える、海の色が濃くなっていて、通りのあちこちで赤とんぼもすいすい舞っていました。
浜砂寮の門を入って寮の玄関への小道を歩いていくと、石垣の上で、猫のジャコポが昼寝をしていました。少し夏やせしたようで、毛がぼさぼさになっていたけど、うちの猫たちがふわふわしていてきれいなのを見慣れたせいかもしれません。
ちょっとおなかがすいていたので、へやに入る前に何か食べようかなと思って、寮の食堂をのぞきました。そうしたら一年生の浅見司ちゃんって子が、一人、窓際のテーブルに座って一生懸命、何かしています。
ふだんはそんなに親しくないんですが(同室の島尾さんが元文芸部で、司ちゃんは演劇部で、この二つの部はあまり仲がよくないから)、司ちゃんは人なつこいので、私を見ると、にこっと笑って頭を下げてくれました。それで私も近づいて行って、「何しているの?」と聞きました。そうしたら、彼女、手に持っていたものを見せてくれました。細い銀の鎖のネックレスと、いろんな色の石がキラキラ光ってくっついている雪の結晶みたいなかたちのイアリングで、もう本当に修復不可能なぐらい、からまりあっているんです。
「これ、何?どうしたの?」って聞いたら、「母が送ってきたんです。もつらかしてしまってどうしてもほどけないから、何とかしてって手紙つきで」って。
「過保護なお母さんね」と、あきれて言うと、「そうなんですよ」と、司ちゃんは笑ってました。「やたら、たよりないんだから。今朝、小包が着いて、もう四時間もいろいろやってみてるんだけど、ちっともほどけない」って、ピンセットとか使って必死でとりくんでました。そんな親子もいるんだなあって思います。母さんたちには信じられないでしょう?
ピザトーストならできるというので、少し暑くていやだったけど、それ食べながらコーヒー飲んで、司ちゃんとしばらくおしゃべりしました。秋の学園祭では演劇部は、「風と共に去りぬ」と「木曜の男」をやるのだそうです。その前にも、資金かせぎのために、学内のあちこちでいろんな劇をすることになってるそうで、「頭ごちゃごちゃになりそうです。もう、どうしよう」と言っていました。
思いがけなく、彼女と長く話してしまって、やっとへやに上がって行くと、まだ帰省しているとばかり思っていた島尾さんが、思いがけなくもう帰っていて、山中貴美子さんとか穂積禎子さんとか、風見ゆかりさんとか、岩田レミさんとか、元文芸部のメンバーの人たちと、何だか深刻な顔で、ひそひそ話をしていたものですから、私は妙にドキッとしました。別に、司ちゃんと話していたのを悪いことしていたと思ったわけではありませんけれど。「ただいま帰りました」とあいさつすると、島尾さんは「お帰りなさい」と言ってはくれましたが、皆との話が気になるようで、少し上の空でした。私が出て行こうとすると、山中さんが呼び止めて、「いいのよ。話はもう終わったから」と言ってくれて、まもなく皆、部屋を出て行きました。
でも、何か様子が変でしたね。「新聞部が───」とか「生徒会の───」とか「小石川さんの希望では───」とかいう、ささやき声が、別れ際の島尾さんたちのやりとりの中から、ちらって聞こえたし、皆が帰った後も島尾さんは疲れた様子で、どこか元気がありませんでした。
私は、文芸部と演劇部の対立とかいうことには、あまり興味もありませんので、このことにはふれないでいたいと思っています。でも、島尾さんは、かなりデリケートなところもある人なので、ちょっと気がかりです。あまり暗くなられたりするといやだなあ。
それでは、また、手紙を書きます。おばあちゃんにもよろしく言ってください。おばあちゃんの編んでくれたテ-ブルセンタ-、すごくいいです。机においたら、もうばっちりで、皆にうらやましがられそうです。
恵美子より

蝉の声が心なしか少し弱々しくなって、空の色にも次第に夏の終わりの気配が漂ってきているようです。
お盆からこっち、おじさんの会社の商品の買い付けなどを手伝って、ヨーロッパをあちこち回っていたのですが、この前やっと帰国して、あなたのお家におうかがいしたら、まあ、夏休みには一回も帰らなかったのですって?まだ一年生ですから受験勉強でもないでしょうに、何がそんなに忙しいの?お父さんが何だか淋しそうにしていましたよ。せめて手紙ぐらい出しなさいよね。この間、おじさんの会社の若い社員の人たちといっしょにカラオケに行ったら、女子社員の歌のうまい子が「夜桜お七」とかいう演歌を歌っていて、「いつまで待っても来ぬ人と死んだ人とは同じこと」という文句を聞いたとたんに、なぜか、あなたのことを思い出したわ。
まあ、でも、何だかだ言っても日本は平和だから、便りがあってもなくっても、別に心配ないけれど。ヨーロッパで古い知り合いに何人か会ったけれど、中には家族や友人が内戦にまきこまれている人もいて、話を聞いていると気の毒でなりません。
そういう混乱の中で、買い物などするのは悪いような気もしましたけれど、まあ、平和な日本に持って帰って使ってあげるのも、品物にとってはいいのかもしれないなどと自分を納得させて、お土産をいろいろ買いました。お菓子とか、古くなるといけないようなものだけ、とりあえず、小包に入れましたからね。洋服とか指輪とかもいろいろ買ってあげていたのだけれど、まだ荷物をよく整理していないので、どこに何が入っているのかわからなくて。青い小さいお皿と、葉っぱのかたちをしたペンダントだけ見つかったので入れておきます。ペンダントは壁掛けにしても洒落ていると思うわよ。お皿は、私も同じものを持っていて、ポプリとか入れるのに使っています。
秋の学園祭には、何の劇をするの?あなたは一年生だからまだ知らないと思うけど、学園祭というのは、他の催しもいろいろある時だから、演劇部の真価が問われる時でもあるし、大変なのよね。この前の「アンの娘リラ」は、戦争と平和の問題とかをとりあげて、なかなかよかったって聞いたけれど。今度も、そういうのだといいわね。
でもそれはそれとして一日ぐらい暇を見つけて、お家に帰ってあげるか手紙を書くかしなさいよね。だいたい、あなたがそんなに、そこの学校を気に入るなんて思わなかったわよ。女の子しかいない私立の学校なんて気持ちが悪いなんて、ぶうぶう言ってたのは誰だっけ?たしか、お家の近所に、何とか君てボーイフレンドもいたんじゃなかった?あの、顔の長い、ぬぼ~っとした感じの人の良さそうな子。男の子のことも忘れるほど、大変なことが何か、そこでは進行中なのですか?それだったらそれで、ぜひ報告して下さいな。聞きたいわ。
胴長おばさんより
姪御どの

「この前はほんとに、ごめんなさいねえ」
占い師の女は、狭いアパ-トの部屋の中をばたばたと走り回り、ちぐはぐな模様の座布団を二つ、ぱたりと畳の上に置いたかと思うと、ガスコンロにやかんをのせてせかせかと火をつけた。「めったに留守なんかしないのにねえ。今すぐ、お茶をいれます」
「どうぞもう、おかまいなく」
南条美沙は、そう言いながら、座布団のわきに座って、それとなく顔を上げて部屋の中を見回した。新しいアパートらしく畳もまだ青くてきれいだ。電気ごたつと兼用の四角いテーブルがその上に置かれている。安物らしいが、さっぱりした小ぎれいなたんすと、小さいドレッサー。本棚がわりらしい木箱には、週刊誌が押し込まれていた。窓辺のガラスのコップの中には、緑色の毬藻が二つ、ぷかぷかと浮かんでいる。
占い師の部屋など見たことはない美沙だが、それにしても何となく、ここは占い師の部屋らしくなかった。どこにでもある、パ-トのおばさんの部屋といった感じだ。
それもまた、どこにでもあるような赤と青の縞模様の急須と湯呑みを持ってきて、女はお茶をいれた。
「おうかがいしたのは、お尋ねしたいことがあって」美沙は、湯飲みには手をつけないまま、ゆっくりと口を開いた。
占い師の女は、うなずいた。「何でも、どうぞ聞いてくださいよ。私にわかることでしたらば」
「死んだ女の子のことですが、その子のことについて」美沙は、ことばをさがすように一瞬口をつぐんだ。「もっと何か、ご存じのようなことを、おっしゃいましたが」
女は目を伏せ、太い芋虫のような手でつかんだ湯飲みから、音を立てて茶をすすった。「まあ、知っていると言えばね。───ただ、あくまでも、占いですから」ずんぐり太って、鼻の頭の脂ぎった顔を、突然といった感じで女はほころばせて、思いがけないほど人のいい笑顔を作った。無警戒であけっぴろげで、どこか高貴な感じさえするほどにおおらかな表情である。「お嬢さんはあんまり、そういうの信じないんでしょ」
「正直言って、そうですね」美沙は苦笑した。
「それじゃ、聞いても無駄なんじゃないかな」女はひとりごとのようにそう言って、太った足の膝のあたりをぼりぼりかいた。別に気を悪くしている様子ではなく、むしろ、美沙に興味をなくしているようだった。
「私は」美沙は口ごもった。「小説とか、劇の脚本とかを書きますので、それで」
何をいいたいのだろうと、いぶかっているように、女は細い目をあげて、ちらりと確かめるように美沙を見た。
「そういうのを書くときには」美沙は続けた。「知らず知らずひとりでに、頭の中で自分の描く場面のイメージを作ります。風景とか、人の姿とか。ときにはそれは、とても、はっきりして見えて───あなたが占う時に、目の前に見えてくるものが、そういうものと同じようなものだとしたら、それは、私にも理解できるし、信じられると思います」
「だから、聞きたい?」
「そうですね───」
女は畳に目を落としたまま、首を振った。「信じてもらえるかどうかわからないのに、しゃべるっていうことは、けっこう大変なことでね、これが」それから、またあの、大きな赤ん坊のような人のいい笑いを女は美沙に向けた。「ごめんなさいね。もったいぶってるわけじゃないんだけど、ただ決心がつかなくてね、何となく」
「無理もありませんわ」美沙は口のなかで答えた。何となく彼女は落ちつかなかった。 どこがどうというのでもないが、女のペースにはまっていっている気がする。この部屋の一見、あまりに平凡で何の特徴もないのまでが、思ってみればどこか無気味な気がしてきた。振り切るように、美沙は小さい笑い声をあげた。「それはたしかに───」
「あなたの、頭のなかに描く場面って」女は目を閉じ、考えをまとめるように厚い唇をもごもごさせながら、美沙のことばを途中でさえぎった。「たとえば、どんな場面なんですかね」
「風景とか、人の顔とか」
「もっと、どういうのか、具体的に言うと、どんなんですかね?」
「具体的にですか」美沙は考えた。「人が浜辺を歩いているとか、言い争いをしているとか、走っているとか、泣いているとか」
「何か、そういう場面の中には、人に言えない、いいにくい場面というのもありますかねえ」女は、ますます、ひとりごとのような口調になっていた。「どうなんでしょうかねえ」
「どうなんでしょう───」目を閉じたままの女の顔を見つめながら、美沙はぼんやりくりかえした。女がゆっくり目を開けて美沙を見た時、美沙は自分でも驚くほど、ぎょっとして、かすかにだが顔を後にひいた。「さあ、それは」彼女は言った。「どうなのかしら」
「あなたのことですよ」女は美沙を見つめたまま、つぶやくように、ふしぎそうに言った。「あなたしか見えていないもののことを話してるんですよ。あなた以外の人には絶対に見ることができないもののことを」
美沙が、とっさにどう返事をしようかと迷っていると、女が言った。
「そういうもののことを、話して下されば、私も自分の見たもののことを、あなたに話すことにしましょう」
「そういうものって、何ですか?」
今、自分の声はうわずったろうか、かすれたろうか?美沙には、わからなかった。唐突に彼女はこの場に、さつきか京子がいてくれればと思っているのに気がついた。女が答えるのを恐れるように、自分で彼女はことばをついだ。「人に言えない、言いにくいと私が感じる、そういった種類の場面ということですか?」彼女は軽く笑い声をたてた。「でも私は、書いて、人に読ませたり、演じてもらったりするために、そういう場面を考えるんですよ。人に見せることが前提ですから───」
「消えてしまう場面はひとつもないんですか?消してしまう場面といってもいいんでしょうかね。そういうのって、ないんですか?」
落ちつけ。美沙は自分に言い聞かせた。この女は無邪気に、ただ知りたがっているだけだ。どこか、子どものようにあどけなく。子犬のように、しつっこく。
「───考えてみないと」美沙は答えた。固い声になっているかもしれないと、自分で思った。女は、ふうっとため息をついて、片手を自分の短いずんぐりした首のあたりに回して、こりこりともんだ。
「そんなもんなんですかねえ」ぼんやりした声で、彼女は言った。再び美沙にも、あらゆることにも、興味をなくしてしまったかのように。
何か、草むらから一度日向にすべりだして来た奇妙なかたちの動物が、すばやく身をひるがえして、再び草の中に消えて行くのを見たような気が美沙はした。うねった、細い黒い尻尾が砂の上をはくように、しゅるしゅると遠ざかって行く。今、逃がしたらもう二度と、それはつかまらないだろう。
息を呑んで考えていたのは、ほんの数秒だったかもしれないし、数十秒だったかもしれない。美沙の目の前で、女は脂ぎった団子鼻を光らせながら、どこか放心したような顔で無心に自分で自分の肩をもみほぐしつづけていた。
たった、すぐさっきまで、追い詰められたと感じていたのに、今は反対に相手が逃げようとしている。
美沙の目にその時うかびあがったのは、このアパ-トに来るまでに通りすぎてきた、ところどころに半分眠っているような小さい店があるものの、全体的には、狭くて、塀が両脇に迫り、人通りも少ない、細い退屈ないくつもの路地だ。何も、この女から聞き出せないまま、来た時と同じに何ひとつわからないまま、あの道を歩いて帰るのか。その時にのしかかってくる疲労をまざまざと予想できた。そんなことになるぐらいなら、そうなるぐらいなら───美沙は、乾いているのに変に粘りつく唇を自分が開くのを感じ、思ったよりも落ちついた自分の声を耳に聞いた。
「私が話したら、あなたも話すんですね?」

「やった、ほどけたっ!」
はずんだ声で叫んで、浅見司はテーブルの上に、たんぽぽの綿毛のような形の金色のイヤリングと、糸のように細い銀の鎖の先に小さい月と星がついたネックレスを、ばらばらに落とした。
「わ、本当だ!」
「すご~い、司!」
「え~、どうやってほどいたの?」
そばでジュースを飲んでいた田所みどり、大西和子、斎藤眉美がいっせいに、身体をよじってのぞきこむ。
寮の食堂の外には夏の夕闇が広がりはじめ、開けっ放しのガラス戸の向こうから、潮の香りのする涼しい風が吹き込みはじめていた。さっきまでにぎやかに鳴いていたカモメの声が、小さく間遠になってきている。日にさらされて白っぽくなっている丸い木のテーブルと、さまざまなかたちの木の椅子が散らばるように置かれた板張りの広い食堂は、夕食を食べに来る生徒たちで、にぎやかになりはじめていた。あちこちでフォークやスプーンがかちゃかちゃと鳴り、ソーダ水やカット西瓜や、そうめん定食やサラダスパゲティを注文する生徒たちの声が、笑い声とまじりあってひびいている。壁の掲示板にはられた色とりどりの伝言メモをチェックしている、帰省から戻ってきたばかりらしい少女たちの姿もある。
「ふうん、このイヤリング、こんな形してたんだ。銀の鎖とからまりあってた時は、どんなのか全然わからなかった」みどりがイヤリングの片方を拾って、手のひらの上でころがした。「棒の先についている石の色がひとつずつ違うんだね」
「ママのお気に入りだったんだよ」テーブルの上の両手にあごをのせて、司は満足そうにまばたきした。「郵便局、まだ開いてるよね?」
「え、今から行くの?」みどりがイヤリングを手にのせたまま、司を見た。「じゃ──あたしも行こうかな。南条さんに教えてもらった、じゃがいもとチーズのケーキを明日焼くから、その材料、買いに行きたかったんだ」
「あ、じゃ、いっしょに自転車で行こ!美尾さんが、あのカッコいい自転車貸してくれてるの。帰ってくるまで使っていいって」
「ほんとに、和多田に行ったんだ、美尾さんとしのぶ」和子が感心したように言った。 「和多田に、何しに?」眉美が、チーズサンドをかじりながら聞く。
「あの壁画の作者の人を探して、話を聞くんだって。ほら、那須野さんが『オリエント急行』のママに聞いた、小田茜さん?───」司が教える。
「まさか『オリエント急行』のママが図書委員の一人だったなんてさ」和子が、かき氷をつっつきながら首を振る。「信じらんないよねえ」
「南条さんが言ってたよ。だいたい、学校の近くで自分の家に汽車の名前なんかつけて住んでるような人は、その学校にゆかりの人物に決まってるんだよねって」
「那須野さんにそっくりの同級生の人がいたんだって?」
「うん。その人と『オリエント急行』のママって、親友だったんだって」
「その人、那須野さんのお母さん?」
「じゃないらしいよ」
「え~、もう、変なの!何がどうなってるのか、ちっともわかんないよね」眉美がため息をついた。
「うん、でも、それはね、皆もまだ、よくわかってないんだよ」みどりがイヤリングを司に返しながら、ちょっとなだめるような口調で言った。「美尾さんがそれで、那須野さんにもっといろいろ詳しいことをママに聞けって、せっついてたけど、那須野さん、あんまり気がすすまないみたいだった」
「うんうん」和子がうなずく。「美尾さんて、ときどき、言うこと過激だからさ、那須野さんに、聞ける時にちゃんと聞いとかなきゃ人間なんていつどうなるかわからない、例の変なおばあさんだって、何か言いたそうだったらしいのに、みどりがぼやぼやしてるもんだから、どっかに消えちゃったじゃないの───なんて言って」
司が気がかりそうに、ちらとみどりを見る。みどりは司を見返して、小さく情けなさそうな吐息をもらした。
「何か、あたし、もう、めげちゃった。美尾さんがそう言った時、そこにいた人皆、緑川さんとか、峯さんとか、千代さんまでが、いっぺんに、ぱっとあたしの方向くのよ。言った美尾さん本人もひやっとした顔して、あたしを見たし。そんなにちょっと何か言われたら切れそうに見えるのかなあ?」
「う~ん」三人は困ったように、互いの顔を見合わせた。「やっぱ、そりゃ、この前のことがあるからねえ。そりゃ皆───何となく、用心しちゃうんじゃない?」
「───司も?」みどりはちょっと心細そうな目を向けた。
「そりゃ、ちょっとは」司はまじめな顔でうなずく。「あ、でも、その内きっと皆、また忘れると思うよ」
「そう、当分はしかたないって」眉美が、みどりの肩をたたいた。「にしても、那須野さんは何でまた、そんなにいじいじしてるんだろうね。あの人らしくないことない?」
「ちょっと最近、元気ないよね、那須野さん」みどりが気にした。
「ふうん、そう?あたしは気づかないけどな」和子が首を振る。「でもそう言えば、朝倉さんと那須野さんが、けんかしてるって誰か言ってたよね?」
「知らない」みどりが、目をぱちくりさせる。「どうして?何があったの?」
「『風と共に去りぬ』の読み合わせの時だって、別に全然、変わったところないじゃない?二人とも」司も言った。「まさか」
「うん。そんな噂をちらっと聞いたもんだから。ちがうよねえ?」
「ちがうと思うけどなあ」みどりは考え込んだ。「でも、そう言えば朝倉部長も、このごろちょっと元気がないよね」
「そう?」司が、今度は目を見はる。「そうかなあ?」
「ときどき、ちょっと上の空っていうか」みどりは言った。「気づかない?」
「あれは、だって、アシュレをやってるからでしょう?」
「だから───あたしもあれは演技なんだと思ってたけど」みどりも、迷っているようだった。「部長も美尾さんに変わるっていうし、何かあったのかなあって、つい───」 「あれはほんとに、びっくりしたよね。何でなんだろ?」
「美尾さんに聞いて見たけど」司が首をすくめる。
「何て言ってた?」
「いつもの通りよ。黒人女のマミーのメークしたまま、目をぐるぐるさせてウィンクして、『ほっほっほっ、チャールズさま、あたしの長年の野望がかないましたのですだよ。ブラックパワ-をバカにしてはいけましねえだぞ。とうとう京子を追い落としましただ。歴史は抑圧された者の味方でごぜえますだよ、くわっくわっくわっ』だって。頭がくらくらしてきたから、あっ、そうなんですかって言って逃げてきちゃった。何か、もう、やだなあ」司は大きな吐息をついた。「みどり、オムライス注文するから、半分食べない?そうしたら、郵便局に行こうよ」
「いいけど───間に合う?」みどりは腕時計を見た。
「いいよ、間に合わなかったら、間に合わなかったで」
「どうしたの、司。あんたも変よ」みどりは笑った。「だいたい、何よ、その『何か、もう、やだなあ』って、何がいやなの?」
「だって、みどり、感じない?」珍しく、ちょっといらいらしたように、司は眉をひそめていた。「何かねえ、自分が小さい魚で、海の中を泳いでいたら、遠くにずうっと地引き網か何かの網が見えてくるような、そんな気持ちになったことない?何だかこのごろ、いっつも、そんな気持ちがする。いろんなことが見えなくなって、わからないことばっかりが増えてきて、まわりがどんどん暗くなって、視界がせばまっていくっていうの?『だるまさんがころんだ』じゃないけど、目をちょっとそらしてて、気づいたら、さっきまで向こうにあった壁がぐぐっと近くなってきていて───見える範囲が小さくなってく。それとも、はじめからそうだったのに、今、気がついただけかなあ」
皆が、ちょっと黙り込む。
「あ~、でもわかる。あたしも、ちょっと、そんな気がすることある」やがて、和子があいづちをうった。「美尾さんがあんなこと言ったのを聞いたせいだと思うんだけど、絶対に。『オリエント急行』のお店が、ある日ぱっと消えてなくなりそうな気がしてしかたないんだよね。変わりがないってたしかめたくて、何かこのごろほとんど毎日、あの店に行っちゃうんだよ。海岸通りの坂を下りてさ、お店が見えるとほっとする。ひょっとしたら、いつか、いきなり火事で焼けちゃってるとか?『売ります』って札が下がって、ドアが閉まってるんじゃないかとか?いろいろ変なこと、考えちゃうんだよね」
「それでなのかあ」眉美があきれた顔をした。「あんたがこのごろ、いやによく来るってママが言ってたもんなあ。昨日の夜、バイトの帰りにあたしが寄ったら」
「いやあ、もうほんとに、こんなに毎日、あの店でお茶飲んでたら、絶対お金がもたないよ」和子は憮然とした表情になる。「その、いろんな昔のことさ、那須野さんが聞けないんなら、いっそ、あたしがママに聞いちゃおうかな。眉美でも、司でも、みどりでもいいよ、明日いっしょに行ってみない?」
「だって、そんなの、どうやって聞くの?」みどりが、ひるんだ目になった。
「そんなの、行けば何とかなるって。ねえ、眉美?」
「う~ん、まあ、皆でわいわい聞く方が、いっそ聞きやすいってこともあるかもね」
「行ってもいいよ」司がうなずく。「どうせ、ほら、明日、郵便局に行くし。みどりも行こうよ。あそこの新しいマロンサンデー、食べたいって言ってたじゃない?」
「そうだけど───」
「実際に聞くかどうかは、行ってから、その場の雰囲気で決めればいいしさ」和子が言う。
「そうね───うん──」
まだ釈然とはしていないようだったが、不承不承にみどりもようやく、うなずいた。
「決まったね。じゃあ、オムライス注文して来よっ!」
司が言って、勢いよく席を立つ。
風が強くなってきたのか、ガラス戸の向こうの海の上に、波が白く弧を描くのが、薄暗い中に浮かび上がっては消えた。沖のかなたの紫色と灰色の空には、その波の色よりは少しだけ薄い白い光で、一つ二つと星が光りはじめている。

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カツジ猫