小説「散文家たち」第35章 もう一つの顔

「ウェストがきつ~い、このドレス」あざやかな緑色の、たっぷり広がったスカ-トを押さえながら、上月奈々子が文句を言った。
「そう言ったって、スカ-レットはウェストの細さで売ってるんだぞ」ピンを口にくわえながら新名朱実がなだめる。「もう一センチだけ出してやるから、それで何とか息してみてよね」
レット・バトラ-の洒落た上着とズボンを身につけ、髪もなでつけ、口ひげまでちゃんとつけた那須野遼子が、ベッドのはしに足を組んで腰を下ろしたまま、手にした太い葉巻を指の間でひねくりまわした。
「ね、火つけて吸っちゃだめ?やっぱり、実際に火つけてみないとさ、いまいち、くわえ方とか吸い方とかが、ぴんと来ないんだよなあ」
「だめっ、火をつけないでやってみて」村上セイが、にべもなく言う。「舞台の上でも絶対に、本当に吸ったらだめだよ」
「ちぇっ、いい匂いしてるんだのに」遼子は鼻の先に葉巻をくっつけて、くんくん目を細めて、匂いをかいだ。「ねえ、奈々子のドレスの、その肩も、もうちょっと下げてもいいんじゃない?」
「これで充分ですったら」とセイ。「学園祭には同窓会のおばさまたちが、いっぱいお見えになるんだから、危ないことはしたくないの」
「さ、これでいいかしら」朱実が、奈々子のかつらの髪を直して、立ち上がった。「ちょっと立って、そのへん回ってみてくれる?」
奈々子は、ふわりと立ち上がり、エメラルド色のドレスの肩ごしに、優雅に後ろを振り向きながら、さらさらと衣ずれの音をたてて、ベッドのまわりを歩き回って見せた。
「ああ、きれいねえ!」窓辺のソファ-に座っていた緑川優子が、うっとりした目で、両手をあわせて指をくみあわせる。朱実が笑って、そのきゃしゃな肩を抱き寄せた。
「その表情といい、かぼそい、きれいな、はかなさといい、ほんとにスカ-レットの妹のキャリ-ンそのものだわ!早く衣装を作って着せたげるから、もう少しだけ待っていてね。上品にくすんだ黄色と白がいいか、それとも冷たいキラキラした感じの水色にしようかって迷ってて、ずっと決まらないのよ」
「私のは、まだ急がなくっていいわ」優子は笑った。
「それにしても、このへやの主は二人とも、どこに行ったのよ?」奈々子があたりを見回して聞く。「竜子もみどりも、どうしちゃったの?」
「町にちょっと用があって───その後、『オリエント急行』に寄るはずよ」
「そっか、今日、お店かたづけるって言ってたな」遼子がつぶやく。「後でちょっと、顔出して見よっかな」
「その方がいいわよ」朱実がからかう。「あなたが顔出さないと、あそこのママ、きっとがっかりする」
「そっ、お気に入りだもんね」奈々子も言う。
遼子は、ちょっと不機嫌そうに顔をしかめた。「早川さんは?ジュ-ス買いに行ったんだろ?遅いね」
「う~ん、そうなのよね。後で皆で買いに行くからいいって言ったのにさ」朱実が髪をかきあげた。「あんたたち二人が来るって聞いたらさ、いきなりバタバタあわて出して、奈々子はパインジュ-スが、遼子は抹茶アイスが好きだから、食堂で買って来るって、飛び出して行っちゃった。どうでもいいけど、パインジュ-スもアイスも、このごろけっこう、売り切れてること多いのよね。学校の外まで買いに行ってるんでなきゃいいけど」
「そうか───」遼子は、額にはらりと垂らした黒い髪と、薄いきれいな唇をひきたてている口ひげに、ひときわ似合う、猛禽類のような鋭いまなざしをきらめかせ、優美に首を片方に曲げた。「こうやって新しい衣装なんか着ると、何となく血が騒ぐよね、奈々さん?ひっさしぶりに、あのミ-ハ-のつぶれ肉まんから、軍資金まきあげてやろうか?」 「あっは~ん、いいな~、しばらくやってないもんね~!」
「冗談じゃないわよ、やめてよ」朱実があわてて制した。
「何がいけないのよ?」奈々子と遼子は身体を寄せ合い、まるで、そのまま舞台写真にでもなりそうな、美しい姿勢と顔を生き生きと輝かせて朱実を見返した。「あのねっ」と奈々子が言う。「竜子から聞いてない?あの子、みどりが病気で寝てる間、何かと口実作っちゃ、このへやに入りびたりだったんだって!みどりが、ぐったりして、熱にうなされてるのを、そばに座って、心配そうな顔しながら、にまにま笑いをかくせないでじっと見てたんだって。きっもちわっるいっ!!豚の顔したハイエナよっ!人の不幸や苦痛に舌なめずりしてっ!何したっていいのよ、あんなやつにはさっ!」
「あんたたち二人の、クモの巣かレ-ス編みみたいな、スケスケのモラルに訴えようなんて今更思っちゃいないけど」朱実は、両手を広げた。「気を失ったり、もだえたりするふりして、そのスカ-トをつぶしたり、しわくちゃにしたりしてくれたら、あとの始末が大変なのよ。レットの上着もまだピンがあっちこっちにさしたままだし」
「まかしといてよ、上着は脱ぐわ。どうせ暑くて死にそうだったの」遼子は勢いよく、栗色とチョコレ-ト色の派手な上着をはねのけて、肩ごしにベッドに放り投げ、ちょうどその時、階段をかけ上がってきた早川雪江が、ジュ-スとアイスクリ-ムの袋を持って、息を切らしてかけこんで来るのにぴったりあわせて、斜めに奈々子の腕の中に身体を投げ出して沈め、あおむけのまま、目を閉じた。
「まあ!どうしたの、遼子?」間髪いれず、すぐに奈々子が、押し殺した、度を失った声で言いながら、遼子の上にかがみこむ。「しっかりして、お願いよ!」
あっけにとられて立ちすくんでいる雪江の手から、朱実がアイスクリ-ムとジュ-スの入った袋を取った。
「ありがとう」いやが上にも冷静な声で朱実は言った。「冷蔵庫に入れておくわ。お金を払うね。いくらだったの?」
「あ、いや、そんな───そんな───いいです────」雪江は胸の前で両手を小さく、アザラシのようにぱたぱたさせた。
「よくないよ。わざわざ行ってもらったんだもん」朱実は財布を逆さにして、小銭をざらざらこぼし出し、朱実の手の中に押し込んだ。「七百円ぐらいで足りる?」
「えっ、ええ───あの───那須野さん、どうしたの?───」雪江は硬貨をのせられている手など上の空で、遼子の方ばかり見ている。
「大丈夫。放っといていいの。あんなもの」
遼子と奈々子の方を見ながら雪江の腕をひっぱりかけて、朱実は突然、息を殺した。信じられないものを見たように、その目が大きく見開かれる。
優子とセイはもうとっくに、並んで座ったソファ-の上から、呆然と吸い寄せられるようなまなざしを、遼子たちに注いでいた。
朱実がうっかり手をはなしたため、雪江はそのまま、ふらふらと一も二もなく、遼子と奈々子の方に近づいて行く。
「那須野さん───ああ、那須野さん───」近づいて来る雪江を見もせず、そのくせ的確に雪江に自分と遼子の顔が見える位置に身体を向けて、しぼりだすような悲痛な声でつぶやきながら、奈々子は手のひらでぴったり目をおおった。「ああ、ひどい───こんなことって───どうして、こんな!」
「あのう──どう───どうしたんですか?」雪江は太った両膝をぺたんと床につくようにして、二人の前に座り込んだ。
「あ!───さわっちゃだめ、彼女にさわらないで」雪江は全然、手をのばしてもいないのに、奈々子は震える腕をのばして、遼子の身体を上からかばった。「この人、シャツの下、傷だらけなの───ゆうべ、あたしをかばってくれて、辛島圭子のリンチにあったの──」
「あ、あの───写真部の?」
雪江の目が恐怖にまんまるくなる。その目が、畏怖と同情と陶酔の色をたたえて、遼子の力のぬけた身体と、目を閉じた顔とに注がれた。
「そ、そうよ。あたしたち───お金を持って来るように言われたの───一人、二万円ずつ──」
「───三万円よ───」遼子が、苦痛と恐怖とに顔をゆがめて見せながら、奈々子の腕をぎゅっとつかんで、かすれた声で訂正する。
「そう、そうだったわ───三万円ね。二人あわせて六万円───明日までに持って行かないと、また、どんな目にあわされるか」奈々子はドレスからむきだしになった、あらわな白い肩をわななかせ、黒いカ-ルした髪をゆらゆらとゆらしながら、少しずつ頭を前に垂れた。「考えるだけでも───気が狂いそうよ──」
「ろっ、六万円でいいんですね?」雪江がどもる。「あたし───あたしっ───」
「だめっ、いけない、早川さん、だめ───」目を閉じたまま遼子がつぶやき、雪江の方に上げかけた両腕を、途中で力つきたようにばたりと下ろして、身体のわきに投げ出した。「いいのよ、私なら、まだ耐えられる──」
だが、すでに意識が朦朧としているように、その口調はおぼつかなく、思い出すまいとしても思い出してしまう恐怖のために唇はかすかにひきつり震えている。雪江は激しく、熱にうかされたように首を振った。
「いいえ、いえっ!明日のお昼までに絶対に、持ってきますっ、待ってて下さい、心配しないでっ!」
「ごめんなさい───何て言ったらいいの───」悲しげに奈々子がつぶやく。「あたしたち、いつもあなたに助けられてばかり───」
「いいんです!」まるまる太ってはちきれそうな雪江の顔が、悲壮な決意と崇高な使命感とに、あかあかと輝くようだった。「明日の朝、あたし、銀行が開いたら一番にお金下ろして、そして───」
「そんなことをする必要はないわ。早川雪江さん」
静かな、澄んだ声がそのとき、ドアの方から聞こえてきた。

びっくりした雪江が、ぽかんと口を開けて振り向く。その前に奈々子が飛び上がり、その前に遼子がはね起きた。
開け放しのドアの入り口に、朝倉京子が立っていた。いつもの制服姿で、いつもの清らかな、透きとおるように静かな表情で。
「早川さん」丁寧な、心のこもった声だった。「もう、何も心配しないで。辛島さんには私から話しておくわ。あなたは何もしないでいいわ。でも───本当にありがとう」
あいまいにうなずいて、どぎまぎしながらもほっとした表情で、こそこそ、へやを出て行こうとした雪江が、そばを通り抜けようとした時、京子は目を前に向けたまま、また静かな声でたずねた。
「───ひとつだけ、聞かせて下さる?私が知らない分もあるといけないから。早川さんが、これまで、この人たちに───演劇部に出して下さったお金って、だいたい、いくらぐらいになるかしら?」
雪江は立ち止まり、京子を見て目をぱちぱちさせた。「ええと───ええと───」
「だいたいでいいの。二十万?───五十万?───もっと?───」
「よく───よく覚えてないんです───貯金通帳見たらわかるかも───」
「そう。じゃ、あとで教えてね」京子は、何かに耐えているかのようにゆっくりと雪江の方に向きを変え、そっと、その腕に手をかけた。「演劇部がここまでやって来られたのは、あなたのおかげよ。早川さん。これまで、お礼を言う機会がなくてごめんなさい。部長として、感謝のことばもないくらいよ。ありがとう」
雪江はうれしさのあまり、耳まで真っ赤になった。ものも言えない様子で、そのまま、逃げるようにへやを出て行った。
その足音が階段の下に消えてしまっても、京子は黙って目を伏せたままだった。
「───朝倉さん」やっと聞こえるほどの低い声で、遼子が言った。「説明させて下さい───」
ゆっくりと京子は目を上げ、二人を見た。
「あなたたちの声も聞きたくないし、あなたたちの顔も見たくない」怒りに満ちたことばとは裏腹に、声にも目にも深い、強い悲しみだけが、ただ、いっぱいにあふれていた。「あなたたちに話しかけるのもいやだし、あなたたちのことを考えるのも汚らわしい。あなたたちのことなど、知らなければよかった。あなたたちのような人たちが、いることさえも私は忘れてしまいたい」
花が雨に打たれるように力つきたしぐさで、つと顔をそむけて、背を向けると、そのまま京子は出て行った。

凍りついたように動けずにいた奈々子と遼子は、ほとんど同時に顔を見合せ、立ち上がった。遼子は口ひげをむしりとり、奈々子はかつらをもぎとって投げ出したが、後は舞台衣装のまま、二人は先を争って、へやを飛び出し、階段をかけ下りた。寮の前庭の、木陰を通っている小道を、小川の方へ歩いて行く京子を見つけて、玄関を飛び出して追いつくと、左右から二人は京子の手をつかんだ。
「ねえ、ごめんなさい!」奈々子が息をはずませる。「朝倉さん、あたしたち、ものすごくバカだった。でも聞いて、あの子のミ-ハ-にむしゃくしゃしたの、がまんできなかったのよ、それでつい、ちょっと、いたずらを───」
「はじめは、ほんとに、資金かせぎのつもりもあって───」遼子も早口でつづける。「覚えてますよね?四月の頃です。次の公演ができないんじゃないかってほど、予算が底をついていて、村上さんが困ってて、だから、ちょっと手助けをって、それがついつい、つい、何度も───」
「許して下さい!」奈々子は京子の手をつかんだまま、草の上にひざをついた。「お願いよ!もう二度としません。わかって!あの子があんまりバカで、みっともないから、見ててイライラしてカッとしたのよ!」
「何をしたらいいのか言って下さい」遼子が頼んだ。「お願いだから、チャンスを下さい。何か言って下さるまで、私たちここを動きません。手を放しません。朝倉さん。お願いです」
「あの子にお金を全部返します」奈々子が京子の手をゆすった。「あの子に、あたしたちのしたことを全部うちあけてあやまるから───」
「───そんなことは絶対にしたらだめ」静かに、きびしく京子は言った。「わからないの?あんなに残酷にあの人をだました上に、そのことをわざわざ知らせて、あの人をまた、もっと、傷つけるつもりなの?あなたたち二人は、たしかに、きれいで、賢くて、強い。みっともなくて、バカで、弱い人を見るとがまんできなくなるのかもしれない。何をしてもいいという気持ちになるのかもしれない。けれど、わかって。あなたたちが、あの人にがまんできないのと同じように、あなたたちのような人たちを、私は許せないの。どんなに、あやまられても。私に何をして下さっても」
遠く、グラウンドの方から、運動部の生徒たちの練習をしているかけ声が、明るく、風にのって流れてきた。小川の向こうのサ-クル棟のあたりでは、ブラスバンドの演奏がとぎれとぎれにひびいている。けれど、このあたりには人影はなくて、緑の枝が三人の回りで、ざわざわとそよいでいるだけだった。
うつろな、低い声で京子は続けた。
「あの人を傷つけた手で、私にふれてほしくない。あの人をあざ笑った声で、私に話しかけないで。どうか───私に何も言わないで。頼んだり、願ったりしないで。そんな資格が自分たちにあるかどうかを、よく考えて見てからにして」
悲しみが限りなく、京子の心から溢れだして来るようだった。ほんの少し間をおいて再び口を開いた時、その声はほとんど苦痛に震えていた。
「あんなに、一生懸命に持っているものを差し出しつづけても、あなたたちの感謝のひとかけらさえも、早川さんはもらえなかった。彼女とちがって、力のあるあなたたちは、お金や、人の愛はもちろん、どんな罪を犯しても、許しさえ即座にもぎとろうとする。それが当然と思っていて、そうでなければがまんできないのでしょうね。けれど、世の中には、実力や、能力や、才能や、魅力だけでは手に入らないものもあるのよ。あなたたちの思いのままにならない心だってあるわ。お願い───手を放して、私を行かせて」
身動きひとつしない京子の手から、ひとりでに、奈々子と遼子の指がはずれて、力がぬけたようにすべり落ちた。京子は黙ってまた歩き出し、小川の方へと小道を歩み去って行った。

「遼子!奈々子!」
立ち尽くしている二人の背後から、ばたばたと朱実とセイと優子とが、息を切らしてかけよって来た。
「ちょっと───ねえ、ちょっと───遼子───!」セイが遼子の肩に手をかけて、すがりつくようにしてあえいだ。「あんた、落ち着いてよね!」
「わかってるわよ」遼子は、吐き出すような吐息をついた。「朝倉部長が、ああ言った以上は───」
「朝倉さん?ああ、朝倉さんね」セイがこともなげにかたづけた。「それはいいのよ、さしあたり───」
「ちょっとっ、それはいいのよって、何よっ!?」奈々子が怒った。「よくなんかないわよ、ちっともっ!朝倉さん、もしかしたら、もう絶対に、あたしたち二人のこと許してくれないのかも───」
「それはもう、今考えてもしかたないでしょう?」優子まで、いつにない乱暴な言い方をした。「あのね、そんなことよりもね───」
「そんなことよりも!?」遼子と奈々子が思わず、声をそろえて聞き返した。
「そうよ、もっと大変なことかもしれないことがあるのよ」朱実が大きくうなずいた。「ねえ、遼子、さっき倒れていた時のあんたの顔見て、あたしたち三人、皆、同じことに気づいたの。あの───」
「あの、壁画!」セイが、もどかしげに口をはさむ。「ほら、私たち三人とも、他の皆よりも、あの絵をよく見てた方だから、特に優子は、しょっちゅう見てたから。でも、多分、誰だって、ちゃんと見たら同じことに気づくと思う───」
「空き地で、赤い光の中で、リトル・ジョンに抱かれて死んでたロビン・フッドの顔、覚えている?」優子がせきこんで、たたみかけた。「遼子、あなたの顔って、あのロビン・フッドの顔と、そっくり、うり二つなのよ!」

「な───何が───?」遼子は、眉をひそめる。
「ほらっ、その顔、その眉のひそめ方、そのあごのかたち!」セイが言った。「ほおがすっきりひきしまってて、あごが細くて」
「唇が薄くって、はしがきゅっと上がってて、ちょっと片っぽにゆがめると、そこにえくぼができるでしょ」優子もうなずく。
「鼻が細くてとんがってて、眉が長くて、今みたいにするとつけ根のとこの、まぶたに影ができる」朱実も言った。「目を閉じた時のまつ毛のかたち、青白いけどなめらかっていうか、つやつやしてる肌───ううん、そんなのより何より、その表情っていうか、全体の感じがもう───!」
「腕や、手の指のかたちまでそっくり」優子は息をはずませている。「さっき、あなたが両方の腕を前に投げ出すようにしたでしょ。あの時の手首からひじにかけての感じや、親指と中指の長さが変わらないところとか、まるでもう、あの絵を見てるようだった」
「───いいけどさ」遼子はまだ、半信半疑の顔をしている。「何で、今ごろになって気づくんだよ?」
優子たち三人は、ちょっと顔を見合わせて考え込んだが、すぐに朱実が腕を組んできっぱり言った。
「あの絵のロビンと同じように、今日はあなたが口ひげをつけて、まるっきり同じかっこうで倒れて、死んだみたいに目をつぶっててくれてたからよ」
セイと優子もうなずく。奈々子が言った。
「だけど、じゃ、それってどういうことになるわけ?あの絵のロビンのモデルになった人がいて、それは遼子の何かにあたる人だってこと?」
「そりゃあ、あれだけ似てるんだもの。無関係なんて考えられない」セイが言う。「遼子のお母さんて、ここの卒業生?───じゃなかったよね、たしか」
「んなわけねえだろ」遼子は肩をゆすって、乱暴な口調になった。「うちの母ときたらもう、がさつで下品で、いつもぎゃんぎゃんどなってて、本なんかこの十年で一冊も読んでねえような単細胞のアホ女、教養なんてかけらもねえ。ここに来るようなタマじゃねえって」
「顔とか、あなたに似てないの?」
「似てねえよ。ひげがあろうとなかろうと、生きていようと死んでようと、あたしとあの人とは似ても似つかない。それだけはもう、絶対たしか」
「もしかして、あなたとそっくりの叔母さんとか、いらっしゃらないわよね?」優子がくいさがる。
「母には兄弟しかいない。ついでに言うと、父にもね」
「そもそも、本当のお母さん?」
「そうくると思ったわさ」遼子は苦々しげだった。「まあね。───顔は似てない、気はあわない、こっちが向こうを嫌いなように、向こうもこっちを好きじゃないのがミエミエとくりゃね。あれが実は母親じゃないと聞いても、あたしはびっくりも、がっくりもしないよ。ときどき、そうならいいなあって思ったこともあった。けどさ、それじゃ、あんまり話がうますぎない?第一、あんまり少女趣味でバカバカしいと思ったから、そんなこと、それ以上考えもしなかったよ」
「これじゃあ、らちが開かないわ」奈々子がイライラしたように言った。「もう一度、壁画を見に行かない?あたしは、あの絵、まともに見たことなかったもの。ちゃんと見たいわ、ロビンの顔も」

交差点の向こうから手をふっている、美沙とさつきを見て、京子は足をとめた。
夏の終わりが近づくにつれ、海岸通りはひところより、人がまばらになっていた。どこかの店から流れ出る高校野球の実況放送が、雨上がりのやわらかい陽射しの中にひびいている。
信号が変わって、さつきたちがこちらに来た。
「『オリエント急行』のかたづけは、一応終わったわよ」美沙が京子に報告し、ちょっとすねたような顔でジ-ンズのポケットに手をつっこんでショ-ウィンドウを見ている、さつきの方に目をやった。「しのぶたちも戻ってきて、皆でお茶を飲んでるわ。この人が帰るって言うから、あたしもいっしょにひきあげてきたの。まあ、逃げ出してきたって思われてもしかたないわね」美沙はくすくす笑った。「そうでしょう、さつき?」
ふんと鼻を鳴らして、さつきはつま先で敷石を蹴った。「みどりが、今にももう、あたしに謝りそうな顔してたからさ。そんなことされたらますます、あたしの立つ瀬がないってことぐらい、あいつ、わかんないのかなあ。これ以上、こっちを悪役にしてくれるなってんだよ。本当に困った子だ。───それにしたってもう、いつもながら、あたしって、ほんとに損な役回り!」
「けっこう、好きでやってるくせに」美沙が首をすくめた。「それで、そっちの、衣装合わせの方はうまく行ってたの、京子?」
「うん」京子はひっそりうなずいた。「ねえ、さつき。損な役回りをもう一つ、あなたに引き受けてほしいのだけれど」
「やれやれ。まあ、こうなったらもう、毒でも皿でも食べるけど」さつきは苦笑した。「何なのさ、いったい?」
「演劇部長を、やってほしいの」疲れた声で、京子は言った。
さつきと美沙は、無言のままで京子を見つめる。自転車に乗った恋人どうしらしい男女が笑いながら三人のそばをすりぬけて行った。少しはなれた花屋とパン屋の並んだ向こうの店先で、高校野球のテレビ中継を見ていた人たちの間から、どちらかのチ-ムが得点したのか、どっと拍手と歓声が起こる。
やがて、さつきが、いつもの彼女からは想像できないほどの、優しい、暖かい声で静かに聞いた。
「───何が、あったの?」

まだ何となくわりきれない表情のままの遼子を囲むようにして、少女たちは図書館の地下への階段を下りた。今日は部室には誰もいなくて、灯をつけると、周囲の壁には音もなく、あの壁画が───白い岩山、緑の森、戦場、そして赤い光に包まれた空き地が浮かび上がって、少女たちを取り巻いた。
「ああ───似てるわねえ」奈々子が思わず嘆息する。
金髪を振り乱してうつむく、たくましいリトル・ジョンのがっしり太い腕に上半身をあずけるようにして目を閉じているロビン・フッドは、厳しい暗い表情をしていた。その細く長い眉や、頬からあごにかけての鋭い線、とがった鼻や薄い唇は、たしかに、見れば見るほど那須野遼子にそっくりだ。血をしたたらせて投げ出された両腕や、緑の服につつまれた、ほっそりとしているが強靱さを感じさせる、ひきしまった身体まで、そう言えば遼子そのものと言っていいくらい、よく似ている。
「髪と、ひげを隠したら、きっと、もっとよくわかるわ」新名朱実がそう言って、机を壁に押しつけて、その上にのせた椅子に上って、横から手をのばし、ロビンの顔の一部をおおうようにした。
「うん、もうちょっと手を右にやって見て」セイが下から指示する。
「───こう?」
「ちょっとっ!」奈々子がいきなり、声をあげた。「───嘘でしょっ!?」
「今さらながら、驚かないでよ」セイが振り向き、苦笑する。
「ちがうっ、ロビンの顔じゃないの」奈々子は激しく首を振った。「ううん、それはいいの。ロビンは遼子とそっくりなのはわかった。でも、でも、ほら、見てっ、その上のリトル・ジョンの顔っ!」
「ええ?」
少女たちは、けげんそうに、のびあがったり、身体をかがめたりしながら、思い思いに目をこらした。
「え──っ?」遼子が小さく息をのむ。
「そんな───ええっ?───」セイも片手を口にあてた。「で、でも───」
「なあに?」優子がけげんそうに首をかしげる。
「そこからじゃわからないんだ。ちょっと、こっちに来て、こっちから見て」セイは優子をひっぱって移動させた。「朱実が───朱実、腕を動かさないで。ほら、優子。朱実が曲げながら伸ばしてる上の方の腕と、胸の間のすきまから、リトル・ジョンの顔を見てごらんよ。顔の両側が隠れて、はばが狭くなって、やせた感じになるでしょう?ね?そうしたら、ほら───」
「どうかしたの?」朱実が椅子の上から聞く。
「朱実、もっと、今、下になってる腕を胸に近づけて───要するに、リトル・ジョンのほっぺたをかくすようにして見て。顔の、真ん中のところだけ残す感じにして。ほら、優子───あの鼻を見てよ。大きくて、根っこが額とつながってる、あの感じ。それから目もさ───右と左の大きさが少しちがって、でも、どっちも切れ長で目尻が上にはねあがってる。唇がふっくらしてて、のぞいてる歯が真っ白で大きくて───」
「───ああ!」優子が大きく目を見開いて、うなずいた。「──わかったわ」
「わかったろ?」
「でも、セイ───なぜ?なぜなの?そんなことって───」
「何なのよ、どうしたの?」朱実が上から、また聞いた。「リトル・ジョンが、誰かに似てるわけ?」
少女たちは朱実を見上げて、てんでにうなずく。うなずいてはいるものの、どの顔もまだどこか半信半疑で、見たものが信じられないでいる表情だ。
自分に言い聞かせるように、奈々子が言った。
「そのリトル・ジョン───今は、もっと、ずっとやせてて、細面になってるから、わかりにくかったけど───でも、まちがいないわよ。そのリトル・ジョンは───」
血に染まったロビン・フッドの上にかがみこんで抱きしめている、悲しみに満ちた顔の大男。それをじっと見上げながら、優子が、低い声で言った。
「───『オリエント急行』のママだわ──」

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