小説「散文家たち」第29章 金魚とお面

「いったいぜんたい、ありゃ何だい?」
峯竜子が立ち止まって、気味悪そうな声を出した。
「う~ん、何なんでしょうかねえ」大西和子もうなった。
夕暮れである。浜砂寮の敷地と校庭をへだてる鉄柵の、そばを流れる小川の岸だ。ここから見ると、海を背に黒く浮かび上がっている、小川にかかった小さい橋の上を、浴衣の少女が七八人、ぞろぞろと並んで渡っていくところだった。浴衣の模様は、赤、青、黄色の金魚を染めたおそろいで、顔にはそれぞれ、天狗やおかめやひょっとこやウルトラマンの、安っぽいどぎつい色のセルロイドのお面をかぶっている。
「金魚の浴衣が、金魚のうんこみたいにつながって歩いてくってのも、お笑いだ」竜子が批評した。
二人は、昼の公演「アンの娘リラ」に使った日除けや椅子のあとかたづけをして、川原から上がって来たところだった。何しろ、客は水辺の砂の上に椅子を並べて座り、両側の土手と橋の上で同時に三つの劇が進行、ナレ-タ-はボ-トに乗って、時々、小川の上流から流れてくるという、とんでもない構成の劇である。出演者も裏方も、タイミングのむずかしさに終始生きた心地もなく、やっている間は皆カリカリし、終わった後ではぐったりしていた。
「あ~あ~、もう」和子が、背中に汗がびっしょり浮き出た兵士のアンダ-シャツとズボンのままで、草の中に座り込み、頬にとまった蚊をぴしゃりとたたいた。「神経使うなあ、今度の劇は。終わって一時間たってもまだ、足ががくがくしてますよォ」
「悪かったなあ」竜子はあんまり悪いとも思っていない口調で言った。
「だいたい、峯さん、日村さんにライバル意識でもあるのとちがいますか?」和子は恨めしそうに言った。「例の『あなたもベスになれる!』の企画の向こうをはって、こんなアラカルト方式っちゅうか、闇鍋方式っちゅうか、『アンの娘リラ』と『西部戦線異状なし』と『チボ-家の人々』と三つの劇をいっぺんにやるなんて、とんでもないこと思いついたんでしょう!?」
「ふん、向こうをはっとるどころか、完全に越えとるわい」竜子は誇らしげに鼻をぴくつかせた。「客の評判も上々だろうが?」
「そうですかね。あきれてるだけって話もありますよ。何で、さっきボ-トで下って行った人が、また同じボ-トに乗って流れて来るんだ、ボ-トかついで、スキ-のジャンプ台登るみたいに、また上流まで走ったんかいなとか、話題になってるのって、そういうことばっかりですよ」
「何を言うとる。司のリラとみどりのウォルタ-の兄と妹やら、奈々子の青年ジャック・チボ-やらが超話題になっとるのを知らんのか。司の娘役とか、奈々子の男役とか、これまでにない新境地を開かせてやっとるのだぞ。第一、このスケ-ルの巨大さを見よ!第一次世界大戦に、カナダから参戦する兵士のアンの息子ウォルタ-、その敵のドイツ軍に属していた兵士パウル、同じころスイスで社会主義者として反戦運動をしていたジャック───この三人と、それを取り巻く人々とを同時に見られる劇なんて、めったにあるもんではない」
「めったにあるもんですか。やってる方は死にますよ。司もみどりも、朝子まで体重が一キロから二キロ減ったって言ってましたからね」
「おまえさんは?」
「あたしは変わってませんけどね」
「斎藤さんは?」
「眉美は三キロ増えてます───もうっ、どうしてそう、自分に都合のいい例ばっかり見つけるんです?だいたい、眉美の太ったのだって、あれは、やけ食いのストレス太りですよ」
「アンの村に住んでる『月に頬髭』ってあだ名の反戦主義者のおじさんには、イメ-ジぴったりで、ちょうどよろしい」竜子は満足そうだった。「斎藤さんも、そろそろわりきって思いきり太って、そういう役を一手にひきうける覚悟をしてくれるといいんだが」
「よくもそう、のんきなこと言ってられますよ」和子は、ため息をついた。「練習の時から予想はついていたけれど、毎回、毎秒、薄氷を踏む思いでやってるんですからね。今日だって、しのぶのパウルが草ん中でしゃべってる声が、一瞬みどりのウォルタ-に聞こえて、ぞうっとしましたよ。あの二人、どっちもあそこで戦闘場面があるから、絶対、出番をまちがえたんだと思って」
「あれは、わざと声を似せろと二人に言ってあるんだよ。何べん言ったらわかるのさ?敵味方の兵士のどちらも、若くて、愛する母がいて、同じ人間なんじゃないかってことを見ている人に実感してもらうためにね」
「───峯さん!」
その片山しのぶが、やはり兵士の服装で、勢いよく土手をかけ上がって来た。
「道具は、橋の下にまとめて、雨が降ってもぬれないように一応シ-トをかけときました。取られそうなものはないし、あれで大丈夫だと思います」
「ご苦労、ご苦労。今日はもういいよ。ひきあげて休んでおくれ」
「いいですか?」しのぶは腕時計を見た。「じゃ、───和子は、盆踊りには行かないの?私は今からシャワ-浴びて、浴衣に着替えて出かけようかって思ってるけど」
「おお、そうか、それでわかった」竜子は振り向き、さっきの一団が今、寮の前庭の小道を通って、門を出て行く方を見た。「盆踊りに行くのか、あいつらは。それにしても、何でああ、不気味にそろいの浴衣なんだ?」
「ああ、あれ、ミステリ研究会ですよ」しのぶが、ひざに手をついて屈伸運動をしながら言った。「金魚の模様の浴衣でしょう?皆でおそろいの模様を染めた生地で注文しようと思って、カギだとか短剣だとかハテナマ-クだとか黒猫だとか、いろいろ案が出てもめてる内に収拾つかなくなっちゃって、気がついたら結局どうしてか、金魚になったんだって、部長の池田さん、相当きげんが悪かったですよ」
「それでも何で金魚になるんだ、わからんなあ」竜子は頭を抱える。
「あそこの部、何かそんなとこあるんですよね。しょっちゅう議論してまとまらなくては、ものすごく変な方向にいつも話が行っちゃうんだ」しのぶは笑った。「峯さんも盆踊り、行きませんか?港の広場で朝まで踊りが続くそうですよ」
「知ってるさ。去年も行ったもの。まあ、屋台なんかも出るし、飯食いかたがた、出かけてもいいな」
三人は肩を並べて、寮の方へと土手をぶらぶら歩いて行った。薄青い夕方の空には、糸のように細い三日月が光りはじめている。

次第に暗くなって行く水色の空を背にして、巨大な観覧車がゆっくりと回っていた。ここは、藻波市に古くからある老舗のデパ-ト「水野屋」の屋上だ。見下ろすと運河の両岸には街灯がずらりと灯り、色とりどりの提灯がわずかな風にゆらゆらゆれて、またたいているように見える。港の広場へ流れて行く、人や車の流れも多くなっていた。「水野屋」の屋上にも、子ども連れやカップルの客があふれ、メリ-ゴ-ラウンドや、ぐるぐる回るコ-ヒ-カップは皆、親子や恋人でいっぱいだった。観覧車の席もなかば近くはふさがっていて、笑い声があちこちではじけている。
その一つに、美尾さつきと上月奈々子が乗っている。髪を後ろにかきあげて、むきだしにしたきれいなおでこに、赤い鬼の面をかぶり、茶色の地に薄桃色のほおずきを散らした浴衣姿の上月奈々子は、キラキラと楽しそうに目を輝かせて、大きなピンクの綿菓子にかぶりついていた。向かいに座った美尾さつきは、赤いTシャツの上に紺と赤の浴衣の生地で作った半袖シャツとショ-トパンツで、いなせな若い衆のようだが、何となく不機嫌そうな釈然としない顔をしている。
「おい、聞くけどなあ」彼女は仏頂面で言った。「何でこのあたしが、こんな夜、あんたと二人で、こうやってこんなもんに乗らなけりゃあならんのだよ?言っとくが、あたしはまだカゼも完全に治っちゃいないんだぞ」
「うふ、すみません」奈々子は言った。「でもほら、例の、遼子と写真部に潜入した報告レポ、人に聞かれないでできる安全な場所って、ありそうでこれがなかなか、ないんですもん」
さつきは片手にセブンアップのかんを持ったまま、吐息をついてのけぞり、夜空を背にして入り組んでいる、観覧車の太くて黒い鉄骨をながめた。
「は!───それで?いったい潜入は成功したの?」
「何かすごっく、真剣じゃない聞き方と思うな、それって」奈々子は浴衣のたもとで、夜風に吹かれて少しゆがんだ綿菓子をかばいながら、ぶつぶつ文句を言った。「司たちがさらわれたときと、あまりに態度がちがいすぎないかなあ───とか思っちゃう」
「あっちはさらわれたんだろうが。そっちは好きで行ったんだろうが」さつきは手すりにひじをかけて、セブンアップのかんをあおって飲んだ。「悪いがあたしは日村さんじゃないからよ。心にもない表情ができなくてごめんな。だけど、ほんとに気になんないんだからしかたないだろ。京子はあんたたちに許可したあとになって、けっこう心配してるみたいだけど、あたしは、全然。正直言って気の毒なのは、辛島圭子の方だって思ってらあね。それで?潜入に成功して、どうした、それから?」
「成功したって、まだ言ってませんよ」
「ああ、そうだったか。でもどうせ成功したんだろ?」
「も-う、美尾さんたら」奈々子はきゅっと眉をひそめ、唇をとがらせたが、目は笑っていた。「ま、でも、そこがいいんだけど。あのね───ちゃんと成功しました。先週の末に、二人で写真部室に行って、辛島圭子に会いました。金もうけでポルノ撮影してるんなら料金次第でモデルになるよって持ちかけて、一応、今いろいろ交渉中ですけど、いつでもあそこに出入りしていい許可はとりましたよ」
さつきは顔をしかめた。「何か、あっさりしすぎてねえか?」
「うまくいきすぎてヤバいってか?それはないっしょ」奈々子は、鼻をくすんと鳴らして綿菓子のはしを指先でちぎった。「辛島圭子って、何べんも言うけど頭わるいもん」
「ほんとに、何べんも言ってるな」さつきはつぶやいた。
「あたしたちが来たってんで、けっこう、うれしそうにしてましたよ。下級生にお茶をいれさせて、『あんたたち、コ-ヒ-は好きかい?』なんて気取った声で聞くから、遼子が『はい、適温のを適量だけ、ちゃんと口から飲むのでしたら』って言い返したら、バカみたいに大笑いしたわ。彼女が、あたしたち二人のこと、けっこうちやほやするもんで、写真部の連中、何かカリカリしてたみたい。何ていったらいいのかしら、こう、三流のポルノスタジオにブロ-ドウェイの大女優が二人来て、監督たちが浮かれまくって、もとから居た他のブス女優がぐれちゃう、みたいな図式───わかります?」
「誰が大女優なんだ、誰が」さつきは力のない声でくりかえした。
「とにかく、とにかく、それでねえ、それでですねえ」奈々子はめげた様子もなく、下駄をかたかた小さく鳴らして座り直した。「ちょくちょく行って、どんな写真にするのかとか、わけまえをどうするのかとか、販売ル-トのこととかさ、いろいろ相談することになってるんですけど、こっちとしちゃ、なるべく話を引き延ばして、情報をいっぱい盗んでやるつもりでいるんです。ん~、それでっと、撮影に使う衣装が決まったら、演劇部からこっそり持ち出してくることにしてるから、協力お願いしますね。あのね、美尾さんと峯さんはあたしが好きで、朝倉さんと南条さんは遼子が好きで、お互い恋のさやあてしてて、あたしたちがうまく頼めば何でも聞いてくれるってことになってるんですから」
さつきは危うくセブンアップのかんを空中に落としそうになって、あわてて、握りしめ直した。「何てった?」
「あのですね───」
「いい!くり返さなくても」
「どっちなんですか?」
「あんたらいったい辛島圭子に、うちの部の内情を、どういう風に話してるんだ!?」 「嘘八百」奈々子はけろりと綿菓子をかじった。「だって、本当のこと話したらいけないでしょう?」
「だからっつってだなあ───!」
「美尾さんがあたしのベッドにしのびこんで来て、峯さんとはちあわせした話とか、朝倉さんが誕生日に遼子にバラの花もらって、南条さんがくやし泣きした話とか、辛島圭子はもう大喜びで、ひいひい笑って喜んでましたよ。他の部員が来るたびに、もう一回話せ話せって最初からくり返させるもんだから、あたしも遼子もまいっちゃって。だって口から出まかせだもん、細かいとことか覚えてないっしょ?辛島圭子、バカのくせに変なとこだけ覚えてて、『さっきは、そこで美尾のやつが、おまえにキスしたって言っただろ?』なんてチェック入れたりするもんだから───」
観覧車がちょうど下に来たので、さつきは無言で手すりを飛び越えて出て行こうとしかけたが、奈々子がその手をつかんでひきとめた。
「もう一回、回れますよ。話もまだ、終わってません」
「死ぬまでやってろ」さつきは、疲れ果てた声で吐き捨てた。「あほらしい。あたしは帰る!」
「まじめな話があるんですったら。とっても大事なことなんですよ」奈々子はあたりを見回しながら、紅色の帯に手を入れて、はさんでいた小さい細長い紙切れを取り出して、さつきに渡した。
「風に、飛ばさないで下さいね───注意して、よく見て」
観覧車はまた、ゆらゆらと地上を離れて上がりはじめている。さつきは黙って、受け取った紙片を広げた。
幅一センチあるかないかの細長い紙だ。何かの端を切り落としたような───。細かい字と黒っぽい丸いマ-クが印刷してある。
「しわくちゃになっているのは、写真部の棚の中で、カメラを入れた箱の詰め物に使われてたからです」奈々子が説明した。「そういうのがいっぱい、丸められて───ほら、それって、例のポルノの出来のいいやつの、紙の端が全部切り落とされてたっていう、その端っこの部分でしょ?あたしと遼子、カメラとか見せてもらってる時、詰め物の紙が気になったから、ちょろまかして来たんです」
「───何のマ-クだろう?」さつきは座席に座り込み、夢中になって紙に見入った。「ちぇっ!暗くって、よく見えないや。この字も、小さすぎて」
「エフラファ、って読めます」奈々子が綿菓子をなめながら言った。「マ-クは、黒いうさぎみたい。耳が立って、目のところは白く抜けてて、けっこう何だか、気味の悪いマ-ク」
「エフラファ───」さつきは、紙片を宙に持ち上げてにらみつけた。「あの、上等なポルノの製造元かい、これが?」
「そう───なのかな?───どうなんでしょう?───」
観覧車はまた、高くなる。町の運河に流される送り火が赤々とゆらめいて、運河はここから見下ろすと光の河のようだった。港の方では盆踊りがはじまろうとしているのか、太鼓の音がにぎやかに、響きはじめているのが、ここまで遠く聞こえて来る。

「ねえ、京子。あんたはやっぱり、あんただねえ。こんな時ぐらい、制服以外のもの、何か着たらどうなんよ?」ミステリ研究会の部長、池田瑞穂は、紙コップに山盛りにあふれそうなイチゴシェイクをストロ-ですすりながら、上目遣いに京子を見てからかった。四角い顔に小さい目の、がっちりずんぐりした少女だが、赤や黄色や色とりどりの金魚の浴衣が奇妙に似合っている。
コ-ンに入った二色アイスクリ-ムをなめていた京子は笑った。水色の半袖ブラウスに薄水色のネクタイ、同じ色合いのチェックのスカ-トという夏の制服姿だが、カゼがまだ完全に直ってないのか、顔色が少し悪い。
「それにさ、だいたい、一人で来たわけ?」同じ三年のミステリ研究会の部員で、のっぽで赤茶けた髪が長い、茂木晶が聞いた。「あんたんとこ、かわいい部員がいっぱいいるのに、もったいないじゃない?さつきや美沙も、いっしょじゃないん?」
「美沙と来たのよ。すぐ戻るからって言って、さっき、どこかに行っちゃったの」
「あんたをここに一人残して?わあ、罰当たり。せっかく京子とデイトできるっていうのに、何ちゅうやつよ、美沙ってさ」晶は度の強い眼鏡の奥の細い目を、大げさにぱちつかせた。
ここは港の、盆踊り会場になっている広場の端の、アイスクリ-ムの店である。ガラス戸が開け放されて、潮風が勢いよく吹き抜けている店内は若い女の子でいっぱいで、声を相当はりあげなければ、相手の言っていることが聞こえないほどの喧騒に、店全体がわあんと満たされていた。楕円形のテ-ブルを一つまるまる占領して、シェイクをなめているミステリ研究会の部員は全部で四人。他の子たちは、広場の回りのさまざまな出店を冷やかしたり、まだ輪が小さい盆踊りの中に入って、踊りはじめたりしている。
「だけど、一人でぽつんとしてても、京子は何だか絵になるからいい」瑞穂が言った。「さっき、あんたが、あそこのUFOキャッチャ-の前に立ってたの見た時、昼間の劇のスイスの革命家が、平和を訴えるデモ行進を、さめた目で見ている場面を思い出しちゃったよ。何てったっけね、あのややこしい名の革命家は?」
「メネストレル?」
「そうそう、最後は飛行機が墜落して黒こげになって死んじゃう人だ」
「何かさあ──今度の劇、あれ、あたし、嫌いってんじゃないけどさあ───」晶がちょっと肩をすくめるようにした。「三ついっしょに、前や後ろでやられるせいかもしんないんだけど、何か恐いね。時代っていうか、世界っていうか、そんなもんがどどどっと回りを流れて行くみたいな気がする。頭ん中、かきまわされたような感じがして、吐き気がするみたいな───ジェットコ-スタ-に乗ったあととか、車に酔ったような感じ」
「あの、ボ-トで下ってくるナレ-タ-のせいやで」瑞穂が言った。「あいつが何か話して、橋の下にすうっと消えていくたびに、あら、自分はどこに今いるんだろうって妙な気分になって来る。三回出るけど、あれ、皆、同じ人間なんだろ?」
「よく聞かれるわね」京子は笑った。「そうよ」
「ボ-トをえっちらおっちら抱えて、また上流まで歩いて行ってんのかいな?」
「それは何だか、『美女と野獣』のラストで野獣がいきなり王子に変わるテクニックと同じで、秘密らしいわよ。演出の峯さん、私たちにも教えてくれないの」
「あの、何か、時間旅行してるみたいな、何を信じたらいいのかわからなくなっちゃうみたいな、めっちゃ、変な感じ───」瑞穂が、じっと京子を見る。「あれを見てるうちに、うちの部の全員、もう、これしかない、これならいける!と思ったんやわ」
「───何が?」京子は、瑞穂たちを見回した。
瑞穂はがたがた椅子を動かして、京子のそばににじりよった。「私らねえ、今度の、秋の学園祭で、部の宣伝もかねて、ささやかながらミステリ-劇を一つ上演しようと計画してたんよ」
「毎年、やっているやつね?」京子はうなずく。「去年も見せてもらったわ。『盗まれた手紙』だったっけ?ポオの。面白かったわよ」
「あれは、身の程を知った企画だったから成功したんやな」瑞穂は唇をとんがらせた。「今年は、ちょっと大胆なことに挑戦しすぎた。チェスタトンの『木曜の男』をやろうってことになって───」
「冗談でしょう、あんな、難しい小説!」京子は、アイスクリ-ムを持った手を宙に浮かせて目を見はった。「美沙が一回、脚本にしかけて投げてしまったことがあるけど」
「それが、うちには今、もと文芸部の岩田レミさんがいてなあ。こいつが、この小説にこだわりを持ってて、どうしても脚本にしてみたいと言うもんで、やらして見たら、そりゃたしかに、見事な脚本を書いた」
「なるほどね」京子はうなずく。「岩田さんならね」
「だけど、これがもう、脚本が立派すぎて、うちの部員の手にゃあまったんさ」瑞穂は肩をゆすった。「一応、役は決めて何回か練習はして見たけど、もう、岩田さんはぶっきれるし、こっちも皆、お互いにもめはじめて、この前なんかとうとう、髪の毛むしりあう大喧嘩になった」
ミステリ研究会のめんめんの個性の強さと気の荒さを、生徒会長だった頃からよく知っている京子は、黙って苦笑しただけだ。瑞穂はイチゴシェイクをすすった。
「とうとう、うちの部の平和のためには、今年は劇の上演は見合わせようってことになったんだが、岩田さんがふくれてしまってよ。期末テストの成績もパアにして、必死で書いた脚本をこのまま闇に葬られたんじゃ死んでも死に切れんと愚痴りまくる。彼女、パワ-があるからなあ、愚痴もパワフルで皆、影響されて、今うちの部はどよ~んと暗い雰囲気なんだわ。そこへ、あの、あんたたちの今度の劇を見て、何人もの部員が言いだしたのが、演劇部にあの脚本、売り飛ばすか、引き渡すかして学園祭に上演してもらえ、そうしたら岩田さんの気もすむだろうし、ミステリ研究会との共同公演ということにしてもらえれば、こっちの宣伝効果にもなるし、もちろん、エキストラでも何でも、協力は惜しまない──」
京子は、ため息をついた。
「無理かね?」瑞穂が心配そうに聞く。
「皆に相談して見ることはできると思うけど、その前に、岩田さんは、それでもいいって言ってるの?彼女、文芸部だったんでしょう?文芸部は知ってのとおり、演劇部との関係はあまりよくなかったのよ」
瑞穂は大きく手を振った。「あの人は『木曜の男』の脚本書いた時から、もう、あの作品に憑かれたようになっとって、あれがきちんと上演されるなら、悪魔とでも手をくみかねんのや。演劇部に引き渡すって言ったら、最初はちょっとむかっとした顔したけどな、すぐ、そう言えば、あの役はあの人がいい、あの役は彼女しかいないって、あてはめはじめて、今はもう、すっかりその気になっとるよ」
「そう───」京子はうなずいた。「一応、学園祭に予定していた劇はあるんだけど」 「何の劇かは知らんけど、あんたらの今の勢いなら、その劇と『木曜の男』の同時上演ぐらい、お茶の子だろうが?」
「そう簡単ではないわ。私たちは受験も近づいているんだし」京子は、少し沈んだ表情になった。「でも、ミステリ研究会がそうやって協力を申し込んできてくれているんだから、部会で話し合ってみないわけには行かないわね」
「頼んますよ」瑞穂は、両手をあわせて見せた。
「ところで、『木曜の男』って、どんな話だったかしら?」京子が聞いた。「一度読んだと思うけど、あまり覚えていないのよ」

橋の上から見下ろすと、運河を流れて行く小さい灯の数々が黒みがかって見える波に反射して、まぶしいほどだった。青地に赤い小さなカニの模様の浴衣を着た田所みどりは、欄干にもたれかかって、黙って暗い運河の上流の方に目をやっていた。
誰かの小さいあたたかい手のひらが突然、背後から目をおおって、押し殺した声がささやいた。
「だ~れだ!?」
「───司」みどりは身動きしないまま、笑ってそう答えた。
がっかりしたような小さい声がして、手が離れる。振り向くと、果して浅見司が赤い野菊の模様の浴衣で、人波を背に笑っていた。
「もう、何でわかっちゃうのかなあ───一人なの?」
「しのぶと来たけど、はぐれちゃったの」みどりは、あたりを見回した。「何せ、この人ごみだもんね。司は?」
「あたしは一人で来たんだけど、お財布忘れてきちゃったの。何にも買えないし、食べられないから、知ってる人誰かいないかなと思って探していたら、みどりが見えて」
みどりは帯の間から小さいがま口を取り出した。「何か買いたいもの、あるの?」
「あそこのお店で、使いやすそうな、ほんとにもう、手のひらサイズの、ちっちゃいほうき売ってたの。それから、お面も買いたいな」
「千円じゃたりないかな」みどりは小さく折った紙幣を二つ、司に渡した。
司はうれしがって、軽くとびはねた。
「ここで待ってて。みどりも、ほうき、いる?」
「お面がほしいわ。うんと恐くて気味の悪そうなの、買って来て」みどりは、まじめな顔で言った。「それかぶったまま、ベッドに入ってて、同室の峯さん、おどかしちゃうから」
司は笑い転げた。
また花火が高く上がって、空にピンクと黄色の大輪の花が、いくつも重なり合って開き始める。
「あ-あ」司が空を見上げて言った。「死んだ女の子がうらやましいな。今日か明日、あたしもころっと死ねたらいいのに。この町で死んで、幽霊になって、いつまでも、あの学校の中をただよってられたら、いいよね-。そしたら受験勉強もしなくっていいし」
みどりは小さく吹き出した。
「どんなんだろう、司の幽霊って。きっと、ひとりでにほうきが動いて、トイレの掃除とかしちゃうんだろね」
「また、そうやって茶化すんだから。みどりなんかにはわかんないよ」司は欄干に腕をのせて、河面の光をのぞきこんだ。「勉強もできるし、お芝居もうまいし、しのぶもいるし、あたしたちより何だかずっと大人っぽいし、前途洋々なんだもん!」
「───そうかあ?」みどりは自分に問いかけるように、ひっそりつぶやいた。
「あたしには何だか、もう、これ以上に、今以上に、幸せな時って来そうにないもん。今が一番、幸福だもん。この前の夜も、そうだった。長生きなんかしたくないよ-。このまま、皆で死んじゃいたいなあ」
物騒なことを言っているのと裏腹に───それが本心なのだとしても───司の横顔は若々しくて、明るくて、声は輝くみずみずしさにあふれていた。悩みも、苦しみも、死そのものも、軽やかな光に彩られているような──。そんな司を見てみどりは、いとおしむように静かに笑った。
「バカなこと言ってないで、早くお面を買っておいでよ」
「うん」司は勢いよく身体を起こして、くりかえした。「すぐ戻るから、ここにいてよね」
そして、赤い下駄を鳴らして、かけ去って行った。
みどりがまた、暗い上流の方に目をやった時、しわがれた、細い優しい声がした。
「ああ、ここにいた。ずっと、さがしていたのよ───」
みどりは、ゆっくり振り向いたが、振り向く前から、もう声の主はわかっていた。
あの老女だった。まるで少女の着るような花模様の薄いワンピ-スをまとって、白髪を顔の回りにふわふわと乱して、しわだらけの顔で、やさしく、みどりを見つめて微笑んでいた。

「すいませ-ん、チョコレ-トシェイク、もう一杯お願いしまあす」ウェイトレスに向かってどなってから、瑞穂は京子の方に向き直った。
「『木曜の男』ってのは、ちょっと風変わりなミステリでさ。この世界を滅ぼして破壊してしまおうっていう、ものすごい悪の組織があって、そのリ-ダ-が『日曜』って名乗る、身体のやたら大きな、恐ろしい男なんだよ。その側近っていうのか、最高幹部のグル-プが、月曜から土曜までの名を名乗る、六人の男───思い出した?」
「少しね」京子がつぶやく。「主人公は詩人よね。たしかサイムと言ったっけ。彼は詩人なんだけど、平凡な人々の平凡な暮らしと幸福を愛していて、それを守るために、『日曜』ひきいる悪の組織と戦っている。たまたま空席となった『木曜』の名を名乗る新しい幹部となって、悪の組織に潜入することに彼は成功する───」
「そのとおり。けっこう、覚えてるじゃないかよ。サイムが加わっている正義の組織のリ-ダ-は、いつも暗いへやの中にいて、誰にも顔を見せようとしない。でも、的確な指令とアドバイスを常に与えてくれていて、サイムをはじめ仲間たち皆の、心の支えになっている」
「原作じゃあ、悪の組織は無政府主義者の集団になってるんです」二年生のミステリ研究会部員柏木江見子が、メロンソ-ダのカップの向こうから口をはさんだ。「だけど、岩田さんの今回の脚本じゃ、そんなのなしにして、ただの悪のグル-プ対正義の味方の対決になってます。その方がわかりやすいですもん」
「ついでに言うと、ラストの宗教的な部分もはしょっちゃいました」もう一人の二年生部員松田理絵子が言う。「幻想的で美しい仮装パ-ティ-は、そのまま残しましたけど、『日曜』の最後のせりふは、なしです。どうせ、私たちには宗教的なことってよくわからないし、それがなくても充分面白い話ですから」
「何といっても、この話の一番の面白さは」瑞穂がウェイトレスの持ってきたチョコレ-トシェイクをうけとりながら言う。「『日曜』をはじめとする、悪の組織の幹部五人のタイプだわさ。大親分の日曜は別格として、木曜のサイムも潜入してる正義の味方だから別として、あとの五人ね。この五人が何てったって、もう、恐い。恐いけれども、めちゃくちゃおかしい」

細い、しわだらけの手を伸ばして、老女はみどりの手をつかんだ。本当に優しく、けれど否応なしに。
「いっしょに来て。急がないと、皆、死んでしまう───」
みどりは、手を振り払えなかった。どこか遠くで花火が上がっている。太鼓の音がひびいている。今、誰かが自分を呼ばなかったろうか?司の声がしなかったか?
「来てちょうだい。お願いだから」
老女は静かに繰り返した。「私の言うことを聞いて下さい。アスラン。私を信じて下さらないと」
「アスラン?」
みどりは目を見張った。「───誰のことなの?」
みどりの手をつかんでいる老女の指の力が、ふっと弱くなった。今にもそれが、離れて行きそうになった時、それを恐れるかのように、みどりは思わず欄干から身体を離し、老女に手をひかれるままに、人ごみの中を歩き出していた。
人波はますますふくれあがって来ている。夏に別れを告げようとする祭りの夜を楽しむかのように、運河の岸も、港の広場も、人であふれかえって、陽気な熱っぽいざわめきが町全体を包んでうずをまいていた。

占い師の女は、黄ばんだノ-トに走り書きしていた家計簿のような収支の数字から、目を上げた。人の気配を感じたのだ。運河の川面の光を背にして、目の前に一人の少女が立っていた。
背は、普通よりやや高い程度だろうが、すんなりつりあいのとれた身体つきと、穏やかで落ち着いた表情のせいで、実際よりも大きく見える。色とりどりの浴衣が行き交う中、昔ながらの紺色と白の浴衣に朱色の帯をきりりと締めて、暖かさの中にもどこか厳しさをたたえた目で、彼女は黙って女を見下ろしていた。
女はせきばらいして、そそくさと帳面を片づける。ひざのあたりをぱたぱたはたいて、さっきかじったホットドッグのパンくずを、くたびれたスカ-トから払い落とした。
「はい───はい、どうも」女は言った。「ごめんなさいね。何の占いかな?」
「占っていただきに来たのではないんです」少女は低い、やわらかな声で答えた。「でも、お時間をとった分の料金は、占いをしていただいた時間と同じ分として、お支払いさせていただきますが、それでよろしいでしょうか?」
「さあ、どういったお話で?」占い師の女は、椅子をすすめながら言った。
椅子に座るほど長くかかる話ではない、といったような表情をちらとしたが、思い直したように少女は座り、真正面から女を見つめた。
「私は、麗泉学院の三年生で演劇部員の南条美沙と申します」低い、静かな声だった。「部員の一人から相談をうけて、まいりました。彼女は、あなたに言われたことで、非常に脅えているのですが。死んだ少女が演劇部にとりついているという、お話です」
「ああ───はい。あの話をした生徒さんの───はあ──あなたは、何?お名前、何でしたっけね?」
「南条と申します。演劇部の先輩です」我慢強い口調で美沙は言った。「あなたと話をしてくれと、彼女から頼まれたのです」
女は小さく、納得したようにうなずいた。「一番信頼できる上級生の方に話しなさいと言ったからね。信頼できて────幽霊の話なんかを馬鹿馬鹿しいと無視してしまわないで、きちんと聞いてくれるような人に───って。あんたがそうだと、あの生徒さん、思ったわけだ」
そんなお世辞にはのらないというように、美沙は軽く目を伏せ、すぐまた上げた。
「彼女に話したいろんなことを、あなた自身は信じていらっしゃるのですか?」
「占い師には、はっきりと信じられるようなことは、あるような、ないようなで」
「彼女は先ほども言ったように、あなたの言葉で脅えています」美沙は微笑していたが目の色は厳しかった。「話を聞いた、他の生徒たちもです。こういう動揺や混乱が起こることを予想していらしたのですか?そういったことの責任を、お取りになるつもりはないようですね」
疲れたように女は、手のひらでゆっくり、顔をなでまわした。
「あの子を恐がらせるつもりはなかったけれど、本当に、見えたんですよ。それをそのまま、言ってしまったからねえ」
「死んだ女の子が見えたんですか?」
「見えたというか、匂いがしたの。若くって死んだ人は、アイスクリ-ムと水仙のまじったような、甘いきれいな香りがする。あの子がひきずってきた空気の流れには、そういう匂いがしたんですよ。それが、どうかすると、動くから───上へ、下へ」女は水平にした手のひらをゆっくり上げ下げして見せた。「だから、思ったんです、高い所から落ちたんじゃないかって」
美沙は、信じられないといったような笑いをかすかに浮かべた。
「『ハムレット』の劇を上演するように、おっしゃったとか。それも、死んだ女の子の希望なのですか?」
「というよりも、あの劇は不吉な劇でね」女はつぶやくように言った。「『マクベス』の劇が縁起が悪いと言われているけど、『ハムレット』の方がほんとはもっと危険なんです。占いの世界じゃけっこう言われてることなんですが。今、あんたたちの学校に入り込みつつある何かを、くいとめることはもうできない。だったら、不吉な劇でうけとめて、通り過ごさせて、背後に抜けさせるのが一番いいんですよ。それをやれるぐらいの力は、あなたたち、まだ充分あるから。でも、時間がたつと、それもどうか───お嬢さん。あなたは私をバカにしていらっしゃるようですが、私はね、これでもあなたたちのことを心配しているんです。そりゃ、私も商売ですから、適当なことを言うこともありますよ。でも、だからってね、いつも、何も見えない、わからないということではないんです。ここでは、長く商売をさせてもらってきたし、あんたたちの学校には、地元の者なら誰でもそうだろうけど、愛着もあるの。私にできることで、役に立つことがあれば、あんたたちを助けたいし、守りたいんですよ」
女は、運河の方に顔をしゃくって見せた。小さい木で水に浮かぶように作った灯籠に灯をともして、水に浮かべる人の群れはさっきよりは少し減ってきていたが、まだ、黙って手をあわせて川辺に立っている、ごましお頭の老人や、子どもを抱き寄せて光を見送っている中年女など、動かないままの人の姿が、そこここにあった。
「あの人たちだって、ああやって、亡くなった人たちと語り合うんです。幻想かもしれないけれど、それを見るために、あの人たちが流す灯籠の光は、あの人たちが幻想で見たのと同じ風景を、この世に作りだしている。私が、心に見たものもそうやって、無理にでも言葉にするしかないのかもねえ。あの子に、話のわかる人を連れておいでと言って、あの子があんたに話したのだから、私もあんたを信じるしかないだろう。だから、バカにされるのを覚悟で話すけれど、私の目にずっと見えていることで、あの子には話さなかったことがある。死んだ女の子の死んだいきさつにはね。性の問題がかかわっていますよ」
「性?恋人がいたとかいうようなこと?」
「そうではなくて、空気がどこか乱れてゆがんで、それに奇妙な色がまじるの。これは異常なもの、病的なものを示している。性的な空想、妄想───それに終わらない、危険な冒険───水と、火───子宮や産道に似た狭い道───人が生まれる前に見た風景のいろいろ───輝く花───腐った扉───そこに入ったが最後、出ることはできない。生まれ出るのを拒否すれば、永遠に迷いつづける地下の迷路───死んだ女の子の身体はそこに、とらえられています──」
美沙の顔から、笑いが消えた。

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カツジ猫