小説「散文家たち」第27章 青空
台風一過の青空である。海はまぶしいほどキラキラと光り、白いヨットが沖の方を二つ三つ走っているのが見えた。したたるようにあざやかな岬の緑色の上にひとはけ、飛行機雲が斜めに大きくかかっている。
「あ、南条さんだ!」
石段の上で声がして、小さいひまわりの花を数本、手に持った一年生の少女が二人、ばたばたかけ下りてきた。美沙の足元で寝そべってブラシをかけてもらっていた犬のブランカが、ちょっと驚いて立ちかける。大きな麦わら帽子に、赤いショ-トパンツ姿の美沙は犬の頭をやさしくたたいて落ち着かせ、笑って少女たちを見上げた。
すぐに安心したらしいブランカが、黒い人なつこい目で少女たちを見上げて、大きなしっぽをぱたぱた石段に打ちつける。その白い長い毛が少ししめっているのを見て、一年生の一人が聞いた。
「ブランカ、洗ってやったんですか?」
「そうなのよ」美沙は手首で、こめかみの汗をぬぐった。「ゆうべの台風の間、どこに隠れていたのか、今朝、食堂に泥だらけで入って来て、おばさんたちが困ってたから。もうすぐ乾くわ。今日はこんなに暑いんだもの」
「すっごい風でしたよねえ!」少女の一人がブランカの耳の後ろをかいてやりながら、身体をすくめて見せた。「花壇のひまわりも皆倒れてしまってました。園芸部の水城さんたちが持って行ってもいいよって言うから、これだけ、もらってきたんですけど」
少しよじれて泥がついている黄色い花びらを、いたわるように美沙は軽く指をふれた。「きれいだわ」
「今夜は『若草物語』やるんですか?」一人が心配そうに聞いた。
「その予定だと思うけど。なぜ?」
「なら、いいんですけど、何か、朝倉さんが熱出して倒れちゃったって聞いたから」
「あたしは美尾さんがカゼひいて、やっぱり熱がすごいって聞いて」
「どっちがほんとかわかんなかったけど、どっちにしてもそれじゃ今夜の公演どうなるのかなって思って。それじゃ、どっちも嘘なんですね?」
「どっちも、ほんとよ」美沙は答えた。「でも、公演は中止じゃないわ。今回はあの二人がいなくても、何とかやれそうだから」
「そうですか。よかったあ!」一人が胸をなでおろした。「あたし、今日、家から弟が来るんです。『若草物語』が好きな子で、すっごく楽しみにしてたから、中止になったらどうしようかと思っちゃって。弟はベスのめっちゃくちゃなファンなんですよ。今夜のベスはアラミスちゃんかな。みどりよね?」
「何か、それって、すごい言い方」美沙は吹き出した。
「だって、何か共通してません?みどりがやってると、特に。あの子、時々、何だかふうっと、この世のものじゃないような、エイリアンみたいな感じしません?皆と同じようなふりしてるけど、ある時ひょいっと『あたし、ほんとは皆と違うの。お迎えが来たわ』とか言って、すうっと行ってしまいそうな。だから、アラミスやってた時、ふた言めには『銃士は仮の姿なんだから、その内、修道院に入るんだ』って言うと、変に、ああ、そうなんだろうなって納得したし、いくら元気そうにしていても、ベスっていつ皆の前から消えるかもしれないって感じがいつもするから、死んじゃったとき、ああ、やっぱりなあって思うし。それともあれ、役づくりなんですかね?それだったら、それはそれで、すごいですよね」
「まあ、どうなのかしら。考えてみたことなかったわ」美沙は首を振った。「みどりはいつも、そうねえ、ぽうっと一人で考え込んでる時が多いから、何かそんな感じがするのかもね。弟さんが彼女のベスを気に入って下さるといいけれど」
「あ、大丈夫と思います。あの子、ベスだったらもう、誰でも好きになるんです。男子校の仮装行列で、ベスやった、ごっつい男の子でも好きになったぐらいだから。あの、お掃除のおばさんのベスだって気に入ったんじゃないでしょうか」
「だけど、美尾さんのフンメルさんも見せたかったよね、弟さんにさ」もう一人の少女が言った。
「うん、それはちょっと惜しいよね。美尾さんて、ほんと、不思議!ほどこしを受ける貧しい女の人で、ぼろぼろの着物着ていても女王みたいにカッコいいでしょ」
「一年生の間では、もう、フンメル・ルックってのが流行ってるんですよ。Tシャツにわざと違う色のつぎをあてたり、破れたスカ-トはいたり、ちぐはぐのボタンつけたりするんです。二組の仙道さんなんか、帰省した時お父さんから、おまえホ-ムレスになったのかって、すごく怒られちゃったって」
「劇としてはまずいんでしょうけど、まあ、しようがないのよね。さつきが、ああやって、やたら目立ってしまうのは」美沙はあきらめたように言った。「許してやって」
一年生の二人は、きゃっきゃっと声を上げて笑った。
美沙はブランカの頭をもう一度なでて、立ち上がった。
「さ、もう行かないと」彼女は言った。「お見舞いかたがた、京子のへやに行って、今夜の打ち合わせをすることになってるの」
「あ、じゃあ───」少女たちは、ちょっと顔を見合わせて、手にしたひまわりを差し出した。「これ、朝倉さんに───お見舞いです───」
「じゃ、一本ずついただくわね」美沙は二人の手の花の束から、小さなひまわりを一つずつ抜くと、ブランカのブラシを拾って、石段を登って行った。
二人の一年生に頭をなでられているブランカが、満足そうにはっはっと舌をたらして息をつきながら、美沙の姿を見送っている。
◇
ひまわりの花を二本、手にして、美沙が階段をかけ上がって行く。浜砂寮の四階の廊下は、船の甲板のように涼しい風が吹き通っていた。窓から見える真っ青な海の上の、みがきあげたように光る空には、白い大きな入道雲がもくもくと上がりはじめている。
四一四号室───京子と遼子のへやは、ドアが大きく開いていた。中から聞き慣れない人の声がする。美沙が歩いてきたのを見て、洗いざらしの黒いシャツを短パンと下着のシャツの上から羽織った遼子が出てきて、「ああ、南条さん」と、ちょっとほっとしたように言った。「よかった───どうぞ」
「一年生からの、お見舞い」京子はひまわりを渡しながら言った。「京子、どう?」
遼子は無言で身体を開き、窓際のベッドの方を美沙に見せた。
白いパイル地のガウンを身体に巻きつけた京子と、熱帯魚がうようよ泳いでいるド派手なパジャマを着たさつきが、向かい合ってベッドに座り、何か熱心に議論していた。京子は枕によりかかって、ふとんを胸にひきよせ、さつきはその足のあたりにあぐらをかいて座っている。
どう見ても、二人の体調は最悪に見えた。京子の白い顔は青ざめて、額には汗が光っている。さつきの頬は逆に赤くなっていて、大きな目が熱でとろんとしているのがわかる。二人とも、ベッドのそばのティッシュボックスからひっぱりだしたティッシュで、ほとんどひっきりなしに鼻をかんでいるため、鼻の頭は赤くなり、ベッドのわきのくずかごはティッシュの山で雪が積もっているようだ。お互いに時々身体を二つに折ってせきこみ、京子は汗ばんでいるのに寒そうに震えていた。長い髪は二人とも、もつれてこぐらかり、重苦しそうに肩をおおっていた。
そういう状態なのにもかかわらず、さつきはひっきりなしに煙草をふかし続けていて、ティッシュの箱の横の灰皿には、吸殻が山になっている。京子も熱い湯気のたつコ-ヒ-を、なかばやけのようにすすっている。二人の間のベッドの上には紙や図面が散乱しており、京子は膝の上にノ-トパソコンを抱え込んで、くしゃみや咳や身震いの間にせっせとキイをたたいていた。
「寝て下さいって、何度頼んだか知れないんです」美沙の後ろで遼子が言う。
美沙は遼子の肩をたたいて、ベッドの方へ歩み寄った。
「さつき、お願いだから」美沙が近づいた時、まるで他人の声としか思えないものすごい鼻声で、京子が言っていた。「そんなに派手に紙をぱらぱらめくらないで。その風が、こたえるのよ。ぞくぞくするわ」
「悪い」さつきが、けんかをしている時の猫のジャコポにそっくりの、がらがら声であやまった。「おお、美沙、ちょうどいいところへ」
「何がなのよ、ほんとにもう」美沙はベッドの横の椅子に腰を下ろして言った。「寝た方がいいんじゃないの?二人とも」
「ゆうべのていたらくを思い出したら自分に腹が立って、寝てなんかいられない」さつきは流しでお茶の準備をしている遼子の方をちらと見ながら、かすれた声でささやいた。「あのまま、あそこで力つきて寝ちまうなんて、あげくのはてに風邪ひくなんて、我ながらまあ!しかも今朝、予備校から模試の成績が届いたのを見たら、前回より四十番も一気に下がってた。この分じゃ志望校変更した方がいいかもしれない。あれやこれやでムカつくと逆に頭がさえてきて───なあ、美沙やん」さつきは紙の束の一つを美沙に差し出しながら、また激しくせきこんだ。「あんたも前に言ってたよね?このポルノ、どっかおかしい───何種類かのパタ-ンのが、混じり合ってるみたいだ、って」
美沙はうなずき、紙の束を手にとった。
「そうなのよ。自分の持っている分には、あたし、マ-クをつけて見たのよね。そうすると、はっきりわかるんだけど、けっこう整理がしやすいのよ。いくつかの種類に分かれるの。まず、何というか、箸にも棒にもかからない、しょうもない、ただのポルノみたいなのがある。OLが空き地でレイプされるとか、宝石店のオ-ナ-の女性がサラ金のとりたて男に、きゅうりで犯されるとか。ちなみにいくら読んでもなぜここで唐突に、きゅうりが出るのかわからなかったけれどね。とにかく、もう明らかに、どこかそのへんのポルノ雑誌から丸写ししたか、つぎはぎしたかって感じのもの」
「うん」さつきは新しいティッシュをとって、また荒々しく鼻をかむ。
「次に、これが微妙なんだけど、それなりに工夫というか、あら面白いというか、独自の世界があるものがあるのよ」美沙は続けた。「巨大な奴隷船の中で、女たちが日夜調教飼育されて、作り替えられるって話とか、凶暴な用務員が学校で、先生をいじめる美少女を襲いまくる話とか、切符を買い忘れて乗車したら、電車の中で乗務員と乗客に集団レイプされる話とか、突飛だけれどそれぞれに雰囲気があるわ。何て言うのかしら、カミュや筒井康隆の描く不条理の世界のようなものに、どこか通じる感じもして」
「そういう分類もあるのね」京子がつぶやき、美沙のコ-ヒ-を持ってきた遼子に「私にも、もう一杯」と注文した。「ブラックで、お願い」
「やめた方がいいんじゃありませんか?」遼子は空になったカップをうけとりながら眉をひそめた。「さっきから、もう四杯めですよ」
「五杯めじゃない?飲んでいないと頭がぼうっとして、考えがまとまらないの」
「だから、熱があるんですよ。寝た方が───」
「さっき、薬を飲んだから大丈夫。ひとつは、それで眠いんだわ」京子は美沙の方を向いた。「続けて」
「あと、数はそんなに多くないんだけど、男がレイプされるとか、性的なものは含まないけど拷問されたり殺されたり、逆に傷ついて回復したり、そういう、被害者っていうか主役が男性になってるパタ-ンのものがあるわね」
「数が多くないって?」さつきが言った。「あたしの持ってる分の中では、そのパタ-ンのやつが一番多かったぞ」
「五人でわけた分のそれぞれに、ばらつきがあるのかもね」
「そうかもしれない」さつきは、ほとんどつぶれかけて出なくなっている声で苦しそうに賛成して、また激しくせきこんだ。
「この、男の人が苦しめられるパタ-ンの話も、けっこうよくできているものが多いのよ」美沙はつづけた。「心理描写が細かい点では一番じゃないかしら。人間関係もきっちり描かれていて、ほとんど文学作品になりかけているものも、いくつかあるわね。男が男を苦しめるパタ-ンが多いけれど、女が男を苦しめているというのも、たまにあるわ」
ドアをノックする音がして、峯竜子が入って来た。
「わああ!ちょっと、この煙はいったい何ですか?今、小石川ナンシ-にでも踏み込まれたりした日にゃ、一巻の終わりですよ」彼女は太い腕をばたばた振り回して煙を払い、下げてきた紙箱を遼子に渡した。「アイスクリ-ムとプリンを買ってきたんです。美尾さん!そんな不健康な煙草なんかやめて、こっちを食べて下さいよ」
「チョコレ-トアイスクリ-ムがあるんなら食べてもいい」さつきは、くしゃみとあくびと咳をたてつづけにして、煙草を消した。
「ありますよ」竜子はへやのすみから椅子をひきずって来て、後ろ向きに馬乗りになって座った。「それにしたって正気の沙汰じゃありませんな。どうみたって四十度近い熱がありそうな顔してからに、何の会談してるんです?」
「ううん、例のポルノにだな、男の人が傷つけられる話が、けっこう多いって話」
「ああ、あたしの預かった分にも、そこそこあったな」竜子は遼子の運んできたアイスクリ-ムを取りながらうなずいた。
「私の持ってる分の中では」京子が言った。「少年や青年が性的にレイプされるとか、殺されるって話も多いけど、病気や怪我で傷ついて治るって話もけっこうあったような気がするわ」
「同じことです」竜子がラムレ-ズンアイスをなめながら、スプ-ンを振って答えた。「滝沢馬琴の小説なんて、性的な場面がまったくない代わり、病気や怪我や治療の場面がやたらと多い。だけどそれって、性的な場面の代わりをしてるんだって、指摘している学者もいるんですよ」
「それは、わかるわ、何となく」京子はあっさり、うなずいた。「でも、私の持っている中には、病気も怪我も出て来なくて、ただ心理的にいためつけるだけのものも、いくつかあった。このへんになると、もうほとんど早川雪江さんの言ったりしたりしていることと区別がつけにくくなりそうね」
「プラトニックポルノってやつですね」竜子が笑った。
「もう一つ、気になったことがあって」京子はつづけた。「結局、私は自分の預かっている分を、それで分類して見たのだけれど───それは、登場人物の『顔』が描かれているかどうかということなの。被害者にしても、加害者にしても、外見がかなり細かく描写されているものと、まったく描かれてないものがあって、その差が何だか極端なのよね。そうやって分類して見ると、美沙がさっき言った、女の人がレイプされるもので、なおかつちょっと面白いパタ-ンのものには、加害者の男の人の顔がほとんど登場しないの。こんなこと言っていいのかしら───下半身だけの生き物みたい。上半身が、見えないの」 「ハ-ドディスクやフロッピ-との照合はして見た?」美沙が聞いた。「あたしがとても気になっているのは、男の人が被害者でも、女の人が被害者でも、ちょっと面白い、文学的に価値があるかもなあって思えるものに限ってね、ほとんどハ-ドディスクにもフロッピ-にも入ってないのよ。あんまりっていうか、絶対考えたくないことなんだけど、あたしたちが見つけて、こわした以外にも、パソコンやフロッピ-があったと思う?上等の作品だけを特別に入れとくみたいな───」
「そんな、ワインのお蔵じゃないんですから」竜子が言った。
「いや、それはあり得る」さつきが言った。「やっぱり、もう一杯コ-ヒ-もらおうかな。眠くて頭がふらふらする」
「だから、それって熱のせいなんですってば」竜子は立とうとした遼子を制して、自分がコ-ヒ-を入れに流しの方に行った。「それで?美尾さん?」
なぜか、さつきは黙って竜子がコ-ヒ-を入れて戻ってくるまで待っていた。
「何です?」もう一度、竜子がうながす。
さつきは皆を見回すと、手品でもするかのような手つきで、目の前のポルノの原稿をつかんで、とんとんと端をそろえて、皆の前に差し出した。
「───わかる?」
「え?」
一同がそれをのぞきこむ。遼子が言った。
「何です?───この、はばが少しだけ狭いのがあるってことですか?」
「そう!」さつきはうなずいた。「B5版のも、A4版のも、同じように五ミリから一センチぐらい、規格より狭くなってるのが多い。しかも、そういうやつをよく見ると、はしっこがまっすぐじゃない。これなんかそうだよね。ほら見て、わかる?紙の端が一センチぐらい、ハサミで切り落としてあるんだよ。で、こういう紙のポルノを、あたしの手持ち分でチェックすると、ハ-ドディスクやフロッピ-に一つも入ってないんだよ。あたしは美沙や京子みたいに、中身じゃチェックしてないんだけど、多分、二人がさっきから言ってる、わりとよくできている質の高いポルノな───それって皆ひょっとして、紙の端が切り落とされているんじゃないか?それじゃ、その切り落とされた部分には、何が書いてあったのか?作者のサイン?手がかりになる記号?どっちにしてもだ、こういう作品の入ったディスクは、今もどこか、あたしたちの知らないところに存在している可能性が大いにある」
「ふうん、あたしらガセネタをつかまされたってわけですか?」竜子がうなった。
「『奇巌城』のボ-トルレ少年がアルセ-ヌ・ルパンから、『エイギュイユ・クリュ-ズ』のにせものを教えられたみたいなもんさ」さつきは言った。「ひょっとしたらね」
◇
ドアの方で、ふわりと明るい色彩が動いた。美沙が気づいて振り向くと、バラ色と白のブラウスの奈々子と、耳のたれた大きな犬の顔がついたオレンジ色のTシャツのみどりが並んで立っていた。
「入んなよ」京子がまたくしゃみを始めたので、遼子が二人に向かって言った。「何だか珍しいカップルだな。二人そろって、お見舞いかい?」
「まあね。そこの階段のとこで会ったのよ」奈々子はびん入りのジュ-スを遼子に渡した。「あたしは、それと、あんたにも、ちょっと用事があったから」
みどりも持ってきたハ-ブの花束を遼子に渡して、奈々子と二人でベッドのそばに来て座った。
「美尾さん、同室のあの子───カコちゃんだっけ、心配してました」彼女は言った。「すごく熱があるはずなのに、美尾さん、ふらふら出て行っちゃったって」
「あの子、今日、誰かのコンサ-トに行くんだってはりきってたから、風邪うつしちゃ悪いと思ってさ」
「あたしならうつってもいいんですか?」遼子が苦笑する。
「あんたは美沙とおんなじで、死神みたいに丈夫なくせに」さつきは言い返したが、すぐまた激しくせきこんでベッドの上につっぷした。「いかん、ほんとに、耳があんまり聞こえなくなった」
「冗談ぬきで、あたしのベッドで寝て下さいと言ってるでしょうが」遼子が言った。
「大丈夫、もう少ししたら自分のへやに帰るから」さつきは言った。「それより、みどり、ちょうどよかった。あのね、聞きたいことがある」
「何でしょう?あたしでわかることでしたら」
「世界広しと言えどもな、あんたでなけりゃ絶対にわからないことさ」さつきは、またくしゃみをした。「この前の夜、写真部の地下室で、あんた、メリルを見たって言ったよね?」
みどりは黙って、こくんとうなずく。
「それって、ほんとにメリルだった?」
何を言っているのだろうというような表情で、みどりはさつきを見返した。「もちろんです!」
「たしかなの?」京子も脇から、念を押した。
「エマじゃありませんでした」
「おいおいもう、そんなこと聞いてんじゃあないだろうが」竜子があきれて首を振る。「そもそも、ド近眼のあんたが、どうしてあの二匹の区別だけ、いつもしっかりつくのかが、あたしゃ不思議でならないんだよね、アラミス!」
「メリルは全身、あたしへの敵意に満ちているんですもの」みどりは言った。「そりゃエマだって、あたしのこと目の仇にはしてますけど、メリルほどじゃないわ。メリルときたら、あたしの姿を見たとたん、鼻はふくらむ、目は光る、歯をむき出して、前足にはぐっと力が入って───」
「わかったよ」竜子は降参した。
「とにかく、そいつは、山羊だったんだね?」さつきが聞く。
「メリルでした」みどりは断言した。
「そうかいそうかい。山羊の顔をした人間だったとか、そんなんじゃないね、絶対?」 「山羊でした。頭の先からひずめの先からしっぽからひげまで、山羊だったわ」
「ふうん、そこまで言われると、それはやっぱり───」さつきは鼻をかみながら、ベッドの上の図面を広げた。「あの写真部の地下の道は、山羊が入って来れそうなどこかにつながっているのかなあ」
「あの山羊たち、ふだん、よく、どこにいるかしら?」京子が言った。
「寮の食堂のそばの海岸ですかね。それと、果樹園」
「しかし、どっちにしたって、写真部室との間には小川が流れているんだけどな」さつきは図面を鉛筆でたたいた。「果樹園か海岸に、あの地下道の出口があるってことは、あの小川の下を道がくぐってるってこと?」
「だって、あの川そのものが、くわせものよ」美沙が言った。「たしか、昔とコ-スがずいぶん変わってるでしょ。もともとは図書館の近くを回っていたはずよ。川底だって浅いはずだし、そりゃ、地下の道が川の下を通ってるかもね」
皆が顔を見合わせていると、さっきから向こうの冷蔵庫の近くで、奈々子と何か小声で話していた遼子が、白とブル-のタオルの包みを両手に一つずつ持って戻ってきて、京子とさつきに差し出した。
「ケ-キについてた保冷剤をとっておいたの、ビニ-ル袋に入れたやつを包んであります。これでも頭にあててませんか。少しは熱が下がりますよ」
「おお、ありがとう」さつきは、うれしそうに受け取って額にあてた。京子も「ありがとう」と言って受け取ったが、「もしどこかにホッカホカカイロか何か残っていたら、もっとうれしいんだけど」と、鼻声で頼んだ。「頭はこれでいいんだけど、身体の方はぞくぞくするのよ」
「さがして見ます」遼子は床にひざをついて、ベッドの下から箱をひっぱり出して中身をかきまわし始めた。「それでですね、朝倉部長」彼女は言った。「今も奈々子と話してたんですが───」
「ん?」京子は熱で、ちょっととろんとした目を向ける。
「さっきからの皆さんの話を聞いてると、もう一度、写真部に───辛島圭子んとこにもぐりこむ必要があるんじゃないかと思うんです───あった」遼子は古いタオルや冬用スリッパの間から見つけたホカホカカイロをつかんで振って、熱くなるかどうかをたしかめた。「さっき、ホウリュウシが言ってたワイン蔵を───特上のポルノを別に保管してあるパソコンか何かがないか、調べるために。───これで、どうですか?熱くなったみたいですよ」
「助かるわ」京子はカイロを受け取って、握りしめた。「え?でも、どうやって、もぐりこむの?」
「それはもちろん、私と奈々子が」遼子は白い歯を見せて笑った。「朝倉さんたちから写真部のやっていることを聞いて、小遣いかせぎにポルノのモデルになりたいと言って」 「出演料の交渉次第じゃ、どんなポ-ズもお好み次第───」奈々子がベッドに近づいてきながら、白い短いスカ-トをくるりと回して一回転して見せた。「そう言ってやったら、あの図体ばかりでかくて脳味噌のないバカ、きっとのってくるわ」
「そうかね?」竜子が半信半疑の声を出す。「あんたらの舌先三寸でひっかかる相手かね、あれは?」
「頭もセンスも顔も悪い、ただの時代錯誤のアホでしょうが」ベッドの柱によりかかりながら、冷たい笑いを遼子は見せた。
「だいたい、あの子、ちゃんと試験もうけないで、ここに入って来てるのよ」勝ち誇ったように涼しい声で、奈々子がさえずるように続ける。「親父はパチンコ産業か何かでぼろもうけして、母親はソ-プランドにつとめてたって噂もあるしさ。とにかく、それで稼いだ金にものを言わせて、どっかの田舎の私立中学から推薦枠でここに入ったのはいいけれど、頭は根っからパアだから、うちの授業について来れなくて、ほんとは三年のはずがまだ二年にいる、とことん、お間抜けなやつじゃない」かわいい笑顔を見せながら、さもさも気持ちよさそうに奈々子は歯切れよく悪口をまくしたてた。「育ちの悪い劣等生で、図体ばっかりでかい、どんくさい、あんな子が、見抜けるもんですか、あたしと遼子のことなんて」
「彼女は写真部を牛耳ってるのよ、それは知ってるんでしょう?」美沙が、注意した。「辛島さんの命令一下、束になって動かれたら、いくらあなたたちでもかなわないわ。つかまって、いいようにされたらどうするの?」
「写真部なんて、もともと、演劇部にも新聞部にも入れなかった、落ちこぼれたちの集まりでしょ?」奈々子は、ひるむ気配もなかった。「面白くもない風景とか静物ばっかり撮っていて、この藻波市の郵便局主催の写真コンク-ルでさえ賞が一つもとれなかったって、皆の物笑いになった話は有名じゃない?それでもって部費もろくにもらえないもんだから、辛島圭子が来る前から、演劇部員のスナップ写真をかくしどりしちゃこそこそ売って、小遣いかせいでたような、みじめったらしい意気地なしの連中だわ。多分、それで辛島圭子に目をつけられたんでしょうけど、彼女にくいこまれたら、今度はまた言われるままに一気に過激になって、お尻丸出し、大股開きの写真を平気で撮影させてんでしょ?抵抗する気概もなきゃ、逃げる知恵もないんだわ。とことん、バカがそろってるのよ。あんなのが何人集まったって、何ができるっていうの?」
「万一、少々アブナイ写真をとられるはめになったって、どうってこたあないですよ」遼子がうそぶいた。「別に減るもんじゃなし。なあ、奈々子?」
「うん!そうそう」奈々子もけろりとして、うなずく。
さつきは大きな吐息をついて、タオルを額にあて直した。
「その相談で来たの、上月さんは?」美沙が微笑をうかべて聞く。
「ああ、いや、ちがいます」遼子は笑った。「そうか、そいつも報告しとかなくちゃいけないんだった」
「そうよ、いつその話になるのかと思っていたわ」奈々子が唇をとがらせる。
「例の、死んだ女の子の事件ですが───当時の担当刑事がわかりました」
一同、ぽかんと遼子を見つめる。京子がまた、たてつづけに、くしゃみをした。
「───刑事ですって?何のことなの?」
遼子は、ベッドの脇の床の上にあぐらをかいて座り込み、長いひきしまった足を手で抱えた。
「あの事件、当時やっぱり、事故か自殺か、それとも他殺か、ちょっと問題になって、型通りの簡単なものですが、捜査が行われたようなんです」彼女はしゃべった。「結局、遺書はなかったし、犯人らしい人物も現場で目撃されなかったんで、事故ってことで片づいたらしいんですけどね。それを担当した刑事は、もう死んでるんですが、奥さんは健在で、岬の向こうの老人ホ-ムに入ってるって───」
「ちょっと、でも、そんなこと、いつどうやって調べたの?」美沙が、あっけにとられて聞いた。
遼子は唇のはしを軽くゆがめて笑い、豹が狙いをつけるような目の色をしたが、黙っていた。
「『オリエント急行』に、このごろよく来てる、冴えない女性の警察署長がいるの」奈々子が代わって説明した。「出っ歯で出目で、みっともなくて、いつも何だかしけた顔でカウンタ-に座って、ママにぼそぼそ職場のぐちとかこぼしちゃって、お店の雰囲気が悪くなるったらないのよね。まるで、女のおじんみたい。とことん、冴えないやつなんだけど、そいつを、あたしと遼子でおだてて、校史編纂の作業の関係で三十年前の事件のことを調べてるとか出まかせ言って、担当刑事の名、調べさせちゃったの」
「───この町の警察署長が、そんなにアホなのかよ?」竜子が声をあげた。「枕を高くして眠れないよな、こりゃ」
「ここの市長の、付け焼き刃のフェミニズムで抜擢されて、この町に来たのはいいけどさ、もともと、そんなに実力ないし、女としての魅力はゼロだし、部下からもバカにされて、登校拒否じゃないけれど、職場拒否になりかけてる、なさけな~いやつなのよ」奈々子は言った。「もう、鬱病かノイロ-ゼ寸前てとこね。カワイイ女の子二人の役に立てると思ったら、生き甲斐感じちゃったんじゃないのォ?ホイホイ教えてくれたわよ。幸せな気分にしてやったんだから、人助けよね、ねえ、遼子?」
「おやじだますより簡単だった」遼子は肩をすくめた。「ランチも計三回、おごらせたしな」
「コ-ヒ-とアイスクリ-ムつきで」と奈々子。
何となく皆、黙りこくってしまった。みどりが静かに立ち上がる。
「すみません。あたし、ちょっと、用があるので、これで───」
「あたしも帰るわ。今の内に食事しとかないと」奈々子も勢いよく立ち上がった。「遼子、あんたも行くでしょ?」
「そうだね。じゃあ、朝倉さん───」遼子は立ち上がり、京子の方にかがみこんで、白い歯を見せてにっこり笑った。「いいでしょう?いいですよね?辛島圭子のところに、奈々子と二人で潜入しても?」
京子は目をそらし、またティッシュを一枚とって鼻をかんだが、うなずいた。「あまり気はすすまないけど、そうしてくれるなら助かるわ」
「はっは、まかしといて下さいな」遼子は軽く京子の肩に手をのせると、身体を起こした。「あ、これ、例の事件を担当した刑事の名と、奥さんが今入ってる老人ホ-ムのアドレス。どなたか行くなら行って下さい。志願者なければ、あたしが行きます!」
四つに折った白い紙を指ではじいて、さつきと京子の間に飛ばすと、遼子は奈々子とみどりの後を追って、早足に部屋を出て行った。
「───いいんですか?」顔をしかめて見送っていた竜子が、京子の方に向き直った。「あの二人、辛島圭子んとこにもぐりこませたりして?」
京子は黙って、ベッドの上の紙の束を指でぱらぱらめくっていた。
「まったくだよ」さつきが遼子の投げて行った紙片を拾って開きながら、気がかりそうに京子を見た。「あんた、京子、まさかと思うけど、熱で、やけになったんじゃあるまいな?」
「でもないけれど───」ものうい声で京子はつぶやき、それから小声だがはっきりと言った。「あの二人、いっぺん思い知るといいんだわ」
京子にしてはあるまじき、これは言葉と言ってよかった。しかし、とがめる者もショックを受けた者もいなかった。美沙は吹き出しただけだったし、竜子は無言でうなずいて、京子の片手を自分の両手でしっかりつかんで握手し、さつきは京子の肩をどやしつけて、つぶれかけたかすれ声で「よく言った!」と賞賛したのである。
◇
夕暮れの赤みがかった光の筋が、木立の間から果樹園に射し込んでいた。京子のへやを出た後で、明日の朝のス-プに入れるハ-ブの葉でもとっておこうと思った美沙は、ブル-ベリ-の茂みのそばを歩いていて、ふと足をとめた。
少し向こうの開けた空き地に、もう今はほとんど使われていない小さい野外劇場の舞台がある。コンクリ-トの屋根には蔦がからみ、舞台の四方の客席の手すりがわりになっている、天使や馬の彫刻も、ところどころが欠けていた。舞台から客席に下りるはばの広い石の階段にジ-ンズに白いシャツの片山しのぶが座って、ちぎった細長い緑の草をもてあそんでいる。少し離れた石の手すりの、馬の首の彫刻に頭をもたせるようにして、さっきと同じオレンジ色のシャツを着た田所みどりが立っていた。
「あたしは、どうなったっていいけど───」みどりが言っていた。
「お姉さまはいつだって、そうだから」しのぶは疲れた、ちょっといらだっているような声を出した。
「あなたのご両親───」
「だから、そういう言い方しないでほしい」
「しのぶさん。まだ、引き返せるから、今、ちゃんと考えようよ」
しのぶは黙って、うつむいたまま、首を振った。
夕日を映して、しのぶの白いシャツはみどりのと同じオレンジ色に見える。彼女はみどりを見なかったし、みどりもしのぶを見ていない。見なくても、互いの表情はよく知っているとでもいうかのようだった。
「皆を傷つけるだけで、何にもならないかもしれないんだよ」みどりがつぶやいた。
「もう皆、傷ついてるんだよ」しのぶが、ひっそり言い返す。
「自分がまちがってるかもしれないって、いつも思うの」みどりの指が、馬のたてがみを握りしめていた。「そう思ったことってない?」
しのぶが目を上げ、みどりを見た。落ちついた強い目の色だった。
「お姉さまは、これまでに一度だって、まちがったことなんかなかったろ?自分でも、そのことは知っているくせに」
「今度だけは、どうだろう?」みどりは小さく、吐息をついた。「せめて、あなたのこと、こんなに愛してなければもっと気が楽なんだろうけど、しのぶさん」
「私は、お姉さまの足手まといってわけ?」
「ある意味じゃ───ううん、全面的にそう」
二人は笑った。しのぶが立ち上がり、みどりの手をつかんで何か言い、二人はそのまま小声で何か話しながら、小川の方へと去って行った。
茂みのかげで、息をひそめるようにして美沙はそれを見送っていた。
と、そのお尻のあたりを後ろから、何か、こつんとこづいた者がある。美沙は飛び上がって振り向いた。
「メリル!悪い子ね。おまえ、どこから出て来たの?」
彼女は振り向いてかがみこみ、メリルの固い鼻面をなでた。
「だけどまあ、お利口さんよね。もっと早く出て来ていたら、おまえ、それこそ徹底的に、あのかわいらしい恋人たちの邪魔をしていたところだったかも」
美沙はふと、手をとめた。
「おまえ───」自分がさっき、何気なく言ったことばを、美沙はゆっくりもう一度繰り返した。「どこから出て来たの?」
メリルは答えず、首を振ってとっとと逃げ出し、小道の間をはねて行った。
美沙は、回りを見回した。
木陰の、黒ずんで苔むした水盤と銅像。草の中に半ば埋もれている、崩れかけた大きな日時計。
美沙は、その日時計の回りを回った。
針の先が指している一番高くなっている所の側面の壁に、深い亀裂が走っていた。垂れ下がった蔦で半ばおおわれているが、山羊ぐらいなら身体を押し込められそうな幅に、石が崩れて、ずれている。
身体をかがめて、一方の肩と頭を、そこに入れて見ようとしていると、誰かが細いかすかな声で美沙の名前を呼んだ気がした。
はじかれたように美沙は身体を起こして、耳をすませながらあたりを見回す。果樹園には既に夕闇がしのびよりはじめていた。木々の間は薄暗い。だが、それっきり、声はしなかった。
美沙は首をすくめて、ひとり言を言った。
「死んだ女の子───関喜志子さんだっけ?あたしには霊感なんかないんだから、聞いてほしいのだったら、もっとはっきり大きな声で呼ばなきゃだめよ」
「───南条さん!」
今度こそ、ぎょっとして美沙は飛び上がった。
「び、びっくりさせて、ごめんなさい───」おずおずした声が聞こえた。
あたりを見回すと、さっき美沙が立っていたブル-ベリ-の茂みの陰に、立花朝子が立っていて、固くにぎりしめたこぶしを口にあてながら、何やら必死なまなざしで、じっとこちらを見つめていた。