小説「散文家たち」第22章 銃声
息をきらして峯竜子は、川っぷちの草の上を、重戦車のようなものすごい迫力で走っていた。
「な、何て───」彼女は走りながら、とぎれとぎれに言った。「足の速いやつ!」
彼女が言っているのは、かなり先を走って行く日村通子のことだった。空が曇って闇に近い中では見えにくいが、つきっぱなしの街灯がときどきぽつんと立っていて、それが照らし出す通子の黒いドレスの後影は楽々と、鹿か何かのように竜子の前方をかけつづけていた。
竜子の後ろからは、さつきと京子が走ってくる。二人は竜子に追いついてない。ということは竜子が遅いわけではないのだ。しかも、通子は───
「あいつ、たしか、ハイヒ-ルはいてなかったか?」竜子はうなった。「化物め!」
橋を渡って、葡萄の門を抜ける。果樹園のはしをかすめて、林の中をかけぬけた。美術部室の窓からは、まだあかあかと灯が見えて周囲に光が流れ出していたが、それと対照的に、少し向こうに建っている大きく四角い、コンクリ-トの塹壕のような写真部室の建物は、まっ暗で、黒々と木々の間にうずくまっていた。
その入り口のとびらの前に竜子がかけつけた時、日村通子はもう、ドアのわきの壁にヤモリのようにぺたと背をつけ、耳をすませて中の気配をうかがっていた。息さえ、あまりきらしていない。黒目の多い謎めいた目が、薄闇の中で静かに光っている。
ドアの反対側の壁に竜子もはりつく。建物の中はしんとして、人の気配はまるでない。 京子とさつきが追いついてきた。
「本当に、ここですか?」竜子がささやく。「物音ひとつ、しませんが」
さつきは、ふんと鼻を鳴らした。「このへんに、昔は大講堂があってね。広い地下室がこの下にある。その一部分の、以前はステ-ジの奈落か何かだった小部屋が、たまたま写真部室の地下にあって、写真部はそこを改造して、撮影や暗室に使ってる。灯を消せば昼でもまっ暗、物音をたてても外には全然聞こえない。今もどうせ、そこにいるに決まっているよ───どうする?京子?」
京子は冷たく小さく笑うと、ドアをノックした───最初は普通に、それから大きく、最後はこぶしで力いっぱい、ドアが破れんばかりにたたきつづけた。
かなり長く、それが続いてから、窓ガラスがぽうっと明るくなった。中で誰かが灯をつけたのだ。ごそごそと音がして、ドアが細めに開かれた。
「───どなたですか?」眠そうにものうい、そのくせどこか、おびえているような声がする。
「朝倉京子です、演劇部長の」静かな声で京子が言った。「ちょっと、おたずねしたいことがあるの。ここを開いて下さいません?」
「開けなかったら、蹴破るから、どっちみち同じことだわよう!」さつきが陽気な楽しそうな声を、ドアのすき間から吹き込んだ。
またしばらくして、ドアが開いた。青ざめて、髪をくしゃくしゃにした少女が二人立っている。どちらも赤いタイツを着ていた。
「入ってもよろしい?」京子が静かに聞く。
圧倒されきって、二人が黙ってこくんとうなずく。四人が次々へやに入ると、赤いタイツの二人の少女の表情はますますこわばり、ほとんど震え出さんばかりになった。
「一年生の永野千加子さんと、高山幾久さんね」京子は二人をじっと見て言った。「あなた方、お二人だけ?それとも下のへやに、どなたかいらっしゃるのかしら?」
「あ~ら、いるに決まってるわよねえ」さつきが首の後ろで手を組み合わせ、小さく口笛を吹いてあたりを見回しながら、のんびりとした口調で言った。「こんな夜中に一年生を二人だけ部室におっぽり出して、上級生が皆どっかに行っちゃうなんて、そんなバカなこと、あるはずないけど、ひょっとして、あるなんて言ってみるつもり?」
「第一、そちらのテ-ブルの上には、まだ洗ってもいないカップが、七つもありましてよ」日村通子が優雅に笑った。
竜子は何も言わないで、金色のヨットがあちこちに刺繍してある紺と白の派手なしましま模様のシャツの半袖を、肩までまくりあげはじめている。
二人の少女───千加子と幾久は、とびすさった。
「下───下に皆、います」
「私が、あなたたちなら」京子は静かに微笑した。「今日はもう、寮に帰って寝るけれど。いっしょに下のへやに行く?」
どちらからともなく、二人は激しく首をふる。そのまま、ぺこんと一礼すると、無言でドアを押し開けて、外に走り出して行った。
京子は黙って、へやの奥に進み、かかっていた赤地に黒いリンゴの模様が一面についているカ-テンを押し開けた。下へ通ずる階段が、狭く急傾斜で見えている。京子はさっさとそれを下り、さつきたちも続いた。
下りきったところにまた、ドアがある。スチ-ル製で、ずっしりと重い。今度はノックをしないで、京子はそれを押し開けた。
◇
まぶしい光が四人の目を射た。そんなに大きなへやではない。片方の壁際に机が一つ、反対側の壁にソファ-が一つ。どちらもけっこう新しくて、上等だ。奥の壁に大きめの本棚が一つと、ガラス戸棚が二つ並んでいる。本棚はほとんど空っぽだ。戸棚の中にはカメラがいくつも並べて置かれている。
写真部員の少女たちは皆で二十人近くいた。半数近くが赤いタイツで、その他は服装はばらばらだ。寝ているところをひっぱり出されたのか、パジャマ姿に近い者も数人いる。皆、見るからに不安そうな、落ち着きのない表情で、へやのあちこちに固まっていた。今だけ不安そうというわけではない。彼女たちの顔色は悪く、目もどこか病的でうつろだった。夏というのに、手首までの長いシャツを着ている者や、襟からのぞく首すじに、赤い傷痕が見える者もいる。
投げやりな無気力さが、腐敗臭のように、へやの中にただよっていた。だが、それはまた、狂気の臭いでもあった。ひとつまちがえば凶暴さに転じかねない、自暴自棄の荒々しさが、どの少女の目の中にもあった。京子たち四人を見つめる彼女たちの目には、畏怖と同時に反感があり、羨望と同時に敵意があった。自分たちに手の届かないもの、自分たちが失ったものを目の前にして、それにひきつけられ、奪い取りたいと願うような目だ。
竜子とさつきが、不愉快そうに眉をひそめ、かすかにひるんだ表情になる。おびえているのではないが、毒気のある沼に踏み込むのを本能的にいやがる森の獣のように、二人とも、この雰囲気をいやがっていた。そんな二人とは対照的に、入ってきたドアに背をつけるようにして立ち止まっている通子の顔は、どこか面白がっているように平静だ。
そして、京子もまるで動じた様子はない。ソファ-のまん中にトカゲを抱いて座っている辛島圭子には目もくれず、奥の戸棚の前で他の少女たちとひとかたまりになっていた、写真部長の谷口奈美を、まっすぐ見つめて呼びかけた。
「谷口部長。しばらくね」
「あ、朝倉さん───」
長い髪を一部分だけ、まるで似合わない黄緑色に染めた谷口奈美は、死にそうな声であえいだ。
「うちの部員が四人、今夜こちらにお邪魔しているわね。連れて帰らせていただくわ。どこにいるの?」
「おたくの、うすぎたねえ部員なんか、誰も来てねえってんだよ、朝倉!」
ソファ-の上から辛島圭子が、吠えるような声でどなって、写真部員たちが全員びくっと震え上がった。だが、さつきや竜子はもちろん、ドアの前の日村通子も、わずかにそちらに目をやっただけで、顔色ひとつ変えてない。もちろん、京子も平然としていた。
「谷口さん」彼女は言った。「そちらにいらっしゃる辛島さんは、いったい、こちらの部の何?」
「な、何───って───そんな───」
「部員ではないでしょう?私が生徒会長だった頃の名簿には、この人の名はたしかなかったわ。いつ、入部なさったの?届は出していらっしゃるの?」
「朝倉───」
圭子がトカゲを背後にいた金髪の少女に渡して、ソファ-からゆらりと立ち上がる。谷口奈美はもう、棒立ちのまま、目に見えるほど震えていた。
「せ、正式な部員ではないの、生徒会長───じゃなかった、朝倉さん───ただ、あの、いろいろと、この部にアドバイスを───協力とかも、していただいて───」
「そういう活動報告は、きちんと出しておかれた方がよろしいわよ」京子の声は氷のようだった。「それはともかく、部長のあなたに警告するわ。今から十四分後に、私たち四人が、ここに来ている一年生の部員四人を連れて、寮に戻らなかったなら、あなた方のこれまでにしたことすべてが、生徒会と学校に、正式に通知されるわ。写真部は廃部、あなたは退学、辛島さんは警察に書類送検、他の部員の皆さんも、それぞれに見合った処分をうけることになるでしょう」
「わ、わ、私、私には、朝倉さん、ここでは何の権限もないの」奈美の声は哀れっぽく震えて、聞き取りにくいほどだった。「部長をやめる権限もないのよ───」
「黙れ!このカス!バカ女!」辛島圭子がいきなり奈美に近づいて、力いっぱい頬をたたいた。悲鳴をあげて奈美はどっと、そのまま戸棚の前に倒れ込む。
大股に、圭子は京子の前に歩み寄ってきた。
「朝倉。おまえとはいずれ、けりをつけなきゃって、ずうっと思ってたんだよ。いい時にそっちから、のこのこ舞い込んできてくれるじゃねえか」地の底から響くような、低い笑いが圭子ののどからもれた。「十四分、まだあるんだな?教えてくれて、ありがとよ。学校に報告するだと?それが何だよ?まだるこしいこと言いやがって。廃部だって?上等じゃねえか。何ともねえよ、そんなのは。十四分?それだけありゃあ充分さ。おまえの手足をへし折って、そのとりすました顔の鼻を、針金入れて整形するのも無理なぐらいに粉々にしてやるのにはな。書類送検?恐くも何ともねえんだよ、そういうのは。おまえと、そこの三人を、ふた目と見られねえような姿にしたって、証拠がなきゃ、すぐ出られるんだよ。おまえたち四人が何言ったって、この谷口や他の皆が、あたしは何もしなかったって反対証言すりゃそれまでよ。そうしなかったらどうなるか、こいつら皆、ようくわかってるからな。あたしが戻ってきた時に、どんな目にあわされるか。外にいる、あたしの仲間に何されるか、皆、ちゃあんとわかってるんだよ。おまえより、あたしにつくのが得だってな。おまえは、あたしに絶対に勝てないってな」
「勝つですって?」澄んだ声でせせら笑うということがもし可能なら、京子がその時たてた笑い声は、まさにそれだった。「あなたみたいな人間になって、何かに、誰かに勝ったりしたって、生きている価値がそもそもないわ。もしも、何かのまちがいで、あなたのような人間に私がなってしまったとしたら、そんな汚らわしい手も足も、自分で切って投げ捨てる。鼻も目も自分でつぶすわよ。あなたのような目でものを見たくはないし、あなたのように、この世の中の汚いものしか吸い込まない鼻なんか、持っていたって不愉快なだけだわ」
ざわっと、へや中の空気が動いた。写真部員たちの中に目に見えないゆらぎが走った。怒りか、恐怖か、それとも───それがまだ、かたちにならない内に、圭子がのどの奥からほとばしるような不気味なうなり声をあげて、京子の胸元をつかもうとした。
「───お待ちになって、辛島さん」
日村通子がいつ歩み出てきていたのか、誰も気づいた者はなかった。それほど目だたず一瞬の内に、ドアの前から二人のそばまで進んだ、黒いドレスのほっそりと背の高い少女は、するりと京子と入れ代わって圭子の前にすべりこんだ。
「お話は、もう充分にうかがいましたわ。面白うございましたけれども、残念なことに時間がもうあまりございませんの。そろそろ教えていただけませんこと?わたくしどもの主人は皆、どこにおりまして?」
彼女は片手をあげていた。その手が握って、圭子の鼻先につきつけているのは、銀色に光る、どう見ても本物としか見えない、大型の拳銃だった。
◇
「───これが、ごらんになれまして?」
いつにもまして優雅な口調で通子は言い、なまめかしいとも言いたいしぐさで細く長い首をかしげて、にっこり笑った。
「『プラト-ン』の時に使わせていただいていたものですの、これ。あんまりきれいで持ちやすかったものですから、ついそのまま拝借してしまいまして───。わたくしの兄がたまたま、ガンマニアな上に、わたくしの言うことでしたら何でも聞いてくれますものですから、内緒で頼んで改造してもらって、今はこれ、本物と同じとまでは行きませんでも、けっこう威力がありますのよ───ああら、殺傷能力と言った方がよろしいのでしたっけ?」
さすがの圭子が、何も言わない。つきつけられた拳銃もさることながら、すぐ目の前でにこやかに微笑している通子の白い顔の中に、彼女はまぎれもなく、京子やさつきや竜子とはちがう───むしろ自分自身に近い、何か陽気でとりとめのない狂気に近いものを見てとったらしかった。この瞬間、確実に圭子は、京子より日村通子を恐れたのにちがいない。彼女の目が無意識の内に京子を探し、そしてとらえた───通子の後ろで、圭子と同様、思いがけない展開に呆然として、息を呑んで立ち尽くしている京子の顔を。
「───朝倉!」圭子の声は凶暴であると同時に、まちがいない恐怖がこもっていた。「こいつにこんなこと、させとくのかい、おまえ、暴力には反対なんだろうが!?」
普通だったら、さつきあたりはここで吹き出すところだろうが、さすがの彼女も、竜子ももちろん、度肝を抜かれてぽかんと口を開けたまま、目の前の情景を見つめつづけるだけだった。それでもようやく、圭子の声で少しだけ我に返った二人は、写真部員たちの動きに目を配りつつ、京子と通子をかばって立つ位置に移動した。それでもまだ、何が起こったのか信じられないように、ちらちら振り向いては目の端で、通子と拳銃を確認していたが。
京子は口を開いたが、その声は、数か月前、小石川ナンシ-の前で明らかな嘘をついた時の声とどこか似て、かすかに硬かったものの、はるかに力がこもって平然としていた。 「彼女の言ったことが聞こえたでしょう?言う通りにするのよ、辛島さん!」
「朝倉───」
唖然と口を開いた圭子の前で、通子がまた涼しい笑い声をたてた。
「それで、ええと、何の話でしたかしら?そうそう、鼻のことを何かおっしゃっていらしたのね。辛島さん?この銃は、これだけ近くから撃てば、もう確実に、あなたの鼻はなくしてしまえますことよ。ひょっとして、殺してしまうことにもなるかもしれませんけれど、まあ、それは、そうなったらまた、そのときのことで───ねえ──わたくし、お待ちしていますのよ。何を迷っていらっしゃるのかしら?この拳銃の性能をお疑い?それとも、わたくしの腕をお疑い?ほほほ、休みに家に帰りました時に、裏の山で兄にみっちり手ほどきはうけてまいりましたのよ。筋がよいと、ほめられましたわ。───ごらんにいれましょうかしら?」
目にもとまらぬ速さで一瞬通子の手が動いた。すさまじい音がして、壁際のガラス戸棚のガラスが一枚、粉々に割れ、中のカメラがふっとんだ。写真部員たちが声を限りに悲鳴をあげる。思わず振り向いてそちらを見た圭子が、顔を元に戻した時には、通子は何ごともなかったように、再びぴたりと銃口を圭子の顔につきつけていた。
「弾倉の回転が手動なのが、ちょっと面倒ですけれど、なれればそれはそれで味わいがあって」左手を銃身から離しながら、彼女は優雅にまた笑った。「もう、ためし撃ちはいたしませんわ。あの四人、どこにいますの?」
通子の目と口調とに、何か危険なものがこもった。いらだちでもない、あせりでもない───相手を傷つけることができると予感した喜びというか、酔いに似たもの───辛島圭子が屈服した。
「───開けな」彼女は写真部員たちに命じた。「奥に行く戸を」
二度繰り返す必要はなかった。部員の数人が、飛びつくように、空っぽの本棚に手をかけ、こちらに引き出すと、その向こうに隠されていたドアが見えた。それを押し開けると畳一枚ほどの狭い空間、その向こうにまた、ドアがある。
竜子が飛び出そうとするのを、さつきが制した。
「谷口さん。ドアを開けて、先に入ってちょうだい」彼女は言った。「他の人も、その後について入って。おかしな真似をしたらどうなるか、わかっているわね。写真部を残しておきたかったら、早くして。あと五分しかないんだから!」
◇
谷口奈美がとび出して行ってドアを手前に開く。写真部員たちがぞろぞろと、その後からすべりこむ。辛島圭子の後から銃を頭につきつけたままの通子がそれに続き、最後に、今までいたへやの中に誰も残っていないかどうか確認した竜子たち三人が、奥のへやの入り口をくぐった。
床の上に座ったまま、びっくりしたように目を見はってこちらを見ている司たちの姿が目に入った時、竜子もさつきも、おさえようとしておさえられない笑顔になった。最初に入ってきたのが写真部員たちだったため、緊張した表情になって、こちらに目をこらしていた司たちの顔も、みるみる明るくくつろいで、次々にはじけるような笑いにほころぶ。 「峯さ-ん!」ころがるように飛び出してきた朝子が、まっすぐ竜子にとびついて、ひしとその首にかじりついた。「来てくれるって思ってた!絶対、来ると思ってたもん!」 「はいな、遅くなってすまんこってす、ご主人さま」竜子は朝子の耳のあたりを、荒っぽい手つきでなでながら、陽気な、ふざけた口調で言った。「お疲れのところ悪いけど、寮委員会室までひとっ走りしておくれでないか。千代さんと美沙がいるから、こんばんはってあいさつして、お茶をもらって、シャワ-浴びて寝なさい。話は明日ゆっくり聞くから」
朝子は帽子をかぶり直しながら、うなずき、聞き返した。「こんばんはって言えばいいの?何も言わなくてもいい?」
「うん。だけど急ぎなさい。あと、三分で着くようにね」
「ええっ!?」朝子は目を白黒させたが、そのまま全速力でかけ出して行った。
「───田所さん。あなたもいっしょに行ってあげて」近寄ってきたものの、通子の手の拳銃を見て、それをつきつけられている辛島圭子に目をやりながら、何を言っていいかわからない、とまどった顔をしているみどりに向かって、通子が優しく笑いかけた。「立花さん一人だと何となく、また何かにさらわれそうな気がするもの」
「はい。あの───あのでも」みどりはあたりを見回した。「ここはもう、いいんですか───あの、あたし───何かすることないですか?」
「そうね───あら、そう言えば、ひとつあってよ」
「はい?」
「キスして下さる?感謝のしるしに」
みどりは一瞬びっくりしたように目を見はったが、すぐ涼やかな笑い声をたてて、拳銃を圭子につきつけたまま、こちらに軽く頬をさし出している通子に近づき、邪魔にならないよう気をつけながら、帽子を押さえて背のびして、その白いなめらかな頬に唇を押し当て、そのまま身をひるがえして朝子の後を追った。
その間に京子は、司に抱きかかえられているしのぶに近づき、ようやく目を開いて起き上がろうとしている、その青白い顔を見ると、黙って振り向き、見られた者が一生忘れられなくなりそうな、けわしいまなざしで谷口奈美をじっと見た。
「彼女、一人で倒れたの」震え上がった奈美が叫んだ。「あたしたち誰も、指一本ふれていないわ───信じて!司に───本人に聞いてよ!」
「───ほんとです、朝倉さん」かすれた声で、しのぶが低く言うのが聞こえた。「何もされてません───大丈夫です」
京子の目の鋭い光は弱まらなかった。しのぶを助け起こしながら、彼女は冷たい口調で奈美に向かって言った。
「幸運だったわね───しのぶがじゃないわ。あなた方がよ」
写真部員たちは無言のままだ。京子の怒りの激しさに圧倒されていただけではなく、あるいは、それは、そのような怒りが本当にあることを見せつけられた驚き───部員のためにそれだけ怒る部長が、下級生のためにそれだけ怒る上級生が、他人のためにそれだけ怒る人間がいるのだということを、目の前にはっきりと見た驚きのためだったかもしれない。深い、暗い水のように、彼女たちは固まりあい、黙りこくっていた。
「ね~え、司!」さつきの陽気な声が、その沈黙を破って響いて、はっと司がはねおきる。
「はいっ、美尾さんっ!」
「お仕事、頼んでいいかな-」
さつきの声は、これまた奇妙に明るい。獲物のシマウマの前で舌なめずりするライオンが、もし出すとしたら、こんな声だろう。彼女も、このへやの不気味な情景と、さっきから見た写真部員たちの状況とに、明らかに怒っているのにちがいなかったが、そういうときに彼女はしばしば、変に朗らかになることがあるのだった。
「───何ですか?」そんなさつきをよく知っている司は、今から、後のベッドの上に谷口奈美か辛島圭子を縛りつけて一寸刻みにしろと言われるのではないかと心配しているような、聞くからに不安そうな声を出した。
「そこのベッドのわきにある机の上の箱と、引き出しの中、見てくれる?」
司は飛んで行って、手早く調べた。
「メスや注射器───そんなんだけです」
「ふ~ん、じゃあ、そっちのパソコンの載ってる机の方かなあ?そっちの引き出しとかさあ、ちょっと調べて見てよォ」
ざわっと写真部員たちがどよめいた。信じられない、という表情で、圭子が鋭く、さつきを見る。さつきは知らん顔をしていた。
「あ──!」パソコンのある机の引き出しを開けた司が、立ちすくむ。
「何かある?」
「あの、お金───すごく、たくさん───」
「あんたのポケットに、つめこめるだけ、つめこんで。足りなきゃ、帽子にも入れなさい」
「で、でも美尾さん───すごく、いっぱい───」
「聞いたわよォ。貯金通帳とか何かも、ひょっとあったら、取りなさいよねえ。印鑑も忘れず、見つけるのよォ」
「い、いいんですか、そんな───それじゃまるで、どろぼう───」
「人聞きの悪いこと言うんじゃないの、司。あたしも、京子も、美沙だって、そこにはりめぐらしてある写真のモデル料なんか、まだいただいてないんだから。第一ねえ、そんな汚れたお金は、あたしたちが使い果たして、やっと清められるってなもんよ───急ぎなさい!お金以外にも何かあったら、それも皆入れて、引き出しを全部すっからかんにするのよ!」
司は、おっかなびっくりで、引き出しの中から一万円札の束をいくつもつかんでポケットの中に押し込みはじめた。初めはびくびくしていたが、もちまえの片づけ好きと、お掃除上手の本能が働きはじめて、たちまち、その手の動きが速くなる。ポケットと帽子がいっぱいになると、自分たちが連れて来られた時、頭からかぶせられた布の袋が、そのへんに落ちているのを目ざとく見つけて拾って来て、その中にどんどん札束を放り込み、引き出しの一つが、次いでもう一つが、あっという間に空になった。
いたたまれなくなったように、辛島圭子が足踏みし、京子に向かって、うわずった声でどなった。
「───朝倉!てめえ、こんなこと、自分の部員にやらすのか!?クリ-ンな正義派が聞いてあきれるよ。やめさせなっ!すぐ、やめさせろってんだよっ!」
「───何のことかしら。よく聞いていなかったわ」まだ青ざめて、苦しそうに咳き込みつづけているしのぶを助けて立たせながら、京子は眉すじ一つ動かさず、平然と言ってのけて、足元に落ちていた布の袋のもう一つをつかんだ。「あら、こんな所に袋が」
そして、それを司に放った。
圭子はショックにものも言えず、怒りにわなわなと震えて立ちすくんでいる。その一方で司の手際は、どんどんよくなっていた。指の動きは二十本近くあるように見えると言っても過言ではない。引き出しの裏までもいちいち手早く指でさぐっては確認し、張りつけられている貯金通帳があればひっぺがし、それを開いて、とりあげた印鑑と一致するかどうかをチェックするという徹底ぶりに、圭子がまた、わめき声をあげた。
「ふざけんじゃねえよ、もう!こいつの手つきはプロ並みじゃないか!?恥ずかしくないのかい、この───」
「おっほっほっほっ、あなたのような方のお口から、恥ずかしいなどという言葉をおうかがいしようとは」改造拳銃をかまえたまま、日村通子が超優雅に笑った。「それに、どちらにいたしましても、銃士隊と言えども軍隊の一部、軍隊と泥棒なんて、もともと紙一重でございますわよ」
司の仕事もそろそろ終わりに近いと見たか、峯竜子が肩をゆすって、のしのし司に近づいて行った。
「手伝うよ、司。重いだろ?」
「ひとりで───何とか───運べます」司は袋を引っ張りながら、息を切らした。
「こっちに持っていらっしゃい。あたしも運んであげるから」さつきが、声をかけた。「引き出しの中に、お金以外のものもあった?司?」
「フロッピ-ディスクがたくさん───それに写真やネガ、原稿の束なんかも───そんなのも全部、入れてます」
「はい、けっこう。じゃ、あとはハ-ドディスクだけだわ。竜子、頼むわよ」
「あいな」
竜子はパソコンに歩みより、四つのパソコンのハ-ドディスクを器用にぱちぱち本体から外したと思うと、ずしりと重いその四角の箱を、いとも軽々と両脇に二個ずつ抱え上げた。回りの写真部員たちが思わず皆、目を見はって、たじたじとあとずさりする。
「それじゃ、行こうか、司」息も乱さずに言って、竜子が歩き出した。
しのぶを支えた京子、袋をかついだ司とさつき、一番最後にハ-ドディスクを抱えて一段と体重の重くなった竜子が、ずしんずしんとへやを出て行く。最後に残った通子は、京子たちが地上まで上って行ったのを見とどけてから、写真部員たちの方を見て、にっこり笑った。
「お騒がせいたしましたわ。ふつつかな主人たちを、いただいてまいりますから、あしからず。では皆さま方、ごめんあそばせ」
圭子をへやの中へ突き飛ばすと同時に、通子は拳銃を発射した。耳を聾する音とともにパソコンの一台が粉々に砕け飛ぶ。写真部員たちが耳をおおってあちこちにうずくまり、今度こそ怒りに我を忘れた辛島圭子が、獣のように吠えながらつかみかかって来るのを、とびのいてよけた通子は、ぴったりドアを閉め、外からがちゃんと大きなかけがねをかけた。
すさまじい音が中から何度も何度も響いた。辛島圭子がドアに体当たりしているのだ。通子は気にした様子もなく、軽く髪に手をやると、スカ-トのすそをめくって、太股のベルトに拳銃をはさみ、さっさと階段をかけあがって京子たちと合流した。
「───閉じ込めてきましたから、当分追っては来ませんわ」彼女は、楽しそうな口調で京子に報告した。「でも、心配なさらないでも、大丈夫ですことよ。あのドア、長くはもちませんもの、その内、外に出られますでしょう」
「それじゃ、急いで戻るとしようか」さつきが腕時計を見て言った。「美沙がきっと、お茶をわかして待ってるよ」