小説「散文家たち」第23章 夜明け

「しのぶ、もう寝た?」
ドアから顔をのぞかせて、緑川優子が小声で聞いた。
「うん、さっき。大丈夫みたいだよ」ドアに近いテ-ブルで、上月奈々子と那須野遼子の三人で、ぼそぼそと話をしていた新名朱実が、ベッドの方をちょっと伸び上がって見ながら言った。「入らない?」
「じゃ、ちょっとだけね───」優子は水色のネグリジェの肩をすくめ、足音をしのばせるようにして入って来て、そうっと椅子をひいて座った。「よかったわ、本当に。皆、無事で───しのぶも、大したことなくて」
「そんなに、声小さくしないでもいいって」朱実は、ちょっと笑った。「しのぶ、死んだように寝てるから」
「ここのへや、もう一人は誰だったっけ?」
「三年の英語研究会の笠原さんだけど、彼女、帰省してるの。今夜は、あたしたちの誰かが、ここに泊まろうかって言ってたんだけど、しのぶ、顔色もいいみたいだし、一人にしといても大丈夫かもね」
しのぶが吐息をついて寝返りをうつ。遼子が、ちらとベッドの方を振り返った。
「ほんと。とことん、いい気持ちそうに寝てやがる」あきれたように、彼女は言った。「結局、何だったんだろう?気分が悪くなったのってさ」
「何なんだろうね。でも、一年生は皆、何だか事情がわかってたようじゃなかった?」朱実が言った。「全然、心配してなかったでしょ。『あれ、放っとけば治るんです』なんて、斎藤さんは断言してたし」
「奈々子、あんた何か、知ってんの?」遼子がいきなり、そう聞いた。
「何で?」奈々子はまばたきして、見返す。
「だってあんた、寮委員会室で待ってた時、あたしのそばでうろうろしながら、ずっと言ってたじゃないか。『皆、能天気に、しのぶがいるから大丈夫なんて言って』とか『あの子が、けっこう、一番心配なんじゃない』とか、カニみたように一人で、ぶつぶつ」
「つまんないこと、覚えてんのね」奈々子は口をとんがらかせた。
「こっちだってイライラしてたから、あんたのあのひとり言が耳にさわって、気になってしょうがなかったんだよ」遼子は言った。「そうしたらそのとおり、しのぶだけが、あんな風になって帰ってきて、他の三人はけっこうけろっとしてたじゃないか。何であんたに、それが予想できたのかって思うだろ、ふつう」
「───あれよ」あきらめたように奈々子は、ちらっとベッドを見て、しのぶがよく寝ているのを確かめた。「体操競技よ。中学の時の」
「ん?」
「あたし、体操やってるでしょ?しのぶも別の中学の選手で、いろんな大会で、よくいっしょになってたの」奈々子は説明した。「あの子、すごかったのよ。男子でもできない大技をあっさり決めちゃうし、ダイナミックな切れのいい演技でスピ-ドは抜群だし。初めて見た時、あたしも他の子も、もう絶対にかなわないって思ったわ。だのに結局、あんまり伸びなかったの。特に、大きな大会になればなるほど、体調崩して、すぐ棄権するのよ。あがるっていうタイプには見えないし、何か身体に弱点があるんだろうなって、あたしのコ-チは言ってたわ。惜しいよな惜しいよなって、残念そうに繰り返してさ。ちょこまかした技よりも、スケ-ルの大きい派手な演技が好きな人だったから、絶対、あたしみたいなチビなんかより、しのぶみたいな感じの子を育てたいんだろうなって、あたし内心ムカついてたの」
「やれやれ」遼子が首をすくめる。「それで、しのぶがそうなる理由は、結局、わからずじまいだったわけね?」
「うん。思春期だからだろうって言ってた先輩もいたけど、あたしは何となく、そういうんじゃないような気がした。でも、かと言って、うちのコ-チが言ってたとおり、あがるってタイプではないと思ってた。それは、誰だって、そう思ったよ。だって、すごい接戦で、これで決まるっていう大事な演技の時には、しのぶ、いつだってみごとに技を決めてたし。緊張するなんてこと、まるでないように見えたもん。どんな大事な時でも、ほんとにもう、いつもの顔で、何てことないような足どりで、ふらっと歩いて来て、ひょいっと台に上がったかと思うと、ものすごい演技を楽々とやっちゃう子だったの。でも、とにかく、何か弱点があるってことはわかってたのよね。辛島圭子が、今日会ってすぐ、それを見抜くとはまさか思わなかったけど」
「一年生たちは、それがどういう弱点か知ってるのかしら?」優子が首をかしげた。
「知ってるのかもな」と遼子。「皆、けっこう、仲がいいしね。今の一年生」
奈々子が、ふんと鼻を鳴らした。「弱い者って、すぐ、団結するのよ。いやんなっちゃう」
朱実は笑いをこらえながら、奈々子の頭を軽くたたいて立ち上がり、しのぶのベッドのそばに行った。他の少女たちも何となくついてくる。洗いざらした白い枕カバ-の上に、ひきしまった腕を投げ出し、黒い長い髪を広げて、健康そうな規則正しい呼吸に日焼けした肩を上下させている、しのぶの寝顔は落ち着いていて、かすかに、いつもの暖かい微笑さえうかべているようだった。
「絵みたいにきれいな寝顔ね」優子が小さいため息をつく。「でも、何か、こうして回りをとりまいてると、あたしたちって、涅槃に入った仏さま見てるウサギやキツネみたいだけど」
「あと三人いたら、白雪姫見てる七人の小人って話もあるぜ」遼子がベッドの枕元の壁に片ひじついてもたれかかりながら、唇のはしで笑った。
「こう安心しきって寝てられると、何だか見てて腹が立たない?」奈々子が、ひそひそ声で言う。「顔に落書きでもしてやろうかしら?」
三人の動く音や話す声が耳に入ったのか、ちょうどその時、しのぶが夢の中でにっこり笑い、何かつぶやきながら、うれしそうに、声のした方にぼんやり手をさしのべた。しょうがないといったしぐさで奈々子が自分の指先をつかませると、しのぶは、それに軽くさわりながら、すべりおとした手を、そのままふとんの上にのせて、またすやすやと眠ってしまった。唇には、あいかわらず微笑をうかべたままで。
「こいつ、ひょっとして、めっちゃくちゃ幸福な育ち方してんじゃない?」あきれはてたように、奈々子が言った。

浅見司は眠そうに目をこすり、こっそり小さなあくびをした。恨めしそうに、その目が部屋の向こうのソファ-ベッドの上にさまよっている。
皆がそれぞれのへやに戻って静かになった寮委員会室だ。今夜は自分のへやで寝るからと言って千代がひきあげてしまったあと、空になっているそのベッドには、椅子や机の上にあった本や衣類が投げ出されておかれているが、それでもまだ、人がひとり寝られるぐらいの空間はたっぷりあって、色とりどりのキルトのカバ-も枕がわりの紫の座布団も、いかにも寝心地よさそうだった。そして、いくら遅くても十一時には、顔を洗って歯を磨いて、ふとんに入ってぐっすり眠っているというのが、司の生活習慣なのである。
そういうことを何もかもよく知っている美尾さつきだったが、彼女は知らん顔をしていた。写真部室からひきあげた後、さつきは、美沙と京子、竜子と通子の四人とともに、ここに少し残って、写真部室からとりあげて来た袋の中身を整理しようとしていたのだが、ふっと思いついて司をひきとめてしまったのは、写真部室から戻る時に司が口走った奇妙な言葉が気にかかったからだ。
「しのぶなら、すぐによくなります。もう、全然、心配いりません」司は、そう言ったのだった。「あたしたちのせいなんです、しのぶがあんなになったのは───あたしたち三人が、センスがよくなくって、うまいギャグとか言えなかったから───」
そこで今、さつきは、千代の服と本とをソファ-の上に投げ出して、かろうじて空けた椅子の一つにどっかり座り、これまた、かろうじて本を片寄せて、お茶を並べて仕事のできる空間を作ったテ-ブルの端にひじをついて、向かい側に立った司を見上げて、質問しているところだった。
「司。あんた、さっき言ったこと、覚えてるよね?」
「───いつですか?」
司はほんとに眠そうだ。立ったまま、半分目を閉じかけては、ぶるっと首を振って目をさまそうとしている。
「こっちにひきあげて来る時、橋の上でさ」
「ええっと───どのこと───何でしたっけ?」
司というのは、およそ嘘をつく才能がからきしない。ましてや、とぼけたり、ごまかしたりできる器ではない。だから、これはほんとにわからなくなって、忘れているのだということは、さつきにもよくわかった。だが、あれやこれやが一段落してほっとした分、疲れが出てきてむしゃくしゃしているさつきは、司とは逆に目がさえてきており、意地悪をする元気だけは、やけに高まってきていた。
「しのぶのことよ。最初から聞くよ」わざとのようにゆっくりと、彼女は繰り返した。「彼女が今夜、ああなっちゃったのは、あんたたちのせいなの、そうではないの?」
「あたしたちのせいです、そりゃもう」ぬれぎぬ着たがりのみどりも負けそうな素早さで、即座にあっさり、きっぱりと司は答え、目までぱっちりしたようだった。「ええ、そうです」彼女は勢い込んで言った。「あの時、辛島さんが、あんな風にしてあたしたちを脅かしてた時、美尾さんたちだったら絶対、何かとても、気のきいたこと言えたと思うんですけど、でもほら、あたしも、みどりも朝子も、そうじゃなくって───美尾さんとか峯さんとかとちがって、冗談言うのが下手だから、だから───」
さつきはつくづく、あきれはてたように首をふった。椅子に沈み込んで、重ね合わせた両足を、どさんとテ-ブルの上に投げ上げる。
「いいかい、司!」彼女は椅子にのけぞって顔を天井に向け、両腕を椅子のわきにだらりとたらしたまま、かんしゃくが爆発するのをようやっと抑えている声で、決めつけた。「あんたの、お掃除好きはいいけど、さしあたり、何よりも、その頭の中を整理して、きちんと順序だてて話しなさい!しのぶが気絶したことと、あんたら三人が冗談が下手なこととが、いったい、どこで、どういう風に結びつく!?」
「ええと、だから───あの、それは───」どうして磁石のはしっこに砂鉄がつくのか、あるいは馬はなぜニンジンが好きなのか、はっきり順序だてて説明しろと言われたように、あまりにもわかりきっている常識を、けっこう賢いはずの相手にどう理解させたらいいのだろうと迷っている目で、司はちょっと途方にくれた顔になる。
「座りなさいよ、司」美沙がにこにこしながらコ-ヒ-カップを運んで来て、さつきの靴の先をそっと押し退けて、司の前にコ-ヒ-を置き、片手でひっぱってきた椅子に、司の肩を押して座らせた。「コ-ヒ-でも飲んで落ち着きなさい。さつきもそんなに、ぽんぽん言うもんじゃないわ。司だって疲れてるのに───」
「疲れてる!?ああ、そうでしょう、そうでしょう、そうでしょうとも!」さつきは今にもひっくり返りそうに、椅子の背にのけぞって繰り返した。「あたしだって疲れてるわよ。人が平和に寝静まってる夜の夜中に、どこにいるかもわからないバカな四人の主人を探して、忠犬ハチ公みたように学校中を走り回って、辛島圭子のアホと対決して、ようやっとことがすんで、説明を聞こうと思ったら、そういうわけのわからない話を───」
「いいから、ケ-キでも食べて───」
「美沙っ!銃士隊長のマント着たままのかっこうで、そういう猫なで声を出さないでくれるっ!?」さつきは美沙にやつあたりした。「あんたって人は、ケ-キとお茶さえすすめたら、それで世の中のややこしいことはすべて解決するとでも思ってんのかまったくもうっ!」
「あなたこそ興奮しすぎよ」美沙は平然と腕を組んで、さつきを見下ろした。「だいたい、かけ回るんだったら忠犬ハチ公じゃないでしょうに。あの犬は駅の前でずっと座って主人の帰りを待っていたんだから」
さつきが、うめき声をあげて黙ってしまうと、美沙は司の方に向き直った。「明日でもいいのよ、話すのは、浅見さん」
「ううん、でも、そんなに大したことじゃないんです」司は首を振った。「あの、しのぶは───片山さんは、ドラマティックな状況に弱いんです」
美沙は首をかしげた。「───っていうと?」
「あのう───片山さん、スポ-ツは何でも万能ですよね。でも彼女、いろんな大会とかになると、絶対勝てないし、記録なんかも出したことないんです。それっていうのが、入場式とか、開会式とか、選手宣誓とか───旗が上がったり、行進したり、何かもう、そういうことが全部、だめなんです、あの人。あがるとか、そんなんじゃなくて───そういうのとは、ちがうんです。晴れがましいこととか、大げさなこととか、わざとらしいこととか、そういうの見ると彼女───吐き気がして、目まいがして、息ができなくなっちゃって、気が遠くなっちゃうんです、今日みたいに───」
「ちょっと待て───おい、ちょっと待て」起き直ったさつきが、両手で司を制した。「そういう人がなぜ、演劇部にいる?ここはそれこそ、大げさなのと、わざとらしさの宝庫じゃないのか?」
「お芝居だったら別にいいんですよ」司は言った。「現実じゃないなら───舞台の上なら。しのぶが気分が悪くなるのは、現実そのものがわざとらしくって、芝居がかっているときなんです」
「現実にも、ここじゃ相当、芝居がかったことが起こってる気がするがね」さつきは言った。「あたしの言うことすることをはじめ」
美沙が珍しく爆笑した。「あら、さつき!自覚してたの、知らなかった!」
「放っとけ」さつきはむっつり言った。「ちがうの、司?」
「あたしはうまく言えません───うまく言えませんけども」司は額に手をあてて考え込んだ。「初めてしのぶに、その発作───っていうのか、ドラマティックアレルギ-のこと聞いた時、あたしも美尾さんと同じようなこと考えました。でも───しのぶ自身にもよくわからないらしいんだけど、美尾さんのすることとか、ここで起こるいろんなことだと、彼女、何ともないらしいんです。あたしたちなりに───眉美や和子や、みどりや朝子と、皆でいろいろ考えてみたんですけど、───ひとつは、美尾さんのすることとか言うこととかは、大げさかもしれないけど、重々しいとか、おごそかとかじゃないでしょう?まじめじゃないじゃないですか。むしろ、美尾さん、そういう、もったいぶった雰囲気って嫌がって、こわそうこわそうとするでしょう?悪ふざけみたいなことまでして。それって、すごく、しのぶと似てるんですよ。しのぶ本人が言ってますもん。美尾さんの感覚って、一番、自分に近い気がする、一番、気持ちがよくわかるし、同じだなあって思うって」
「はあ───」
さつきは、ぽかんと口を開けている。美沙が吹き出した。
「そうか、なるほど!しのぶのさりげなさと、さつきの大げさな悪ふざけは、一致するのね。もったいぶった、わざとらしさを否定しようとする一点で」
「あの、他の人たちも考えると皆、そういうとこ、あるでしょう?」もはや、すっかり目がさめてきたらしい司が言った。
「そのことを考えてたら、あんまり面白いんで、あたしたち皆、夢中になって議論したことがあるんです。朝倉さんって、すごく合理的で理性的ですよね。それも結局、ものごとを変にお芝居っぽくロマンティックにすることを、いつも、くいとめますよね。南条さんの家事万能もそうでしょう?いつも、話を現実的にして、芝居がからせないように歯止めをかけるんです。『それはまあ、いいから、お茶にしましょう』って言われたら、人って深刻になれないじゃないですか、もう。峯さんとか、那須野さんとか、上月さんは、涙もろいこととか、きれいごととか大嫌いだし、日村さんだって、すっごくク-ルだし。村上さんも事務的能率をいつだって最優先しますよね。緑川さんも、千代さんも、無気力や投げやりっていうのとは、ちょっとちがうんだけど、しゃにむに無理してがんばるっていうようなことは全然しない人たちだし、何かに熱狂なんて絶対しそうにないし。何だかんだ言ったって、皆、めちゃくちゃ散文的な人ばっかりなんですよ。だから、しのぶには、ここって、すっごく住みやすいんだって、あたしたち、納得しちゃったんです。それで、だったら、あたしたちも、しのぶのために、そういう風にならなきゃって言い合って、努力してたんですけれど、それって、けっこう、難しくって」
「努力するか、ふつう、そんなこと?」さつきは、まだあきれた顔をしていた。
「気づかなかったわ」京子は、おかしさをこらえながらも、どこかで感心した顔になっている。「この、まるきり違うメンバ-に、そういう共通点があるなんて」
「共通点っていいますかねえ、そういうのを」竜子がうなった。「『八犬伝』でいうところの、牡丹の花のあざってやつですか。我々は皆、散文家の集団ってわけで」
「とにかく、それでわかったわ」南条美沙がうなずいた。「さっきから、あなたが言おうとしてたこと」
司が、ほっとしたように笑った。「ほんとに?わかります?」
「ええ。わかりすぎるぐらいにね」美沙は言った。「辛島さんは、あなたたちに対して多分、絵に描いたような型通りの脅迫をしたのね。それで、しのぶが危ないと思って、あなたたち、それをくいとめようとして、何とか、その雰囲気をこわそうと努力したけど、できなかったというわけでしょう?」
「そうです。そのとおりです」司は、ため息をついた。「辛島さんのやり方って、本当にもう、まさかと思うほど、ものすごく型にはまってて、本人も回りの人も、それに気づいてるのかいないのかわかんないけど、照れっていうのが全然ないから、何なんだもうこれって、あきれている間に、どんどん圧倒されちゃって」訴えるように司は目を上げた。「だって、トカゲなんか抱いてるんですよ!バラの花の入れ墨とかして、『あなたたちの心と身体を改造する』とか『地獄からきた女神』だなんて、笑いもしないで言うんですもん!そんなこと、たてつづけに言われたり見せられたりしてると、嘘だろうもう、信じられないっ!て思いながらも、こっちもついつい、はまっちゃうんですから、ほんとに。ポルノ小説やサドマゾ小説を面白半分読んだ時、出てくる女の人のせりふが、すごく型にはまってるのがおかしいって言って、友だちとよく笑ってたんだけど、いざとなったら、何か思いきりはずした、気のきいたこと言おうとしても、頭の中が真っ白で、何にも思いつけないんです。それでもう、気がついたら、自分でももう、みごとに、『あたしたちをどうするの!?』とか、『そんなことして何になるの!?』とか、
『あなたたちって気が狂ってるわ!』とか、定番のせりふ全部言っちゃってて、ほんとにもう舌かんで死んじゃいたくなりました」

上級生たちは、しばらく沈黙していた。皆がそれぞれ、京子でさえも、明らかに笑いたくてたまらない目をしており、美沙などは唇のはしがぴくぴく動いていたのだが、結局、皆、我慢したのは、笑いだしたらとまらなくなるし、それではお互い、もうかなり疲れている体力がもたないと判断したのかもしれなかった。「───トカゲ、ね!」とようやく美沙が、ほうっと吐息をついて言った。「ちゃんと世話をしているんだといいけど。ただのアクセサリ-だったら、かわいそう」
京子が、ふと首をかしげた。
「さっきからの話だと、一年生の人たちは、皆、その片山さんのアレルギ-のこと、知っているのね?田所さんの、ぬれぎぬ願望のことは、いつか誰かから聞いたけれど、それと同じように」
「そうですね」司はうなずく。
京子は、ちょっとためらっていてから聞いた。
「他にもそういう人、誰かいる?───もしも、聞いてもよければだけど。別に、無理に言わなくてもいいけれど。もし言っていいようなことがあったら───」
「朝倉さん。そんな、遠慮しなくっていいですよ」竜子が口をはさんだ。「そんな、ていねいな聞き方してたら、こいつら、かえってわかんなくなるんだから」彼女は座っていた椅子をずるずるひきずって、司のそばに来た。「ねえ、司。おどかすわけじゃないけどさ、今夜のことで辛島圭子が、どれだけ怒ってるかはわかるだろ?急に今日明日ってことはなくても、そのうち、きっと何かしかえしをたくらむし、こっちも、それなりに用心しないといけない。まさか、また、あんたたちの誰かがさらわれるなんてことがあっちゃ困るけどさ、そういうことを防ぐためにも、めいめいの特異体質とか弱点とかがあったら、ちゃんと知っときたいんだよ。たとえば、糖尿病だとか喘息とか、血友病とか───薬がいるとか、水が切れるとだめとか、何か、そういうのがあったら、教えといてほしい。あんたら一年生は皆、けっこう仲がいいみたいだから、お互いのそういうことも、よく知っているんだろう?」
「そうですね」司はうなずいた。「いいですよ。別にかくすことじゃないから───ええと」彼女は宙を見て、考え込んだ。「そう───立花さんのオカルト好きは、もうご存じですよね。それからっと、斎藤さんは猫舌で───」
「も~う、この、バカっ!」さつきが思わず、またどなった。
びくんと司は椅子から飛び上がって、目を丸くする。さつきは司をにらみつけた。
「あんたのお掃除好きはともかくとして、みどりのぬれぎぬ願望や、しのぶのドラマティックアレルギ-を、たかがもう、猫舌なんかといっしょにするなっ!人間にとって、何が特異体質で何が普通で何が異常か、あんた、わかんなくなってんじゃないの、司!?」 「わからなくなってると思います」司はうなずいた。「だって、朝倉さんの嘘つかないのだって、美尾さんのあまのじゃくだって───普通といえば普通かもしれないけど、特異体質と言ったら言えないこともないみたいだし───考えてると、だんだん区別がつかなくなってきてしまって───」
「まあ、たしかに、そのへんは、わかりにくいとこあるわな」竜子が、ものわかりのよさそうな顔をして見せた。「でもまあ、そうだね、普通、今の世の中で、特異体質とか異常とかいうときに、何ぼなんでも猫舌はないわなあ。少なくともまあ、幼児が好きとか、死体が好きとか、SMマニアだとか、レスビアンだとか───」
「レスビアンっていうのだったら、みどりとしのぶはそうですけれど」
せきこんだのは、竜子とさつきだけではない。さすがの京子と、さすがの美沙が、コ-ヒ-にむせた。通子ひとりは、ちょっと片方の眉を上げただけで、黙ってコ-ヒ-をすすっている。
「ちょ、ちょ、ちょっと───」竜子があわてて押しとめる。「そんな、あんた、何の証拠もなしにだな───」
「証拠って───」司はむしろ、きょとんとしていた。「あの二人はもうそうだって、一年の部員は皆、思ってますけれど。ええと、いつだっけ───しのぶがけがして、病院から帰ってきて、ちょっとしてからの頃だっけ。あたしと和子、あの二人が誰もいない音楽室で、抱き合ってキスしているのを見たんです。多分、みどりが、『人がくるわ』とか『こんなことは、もうやめましょう』とか言っていて───多分、しのぶが『お姉さまは恐いの?』とか『信じてついてきたのに、勇気を出して』とか言って───そしてまた、二人でキスして───」
「そんなこと言ってる人間の、いったいどこが、ドラマティックアレルギ-なんだ?」さつきが怒った。
「他にも、眉美は果樹園で、しのぶがみどりの膝に頭をのせて、みどりがしのぶの髪をなでてるところとか見ていて、そんな時の二人って本当に幸せそうで、みどりはいつもの何か淋しそうなカリカリしたところがなくなって、すごく安心した顔してるし、しのぶはふだんよりずっと子どもっぽい甘えたような顔だし、二人で、ちぎった草で回りに飛んでる蝶々を追い払ったり、お互いの顔をくすぐったりして笑っているのが、もううっとりするぐらい、夢のようにきれいで、眉美はいつまでも見とれてたって───」
「だからっ!どこがドラマティックアレルギ-なんだよっ!?」さつきが叫ぶ。
「似合っていれば、よろしいのじゃありません?」通子が、おっとり微笑んだ。「それにしても辛島圭子さんに申し上げておくべきでしたかしらね。アトスとアラミスのラブシ-ンなら、いつでもご用立てしましたのにって」
「バカな冗談はおやめなさい」京子が、ぐったり疲れた声でたしなめた。「別に───別に私たちがどうこう言うことではないわ。誰に迷惑をかけているというのではなし」
「───それにしても、ショックだなあ」さつきも、珍しくがっくりした顔で、大きなため息をついてテ-ブルによりかかった。
「美尾さんでもですか」竜子が言う。
「うん。タブ-を破るのに、人に先を越されたとは信じられない」さつきは、本当にくやしそうな顔をしていた。「くそっ、もう、うかつだったな。時代に遅れをとってしまった。世間に迫害されそうな危険なことを、あたしより先にするやつが回りに出たのは、初めてだ。それで、あたしが、このあたしが、びっくりしたり、『いいんじゃないの?』って言ってやったりする立場になるなんて、ああ、気分がよくない。何か年とった気がするなあ。考えれば考えるほど、ショックだわあ───」
「まあ、まだ獣姦も屍姦も近親相姦もSMもあるから」美沙がコ-ヒ-カップをかたづけながら、穏やかな声で慰めた。
「でも、学内にいるのは、犬も山羊も猫も皆、牝ばかりですわよ」通子が美沙に空のカップを渡しながら、首をかしげてそう言った。「もちろん、獣姦とレスビアンと二つのタブ-を一気に冒すおつもりでしたら、それはもちろん時間の節約───」
「司。もういいから、寝に行きなさい」げんなりしていたらしい竜子が言った。
司は素直に立ち上がったが、竜子に向けたその目には何となく、「まだ、もう少しここにいて聞いていちゃだめ?」という問いかけがあった。竜子はうなった。
「こんなバカなお姉さんたちの話に、毒されちゃだめだよ」彼女は言った。「そのケ-キ、皆に持って行ってやりな。すぐ冷蔵庫に入れておけば、明日の朝にはまだ食べられるから」
司が何となく、まだ残念そうにケ-キの箱を持って一礼してへやを出て行った後、竜子はテ-ブルをどんとたたいた。
「見てのとおり、聞いてのとおり、あの子は素直で、赤でも黒でも紫でも、あっと言う間に染まるんですよっ!その上、勉強熱心で興味津々なんだからっ!言うことには気をつけて下さいねっ!皆さんっ!」
「わかったわかった。そろそろ、まじめな話をしよう」さつきが両手を大きく上げた。「辛島圭子の逆襲に用心するのはもちろんとして、この袋の中身をどうするかだ。お金は明日、あたしが適当な名義で、いくつかの銀行に入れとく。問題は、このフロッピ-とハ-ドディスク、それに写真とネガと、原稿だ。まさかと思うが、こんなもの、まとめて置いてて、小石川ナンシ-に踏み込まれて押収されたら、今度こそ、おしまいだよ」
「かと言って、今夜は遅いし、今からこんなものゆっくり見る元気はないでしょ」美沙が言った。「でも、明日にでも、なるべく早く、この中身はチェックしないといけないから、手近においては置きたいし」
「さしあたり、今夜は、この五人で少しずつわけて保管しておいたらどうだろう?」さつきが皆を見回した。
「それって、一番危なくないですか?」竜子は、ちょっと不安そうだ。
「かもしれないけど、今夜はもう疲れてて頭がまわらないんだよ」さつきが白状する。 「そうね」美沙は立ち上がり、千代の本棚から大きな紙袋を五つ抜き出してきた。写真やネガや原稿を、それに分けて入れはじめる。「封筒に入ってまとまっている分はなるべく、くずさないでおくわよ。それからハ-ドディスクは、日村さん以外の四人で持っておくわ。あなた、こんな重いもの、運んでいくのはお嫌でしょう?」
通子は、優雅に首をすくめて笑い、感謝のしるしのように軽く一礼した。
「面倒だろうけど美沙」ほおづえをついて見ていたさつきが言った。「手伝うからさ。中身、全部一応、封筒に入れて封をして、五人のサインで封印しようよ。いやだろう?誰かが、開けたとか、抜いたとか、ひょっと思われるのってさ」
「あたしも、その方がいいと思ってた」美沙がうなずいた。
三十分ばかりかかって、五人は中身をすべて、大きなたくさんの茶封筒に入れ、ひとつひとつに番号を打って、封をし、綴じ目にめいめいのサインをした。それを五つの紙袋にわけて入れ、更にその袋を閉じて、封をし、サインする。
「明日の夜にでも、どこかで、これを調べましょう」京子が言った。
「昼でもいいわよ」さつきが言った。「今から寝れば、その頃までには体力も回復してる。───何か、ファミコンゲ-ムみたいだけどさ」
「じゃ、一番早く目を覚ました者が、皆を起こして回ることにしましょう」美沙が言って、さつきがテ-ブルの上に並べた紙袋の一つを取った。そして、もう一つを京子に渡そうとして、ふっと、歌うようにつぶやいた。
「───三つの指輪は、空の下なるエルフの王に」
京子とさつきは、きょとんとしていた。だが竜子は大きな肩をゆすって笑い、もう一つの紙袋を引き寄せながら、「そうなると、次はあたしだね」と言って、美沙と同じ口調で歌うように続けた。「───七つの指輪は、岩の館のドワ-フの君に」
「───九つは、死すべきさだめの人の子に」美沙は、さつきに紙袋を渡し、残った一つを通子の方にさし出した。
通子は笑った。「あら、これはまた、大変なものをいただいてしまいそうですわね」
そして、低く口ずさんだ。
「───一つは、暗きみくらの冥王のため、影よこたわるモルド-ルの国に」
「───一つの指輪は、すべてを統べ」竜子がつぶやく。
「───一つの指輪は、すべてを見つけ」通子が続ける。
「───一つの指輪は、すべてを捕らえて」美沙の声も低かった。「くらやみの中につなぎとめる」
「───影横たわるモルド-ルの国に」静かに通子がしめくくった。
しばらく五人は黙っていた。
さつきと京子が、問いかけるように美沙を見る。美沙はうなずいた。
「ト-ルキン『指輪物語』の、冒頭の詩よ」彼女は説明した。「長編のファンタジ-なの。強力な力を持ち主に与える魔法の指輪───それを、悪の力に引き渡さないために、永遠に破壊してしまうという使命を帯びて旅をする、ホビットと呼ばれる陽気な小人の一族の一人フロドと、魔法使いの灰色のガンダルフと───エルフや人間、ドワ-フたちの物語。指輪が何かということについては、いろいろな解釈があって、原爆だっていう人もいるくらい。読む人によって、それぞれにとれる、物語なの」
「あなたは」さつきは、紙袋の上に軽く手をかざした。「これが、あたしたちにとっての、指輪だって言うのね?それほどの力が、この中にあると思うのね?でも、なぜよ?これは、辛島圭子が金もうけのために作りまくった、ただのポルノ写真と怪しげな小説の原稿───だろ?それ以外でも、それ以上でもないはずだろ?」
「そのはずよね」美沙はうなずいた。「なのになぜ今、ふっとそんな気がしたのかわからないけど───ここには巨大な力がある。大きな秘密が隠されている。たくさんの人の生き方の鍵を握ってきた何かが───使い方次第でどうにでもなる何かがある。突然、そんな気がしたのよね」
京子がちょっと落ち着かないように眉をひそめたのを見て、美沙は笑った。「これ、合理的に説明すると、このところずっと、このポルノ小説の原稿の、手に入れた分を読み返してたでしょう、あたし?何か、手がかりがないかとか思って。多分、そのせいなんじゃないかな、今、ふっと、そういう風な感じがしたのは。辛島圭子がどうかかわっているにせよ、このポルノ小説を書いた人───人たち?───それは、金もうけだけを考えて書いているんじゃなくて───もっと、他に何かある、みたいな気が、だんだん強くしはじめているのよ。こういうの、ずっと読んでる内に」
皆、黙って顔を見あわせる。
美沙は微笑み、首を振って立ち上がった。「ミルクティ-をもう一杯だけ、今夜は、それでお開きにしましょう」
「ああ、そうですね」竜子が目をこすって、あくびをした。「それで、目がさめたら、すべては悪い夢だった、というのだったらいいんですが」
「ホウリュウシらしくもない、弱気だね」さつきは笑い、冒険好きな少年のような、いたずらっぽい笑顔になった。「これが悪夢なら、どうやらそれって、まだはじまったばかりみたいだよ」
竜子は返事をしないで、低くうなった。
開け放しのままだった窓から、朝の匂いのする風が吹き込む。短い夏の夜は明けて、窓の外の空はもう、いつしか白みはじめているようだった。

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