小説「散文家たち」第10章 階段

けれどこれだけは聞いて
あとただひとつだけ
あなたのふるさとの話を
お母さまのことを
あなたのことを思い
病いの床について
それでもあなたのことを
神に祈っておられる
閉ざされたドアのこちら側まで、恋人ホセをカルメンの手からひき戻そうとするミカエ ラの、嫋々と美しい歌声が聞こえて来る。歌のうまさという点ではやや感情に欠けるのだ が、声そのものの澄んだ美しさでは麗泉学院でもおそらく一二を争うだろう京子の歌は、 ミカエラのような清らかでまっすぐな訴えの時には一番効果的に人の心をうつのだった。
戦闘服にヘルメット姿の田所みどりはドアによりかかるようにして、じっと耳を傾けて いた。ここは校舎の最上階、「カルメン」が上演されている大教室の後ろにある階段で、 みどりがよりかかっているドアは、教壇のはしに作られたにわかづくりの楽屋に通じてい る。劇が終わり次第、演劇部員たちは一気にここをかけおりて、地下のホ-ルに向かうこ とになっているのだ。灰色の壁にかこまれた狭い階段には、今はまったく人気がなく、し んと静まり返っていた。
やがて、激しい拍手がドアの向こうから聞こえてきた。カルメンがホセに殺される最後 の場面がはじまったのだ。闘牛場にくりこむカルメンと仲間の女たちの華やかな歌声が、 心をうきたたせるようにわきおこりはじめた。
どのくらい、時が流れただろうか。さつきの甘い豊かな声、遼子の暗い情熱をたたえた 声、そして美沙のやや太くかすれているのに、ふしぎななまめかしさがこもる声・・それ らが入り乱れてひびくのに、みどりはうっとり聞き入っていた。
「浅見さん・・・浅見さん!?」
階段の下から小声で呼ばれて、みどりがはっと振り向くと、制服姿の少女たちが四五人 ばらばらとかけよって来た。
「こんなところに、あなた今いていいの・・・あら!ごめん!田所さん!?」
間が悪そうに口ごもったのは、あながち、みどりを司と見まちがえたということだけで もなさそうだった。

塔のへやから追い出される前、演劇部員として登録されている者は四十人をはるかに超 えていた。もちろん、めったに部室に顔を出さない者も十人以上はいたから、だいたい三 十人近くが、そこそこ部室に出入りしていたといっていい。
小石川ナンシ-が、やめていった部員という数では正確につかめなかったように、今で も名簿の人数には変化はない。しかし実際には、塔のへやを片づけて地下室に移動するま での間に、次第次第に顔を出さなくなり、まったく部室に来なくなった者も、十人以上は いたのである。一年生はほとんど脱落しなかったし、三年生はもともと少なかったが、二 年生の数はめだって減っていた。
今、みどりの前で何となくもじもじしているのも、その、顔を出さなくなった二年生の 部員たちだ。特に、あまり部室に来ていなかった両側の二人、王銀花と富田佐恵子はとも かく、真ん中の二人、志津谷綾と牧野桃代は、塔のへやにいたころは毎日部室に入りびた っていたのである。
「見まちがえちゃって、ごめんなさい・・・」綾が口の中で言った。
「いえ、その方がいいんです」みどりは四人を見回して笑った。「あたし、ほんとは今 日までまだ停学中なんです。でも何だか心配で、寮のへやにじっとしていられなくて、こ の恰好ならわからないかもしれないと思って、こっそり見に来たんです。あの・・・皆さ ん、楽屋に行かれるんでしょ?」
ドアに手をかけたみどりを、綾が制した。「そうじゃないのよ。あたしたちもあなたと 同じ・・気になってしまって・・どうせ客席はもういっぱいだし、何か手伝えることない かと思って、ちょっと来て見ただけなんだから」
「今更、来にくかったんですけど」銀花が、ちょっと笑って言った。
「そんなことないですよ!」みどりは首をふった。「どうぞ、入って・・・」
階段の下から、また軽い足音がひびいて、右腕を白い布で肩からつった上月奈々子が勢 いよくかけ上がって来たが、綾たちを見たとたんに立ち止まり、露骨に不機嫌そうになっ て、小さなかわいい鼻にきゅうっとしわを寄せた。
綾たちも気づいて緊張した表情になっている。みどりはあわてて奈々子の方に、二三歩 階段をかけ下りた。
「上月さん、けがのこと聞きました。・・・もう、いいんですか?」
奈々子はつんとしてみどりを押しのけ、「ありがと、気にしてくれて」と、それでも一 応そっけなく返事はした。しかし、その時、多分けがの原因のことを誰かに聞いて知って いたらしい綾と桃代が目を見合わせてちらっと笑ったのを、目ざとく見つけた奈々子は、 一気にかんしゃくが爆発したらしく、「ちょっと、何がおかしくて、笑ってんのよ!?」 と腰に手をあて、身体をそらしてかみついた。「みどりと、あたしと、二つの劇の主役を 棒に振った者どうしが、こんなところで、いっしょにうろうろしてんのが、そんなに見て て面白いわけ!?」
「上月さん!」
とめようとしたみどりの手を、奈々子は振り払った。「演劇部の調子のいい時には、た っぷりおいしい思いしてきたくせに、いったん落ち目になったらさっさと出て行ってしま うみたいな人たちに、笑われたくはないわね!」
何か激しく言い返した綾と佐恵子のことばは、ドアごしに轟くように押し寄せてきた大 喝采にかき消された。
「カルメン」の幕が、今、下りたのだ。再び音楽がまきおこって、カルメンがホセと初 めて会うときの踊り「ハバネラ」が、観客の手拍子にのって流れはじめた。ややしわがれ て太く甘い美沙の声が、拍手と歓声をぬうようにしてとぎれとぎれに聞こえて来る。
恋は気まぐれよ 小鳥のように
とらえられない すぐに逃げてゆく
あたしの心も 小鳥とおなじで
いつでも空を 自由に飛ぶのよ
恋 恋 それが恋
「・・・あたしたちは、出ていってなんかいません。まだ、部員です」おとなしい銀花 が、怒りに黒い切れ長の目を燃やして奈々子に言った。「毎月の部費も、きちんと村上さ んに渡しています」
「あら、お金さえ払えばことがすむもんではないっていうのは、あなたの国をはじめ、 いろんな国が日本を攻撃する時にいつも言う、国際的な常識なんじゃないの?」奈々子は 鼻で笑った。「金だけじゃなく汗も流せって言うでしょ。あなた、地下室かたづける時に いた?トイレの掃除の時にいた?そもそもねえ・・・」
ドアが中からぱっと開いて、新名朱実と峯竜子が飛び出して来た。客席の歓声や拍手が 一段と近くなる。「わ!奈々子、来てくれたのか、助かった!」竜子が叫んだ。「朝倉さ んのバ-ンズのメ-キャップ、やっぱりあんたがやらないと迫力が出ない!すぐ下に行っ てスタンバイしててくれ。頼むよ!」
「まかしておいて」奈々子はまだ何か言いたそうだったが、もう一度銀花たちをにらむ と、そのまままっしぐらに階段をかけ下りて行った。竜子と朱実も、その後を追う。
みどりは綾の腕に手をかけた。「すみません。あたしが悪いんです。バカなこと言った から上月さんをカリカリさせちゃって、あんなこと言わせてしまって・・・」
「いいの。彼女の言う通りよ」綾が言った。「今日は帰る。ごめんね」
が、そのとき、美尾さつきが闘牛士の衣装の上着をはぎとりながら走り出て来て、「お お、志津谷さんたち、いいところへ!」と叫んだ。「ここで皆、着替えていくから、後片 付けをお願い!」
投げつけられた、ずしりと重い金ぴかの上着と帽子をかかえて、綾はさつきを見つめ返 した。「成功ですか?劇・・・」
返事のかわりに、さつきはドアをいっぱいに開け、ますます激しくなってきている会場 の手拍子とかけ声、まだ一向におわる気配のない「ハバネラ」の曲が流れ出して来る方へ と、手を大きく広げて見せた。
恋には どんな掟もないわ
好きになったら それでおしまい
たとえきらわれても かまわない
あたしはあなたを はなしはしない
恋 恋 それが恋
「じゃ、下で待ってる!」さつきは笑って、手を高くあげた。「あれ、司?じゃなくて ・・・やっぱり、司!あんたもここでぐずぐずしてる場合じゃないよ、早く下に行きなさ い!」
肩をたたいて、かけ下りて行ったさつきを見送って、みどりは目を白黒させた。
「どうしたんだろ、美尾さん。あがってるのかしら、こんなに近くではっきり見て、あ たしを司とまちがえて!」
「わかってて、わざと、まちがえたふりしたのよ。あなたは、ここにいちゃいけないん でしょ?」佐恵子が笑った。「あ、朝倉さん、お疲れさまでした、服いただきます!」
ドアから出てきた京子は、脱ぎ捨てたミカエラの青いスカ-トを佐恵子に渡しながら、 気がかりそうにふりかえった。
「お客が皆、興奮して、美沙に踊りをやめさせないわ。次の劇まで、あと二十一分!カ ルメンはスカ-トのすそをかかげる場面が多いから、美沙だけ私たちとちがって、スカ- トの下に戦闘服のズボンをはいていないのよ。着替えが間にあわなかったら・・・」
「ここにいるお客も、どうせ地下にかなり移動するはずです。少しぐらい遅れても大丈 夫」タイツ姿で牛になって踊っていた片山しのぶが、黒い大きな角を頭からはずして、ど さりと投げ出しながら言った。「朝倉さんこそ、メ-キャップがあります。急いで下りて 下さい!」
走り出て来た少女たちが、階段をかけおりながら、次々に服を脱ぎ捨てて行く。みるみ る階段の手すりは、投げかけられる衣装で、華やかな色彩の滝になった。司も優子も、バ ラ色や黄色の大きなスカ-トをはねのけて、走り下りる一段ごとに、みるみるスペイン風 の美女から、戦闘服のズボンとブ-ツの兵士の姿へと変化する。日村通子は虹色の羽根扇 をなまめかしく一振りして宙に放ると、あっという間に細い肩を左右にゆすって、紫のレ -スのドレスからすべるように抜け出し、「ほっほっほっ、こちらの方が断然楽でござい ますわ」と言ったかと思うと、ズボンの足をはねあげて階段の手すりにまたがり、一気に すべりおりて行った。
「い、今の、日村さんでしょう!?」拾いかけていた羽根扇を佐恵子が思わず取り落と す。
「さあ、そうみたいですね・・」みどりは返事に困って、口ごもる。
音楽がようやくおわった。一段と高い拍手にまじって、観客がざわざわと移動しはじめ る気配がする。滝のように流れ落ちる汗でびっしょりになり、黒い髪を額と頬にはりつか せた南条美沙が、あえぎながらドアから出て来た。汗にぬれて黒くなっている赤いドレス のすそをたくしあげて、軍服のズボンをはきながら「まったく、もう!」と彼女は低い声 でののしった。「三度目のアンコ-ルの時には、お客を皆、殺してやろうかと思ったわ。 この一日できっと体重は半分に減るわね。きっと今頃、下も大混乱よ。あなたたち、ここ がすんだら皆、すぐ来てねっ!」
赤と黒のドレスがぱっと空に舞ったと思うと、美沙もほとんど三段飛びに階段をかけ下 りて行った。
少女たちの投げ出した衣装を拾って、みどりたちは次第に階段をかなり下まで移動して いた。誰かの黒い羽根扇と緑色の長いスト-ルを拾い上げたみどりが、ふと見上げると、 もう誰もいなくなった階段の一番上の手すりによりかかるようにして、一人の老女がじっ とこちらを見下ろしていた。
麗泉学院にも年をとった女の先生は何人かいたが、その誰でもなかった。今日の公演に は市長をはじめ、町の人たちもかなり見に来ているはずである。その一人が下りる階段を まちがえて、こっちに入って来てしまったのかと、みどりは思った。
けれど老女は、道に迷った人のような、とまどった顔やあわてた様子はしておらず、た だ面白そうに、楽しそうに、こちらをながめていた。どうやら、さっきからそこにいて、 かけ下りて行く少女たちを、ずっと見ていたのらしい。
老女の髪は真っ白で、手入れもされていないように顔の回りに吹きなびいていた。うす 紫と金色の、すぽんとした筒のようなドレスを着て、レ-スの長いスト-ルを肩にかけ、 太いかかとの黒いハイヒ-ルの足を踏みしめている。
みどりたちと目が合うと、老女はしわだらけの顔で人なつこそうに笑い、静かに、歌う ように口ずさんだ。
「悩ましく廻り梯子を下りゆく春の夕べの踊り子の群れ・・・」
そしてレ-スのスト-ルを肩からはずして、それを持った片手をのばした。やせた指の ひとつひとつにはめた指輪がまぶしく光る。老女がゆっくり指を開くと、スト-ルはひら ひらと回りながら、階段の下の方へと落ちて行った。
思わずそれを目で追ったみどりたちが、再び顔を上げた時、階段の上に老女の姿はもう なかった。
「見た?今のおばあさん?」
「うん・・・」綾と桃代がうなずいた。「誰なんだろう。お客さんかな・・・」
「春の夕べ・・・って、今、夏のはじめなのにさ。何だか変なおばあさん」
「あれは、北原白秋の歌です」銀花が皆を見回して言った。「『桐の花』に入っていま すよ。あの人は、さっきからの、ここの、この風景を見ていて、その歌をきっと、とっさ に思い出したのでしょう」
少女たちはもう一度、階段の上を見た。
「誰なんだろう?」綾がまた、つぶやいた。

「ひぇ~っ、もう、生きた心地もない」舞台のわきの暗がりで、効果係の村上セイがテ -プをかけかえながら、嘆いた。「この一晩であたしもう確実に、十年は命が縮まる。医 者からは五年ももつかと言われてるのに、それじゃマイナスになっちゃうじゃないか!お まえはもう死んでいる・・・なんちゃって、ああ、ほんとにもう、知らないよ!さっきは 小銃の音と大砲の音とまちがえそうになったし、バ-ンズがベトナム兵を殺す場面じゃ、 銃の音が遅れるし!」
「心配すんな、流れがいいから今んとこ、誰も気にしてやしないよ」軍服姿のまま、手 伝っていた美尾さつきがなぐさめた。「司のクリスはかわいいし、美沙のエリアスは色っ ぽいし、京子のバ-ンズはすごみがあるし。千代のラ-も今んとこまだ三つしか、せりふ をすっとばしてないだろ」
「よくもまあ、そう落ち着いてられますね!あたしなんか、もうさっきからずっと、口 の中がカラカラですよ」
「ここまでお客をひっぱって来れたら、半分勝ったようなもんさ。あとはよっぽど大失 敗しない限りは何とかなる。おっと、そろそろまた出番か。水泳部の連中を二人、ここに 応援に回しとくよ」
「お願いしま・・・」と言いかけて、セイの手がいきなりぎゅっと、さつきの肩をわし づかみにした。
「どうかした?」
「美尾さん・・・あ、あれ・・・あれ見て下さい・・」
セイが指さす舞台の上は、粗末なベッドが並んでいる兵士たちの宿舎だった。数人の兵 士がベッドや椅子に座って、けだるい調子で上官や戦争の悪口を言いながら煙草をふかし ている。片山しのぶ、斉藤眉美、それに応援出演の水泳部員が三人・・・暗がりの中で、 さつきはセイの顔を見た。
「どうかした?何か変?」
「もう、美尾さんったら!日村さんですよ、日村通子!彼女・・彼女、ほら見てくださ い、上半身全部脱いでしまってるじゃありませんか!?」
「・・・ほんとだ」さつきは呆然とした。「何てすごい。まだ、誰も気づいてない」
通子は一番奥のベッドに、片ひざ立てて、片足を投げ出し、枕に背中をもたせかけて拳 銃の手入れをしている。皆の話に冷たい声でときどき、けっとか、ちっとか、けっこう、 あいづちをうっているし、奥のベッドとは言え、ライトもきちんとあたっていて、客席か らもどこからも見えないはずはないのだが、それでも通子がいつのまにか、軍服の上着は もちろん、アンダ-シャツまで脱ぎ捨てて、少年のようにほっそりした、胸のふくらみの ほとんどない上半身をあらわにしてしまっていることに、まだ誰一人気づいてないのか、 ざわめきさえも起こっていない。その色白できゃしゃな肢体が、残酷な殺人狂の若者バニ -に奇妙にしっくり似合っていて、不自然さがないからだろうか。
「だけど、もうすぐ、あの人の長いせりふがはじまるわ!そうしたら、いくら何でも皆 気づきますよね?下手すりゃ、上演中止ですよ!」
「下手しなくっても、そうなるね」さつきは立ち上がった。「いい。何とかする。村上 さん、あたしが舞台に出て行ったら、頃合いを見はからって適当に、思いっきり新しいロ ックかジャズのテ-プをかけて!」
「は、はい、わかりました・・・」
さつきは舞台のはしに手をかけて飛び上がろうとしながら、セイを見て、にやりと笑っ た。「どうするのかって聞かないね?」
「恐くて聞けるもんですか」セイはあわただしく、テ-プの入っているケ-スをかきま わしながら言った。「いいから早く行って下さい!テ-プのことはまかして下さい!」

それから更に二十分後・・・。
「美尾さんったら、目立ちすぎです!」
演出担当の那須野遼子が楽屋の隅で、さつきにかみついていた。
舞台の上は再び激しい戦闘場面になっている。赤いライトと白い煙が入り乱れ、耳をつ んざく銃撃の音がつづいてはまた、ぴたりと止む。
目まぐるしく入れ替わる出番を待って、少女たちは忙しく楽屋を行き来していたが、皆 がそれでも気にしたように、遼子とさつきをちらちら見ていた。
「那須野さん、この話は後にしようよ」さつきが提案した。「皆が動揺するだろうが」
「すでにもう、動揺してます」遼子は言い返した。「あなたがあんなところで突然飛び 出して、NYで今はやってる音楽を教えてやるぜとか言って、ベッドの上に飛び上がって いきなり踊りだしたりするから・・・それもラップですよ、ラップ!もう!七十年代にラ ップがあるわけないでしょうが!?」
「だからそいつは、村上セイがあわててテ-プをまちがえたんだよ。とにかく新しいも のをと思って・・・」
「どっちみち、そのころラップがあったかどうか、そんなこと、見ている生徒たちは誰 もわかりはしませんことよ」さつきの横に、しおらしげに立っていっしょに怒られていた 日村通子がとりなした。「皆さん、歴史には弱いのですもの」
「今日のお客の中にはねっ!七十年代をバリバリ知ってるおじんやおばんがいっぱいい て、厳しくチェックを入れてんのよ!」
「そんな、お年を召されたじじいやばばあが、ラップが何だか、そんなこた、知ってっ わけがございませんでしょ」
通子のことばには、時々バニ-の口調が混じり込む。それにもカリカリしたらしい遼子 は、「日村さん!」と決めつけた。「あんたそもそもそうやって、さつき・・美尾さんを かばってられる立場なわけ?もとはと言えば、あんたが舞台でストリップなんか勝手にや らかすからだろ?美尾さんがああして皆の目をひきつけて、ごまかしてくれなかったら、 今頃絶対上演中止になってるんだよ、わかってる!?」
「だから、そいつは、申し上げておりますでしょう、さっきから、わたくし。出番を待 っておりましたら、どなたかがわたくしの耳にささやいて行かれましたのですわ。この幕 じゃ急に、上半身だけ全部脱ぐことになった、奥のベッドにいる者から順々にシャツを脱 いでいくことになっているから、そのつもりで・・・って。とっさのことだし、あたりは 暗いし、誰だったかはわかんねえけど、それはもう落ちついた、きびきびした声で、怪し げなところなんかちっともありませんでしたわ。わたくしでなくても、どなたでも、あれ を聞いたらきっと信じちまうって。本当ですわ」
「ねえ、まだ怒ってんの?」向こうの方から近づいてきた奈々子が言った。「いいじゃ ないのよ、美尾さんのあのショ-タイム、客席は大うけだったんだから」
「だから困るっ!」遼子は叫んだ。「オニ-ルなんて、卑怯でずるくて要領よくて、強 い者にはおべっか使う、節操も何もないバカ男なのに、さつき・・・美尾さんがやってる と、一番、生きることに正直で、人間の弱さを素直に出して生きている立派な人にだんだ ん見えてきてしまう!このままのペ-スで最後まで行かれたら、平凡で、人間らしさをむ きだしにしたオニ-ルの悲劇のドラマになってしまって、クリスはただのガキ、エリアス はただの偽善者、バ-ンズはただのサディスト・・・わ!南条さん!びっくりさせないで 下さいよ!」
「だって、舞台よりこっちの方がよっぽど戦闘が激しそうだもの」自動小銃を肩にかけ たまま、たった今舞台から戻ってきた美沙が笑った。
「もう、おやめなさい。那須野さん」後ろに来ていた京子も言った。
醜い傷痕が残る顔という設定のバ-ンズにふさわしく、見ても誰なのかわからないほど に、赤黒いひっつれ傷が縦横に走り、鼻も唇もつぶれてゆがんだメ-キャップだが、舞台 の上の不気味なしわがれ声とはちがって、その声はいつものように澄んで優しい。
「すんでしまったことを、そんなに怒ってもしかたがないわ」
「すんでしまってないことだから問題なんですっ!」遼子は言い返した。「お二人とも そこでそういうのんきな顔をなさってるひまがあるんだったら、これからラストまでもっ とがんばって、さつきに食われないようにして下さい!」
美沙は涼しい顔をして、ポケットから出した煙草を口にくわえ、マッチをすって火をつ けた。「ねえ、那須野さん。あたしがこの世で絶対に、しないと決めていることが三つあ る。ひとつ、恋人の前ではミルフィ-ユは食べない。ふたつ、きゅうすにお湯を入れっぱ なしにしない。みっつ、さつき以上に舞台の上で目立とうなんて、不可能なことはそもそ も考えない」
「ええいもう、早く舞台に戻って二人で殺しあってきて下さい!」遼子は叫んだ。  その声にかぶさるように、また激しい一斉射撃の音がおこる。美沙は笑って、くわえて いた煙草をとって遼子の口にはさんでやると、京子に合図して、さっと舞台に戻って行っ た。
「ほらね」奈々子が言った。「もうやめなさいよ、遼子」
遼子は黙って、煙草をはさんだ長い指の先で髪の毛をかきむしっている。
「それに、もしかしたら、それってもう、どうしようもないことだったのかもしれない でしょう?」さっきから、大きな身体をもてあますように、そばでおろおろしていた朝子 が慰めるような顔で口を開いて、そう言った。
「どうしようもないことって?」さつきが聞く。
「う~ん、だからほら、日村さんに声かけたのって、もしかしたらですよ、全然、人間 とかじゃなくて・・・」
「え~い、もう、このバカが!」遼子が椅子の背を両手でつかんで、宙にふりあげよう とした。
その時、ころげるように、緑川優子と斉藤眉美が楽屋に飛び込んできた。
「大変です!」
「またかよ!」遼子は椅子を下ろして、天をあおいだ。「今度は何!?」
「何だかわからないけれど、舞台で何かが起こっています!」
「何が起こるの?」舞台の袖の方へ飛んで行きながら、さつきが聞いた。「バ-ンズが エリアスを殺す場面でしょ?」
「そのはずです。だけど、殺してないんです!」
「何ですってえ!?」
「二人っきりで、森の中で出会って・・・誰も見てないのをいいことに、バ-ンズが、 全然警戒していなかったエリアスを撃ち殺しちゃう場面なんですけど」
「いちいち説明せんでもわかっとるわいっ!」
「だって、何か見ていたら、ほんとにそうだったのかどうか、確信持てなくなっちゃっ て・・・」眉美はおろおろ、舞台の方を振り返った。「朝倉さんがいきなり、南条さんに 飛びついて、手をつかんで舞台の前の方にひっぱり出してしまったんです。そして、『エ リアス、おれはおまえを殺すがな、なぜそうするのか、そのわけを、今からおまえに聞か せてやる!』って、どなって、すごい見幕で・・・」

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