小説「散文家たち」第8章 レスボス島

麗泉学院ではなぜか昔からレスボス島と呼ばれている沖の小島は、古代の女流詩人サッ フォ-が遊んでいたという同じ名前の伝説の島とは似ても似つかない、満ち潮の時にはた たみ六畳ぐらいの大きさしかなくなる岩と砂だけの小さな島だった。その島の、屏風のよ うに周囲をとりまく岩に囲まれた真ん中の小さな砂浜には今、流木で焚き火がたかれ、青 みがかった美しい炎がぱちぱちと音をたてている。枝につきさされたソ-セ-ジとマシュ マロの焼ける匂いがかんばしい。
火の回りや岩の上に思い思いのかっこうで座っている少女たちは皆で九人。七人は緑と 白の水着を着た水泳部員だが、赤い水着の美尾さつきと、黒い水着の峯竜子もまじってい た。
「ソ-セ-ジを食べて、さつき」竜子さえ並ぶときゃしゃに見えるほど大きな身体で、 母親のように面倒見がよく、おっかさんの愛称で知られる水泳部長の谷まどかが、身体に 似合わぬ甘い高い声で言った。「わざわざビニ-ルパックに入れて、寮から運んできたん だから」
「豪勢な朝食だ」ぬれた豊かな髪を肩に広げたさつきは、焚き火のそばで手にしたコ- ヒ-缶を注意深くあぶっていた。「それにしてもさすがに朝はまだ寒い。う-、もう、ト イレに行きたくなった」
「海の中でして来なよ。そんなにぬれた髪でいるからさ」さまざまな大会記録をいくつ も持つ水泳部員の税所律子が笑った。
「それよか、もともとの目的の情報交換を早いとこ、すませましょうや」竜子があせっ て腕にはめた大きな防水時計を見た。「せっかく、人目につかないし盗み聞きもされない 場所ってんで、ここを選んだんだ。ぐずぐずしてて、生徒会役員にモ-タ-ボ-トで乗り つけられちゃ、皆停学でもくらいかねない」
「あわてなくっても、いいの」まどかはころころと笑った。「あのね、水泳部はあんた たちが『オリエント急行』で細川先生たちに踏み込まれたような、用心の悪いことはしな いのよ。ちゃんと見張りをたててるんだから」
「へえ。どこにです?」竜子はあたりを見回した。
「こんなとこにはいないって」焚き火に枝をくべながら律子が言う。「モ-タ-ボ-ト の停めてある、寮の下の浜辺にいるのよ。おかしな動きがあったりして危険だと感じたら すぐ、ほら・・・」燃えさしの枝をあげて律子は、遠くの浜辺に見える浜砂寮の紫がかっ た建物を指した。「あの、寮の五階の廊下のはしにある窓から、赤い布を垂らすことにな ってる。こっちはそれを見るが早いか、海に飛び込み、ハイさようならってわけ」
「少々、霧が出たとしても、あの窓は高いし、赤い色はめだつしね」まどかは、大きな クジラのような細い目をなお細くした。「まあ、それでも話は急ごうか。さっきも言った ことだけれど、小石川が今一番困ってるのは、生徒会の役員が半分も決まってないことで しょうよ。いくら、この学校の民主主義がいいかげんだと言ったって、一応は選挙もしな きゃならないし。小石川の予定では役員が全部そろったところで、自分も含めて信任投票 といきたいところだったんでしょ。でも、夏休みまでに役員がそろうとはとてもとても。
年内にだってむずかしいのじゃない?」
「寮委員会やサ-クル会議は?たしか、サ-クル会議の議長は、美術部の十和田さんに 決まったと聞いたけど」竜子が言う。
「そう。でも十和田と小石川って、あんまりうまく行ってないの。もともと、うまがあ わないのよ。だから十和田は塔のへやにもほとんど顔を出さないし。それから寮委員長だ けど、これはまったく、引き受け手なし。このごろは小石川もやけになったのか、堀之内 千代にだいぶ迫っているらしいわよ」
「堀之内千代ォ?」竜子が目をむいた。「あの、息をするのも面倒だっていつも言って るんで有名な、超ぐうたらの変人でしょう?」
「でも、ああ見えて、あの人は案外人望はあるもの」
「しかし、ひきうけないでしょう」
「断りつづけるのが面倒になる可能性だってあるんじゃないの?」
「小石川さんは、あんたには声をかけなかったの?」さつきはコ-ヒ-缶を開けながら まどかを見た。「水泳部と写真部は部員の多さでも、その他でも、校内じゃ新聞部につぐ 有力サ-クルだろうにさ」
まどかは、ふっくらと厚い、枕のように大きな両肩をゆさゆさとゆすって大笑いした。 「ちょこっとね、声はかけられたけど、相手にしなかったら、二度とお呼びはなかったわ よ。そりゃああなた、小石川だって知ってるわよ、水泳部と演劇部がいつも協力関係にあ ったことぐらい。それから、あんたが言ったから思い出したけど、写真部はねえ・・・そ の内つぶれるんじゃない?」
「何で?部長は谷口奈美でしょ。ちょっと優柔不断で煮え切らないけど、部をつぶすよ うな危ないことはしない人だよ」
「その優柔不断が悪かったのね。さつきは、辛島圭子って知ってるかな?」
「知らいでか。一年生の頃からあたしらと、特に京子とは天敵だった。町のヤクザとも つながりがあって・・・。三年生のはずだけど、進級できずに今、二年だろ、たしか」  「そうですよ」峯竜子も顔をしかめた。「図体でかいし、頭もけっこう切れるけど、も ひとつ別の意味でも切れまくりのヤバイやつ。目とかも何だかどよよ~んとして、薬やっ てんのかも知れないな。めったに授業にゃ出て来ないけど」
「そりゃ、来ないわけだわよ」まどかがうなずいた。「写真部の部室にいるの。毎日、 朝から晩までね。何が気に入ったのか知らないけど、仲間の何人かと写真部に入って、目 下あそこをのっとり状態なんだよね。ひどいことしてるんじゃないの?この何か月かで写 真部の子、一人か二人やめたもの」
「その話が本当なら、一人二人というのは少ない」と、さつき。
「やめたって、あんた、部じゃないのよ。学校をやめたってことよ」まどかは、驚いて 顔を上げたさつきに向かってうなずいて見せた。「それも、そのうちの一人はちょっとノ イロ-ゼっていうのか、精神的におかしくなっていたみたいだし。部をやめる者は誰もい ないっていうのが、またねえ・・きっと、やめられないんだよ、脅かされてね」
「知らなかった」もとサ-クル会議議長だっただけに、さつきの顔が少し曇った。「十 和田さんは知ってるの?何か手は打とうとしてるんだろうか」
「知らないことはないと思うけど、そういったって、難しいでしょう?サ-クル会議だ って、写真部が希望しない限り、勝手に部の内情に口出しはできないんだから」  さつきは首を振り、立ち上がった。
「ありがとう、いろいろ参考になったわ」
「おや、あんた、もう帰るの?」
「『カルメン』の劇に使うCD選びに、町に行かなくちゃならないの。峯さんは残るか ら、残りの話は彼女に聞かせておいて。それからさ、『プラト-ン』と『カルメン』のエ キストラのことなんだけど」
「いいよ。何人ぐらいほしいのか、言ってくれる?せりふも何も言わないで、わあわあ 言ったり走り回ったりしておくだけでいいんなら、部員はいくらでも貸したげる。舞台裏 の仕事なんかでも、あったらいつでも頼みなさい」
「すまないね、おっかさん」さつきはコ-ヒ-をのみほすと、空き缶を集めていた律子 に缶を手渡して、岩の上からみごとなフォ-ムで海の中へと飛び込んだ。赤い水着がくる りと反転したと思ったら、イルカのように身体をしなやかにくねらせて浮かび上がって、 一度波間から手を振ると、彼女はまっすぐ、浜辺に向かって泳ぎだす。
「水泳部にスカウトしませんか、おっかさん?」税所律子がほれぼれと、さつきの泳ぎ を見ながら言った。「フォ-ムのいいかげんなのをちょっと直したら、彼女、全国大会で もけっこういいとこ行くんだけどな」
「ああ、そりゃ、そうしたいとこだけど。でもねえ・・」まどかは微笑んだ。「あの人 におとなしくいうことをきかせておける部長なんて、朝倉京子以外には、いやあしないわ よ」

日はもうすっかり昇っていた。さわやかな風が岬の方から海の上をわたって来る。泳ぎ ながら後ろをふりかえると、レスボス島は沖の方にもう小さい。長い手足を水の中で動か して、うすみどり色に澄んだ水をかきながら、金色の光のしまがゆらゆらと海中に動くの をさつきは楽しんでいた。
レスボス島が遠ざかったのと反対に、浜砂寮の建物はすっかり近づいて大きくなり、窓 に置かれた鉢植えの花の色までもうはっきりと見てとれるようになっている。
突然、さつきはばっと頭を水に沈めた。
水の上を人声がわたってきたのだ。数人の、言い合うような激しい声、ぴしゃりと誰か のほほをたたいたような音。そして、それにひきつづいて何か大きな物音・・・モ-タ- ボ-トの艇庫の扉が開く音のような。
さつきは用心深く、目だけを水の上に出し、半ば水中にもぐったまま、静かに静かにコ -スを変えて、寮の、校舎とは反対側のずっとはしの方の石垣の下に泳ぎ寄った。  そのまま、水に身体を沈めてしばらく耳をすましていたが、もう何も聞こえない。
さつきは石に手をかけて、ひらりとその上に飛び上がった。身体をかがめて、生垣の間 をすべるように走り、モ-タ-ボ-トのある艇庫の方に近づく。
生垣ごしにのぞいて見ると、モ-タ-ボ-トに乗り込もうとしているナンシ-と生徒会 役員の二人が見えた。事務職員の原田先生が運転席でエンジンをかけようとしている。そ して浜辺では、緑に白のふちどりのある水泳部の水着を着た二人の少女が、別の生徒会役 員数名に取り囲まれるようにして、ふてくされた顔で立っていた。
水泳部の見張りが見つかったのだ。そして、合図をかかげるひまもないままに、モ-タ -ボ-トは今、レスボス島へと発進しようとしている。
ナンシ-が声高に何か命令しているのを聞きながら、さつきはあとずさって、寮の裏口 から建物の中に飛び込み、そのまま一気に五階まで誰もいない階段をかけあがった。  朝の廊下はしんとして、窓から光がさしこんでいるだけ。誰かの飼っているカナリアが 高い声でさえずっている。廊下のつきあたりの、海に面した窓にかけよって、さつきは身 体を乗り出した。ここからはレスボス島はとても小さく、人影も見えると言えば見えるよ うだが、まぶしい海の光のきらめきではっきりしない。
水泳部が窓から垂らすと言っていた赤い布がそのへんに置いてないかと、さつきはあた りを見回し、防火用のホ-スなどが入っている箱を開けたりして見たが、見張りの少女た ちは布を持ったままつかまったのか、使えそうなものは何もなかった。
舌打ちしてさつきは水着の肩ひもに手をかけ、一気にひきおろして脱いだ。窓枠に残っ ていた古いカ-テン用の釘に鮮やかな真紅の色の水着のはしをひっかけて、窓いっぱいに それを広げる。
階段の方で人声がした。さつきは窓からとびすさり、廊下に並んだドアの名札を確認し ながら足早に歩きだした。

「おっかさん!谷部長!」
レスボス島の岩の上にじっと立って目をこらしていた少女が、突然金切り声をあげて焚 き火のそばへと飛び下りてきた。
ソ-セ-ジをかじりながら、竜子たちと何か話し合っていたまどかも、他の水泳部員た ちも、手にしていたソ-セ-ジやマシュマロを投げ捨てて、皆いっせいに立ち上がる。  「合図なんだね?」まどかがどなる。
「赤い布・・・今、あの窓に見えました!」
「さあさ、皆!ひきあげるのよ!」まどかは、巨大な身体からは想像できないほどのす ばしこさで焚き火を踏み消し、食べ物の残りやジュ-スの缶をビニ-ル袋に投げ込んで、 水泳部員たちに放り投げて、分けて持たせた。「急いで急いで!ホウリュウシ、あんたは 何も持たなくていいから早く海にお入りったら!まごまごしないの、モ-タ-ボ-トは速 いから、あっという間にここに来るよ、音が聞こえたら、もぐっておしまい!そらそら、 ぐずぐずしてないで!」
ざぶりざぶりと水しぶきをあげて少女たちが次々、海に飛び込んで行く。最後に残った まどかは、太った身体をはずませるようにして、ふっふっと息をつきながら、燃えさしの 木の枝をひっぱって砂の上を走り回って何かを書くと、にやりと笑って岩のかげからずぶ りと静かに水に沈んで消えて行った。
誰もいなくなったレスボス島の上に、かすかなモ-タ-ボ-トのエンジン音が響きはじ めたのは、それから更にしばらく時間がたってからのことである。

浜砂寮の五階、五七二号室・・・
古色蒼然とした鉄のベッドから、ひょろりとやせて背の高い、顔色の悪い少女が起き上 がる。眠いことこの上ないといった顔で、両腕を思いきりのばしてあくびをし、それから ずるずる枕の上にずり落ちて、手さぐりで枕の下から煙草とマッチを見つけ出す。煙草を くわえ、マッチをすって、申し訳程度にちょっとあたりを見回すと、煙草に火をつけ、吸 い込んで、ふとんの間にまぎれこんでいた分厚い本をひっぱり出し、枕に沈み込んで読み はじめる。
突然、ドアが開く。ベッドの少女は一瞬ぎょっとしたようにそちらを見るが、すぐまた 本に目を戻す。
「水着はフカに食べられたのか」質問ともひとり言ともつかぬ口調で、彼女は言う。  美尾さつきは入ってきて、ぬれた裸の身体のままへやを横切り、あいているベッドに腰 を下ろすと、片手をつき、軽く身体をのけぞらせて、びしょぬれの長い髪をぶるぶると振 る。
「よしてくれ、しつけの悪いコリ-みたいなまねは」ベッドの少女がゆううつそうにう めく。「へや中、水びたしになっちまう。あたしゃ泳げないんだよ。何べん言ったらわか るんだい?」
「何か着るもの貸してくれない?」さつきはかまわず、そうたずねる。
ベッドの中の少女は、絶望と不機嫌をいっしょくたにしたようなうめき声を出して、へ やの隅のおんぼろたんすに目をやる。一度、二度、三度、起きようとして身体をおこしか けては、ぶつくさとわけのわからぬことを口のなかでこぼして、結局そこまで歩いて行こ うというような、途方もない大事業はあきらめ、ベッドの中でもぞもぞと自分の着ていた 古ぼけた灰色とも水色ともつかないガウンをぬぎ捨て、裸の肩をすくめながら、それをさ つきに放り投げる。
灰色の雲のように宙を飛んできたそれを、さつきはうけとめ、身体にまきつけながらベ ッドの上に足を抱えて座り込む。
「あいかわらずだねえ、千代」
「あいかわらず?」本のかげから、声だけが聞こえた。
「見た目にはってことよ。もしかしたら、そうやってベッドで寝てばかりいる内にだん だん足が退化して、そのシ-ツをはいだら『バタリアン』の映画に出てくるオバンバみた いに、下半身がなくなって尾てい骨だけが、ばたばたはねまわっているのかもしれないけ れど」
「あんたはペガサスかツェッペリン号を調達して、空でも飛んで来たんかい?」本の上 から堀之内千代は、かろうじてわずかに目だけをのぞかせた。「そうじゃなくって階段を 登ったのなら、ここが何階かぐらいわかってるだろ?この階段を朝な夕な、あたしゃ昇り 降りしているんだよ。生まれてこのかた一日に、これほど動いたことはないといってもい いぐらい活動している。使うほど足が発達するものなら、あたしの足の先はもうどこまで のびてしまったのやら、多分肉眼じゃ確認できないところまで行っちまってるにちがいな い。ダリの絵の時計みたいに寮の窓から砂浜の上に垂れ下がっているんでなきゃいいがと 思ってるところさ」
「五階なんかに住むからよ。このへん、あきべやばっかりじゃないの。うちの一年生た ちが、窮屈なのを承知の上で、一階や二階のへやで三人暮らしをしたりしてるわけがよう やくわかったわ」
「そういうこともあってだろうけど、一階や二階は人が多すぎる。廊下を歩いているだ けでも、人をよけるのが面倒くさい。第一もう何でこのごろの下級生は、あんなに元気が いいのかね。誰もかれも、りんごみたいにつやつやして、生まれてきたのがうれしくてた まんないみたいに目を輝かせて、異常だよ。見ているだけで、ぐったりする」
「ねえ・・・」さつきはあたりを見回した。「髪をふきたいんだけど、このへやにタオ ルみたいなもの、何かある?」
「どっか、そのへんの椅子に、洗濯したシ-ツか枕カバ-がひっかかってないかい?」
「・・・これ?」
「それはテ-ブルクロスらしいが、まあいいや。百パ-セントコットンとどこかに表示 があったような気がするから、基本的にはタオルと同じだろう」
しゃべりながら千代は少しもスピ-ドを落とさずに、本のペ-ジをくっている。テ-ブ ルクロスで髪をふきながら、さつきはそれを見守った。
「あなた、それ、読んでるの?」
「読んでいるような、そうでもないような」千代は答えた。「何しろ作者は第二章から 第六章まで、何だかだとやたらに例をあげるけど、結局は同じことしか言ってない。あま りにも予想どおりの展開だから、ペ-ジをめくる頃にはもう、次のペ-ジに書いてあるこ とがだいたいわかってしまう。今のところは、まるで予想を裏切られない。競馬だっては ずれるからいいので、あたってばかりじゃ面白くなかろう。実はもう、いいかげん、うん ざりしているんだけどね、指の運動にでもなるかと思って、目を通してるのさ。それでい ったい、何の用なの?」
「いやあ、その、何ていうのか、たまには顔が見たくってさあ」
千代はうなった。「あたしゃどうやら流行遅れの人間らしい。この本といい、あんたと いい、先がミエミエの展開ってのが、このごろのはやりなのかい?寮委員長のことで来た んだろ?あたしがひきうけるかどうかが気になって」
「ひきうけるの?」
「何でだよもう?あたしゃ、『バタリアン』のゾンビたちが、せっかく死んで墓の中で 心ゆくまで眠れるのに、何が悲しゅて、よみがえるために脳みそ求めて走り回るのか、不 思議でしかたがないくらい、活動的なのが嫌いなんだよ。起きぬけに『動』とか『活』と かいう字を見ただけで、その日一日何か悪いことが起こりそうな気がしてならないぐらい なんだ。いくら小石川さんがお百度ふんでも、こればっかりはごめんだね。と、いうわけ で、寮委員長の椅子は当分埋まんないだろう。安心しなよ」
「ひきうけてほしいんだけどね」さつきは言った。「他の誰かがなるよりは、あんたが なってくれてた方がいい。いろんな雑多な事務仕事についちゃ、あたしたちが皆代わって やってやるからさ」
「演劇部のかいらい政権になれってか。まあ、そりゃそれなりに、どことなく面白そう だが」
千代は半分寝返りをうって、ベッドのわきのからっぽの花瓶の中に煙草の灰を落としな がら、また本のペ-ジをめくる。
「もう一つ、頼みが」言いかけてさつきは、くしゃみをした。「寒いなあ、このへや。 毛布か何かないの?」
「あんたもつくづく図々しい人だね。朝っぱらから勝手に人のへやに侵入してきたと思 ったら、着るもの貸せの、タオルがないかの、寮委員長をひきうけろの、毛布を出せの、 それでもう一つ頼みがある?自分でもちょいとばかり、えげつないとは思わないかい?」  「こんなに高いところまではるばる登って来てしまうと、片づけられる用事は全部一度 にすましたくなるのが人情ってものだろうが」さつきは言い返した。「『プラト-ン』に 出てくるラ-って兵士、知ってる?」
「あの、麻薬中毒の、もったいぶった、やる気のない、哲学者気どりの・・・」
「そこまで言われちゃ頼みにくいが、その役、あんたがやってくれない?これまでだっ て演劇部の公演には、ちょくちょく特別出演してくれてたろ?『ジャングル・ブック』の カアとかさ」
「あんたの舌先三寸にだまされてな。銀ラメの布をまきつけて、木の枝の上でのたくっ てればいいからと言われてひきうけたのはいいけれど、おかげですっかり肩がこったよ」
「『おお、マウグリ』と、『ふむふむ、わしに考えさせろ』の二つのせりふだけで、観 客のアンケ-トで人気一位になったのって、あの時のあんたぐらいのものじゃない。どう せあんたは、地下の部室まで練習に来る気だってないんでしょうから、皆でここまで出張 してきてあげるわよ。何ならこのへや片づけて、洗濯も掃除もしてやるよ」
「よせやい、あんなぴちぴちきゃらきゃらした一年生の連中に、どさどさふみこまれる なんて思っただけでもぞっとする。わけがわからず片づけられたら、それこそ何がどこに あるのか、最後の審判の日までわからなくなるのがおちだ」千代はまた、本の上から目を のぞかせて、まばたきした。「それよりも、図書カ-ドの使わないやつがあったら、こっ ちに回してくれないかい?一度に三冊しか借りられないから、めんどくさくてしょうがな い。どうせ、あんたの知り合いにゃ、本なんか読まないで、卒業するまで図書カ-ド一ぺ んも使わないやつなんて、わんさといるだろ?」
「いるいる。手の指、足の指、全部使っても数えきれないほどいる。お安い御用だよ。 ほんとに、そんなんでいいの?」さつきはまた、くしゃみをした。「何枚ぐらい集めたら いい?二十枚でラ-の役やって、三十枚で寮委員長ひきうけるってのでどうだい?」
「そんなにはいらないよ。あたしはとっても良心的な魂の売人でね。十枚でどっちもひ きうけてやる」
「ありがたい、恩に着る」さつきは今度はたてつづけに二回、くしゃみをした。「ヤバ い、ほんとにカゼひきかけてる。おい、このへや、ほんとに他に毛布もふとんもないんだ ったら、あんたのベッドに入らせてよ」
千代はため息をつくと、片手の本に目をやったまま、煙草を口にくわえて、もう片方の 手でふとんのはしを持ち上げた。寒そうに肩をすぼめて座っていたベッドをすべりおりた さつきは、そのまま千代のわきにもぐりこみ、千代の骨張ってごつごつした固い身体にぴ ったり身体をくっつけた。
「あったか~い」彼女は喜んだ。「大ニシキ蛇カアのイメ-ジがあるから、冷たいかっ て思ってたのに、千代って体温高いんだあ」
「ぐしゃぐしゃ言わずにおとなしく黙って寝てな」
さつきは寝返りをうって、千代の顔のわきから、千代が読んでいる本のペ-ジをじっと 見つめた。
「・・・すごい」彼女は本当に読んでいるのか確かめるように、横目で千代をぬすみ見 た。
「何がさ?」千代は、さつきの顔の上に煙草を持った腕をのばして、花瓶に灰を落とし ながら聞く。
「日本語のくせに横書き、二段組みの本なんて。しかも、こんなに小さい字でさ。小説 じゃないよね。会話が一つもないもの。ねえ、何て題の本?」
千代は無言で手首を返して、本の表紙をさつきに見せた。
「『自己の存在における他者の概念と、超自然的存在に対峙しうる自我の属性の可能性 について』・・・?いったい、どういう内容なのよ?」
「自分で読みなよ。読みおわるまでペ-ジめくるの、待ってやるから」
さつきはおとなしく、千代の再び読みはじめた本のペ-ジを見つめて、目を走らせてい たが、やがて小さいあくびをして、その大きな目がぱちぱちまばたきしはじめた。
「・・・いいかい?」しばらくして千代が聞いた。
返事はない。すやすやと健康そうな寝息だけが耳元から聞こえてきたので、千代はそち らを見ないまま、黙って本のペ-ジをくった。
窓から吹き込む朝の風が、背後の空と似た色の青いカ-テンを大きくふくらませ、さつ きの寝息と、千代のペ-ジをめくる音以外はしんと静かなへやの中に海の香りをただよわ せて吹きすぎて行く。

「・・・やられたわ!」
焚き火のあとが黒々と残る浜辺に立って、小石川ナンシ-は吐き捨てるように言った。  モ-タ-ボ-トから下りてきた生徒会役員たちも、黙ってあたりを見回している。
砂の上には、大きなペコちゃん人形の顔が舌を出して笑っていた。谷まどかが立ち去り 際に、なぐりがきして行ったものだ。
「どうする?帰るのう?」モ-タ-ボ-トの運転席から、原田先生が、あたしには関係 ないと言わんばかりののんきな声で呼びかけた。
「・・・その内に、見ていなさい」ナンシ-は低い声でつぶやくと、つま先に力をこめ て、砂の上のペコちゃん人形の顔を、ゆっくりとふみにじった。

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