小説「散文家たち」第30章 バラのファイル

どこの通りもにぎやかに笑いさざめく人波にあふれて、ふだんの町とは違って見える。そのくせ、ひとたび、そうでない裏通りの小路に入ると暗くて静かで、これまた見知らぬ場所としか見えない。老女の冷たい指に手首をつかまれて歩いていく内、みどりは次第に今どこにいるのか、どこに向かって歩いているのかわからなくなってきた。ときどき、家の間から、ちらりと運河や海が見えたような気がしたり、屋根の上から水野屋デパ-トの屋上の観覧車の光がのぞいたりするので、少しは方角の見当がつくが、すぐまた混乱してしまう。
ステ-キ屋の「アランフェス」の大きな看板が見えたので、海岸通りの、それも麗泉学院に近いあたりに来ているのが、やっとわかった。老女がふっと足をとめたので、見ると目の前に、茂りっぱなしの低い生け垣に囲まれた雑草だらけの小さい空き地があった。
ビルとビルの間の谷間のような場所である。空き地の中には、まるで物置小屋のように小さな、黒い家の影があった。トタン板が壁のあちこちにはりつけてあり、暗くてよく見えないが屋根も相当いたんで、ゆがんでいるようだった。
生け垣に門らしいものはなく、途切れた所から老女は空き地に入って行き、家の玄関らしいガラス戸をがたがた開いた。みどりが外で待っていると、すぐにぼうっと淡い光が中にともって、少女のような細い声で「お入りなさい」と老女が言った。
みどりは、そっとガラス戸を入る。中は、閉め切ってあったせいか、暑い空気がよどんでいた。青とバラ色の模様の傘が、玄関の狭い土間いっぱいに広げて干してあるのが、薄暗い光の中で、不思議な巨大な花が咲いているように見える。
老女はもう、へやに上がっていて、やがて、家の中にも明かりがともった。
「こちらへどうぞ」楽しそうな、はずんだ声で老女がそう言っている。
みどりは背後のガラス戸を閉めて、黄色い鼻緒の下駄を脱いだ。
板張りの廊下には、ほこりがつもり、黒ずんだ白い壁には、あちこちにひびが入っていて、雨漏りらしい染みもある。へやはどうやら一つしかないらしい。みどりが中をのぞきこむと、老女は床に身体をかがめて、大きな白い貝殻の中に置いた蚊とり線香にマッチで火をつけているところだった。細い青い煙が流れだすと、老女は立って、ぎしぎしときしむガラス窓を押し開けた。
遠く、花火の音がひびいた。
傷やしみだらけの、フロ-リングの床の上に、背の低い丸テ-ブルと木の椅子が二つ。それに、すりきれて、あちこち中身のはみだした大きな黒いソファ-がある。
「座ってね。お茶をいれましょう」
そう言って老女が立って行ったので、みどりは木の椅子に座りながら、そっとあたりを見回した。四畳半ぐらいの狭いへやだ。ここの壁は板で、いたるところに、さまざまな絵や写真がピンでとめてあった。ボ-ルを鼻で回しているオットセイだの、大きく目を見開いた外国製らしい人形の顔だの、氷山だの、紅葉だの、絵や写真にはおよそもう何の脈絡もないが、どれもそれなりにきれいでかわいく、老女が気に入っているものだろうということが何となくわかった。
本棚がいくつかあったが、本はほとんど入っていない。木彫りの大きな人形や、とまったままで動かない、洒落たかたちの旧式な置き時計や、赤味がかった素焼きの壺などが、少しごたごたした感じで並べられていた。老女が海から拾ってきたのか、色とりどりの貝殻や、変わったかたちの流木も、棚の上に並べてあった。
老女が戻ってきたが、お茶は持っていなかった。大切そうに両手で胸に抱えてきた大きな紙ばさみを、そっとテ-ブルの上に載せた。紙ばさみは今はもう見られないような古いデザインで、赤いリボンはすりきれて、端がちぎれている。表紙に一面バラの花の模様がついているのが、ずいぶん薄れてはいたものの、ようやく何とか見てとれた。
「これを、あなたにあげましょう」老女は、みどりの方に身を乗り出して、ささやくように熱心に言った。

「おおっと、美沙が戻ってきたじゃん」瑞穂が目ざとく見つけて言った。
ごったがえす店の入り口で一瞬たたずんだ美沙は、すぐに京子を見つけたらしく、テ-ブルの間をぬって、こちらに来た。
「京子を放り出して、どこに行ってたん?」晶が席をつめて美沙を座らせながら聞く。 「それがもう、何と言ったらいいのかしら」美沙はうんざりしたような顔で、ウェイトレスを呼んでマ-ブルアイスを注文した。「何だ、皆、踊らないの?ポケモンのマ-クの入ったうちわ、配ってくれてるみたいよ。みどりにもらって行ってやろうかな。変なキャラクタ-商品がけっこう好きみたいだから、あの子」
「踊ってもいいんだけどさあ、ばたばたしてたら胸がはだけそうで恐いんよ。浴衣なんて着慣れてないから」
「いいんじゃないの、それはまたそれで」
「投げやりなフォロ-しちゃってさ。ひょっとして、疲れてる?」
「うん。だけど、もういい、その話は」
「あれ、ちょっと、何かまた、もう一人、疲れてるみたいな人が来たよ」入り口の方を見ていた江見子がつぶやく。
美尾さつきが入ってきていた。ショ-ウィンドウによりかかって、めんどうくさそうな表情でアイスクリ-ムを注文している。大柄な身体と華やかな美貌は、この混雑の中でも人目をひいて、周囲の客がちらちら彼女の方を見ていた。
「さつきぃ!こっち!」瑞穂が大きく手を振って呼ぶ。
ちょっときょろきょろしたさつきは、すぐに笑って、こてこてに盛り上げたトリプルアイスを自由の女神像のようにかかげながら歩いて来て、京子の隣に腰を下ろした。
「困ったもんだよ」アイスをなめながら、彼女は一人言のように言った。
「何が?」京子が首をかしげる。
「話すのも疲れるって」さつきは言った。「ここで何を話してたにしたって、そっちの話の方がましだと思う。何が話題になってたの?お盆らしく、地獄の釜のふたが開いてゾンビが出てくる話でも大歓迎だよ」
「こりゃ相当、きてますな」瑞穂はにやにやした。「何ね、ミステリ研究会で学園祭に上演するつもりだった劇が、うちらの手には余るもんでよ、演劇部に売り渡して上演して貰おうかって話してたとこなんだけどね」
「ふうん、うちの良心的な部長が何と言ったかは知らんけど、そっちが困ってひきわたすからには、それ相応の協力はしてもらえるのであろうのう、越後屋」
「へっへっへっ、お代官さま、そこのところはぬかりなく」
「そもそも、何の劇なのよ?どうせ、ミステリなんだろうな。遼子の明智小五郎に、通子の黒トカゲとか、美沙のミス・マ-プルとか、司のボ-トルレ少年とか、あとまだ何がありそうだっけ?」
「チェスタトンの『木曜の男』って知ってる?」
「知らんなあ」さつきはレモンシャ-ベットをなめながら首を振った。
「一風変わったミステリでさ。筋はまた話すとして」瑞穂がシェイクをすすって、続けた。「登場人物に、一週間の曜日の名をそれぞれ名乗る、悪魔の組織の幹部たちがいて、これがもう、何と言ったらいいのやら、あんたたちの誰やかれやにイメ-ジが、実にぴったりなんよねえ」
「ほ~う。まあ、言ってみたまえよ、君」さつきは、古めかしいミステリ小説っぽい口調で、ものうげに応じた。
「では、あなた、ご要望にお答えするとしますかな。まずは書記の月曜。青白い、まじめな厳しい、美しい顔の男なんだけど、笑顔がひきつったようにゆがむんよ。モラルを何より重視して、そのために人間すべてを憎んでるらしい」
「火曜はちらっとしか出ないから放っとくとして」理絵子がちょっとはしゃいでつづける。「水曜はサン・テュスタッシュという貴族で侯爵。異国の人みたいな肌の色で、唇が赤く、目や髪は黒く、野獣のようにしなやかな身体つき。残酷な古代の皇帝とか、異教の神みたいな迫力があるんです」
「木曜は主人公の詩人のガブリエル・サイム。この人は実は正義の味方で、一人でこっそり悪の組織に潜入してる。だから、この人も飛ばします」江見子が言った。「あと、誰だっけ、ええっと、金曜はものすごく学識のあるウォルムス教授。でも、もう老衰で死にかけてて、動くたびに手足の一本がもげちゃうんじゃないかと思えるほど、立つのも座るのもやっとって感じ。しかも、そんなにしているくせに、夜の町でサイムを追っかけて来るんですよ。サイムが全速力で走っても、ぜいぜい、よろよろしながら、どうしてか絶対ふりはらわれずについて来て、いつもすぐ後ろにいるんです。虫のはうような速さでしか移動できないはずなのに」
「はっはっはっ」さつきが力のない声で笑った。「それは何だか、すぐにわかった。きっと、千代にやらせようてんだな」
「お、図星だよ」瑞穂がスプ-ンをさつきにつきつけた。
「月曜は京子で、水曜は遼子か」
「わかってるじゃんか」
「あんたらの説明のしかたが、もうはっきりと、それ意識してしゃべってるじゃないかよ」さつきはチ-ズアイスをなめた。「まあいい。土曜は?」
「黒めがねが不気味な、太った男で、はちきれそうに元気がいい、現実そのものみたいなんだけど、なぜだかそれが、とっても恐い」晶が言う。
「竜子かい?」
「おおっ!」ミステリ研究会の少女たちは、金魚の浴衣の袖をひるがえして皆いっせいに拍手をした。「やっぱ、誰でも考えることは同じなのねっ!」
「何か、おい」さつきは訴えるように美沙を見た。「こっちの話も相当疲れるぜ」
美沙は無言で自分のスプ-ンをのばし、さつきのチ-ズアイスを一すくい横取りした。 「悪のリ-ダ-の日曜は誰?」京子が聞いた。「ものすごく大きい人よね、たしか。力強くて敏捷で、とらえどころがなくて、いろんなものを連想させる───」
「水泳部長の谷さんでもひっぱり出したらと思ったけど」瑞穂が言った。「何だかちょっと不気味さや得体の知れなさがないんだなあ。斎藤さんが、もちょっと太ってくれたらいけるかもしれないんだけどねえ───いっそ、あの人、どうだろう?『若草物語』でベスやった、お掃除おばさん」
「わ!」演劇部の三人は皆、一様に息を呑んだ。
「ちょっと言ってみただけよ」瑞穂は弁解した。「そんなにショック?」
「だってそりゃ───ああ、もう、あの時のことは思い出したくもないわよ」美沙がうめいた。「グロテスクとしか言いようのない表情や動きや声だから、かえってだんだん、あのペ-スにはまって行っちゃいそうになるのよねえ。あれから何度か、あたしほんとに夢にまで見てうなされたわ、あのおばさんのベスの顔」
「そら、だからね、その存在感がまさに『日曜』じゃないか」
「いやよ、もう。よしてよ、考えさせないで」美沙は、彼女に珍しいほど、げんなりした顔になっている。
「それは、頼めばきっと、二つ返事でやって下さるとは思うけれど」京子がつぶやく。「あれ以来、食堂や廊下で会うたびに、私に話しかけておいでになるし、『部長さん、今度の劇、人手は足りてますか?もう、いつでもおっしゃって下さいね、あたしでよかったら』って、しょっちゅう、おっしゃるし───気のせいかもしれないけれど、必要以上に長いこと、私の回りで掃除や片づけをなさっていて、声をかけられるのを待っていらっしゃるような感じのすることさえあるもの。何だか悪くて、できたら、どうかしてさしあげたいとも思うけど、でもねえ───ちょっと、あの方はねえ───」
「却下!」さつきがきっぱり言った。「そりゃ、あのおばさん、存在感はあるけれど、それだけありゃいいってもんじゃないよ!」
「ふう、残念だね」瑞穂は首を振った。「ま、それはそれとしとこう。火曜は生意気そうな若者だし、チョイ役だから、司でもみどりでも和子でも、誰でもやれると思うけど、主人公の『木曜の男』サイムが、ちょっと誰にしたらいいのか思い当たらない。ま、主役っていうかよりも、ナレ-タ-っつうか、狂言回しみたいなとこもあんだけど」
「う~ん、新名さんあたりがいいかもね」美沙がつぶやいた。「彼女、わりと何でもやれるから」
「そこはもう、まかせる」瑞穂は言った。「だけど、できたら、あんたはねえ美沙、サイムが最後に出会うっつうか、戻って来る、平凡で平和な幸福の象徴みたいな赤毛の娘さんをやってほしいな。さつきは、そのお兄さんで人のいいアナ-キストのグレゴリ-」
美沙はうなずき、ちょっと黙っていてから言った。
「去年のクリスマスだったかに、家に帰省してた時、あたし、あの本読んだのよね。外には雪が降ってたわ。母がおせちや年賀状の計画を何かいろいろ、話しかけて相談して来るんだけど、本に夢中であたしは生返事ばっかりしてた。母が突然きゃっきゃっ笑い出したから『どうかした?』って聞いたら、母がね、あたしの聞いてないのに業を煮やして、『トナカイを輪切りにして、サンタクロ-スを酢の物にしようか』って言ったら、あたしが『それもいいかも』って答えたんだって。おこたの上にみかんがあって、ケ-キの食べかけが固くなりかけてた、暖かい夜だった。───読みながら、あたし考えてた。チェスタトンは、この男たちに、人間の悪の何を象徴させたのだろうって。月曜は多分、倫理とか、宗教とか思想とかが行き過ぎて現実を見失ってしまった姿。土曜はその逆に、あいまいなものや空想の入る余地をまったく許さないほどに現実が肥大してしまった姿。金曜は人間すべてが逃れられない、病い、老衰、そして死。水曜は異文化、未開、人間に理解できない獣の野性。そして、そのどれもが、結局は悪でも何でもないんだと、作者は言ってるような気がした───」
「私、やっぱり、月曜の、書記に見える?」ちょっと唐突に、京子が聞いた。
皆が、はっとしたように京子を見て一瞬黙る。沈黙が広がったため、周囲のざわめきが急に大きくなったようだった。
「何で?」さつきが口ごもった。
「ううん、だって自分じゃ全然、似てるって思ったことなかったから」京子は、すきとおるように白い顔に、本当にちょっととまどっているような、そのくせあきらめているような、やさしい笑いを浮かべた。
「それはあんた、やっぱり自覚がたりないよね」美沙とさつきが、あわてた顔になっているのを尻目に、瑞穂がけろりと言ってのけた。
「そうね。やっぱり、そうなんでしょうね」京子は、素直に納得した。「言われてみると、そう、私、あの話の中で、あの書記が一番好きだったもの」
「ちなみに、誰が一番嫌いだった?」晶が身体をのり出した。
京子は一瞬、考えている目になって、それから彼女に珍しく、いきなり笑い出して、さつきの肩にしがみついて顔を埋めた。
「こらこら」さつきが肩を振る。「これは誰かいるんだな。誰よ?現実主義の土曜?野性の水曜?死にかけた金曜?」
「言っていいわよ、聞かせなさい!」美沙もテ-ブルのこちら側から声をかけた。「あたしも、さつきも、その中にはいないんだから、かまわないでしょ?」
京子はまだ笑いながら、ようやく顔を起こして髪をかきあげ、コップの水を飲んだ。
「言いなさいったら!」さつきがつっつく。
「知らないわ」京子はとぼけた。「赤毛の兄と妹かもよ」
「ようく、言うよね!」さつきと美沙が声をあげる。
「でも、私、月曜は、細川詩子先生がいいなって、ずっと思っていたのだけど」京子は単に話をそらそうとしているだけではない、けっこう真剣な表情で言った。「日曜を、お掃除おばさんにお願いするぐらいなら、月曜は絶対に、あの先生じゃないかって」
「細川先生!?生徒指導の?」
やせた、きびしい暗い顔の中年女性、細川詩子先生の顔を思い浮かべて、皆は顔を見合わせた。
「それなりに、いいかもしれないけどォ」江見子が、ひるんだように言った。「あの人が夜明けの赤い光を浴びて、テムズ川の岸辺に立って、ゆがんだ笑いを浮かべてるの?それって、あまりに恐すぎる」
「うんうん」理絵子もうなずく。「私がサイムだったら、即、ボ-トの向き変えて逃げ出しちゃう」
「───私は多分──そうじゃない」京子は首を振った。「日曜とか、他の人が待っていたら逃げ出すかもしれないけれど、あの書記だったら恐くないよ。ボ-トを岸に着けられる」
「そして、彼に導かれて悪の道に入るのか」瑞穂がからかった。「行き過ぎて、人間を愛することを忘れてしまった、理想主義に。────でも、京子、そんなこと言うとこ見ると、あんた、あの細川先生のこと、嫌いじゃないんだ、案外?」
「そう言えばそうね」京子はうなずいた。「今まで、そんなこと、あまり考えたことなかったけれど、たしかに、あの先生のこと、私はあまり嫌いではない。あの先生の笑いはゆがんではいない───そもそも笑ってらっしゃるのを見たことがないような気がするけれど。でも、傷ついて、苦しんで───私たちを愛しようとして、疲れてしまっているようで、それって何だか、わかる気がする」

「二十四、五年も前のことになるのよ」
バラの模様の薄れて消えそうになっているファイルの上に、しわだらけの手をおいたまま、夢見るような表情で、老女は語りつづけていた。
「その頃はまだ、演劇部もなかったわ。文芸部も、新聞部も。あったのは、図書委員会だけ。すべての文化的な活動の源───彼女たちの回りに花が咲き、鳥が歌っているようだった。麗泉の名、そのままに、あの人たちは泉だった。でも、その泉は枯れてしまったわ───アスランが、死んだ夜に」
「お友だちだったんですか?」
「わたしが?いいえ───ただのファンに、すぎなかったわ。麗泉の生徒でさえ、なかったわ。ここから少し離れた村の工場で働いていたの。映画も好き、小説も好き、でも、何よりも好きだったのは、土曜の夜に汽車に乗って、ここに来て、あの人たちの劇を見たり、討論会に参加したりすることだった」
老女はファイルの表紙をそっとさすった。
「劇のパンフレットも、討論会の資料も、皆とっていたわ。でも、結婚したり、引っ越したりしている間に、だんだんなくなってしまって、もうこれだけしか残っていないの。そして、私にはもう、これを持っている力がないわ。早く、誰かに渡さなければ、危ないの」
「危ない?」
老女は、ほのかに笑った。この小さくて、ほこりだらけで、いろんなものがごたごたつまった風変わりで不思議な家の中にいると、どうしてか彼女はそんなにおかしくも見えない。落ち着いて、しっかりしているようにさえ見えるし、本当はかなりまだ若いのではないかと思えて来る。
「私はねえ、少し頭がおかしいのよ」老女は、まじめな顔で、みどりをまっすぐ見て言った。「だからね、家族も友だちも、あきれてしまったのでしょう。だんだんいなくなったのよ。そして、このごろでは、昼間は誰かにあとをつけられているし、夜は、おかしな声が聞こえたり、窓ががたがた鳴るような気がするの。だけど、そういうことが本当に起こっているのか、自分の頭の中だけのことか、もう、私にはよくわからない」
みどりは、どこか、いたましげな目をしてしまったのかもしれない。老女は、ゆっくり首を振った。
「そんなに悲しがらなくていいの。人は皆、こうなって行って、その内に死ぬのよ。たくさんの劇や、小説に、皆、書いてあるじゃありませんか?私は、長く生きてきて、ひとつのことを知りました。小説と現実は違うとよく言うでしょ。あれは、嘘。現実って、映画や小説と、ちっとも違わないんです」
老女が微笑んだ。
「それに、誰が何と言おうとも、私の生涯は幸せでしたよ。あこがれて、見守るものがあるだけでも、人の心は輝ける。アスランを、ランスロットを愛して、あの人たちを見ているだけで、生まれてきたことが幸福だった。その後にどんな苦しみがあっても、やっぱり私はみちたりています。この、今も───死ぬまでも多分、ずっとよ」
老女が、そっと少しだけ、こちらに押しやってきたファイルを、ためらいながらみどりは引き寄せ、受け取った。
「あなたのようなファンの方は、他にもたくさん、いらしたのですか?」
「ええ。いましたとも」老女は、うっとりした目をした。「そのころ、あなたたちの学校の正門の前には小さな喫茶店があって、劇を見たあとや、討論会のあと、何時間も私たちはそこで、おしゃべりをした。お芝居のこと、文学のこと、音楽のこと、女性の生き方や世界の未来、本当に何でもよ。今の麗泉の学長先生───氷見淳子さんも、その中の一人だったわ」
「そうなんですか──それじゃもう、ほんとに───とっても昔のことなんですね」
「他にもたくさん、いらっしゃったわ。今の麗泉の先生や、同窓会の役員さんも。でもアスランが死んだから、あの頃のことは誰も話さなくなったのよ───何もかも、つらすぎた。氷見先生も、黙っていらっしゃると思うわ。誰も、あの夜のことは話せない。皆がアスランを裏切った。それだから、アスランは、待っても待っても、来なかった。それがすべてのはじまり───終わりのはじまりだった───」
みどりは、急に息を殺したような表情になって、腰を浮かせた。
「あの、あのう───あたしも友だち、待たせているので───さっきの橋のところにいるから、もう、行かなくちゃいけないわ」
老女はうなずいた。
「行きなさい。あの人を待たせちゃいけないわ。行ってあげて。アスラン」
みどりはファイルを抱えたまま立ち上がる。玄関に出ると、老女も後ろからついて来たのがわかった。
「早く、行ってあげて」彼女は、みどりの先に立って、玄関のガラス戸を開けた。「間にあわないと、今度は、あの人がいなくなる。そして、皆がいなくなる」
再び老女は、どこかとりとめのない、不安そうな表情と声音に戻っている。玄関の戸によりすがるようにして、彼女はみどりを見送った。みどりは思わず小走りに数歩戻って、老女の顔をのぞきこんだ。
「また来ます。待っていて下さいね」
「ええ、ええ」どことなく上の空で老女はうなずく。「ファイルを、もっと、さがしておくわ。急がなくてはね。アスラン。まだ皆が、いる間にね」
足元の闇の中で、ユリの花とハ-ブの清々しい香りがただよったようだった。雑草にまじって咲いて香っている花々があるのかもしれない。生垣を出てふりむくと、暖かい色の光が流れ出す小さな玄関に、老女はまだ立って、こちらを見送っていた。顔の表情は影になって見えなかったが、白髪が頭をとりまいて、光の輪のように淡く輝いていた。
そして、この夜、みどりが見たその姿が、麗泉学院の生徒たちが老女を目にした最後となったのだった。

海岸通りの人の流れは、そろそろ帰る人も出てきて、ますます入り乱れてうずを巻いていた。酔っぱらっているらしい人たちの高い声も混じっている。みどりが人をかきわけかきわけ、ようやっと橋のたもとにたどりついた時、司は人波にさらわれないよう、欄干のくぼみにぺったり背中をくっつけて、時々伸び上がっては、あちこちを見回していた。
「どこにいたの、みどり!?」かけよってくるみどりを見て、ほっとしたように司はべそをかいた。「どこに行っちゃったのかと思ったよ!」
「ごめん!ごめんね、ちょっとね───」みどりはファイルを片手で胸に抱えたまま、片手を司の腕にかけた。「心配させてごめん、司。行こ!何か食べる?踊り、見に行こうか?」
だが司は立ち止まったまま、まだ不安そうにみどりを見つめていた。
「みどり、どっかに行っちゃわないよね?いきなり、黙って、行っちゃわないよね?」 「───もう!何だよ、司!?」みどりは笑い出した。「自分だってさっき、死んじゃいたいとか、消えちゃいたいとか言ってたくせに。よく、言うよ!」
「黙って───わけもわかんないまま、あたしたちのこと残して、いなくなったりしないよね?あの人、いったい誰だったんだろうとか、あとで皆がわかんなくなっちゃったりするような、そんな消え方、しないよね?」
「司、あんた変よ、今夜」みどりは司の腕をつかんで、欄干に並んでもたれた。「どうしたの?何で、そんなこと言うの?」
「わかんない───みどりは何だか、いつも、あたしたちと何かちがうんだもの。よその世界からやって来て、ここにはしばらくいるだけで、その内、どっかの星か、別の時代から迎えが来たら、すうっと別の服に着替えて、別の言葉しゃべって、行ってしまうみたいな、そんな───」
「それじゃあまるで、かぐや姫だよ」みどりは吹き出した。「あっ、それとも、あたしは朝子がいつも言ってる、ずっと昔に死んだ女の子?あんたたちといっしょに遊びたくって帰って来てる?『学校の怪談』だよ、それ。それで、あたしが消える時には、あんたたちの記憶も消して行くから、誰も、あたしがいたことを思い出せない。ただ、ラベンダ-の香りとかがするたびに、『あれ、何でこんなになつかしいんだろう?』とかって、ふっと思っちゃったりするんだよね?」
「みどり───もう───そんなの、やだよ───」
司が、完全に途方にくれた、世にも情けない心細そうで悲しそうな顔をして、欄干につっぷしてしまったので、みどりはあわてて、その肩をゆすった。
「冗談じゃないか。やだなあ、もう、司!あたしがあんたたちのこと、忘れるはずない───じゃないんだよね、あたしが自分のこと、あんたたちに忘れさせるはずないよ!約束するよ、どこにも行かない。行く時には、どこに行くのか、なぜ行くのか、いつ戻るのか、絶対、ちゃんとわかるように説明するよ」
司はもう、顔をあげていたが、みどりを見つめたまま、ちょっととまどったように目をぱちぱちさせていた。
「あの、何もそこまで───そこまであたし、言ってないよ──」彼女は思い出したように、頭につけていた半魚人のお面をはずし、手に持っていたカッパのお面と両手にひとつずつ持って、みどりの前に差し出した。「ねえ、どっちがいい?峯さん、どっちにびっくりするかなあ?」
みどりは笑いながら、二つの面を見比べた。
「わけがわかんないことは、絶対にしないし」一人言のように、彼女は言った。「あんたを淋しがらせるようなことはしないって、約束する。───やっぱり、この半魚人の方かなあ?うろこが、気持ち悪いよね」
「でも、このカッパの赤い目もさ───」
人の流れの中で、二人は橋の欄干のくぼみにもたれて、いつまでも、むきになって議論しつづけていた。

淡い水色の地に、白とピンクの花びらの大きな花が描かれている浴衣を着た緑川優子は村上セイと寮のへやの、窓際のベッドに座って、花火が上がるのを見ていた。
「すごく、よく見えるのね。特等席だわ」
「でも、町に行っておいでよ」パジャマ姿のセイが言った。「大西さんたち、待ってくれてるんでしょ?」
「ええ」優子はベッドから下りたが、セイの方を見た。「あなたは、もう寝る?」
「そうね、少し身体がだるいし。ちょっとね、例の壁画の写真の整理もしておきたいから」
片手をのばして、セイはベッドのそばの棚から、小さい紙箱を出して開けた。中には、あの地下の部室にあった壁画の写真が何枚も入っている。
「美術部の卒業生や、同窓会の幹事の人に送って、何か情報がないか聞いて見ているのよ。なるべく、絵の特徴が出ている写真がいいと思って」
優子はセイが手にしている写真を見た。「実物よりも、ちょっと色が赤みがかって見えるのね」
「そうかしら。優子がそう言うんならそうだろうね。───だって、一番よく見てるだろう、この絵を?」
優子はかすかに赤くなった。「竜子から、この前、注意されたわ。美尾さんも心配しているみたい。私が、この絵に───とらえられそうになっているって」
「ひまさえあれば、見ているから?」
「目がはなせなくなるの」ひっそりと優子は言った。「忘れられないぐらい、どの部分も目にやきついているのに、何べん見ても新しいものを見るようよ」
「プリンセスって、恐いものや汚いものを見るのは絶対嫌いっていうか、だめだったろう?」セイが、微笑んで優子を見上げた。「それなのに、こんな死んでる人たちの絵を、いつも熱心に見てるから、竜子たちは不安なのよ、きっと」
「この絵、ねえ──」優子はふっと、口ごもった。
「何?」
「私、この絵、恐くないわ」思い切ったように、小さい声で優子は言った。「皆がどうして、この絵のことを、気味が悪いとか病的とかいうのかが、わからないわ。私、これ、美しい絵と思う。美しいし、力強いし、───何かをとても一生懸命、言おうとしている絵みたいじゃない?」
「他はまだ、いいんだろうけど、この空き地で死んでいる男の人たちの顔とかがさ。恐いんじゃないの、皆は?腐りかけてたり、苦しそうだったり」
「セイは、こういうの見ていて、恐いと思う?」
「どうかなあ。私は慣れているからなあ。腐った身体とか、苦しんでいる人を見るのには。だから、皆ほどじゃないと思うよ、恐いのも」
「私は───何度も何度も見ていると、この人たちの死に顔が、そんなに不幸そうに見えなくなってくるの」優子は言った。「苦しみにひきつっているのではなくて、恐怖にこわばっているのでもなくて、優しく相手を許そうとしていたり、安心して微笑んでいたりする顔に、だんだん変わってくるようなのよ。一番恐ろしい、この空き地の風景が、とても明るい、救いに満ちたものに思えてくるみたいで」
「竜子には言わない方がいいよ。美尾さんにも」写真を見ながら、セイは笑った。
優子も笑って、へやを出て行った。
セイは一人になって、写真を一枚一枚見つづけていたが、ふっと手をとめた。
目が疲れてきていたからだろうか。暗い森の場面で、奥の木の陰に、今出て行った優子とそっくりの薄水色と明るい花模様の浴衣の少女が、ちらとたたずんでいるように見えたのだ。まばたきすると、それはすぐ消えたが、セイは何だかぞうっとした。
優子は、この絵の中に入り込みたがっているのだろうか。あの男たちと同じ、幸福な微笑をうかべて死ぬために?

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