小説「散文家たち」第14章 羽飾り

麗泉学院の図書館は赤い屋根に茶色の壁のかなり大きな建物で、学校の敷地内だが寮に近い海沿いにある。地下は現在、ご存じのとおり、演劇部室になっており、海側には、そうなるきっかけとなった、例の事故がおこった古いテラスが張り出している。
テラスの両脇には古びた小さい木の階段がついていて、そこから上がるようになっている。もともとは図書館の中から大きなガラス戸を開いてテラスに出ることができたのだ。しかし、本が増えるにつれて今では書棚が壁際にずらりと並んでガラス戸をふさいでしまった。今は外から見ると、ほこりでかすんだガラスの向こうに金色とも灰色ともつかない重たそうなカ-テンが閉まったままだし、中からは書棚の背にかくれて、ガラス戸はおろか壁そのものもまったく見えない。結局、図書館の中から直接テラスに出ることはできなくなってしまっている。
「もったいないわね、せっかくの広い窓なのに」海側からテラスを見上げて少女たちはよくため息をついた。
「あそこを開けられたら閲覧室は明るくなるし、読書に疲れて目を上げたら沖まで海が一面に見えるのよ。そういうのって、すてきじゃない?」
「でも、本がそれだけ増えてしまったんだからしかたがないわ」そう答えるまじめな少女も麗泉にはけっこういる。「うちの学校、高校の蔵書数としては全国でもトップクラスらしいわよ───ううん、トップじゃないかってママが言ってたわ」
「そりゃまあ、歴史が長いし、伝統はあるし、毎年買ってりゃ本も増えるわな」そう皮肉っぽく言う者もいた。「しかも空襲にも水害にもあってないし、明治の創立期からの本がずっと残って来てるんだから」
「それにしても、いくら本の数が多いにしても、これだけ大きな二階建ての建物をまるまるひとつ図書館にしちゃうってのもすごいんじゃない?普通の高校だったら図書室がせいぜいでしょ?私立の短大に行ってる姉があきれていたわ。大学の図書館よりずっと立派だって言って」
「それだけ授業料をまきあげてるってことかしら、あたしたちから。でもまあ、考えてみたら図書館って言ったって、ビデオル-ムとかミ-ティング室とか校史編纂室とか記念品展示室とか、いろんな他のへやもけっこう入っているもんね」
「それに、やっぱ図書館って、うちの高校の象徴なんじゃない?何でも創立時には、この建物しかなくて、ここが校舎だったって言うよ。すべてはここから始まったんだって、いつか学長先生おっしゃってなかった?何かの式の時に」
「そうね。サ-クル部室がないころには、いろんな部は皆図書館で活動してたし、生徒会議室も昔は図書館にあったんだって聞いたことがあるわ」
「学生が図書館の運営に参加していて、学校と共同で主催していろんな催しもやっていたっていうんでしょう?あたしも姉からよく聞かされた。今はすっかり図書館を中心とした活動がなくなってしまって、若い人の活字ばなれをよく示してるって、先輩たちからいつも嫌味を言われてたけど、今のあんたたちはあたしたちよりもっとひどいわねって」
「そんなことないよね。今の高校生にしちゃあたしたちって図書館に、よく行く方だと思わない?」
「まあね。でも、ここの図書館、あんまり面白い本がないんだもん。わりとカタい、まじめな全集とかばっかりでさ。そりゃ、そういうのはすごくよくそろってるけど」
「閲覧室がきれいだからいいよね。あの花のかたちしたランプみたいな灯の下の、緑色の机で本読んでると、ちょっと気分いい」
「だからさ、やっぱり、あのテラスの側のガラス戸が開いてたら、もっと気分がいいって思わない?」
さて、千代のへやに四人で押しかけ、あえなく追い返されてしまった数日後の夕方、学校帰りの立花朝子はカバンを肩にかけ、何冊かの本を手にして、カウンタ-のある二階へと、図書館の正面の広い階段を上っていた。
あいかわらず、どこか沈んだ表情だ。とはいうものの、上等の桃がやわらかいうぶ毛につつまれているような、バラ色のふっくらとかわいいその顔は、そうやってもの思わしげにしていても、あんまり暗い感じにも見えないのは、当人にとって損なのか得なのか微妙なところである。カウンタ-に座っていた司書の荒川嗣子先生も、朝子を見ると楽しそうににやっと笑って、身を乗り出した。
「どしたのよう?元気?朝ちゃん!」
荒川先生は三十前後だろうが、年はあまりよくわからない。美人ではあるが、けっこう厚化粧だ。
学生たちがしばしば噂するように、昔は図書館に学生たちで組織する図書委員会なるものがあって、図書館の運営や本の購入などについても自分たちで会議を開いて決定し、先生たちに申し入れていたらしい。七十年代の終わりごろ、その制度も自然消滅した。今では司書の先生に本の購入の全権がまかされている。もちろん、職員会議と学長の承認はいるが。
だが、この荒川先生に本のことがどれだけわかるのかは、どうも怪しい。一応、司書の免許は持っているはずだが、カウンタ-に座っている時は大抵化粧を直しているか、お菓子をつまんでいる。たまに本をめくっていてもマンガ雑誌か週刊誌。かわいい帽子や筆入れを見ると、「それ、どこで買ったのオ!?」と目を輝かせてしつこく生徒に聞く。
それでも、気さくで気だてがいいから生徒たちは嫌ってはいない。今日も朝子が返しに来た「世界怪奇小説全集第十四巻」と「吸血鬼伝説」の二冊をパソコンでチェックして後ろの棚のかごに入れ、朝子のカ-ドをボックスから抜いて返しながら「ごめんねえ」と、顔に似合わぬガラガラ声で言ったが、本当にすまないという気持ちが顔にも声にもあふれていた。「朝ちゃんがさ、この前買ってくれって頼んだ本、職員会議で皆否決されちゃった。スティヴン・キングのホラ-ぐらいはいいかなあと思ってたんだけど、やっぱりだめだった。あたしの説明も下手だったんだろうね。悪かったあ!」
「ううん、そんな!いいんです」朝子は首をふったが、でも、目に見えてしょんぼりした。「やっぱり、ここの学校じゃ、オカルトものの本って入れてくれないのかなあ。このごろじゃ、ちゃんとした作家の人だってそういうもの書いてるし、読みやすくって、面白いんですけどねえ」
「オカルトものに限ったことじゃなくて、何かちょっとでも怪しげなところのある本って皆だめみたいよ。南条さんはフォ-スタ-の『モ-リス』が否決されたって怒ってたけど、あれもホモセクシュアルが出るからねえ」荒川先生は黒く染めた指の爪が乾いたかどうか、そっとつついてたしかめた。「マンガとかも全然だめだし。よっぽどまじめで健康的な内容か、ばちっと評価が決まってる名作ででもなかったら、ここの先生たちってすぐクレ-ムつけるから」
「自由がモット-の学校なのに、変ですよね。それに、他のところじゃ、ここ、けっこう自由なのに」
「若いっていうか、あたしぐらいの先生たちだと、いいんだけどね。古くからいる先生たちが、ものすごく警戒すんのよ。『前にもああいうことがあったし───』とかぶつぶつ言って。そのこと、朝ちゃん、何か知ってる?」
「いいえ───何かあったんですか?」
「あたしも黙ってひきさがるのしゃくだから、このごろじゃ『ああいうことって何ですか?』って時々くいさがったりするのよ。それでもあんまり言ってくれないんだけど、もう二十年か三十年前、学内がかなり乱れたっつうか、変な本読んだりするのがめちゃくちゃ流行して、どうにも収拾つかなくなっちゃって、とうとう、この図書館の本、半分ぐらいが、いかがわしい本だからってことで廃棄処分になったらしいの。一時はここの書棚って、ほんとにガラガラだったらしいよ。でも、何よねえ、そんな昔のこと。セカンドインパクトじゃあるまいし。何十年も前のことなんでしょ、今はもうそうじゃないんだからさあ。第一、そんないかがわしい本、コンビニにだっていっぱい並んでるっていうのに、ちょっと時代錯誤だって思うんだよね、ここの先生たち」
「先生───声、高いですよ」
「うわ」荒川先生は亀の子のように首をすくめた。「やばいっつ-の。あたしもまだ、ここクビになりたくないし。あっ、ね、朝ちゃん、このごろ『オリ急』行く?」
「『オリエント急行』?いいえ───このごろ、ちょっと忙しくって──」
「そっかあ、聞いた聞いた!朝ちゃん、『三銃士』でポルトスやるんだよね。カッコい-い!」
朝子が消え入るような吐息をついて、がっくりカウンタ-に頭をくっつけたのを見て、荒川先生は笑いだした。
「だ-いじょ-ぶよ-!朝ちゃん、すっごくかわいいし、近くで見てもだけど、遠くから見ると、朝ちゃんのいるとこだけぱあっと華やかで幸せな感じで、そりゃあ、きれいなんだよ-。この前の『赤毛のアン』のダイアナだって、緑川さんのアンにちっとも負けてなかったじゃない?何でもやれるよ、朝ちゃんなら!」朝子が顔も上げないのを見て、荒川先生は朝子の耳に顔をくっつけ、ささやき声で話を戻した。「じゃ、行ってないのね、『オリエント急行』?」
荒川先生は、ユリちゃんやミカちゃんと仲よしで、休みの日などコ-ヒ-やジュ-スを次々注文して、一日店でだべっていたりする。そうやって町の情報をいろいろ仕入れてきては生徒たちにばらまくのも、この先生の罪のない楽しみのひとつらしい。
朝子は顔を上げた。「何かあったんですか、お店で?」
「ううん、それほどどうってことないんだけど、この前行ったら、な-んかさえないス-ツ姿のちっちゃい女の人がカウンタ-に座っててさ。目細いし、歯出てるし、すっごくしょぼしょぼした感じの。でも、ミカちゃんもユリちゃんも、ママも、けっこう緊張した感じで何かあいさつしてたから、その人が出てったあと、あたし、『誰よ、あの人?』って聞いたのね。したらさ、ママがにま-っと笑って、『新任の、警察署長さんよ』って言うんだもん。こけたわ-!」
「本当に?」朝子はびっくりして目を見はる。
「ほらあ、市長がねえ───」
「敷島市長───?」
「そうそ、あのおばさんがさ、町づくりの目玉か何かで、女性署長をひっぱってきたらしいの。前の署長が春にセクハラ事件か何か起こしてクビになったじゃない?女性市長のお膝元で、なんてマスコミに書きたてられたから市長、カツンときたらしくってさ。それで、これなら文句ないだろうって感じで女性の警察署長ひっぱってきたらしいんだけど、でも、さえな-い!あまりにもさえな-い!あまりにも、やっぱり、ちょっとあれじゃねえ。人間、見た目じゃないって言ったって、いくら何でもあれじゃさあ!」
「でも、やっぱ、署長さんなんだから───」
「能力はすごいとか?刑事コロンボみたいに?ど-かな-!?ママに『実力あんの?』って聞いたら、『知らないわよう、うちのお店はつかまるような悪いこと何もしていませんし』って。ま、そりゃそうだ。あら、でも、あたし、ごめん。すっかりあなたをひきとめてさ。また本借りる?」
「あ───いえ、あの───」朝子はガラスの仕切りの向こうの、閲覧室の方をちょっと見た。「誰か───演劇部の人、来てます?」
「さ、どうかなあ?今はもう、ほとんど誰もいないんじゃないかと思うけど」荒川先生も上体を倒して閲覧室の方をのぞいた。「まあさ、行って見てきたら?」
朝子はうなずき、やっぱり元気のない足どりで、仕切りの奥へと入って行った。

明るい閲覧室の中は荒川先生の言った通り、本当にがらんとしている。赤や青や灰色の背表紙に金色の背文字を光らせて、名作全集といったたぐいのお行儀のいい本が格調高くずらりと並んだ栗色の書棚が四方の壁を埋め、更にへやの中にも幾列も壁を作っている。その間に置かれた薄緑色の長い机の、同じ緑色の椅子の閲覧席には、ひとつひとつ備えつけになっている、釣鐘草の花のかたちのクリ-ム色のライトがあった。あちこちにそれがつけっぱなしになっている席はあるが、人影は見えない。朝子が左右に目をやりながら通路を進んで行くと、奥の方のすみっこの席に、例のころころ太ったミ-ハ-一年生早川雪江が座っていて、妙に真剣な顔でぶあつい本を何冊もまわりに置いて、その中の一冊を一生懸命読んでいた。
声をかけようかどうしようかと迷って朝子が立ち止まると、雪江が気づいて顔を上げ、たちまちはちきれるほど太った顔の小さな細い目を歓喜に輝かせて、飛び立つように椅子から立った。
「わあ、立花さん!」回りに人はいないのだが、図書室の中ということで、さすがに声はひそめている。
「こ、今晩は───」朝子も小さい声で答えた。
雪江とはクラスがちがうので、あまり話をしたことはない。那須野遼子と上月奈々子のファンでかなり気前よくカンパをしまくる子と聞いて、お金持ちなんだろうなと何となく朝子は思っていた。演劇部の上級生の何人かが雪江のことを話す時、ちょっと疲れたような苦笑や、いたずらっぽい目つきを見せることがあるのには気づいていたが、あまり深くは考えてみなかった。司やしのぶがそのことで何か話していたかしら──と朝子が記憶をさぐる間もなく、雪江が目を輝かせてささやき声で聞いてきた。
「『三銃士』のポルトスやるんだよね?今度は主役、皆一年生なんでしょ?すごいよねえ!」
「あ、でも───」この話題が出るともうさしあたりどこにでも、ふらふら座ってしまいたくなる朝子は、ついつい雪江の隣の椅子にカバンを抱えて腰を下ろした。
「なあに?」雪江がのぞきこむ。
「うん──」
愚痴はいろいろ言いたかったが、雪江にどこまで話していいものかわからない。上級生にいじめられているのだと言うのは、やっぱり何だかまずい気がした。
朝子が迷って、困っていると、雪江は勝手に納得し、同情をこめた目でうなずいた。
「練習、大変なんだよね?」
「うん。あたしってドジだから───」
雪江の前に積み上げられている本を見て、朝子は言うつもりだったことを皆忘れてしまった。
どれもずっしり厚い本の表題は「フランス王室の歴史」「ベルサイユ宮殿 -その光と影-」「貴婦人たちの休日」「ルイ十三世の時代」「世界の牢獄 その3 バスチ-ユ」「清教徒たちの戦い」───ふっくらかわいい唇を、だんだんぽかんと開けてしまった朝子の横顔を、雪江は半分ふしぎそうに半分うっとり見つめている。
「すご-い──」朝子はようやく声が出せた。「何でこんなの、読んでるの?」
「う-ん、『三銃士』の劇見る前に読んでたら、舞台見た時、楽しいんじゃないかなって。だってね、ほら、いろいろ連想とかできるじゃない?」
「でも、こんなの、よく読めるねえ!」
幸か不幸か、雪江がどんなたぐいの連想をするつもりでいるのかなどということには全然考え及ばなかった朝子は、本の多さと厚さとに、ひたすら圧倒され感動していた。
「いいわねえ、早川さんて。こんなの、どんどん読めるんだもん」しみじみ吐息をついて朝子は言った。「あたしもこうならいいのになあ。母もきっと喜ぶのに。いつもあたしに本読め読めって言うんだけど。国語の点がよくなるからって。自分も前に国語の先生してたんだよ。だからだろうね、きっと。でも、そんなこと言ったって、無理よねえ。あたしもともと、頭そんなによくないもん」
「あたしだって、頭ちっともよくないよ」雪江はちょっと目を伏せた。「本読むってことと、頭いいのってちがうもん。入試の成績だって、きっとめちゃくちゃ悪かったと思うよ。そもそもうかったのが奇跡だもん」
「あたしも!」そんな話ができる相手が初めて見つかったうれしさで、朝子は思わず小さく笑い声をあげた。「入試じゃ大失敗したから、きっと落ちると思ったの。ほんとは落ちてたんだと思うよ。母がずっと同窓会の役員してたし、父もいろいろ大口の寄付とかしてたから、きっと大目に見てもらえたんだわ。そんなんで恥ずかしくないのかって、兄にも姉にも怒られたけど、でも、あたし、どっちみち、こんなんだから、死ぬまで恥ずかしいことしないで生きていけるわけないんだし、しかたないよね───って思っちゃって。母も父も、あたしのこと思って、そうしてくれたんだって思うし」
「立花さんは、でも、頭わるくなんかないよ、絶対!」雪江は断言した。「成績いつも五番内じゃない?あんな長いせりふだって、ちゃんと覚えられるんだし──」
「言われることやってるだけで、他に何も考えてないもん。言われることやってたら、他のこと考えてる余裕ないっていうのかなあ──演劇部に入ったのだって、母に言われたからなんだよ。ここの演劇部、伝統あるし、大学入試の時なんかにもきっと役にたつからって。今、こんな処分うけて、演劇部が学校ににらまれてるって母が知ったら、きっと即やめろって言うわ」
「そしたら、やめる?」
「わかんない───やめたくないけど、でもあたし───わかんないなあ」
朝子の沈んだ表情をじっと見ていた雪江は、何を言ったらいいのかわからないようにしばらくもじもじしていたが、やがて思い切ったように「あの───」と言った。「困ったこととかあったら、いつでも言ってよね。何かあたしにできることあったら──」
すると朝子がぱっと目を上げ、一瞬その顔がさっと明るくなったようだった。
「今?」彼女は聞いた。
しかし、雪江がちょっとぽかんとすると、また目を伏せて口ごもった。「あ、───いいの───」
「今───って、今、立花さん、何か困ってるの?」
すると朝子はようやくまた顔を上げ、びろうどのようにつややかな大きな黒い目を、おずおずと雪江に向けた。「ちょっとね───」回りに誰もいないのに、彼女はあたりを見回した。「今度の劇でかぶる帽子、部室に忘れてきちゃったの───今日の夜の練習は、寮のホ-ルでやるんだのに───。それでね、取りに行こうと思ったんだけど──」声がまた細くなってとぎれた。
「あのう──」雪江は、しおれかえった朝子の顔をついついうっとり見つめていて、またはっと我にかえったように「どうかしてしまって、入れないの?カギがかかってしまってるとか?」
「カギはあたし、持ってるの。ということは、だからあの───今、部室には誰もいなくて、真っ暗で───あたし、そりゃ、バカみたいなのはわかってるけど」朝子はつばを呑み込んだ。「早川さん、知ってる?あの、あたしたちの部室の───奥のへやの壁に絵が描いてあるのよね──もう、壁いっぱいに全部──知らない?」
「ううん、知らない。どういう絵?」
「何だか、とっても恐い絵で───。昼間、皆といっしょにいる時でも、あたし、あれ見るの恐いの。あんな絵のある暗いへやに、ひとりでなんて、とても行けない!でも行かなきゃ帽子をどうしたのかって、きっと峯さんに聞かれるし───それでもう困っちゃって、どうしていいかわからなくなっちゃって──」
「そんなんでいいんだったら」雪江は、自分のすることができたのがうれしくてたまらないとでも言うように、もどかしげにがたごと椅子を動かして立った。「あたし、行ってきてあげる!帽子、取ってくればいいんでしょ?カギ、貸してくれたら、すぐ!」
「そんなのだめ、そんなの悪いよ」びっくりしたように首をふりながら、ほとんど反射的に、朝子も椅子から立ち上がっていた。「行ってくれるんだったら、あたしもいっしょに行くよ───」

スイッチが入って、天井の灯がぱっとつく。たちまち、へやの壁いっぱいに、あのふしぎな絵がうかびあがった。緑の森、白い岩山、灰色がかった戦場、そして、赤い光につつまれた空き地───へやの中が一応きれいに片づいて、パソコンをのせた机や、低い棚やソファ-が四方におかれているだけで、中央はがらんと広く空けてあるので、絵の迫力がいっそう目立つ。
「すごいでしょ───」
口の中で雪江に向かってつぶやいたものの、朝子は自分自身は床に目を落としてしまって、絵の方をほとんど見ていない。だが、そんなことにも気づかないように雪江は太ったあごが胸につくほど「うん───うん!」と熱心に何度もうなずき、ぼうっとした目で絵に見とれていた。
「かっこいいなあ───きれいだよなあ───きゃ~、嘘~、すてき~」
自分でも気づかないで、ひとりでにこぼれ出るように、そんな言葉を夢中でぶつぶつ繰り返しながら、雪江は壁ぞいに移動している。
「きゃ~、この死にかけてる苦しそうな顔の男の人って───」と言いかけた時、雪江は朝子とぶつかった。
どうやら雪江が絵に見とれて、ぐるぐる移動していた間中───かどうかはわからないが、かなり長い間、朝子はそこに棒立ちになって何かを見つめて立ちつくしていたらしいのだ。
「帽子、見つかった?」雪江はぶつかった朝子の腕につかまって、身体を支えながら聞いた。
うなずくとも首をふるともつかない奇妙な頭の動かし方をして、朝子は逆に雪江の腕をつかみかえして、あえぐような声をもらした。
「あ───あれ───あたしの帽子、だけど───」
大柄な朝子の身体のかげからのぞくようにして、雪江は朝子の見つめている方を見る。ソファ-の上に投げ出すようにおかれている、黒に近い深い藍色の、広いつばがうねった大きな帽子。黒いひらひらした大きな羽飾りがついていた。
「あたしの帽子───」ふしぎそうに見上げた雪江に、何か説明しなくてはと必死になっているらしく、朝子は声をしぼり出す。「あそこにおいたの、あたしだし───つばのところがちょっと白く汚れてるのも、たしかに───あれは、あたしのなんだけど───羽飾りの色がちがってる───」
「え───?何───?」
「羽飾りの色で、帽子が誰のかわかるようになってるの。しのぶは白、司は青、みどりは黄色───あたしのは赤。さ、さっきまで赤だったのよ!」
声がうわずり、かすれてとぎれた。自分よりずっと小柄の雪江に守ってもらおうとでもするかのように、ひしと朝子はしがみつく。力まかせに抱きしめられて雪江は目を白黒させ、どもりながら言った。
「だ、誰かの───いたずら?」
「カギは、ずっとあたしが持ってた───誰も、このへや、入れないはずよ!もういや───あたし、もういや!がまんできない、こんなの、もう───」
朝子は全身ぶるぶると木の葉のようにふるえている。床にずるずる膝をついて、小さい子どものように彼女は、雪江の胸に顔をくっつけて埋めてしまった。
「しっかりして、ねえ、しっかりして───」雪江は途方にくれたように繰り返し、朝子の髪をなで、帽子を見、壁画に目をやり、うろたえきって口ごもった。「大丈夫だよ、何とかなるよ。きっと何とかなるから、ねえ、立花さん、心配ないよ、大丈夫───」
ようやく朝子は顔を上げたが、それでも帽子の方は見ない。朝子をひきずるようにして雪江はいっしょにソファ-に座った。帽子をひきよせ、羽飾りをひっぱると、ひらひらした黒い羽はいともあっけなく根元からすぽりと抜ける。羽飾りを床に捨てて、雪江は帽子を朝子の頭にかぶせた。
「羽とったから───ほら、もう───元気出してよ、立花さん!」
朝子はやっぱり、ものも言わない。雪江にしがみついた両手はまだ細かくふるえ続けている。
「このへや、絶対、何かおかしい───」蚊の鳴くような声が、帽子の下からようやく聞こえた。「あたしたち、絶対、何かにたたられてる───おはらいか何か、してもらえたらいいんだけど!でも朝倉さん、そんなこと、きっといいって言わないし。でも、このままにしておいたら───何かおこるわ、何かきっと、恐ろしいことが───」
わななく手で帽子をつかみ直しながら、朝子は何かを決心したように座りなおした。一生懸命目を上げて、彼女は壁の絵とまともに向き合った。
「どこか、神社かお寺があったら、───せめて、お守りとか護符とかもらってくるんだけど───それか、どうしたらいいのか、ちゃんと聞くんだけど───ないよね、この近くに、お宮もお寺も───」
「うん、海岸通りにはね。あ、でも───」何かに思い当たったように、雪江はちょっと言葉を切った。
「───何?」
「運河の近くの石段のところにいつもいる占いのおばさんが、よくあたるって評判だけど。うちのクラスの女の子たちが、ときどき見てもらってるよ。好きな人にこっちを向かせるおまじないとか習って来てたりして。そういう人でも役にたつ?」
「占いのおばさん?」
「うん───知らない?」
「見たこと、あるかもしれないわ」朝子はいきなり立ち上がり、床の上のカバンを拾った。「運河のそばよね?あたし、今から行ってくる!」
「練習は?どうするの?」雪江がうろたえて叫ぶように言った。
「七時からだもん、間に合うよ。皆まだ、ごはん食べに行ってるし。何か───何かしなくちゃ、こんな気持ちのままで、あたし、とても、練習になんか行けない!このへやにいられない!」
どこか、憑かれたようなまなざしで朝子はへやから飛び出そうとし、ドアのところで振り返った。「早川さん───出るよね?」
「え?あ、───う、うん!」
雪江はあわてて、ぼんやり座りっぱなしていたソファ-から、飛び上がるように立つ。灯を消してドアにカギをかけるのももどかしく、手に手をとりあうようにして、二人の少女は演劇部室を飛び出した。

夏の日は落ちるのが遅い。図書館の外はまだ明るく、石垣の向こうに広がる海の色も青かった。図書館の正面入り口の階段をかけおりようとした朝子と雪江は、ちょうど上がってきた田所みどりと危うくぶつかりそうになった。
「───どうかした?」二人のただならぬ様子に、驚いた顔でみどりが聞く。
「あとで話すわ!」朝子は叫んで、階段をかけおりて行った。
「運河のそばの、占い師さんのとこに行くの───あの、帽子の羽が黒くなってて、それで───」事態を何とか説明しようとして結局わけのわからないことを口走るしかなかった雪江は、じれったそうに意味もなく、太った手足をばたばたさせると、朝子の後からそのまま階段を走り下りて行った。
みどりはあっけにとられたように、二人を見送っていたが、いきなり振り向くと階段をかけあがり、閲覧室に走り込んだ。びっくりして、まつ毛のカ-ラ-を放り出して立ち上がった荒川先生の前に、カバンからひっぱり出した数冊の本を急ぎながらもていねいにそっと置きながら、みどりは早口に言った。
「これ、返却します!図書カ-ドは明日いただきに来ますのでっ!」
そのまま、身をひるがえして閲覧室を飛び出したみどりは、階段をかけおり、走って朝子たち二人の後を追った。

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