小説「散文家たち」第34章 消えた家

糸のように細かい雨が、朝からしとしと降り続いて、暑さは少しやわらいでいた。どことなく、秋の気配さえかすかに感じられる涼しさである。
田所みどりは、ベッドの上で、重ねた枕に背中をもたせて、赤い表紙の世界文学全集の「風と共に去りぬ」を読んでいた。足元の床の上では、美沙の焼いたオレンジケ-キを持ってきた早川雪江が小犬のように座り込んで、文庫本の「木曜の男」のペ-ジをめくっている。
「月曜と水曜って、カッコいいなあ。金曜も何か、いいなあ。サイムも、ちょっと素敵だよね」雪江は、ため息をついた。「これ、学園祭でやるの?田所さんは、何の役?」
「今度は、舞台には出ないの。照明担当なのよ」みどりは答えた。
「その方がいいよね。少し休まないと、ずうっと主役じゃ疲れちゃうもん」雪江は同情をこめた中にも、うっとりしたまなざしで、みどりのやつれた顔を見上げた。
窓際のソファ-の上で、「風と共に去りぬ」のスカ-レットが着る緑色のドレスを広げて、肩に大きな薄緑色の花飾りを縫いつけていた新名朱実と村上セイが、ちょっと笑ってこちらを見る。そのそばの椅子に座って、赤い小さな針箱を開いて、栗色のベルベットの布で、レット・バトラ-の上着の襟を作っていた緑川優子も、首をかしげて微笑んだ。
階段をかけあがって来る足音がして、峯竜子があわただしく飛び込んできた。
「おいおい、みどり!」彼女は言った。「あんたの言ってた、あの家なあ、こわされてたってよ!」
「え───?」まだ本の世界から完全に戻っていない、ぼんやりした目で、みどりが竜子を見る。「何ですか?」
「あの、おばあさんが一人で住んでいるって、あんたが言ってた、『アランフェス』の近くのさ!あれから何度か行って見たけど、いつも戸が閉まってて、留守だったんだよ。そうしたら、今日、さっき食堂で、王銀花と志津谷綾に会って、いっしょにしゃべってたら、あの二人が言うにはさ、その家なら、ビルの間にぽつんと残ってる空き地の花やら草やらいっぱい茂った中にあって、変な家だなあって、いつも思ってたけど、二三日前通りかかったら、クレ-ン車が来て、家をがしゃがしゃ壊してたって。手前の壁がなくなってるから、クッションおいたソファ-とか、棚の中の人形とかが皆、外から見えていて、舞台の上の家みたいな、不思議な感じがして、人の暮らしがまるごと崩されていくようで、二人ともしばらく見ていたらしいよ」
みどりは何も言わなかったが、やがて、本を閉じて、そばのテ-ブルに置き、ベッドからすべり下りて、窓際の壁に作りつけの洋服だんすの方へ行った。
「みどり、まだ出かけちゃだめだよ」竜子が声をかけた。「もう少し寝てた方がいいって、浜本先生、言ってたろ?」
「峯さん」みどりは、シャツとジ-ンズをひっぱり出して、テディベアの模様がついたクリ-ム色のパジャマの胸に抱えたまま、振り向いた。「あたし、あの家に行く」
「ちょい待ち、そんな無茶な。雨、降ってるし、あんたのその顔色───第一、もう、二三日前、壊されてたって言うんだから───」
「お願い───」みどりは声をしぼり出した。「峯さん。あたしを、連れて行って」
かりに今、みどりが司と並んで立ったとしても、似ていると思う者はなかっただろう。十日近く寝ていたというだけではなくて、みどりはやつれきって見えた。すきとおるように白い顔に目だけが熱っぽい光を帯びて大きく開かれ、頬や首筋の肉はそげ落ち、パジャマの上からでも細くなったことがありありとわかる身体は、まるで影のようだった。それだけにまた、まなざしや声には一種異様な迫力があり、けおされたように竜子はうなずいた。
「わかった。いっしょに行ったげる」
みどりが微笑み、着替えはじめる。朱実とセイ、優子と雪江は皆それぞれに、仕事の手をとめ、不安そうな顔を見合わせていた。
「おばあさんって、何の話?」セイが小声で竜子に聞く。
「後でゆっくり話す」竜子も小声になって答えた。「朝倉さんたちにも、ちょっと報告しときたいんだが、あの人たち、今日、どこだ?」
動く予定表のセイは、例によって考えもせず、すらすら答えた。「朝倉さんは十一時まで予備校の朝の補習クラスに行って、それから『オリエント急行』に行くって言ってた。南条さんは朝、町で買い物してから、そこに合流する。美尾さんも、しのぶも、和子も、通子も、朝からそこに行っている。あの店が今日、お店やテラスの夏のものをしまって、秋用のコ-ディネイトに変えるから、その手伝いをするんだそうで、多分、三時か四時までは皆、あそこにいる」
「わかった。じゃ、帰りにそっちに寄ろう」竜子はうなずき、着替えおわったみどりの身体に手を回すようにしながら、へやを出て行った。

南条美沙は、白地に緑の小さい花がいっぱい散っている模様の傘をさして、バスセンタ-の裏側の、ちょっとごみごみした通りを歩いていた。車も通りそうにない細い道に、マッサ-ジ医院の看板や、昔ながらの海産物の干物の店などが雑然と並んでいる。その一角に灰色とクリ-ム色の、造りはちゃちだが、けっこう新しい二階建てのアパ-トが建っていた。美沙は片手に持っていた小さい紙をのぞきこみ、そのアパ-トの前で足をとめる。 占い師の女の声が耳によみがえった。
「もっと、詳しい話が聞きたかったら、お嬢さん。私の家に来て下さい。朝の内だったら、いますから。お互いに知っていることを話し合ったら、もっと何かがつかめるかもしれません。あなたが私の知りたいことを教えてくれれば、私も自分の考えていることをお教えしましょう。特別料金はいただきませんよ。普通の占いってことでいいです」
丁寧に傘をたたんで水を切り、美沙はゆっくり階段を上った。二階の、真ん中近いへやの前に立ち止まって、表札を確認する。郵便受けにはりつけた汚れた白い紙に「ベリ-・マヤ・石堂」と気どった書体で書いてあった。
しばらくそれを見ていてから、美沙はチャイムのボタンを押した。

美沙がいるあたりからは、藻波市の中では、かなり離れたところになる細い路地を竜子とみどりは歩いている。
道の細さは同じだが、ここは周囲が高いビルばかりで、それも裏通りだから、人の気配がまったくない。雨だけが静かに音もなく、建物にくぎられた小さい空から降り注いでくる。すぐ近くに表通りがあるはずなのに、車の音も雨に包まれてかき消されるのか、あたりはしんとしていた。
竜子の大きな紺色の傘の下に身体を寄せ合うようにして、二人は歩いていたが、弱り切っているはずのみどりの足の方が速く、竜子はともすれば追いつけなくなって、小走りになる。
そのみどりが、角を曲がって突然ぴたりと足をとめた。そのまま、途方に暮れたように彼女はあたりを見回した。
細かい細かい、霧のような雨があたりに広がっている空き地には、もう何ひとつ残っていない。家はもちろん、生垣さえも。掘り返された赤い土が雨にぬれて一面に広がり、あちこちに本当に小さい、両手で包めるほどの瓦礫の山があるだけで、材木などもとっくにもう片づけられてしまっていた。
回りにそびえる高い灰色のビルの壁の中で、空き地はとても小さく見えた。こんなところに家が一軒建っていて、人が住んでいたとは思えなかった。老女がここで生きていた痕跡は、何ひとつ残っていない。蚊とり線香をのせていた白い大きな貝殻も、玄関の薄暗がりの中にぽっかり開いていた花のような傘も、壁にはりつけてあった大小さまざまの絵はがきや切り抜きも、すべてが、まるで一度もこの世に存在したことなどなかったように、かき消すように消えていた。
老女は、どこに行ったのだろう。
死んだのか、入院したのか、誰かにひきとられたのか。聞こうにも、あたりに人影はなく、背を向けているビルの壁ばかりで、店も、人の住まいも見えない。町の真ん中だというのに、そこは砂漠か海の上か、宇宙のはてのようだった。
みどりが身体を震わせて、無言で竜子にしがみつき、その胸に顔を埋めた。一段と細くなって今にも消えてしまいそうな、わななく身体を抱きしめながら、竜子もわけのわからない恐れにかられて身震いした。
老女は、誰かに消されたのか。
それとも、これは世間でよくあることか。ひっそりと生きていた独り暮らしの老人が死ねば、こんなことは皆、どこででも、普通に起こることなのか?

喫茶店『オリエント急行』の店の中は、外のうっとうしい雨模様も吹き飛ばすような、少女たちの明るい声が入り乱れていた。世にもうれしそうな顔をして、乾いた布で座席をきゅっきゅっ磨いている司と、せっせとほうきですみっこのごみをかき出している和子の向こうでは、朝子と眉美が梯子に上って、ひらひら薄い水色と白のカ-テンを、秋らしいどっしりとした黄金色の布にかけかえている。壁にかかった白い大きな帆船の絵もはずされて、砂浜の流木の写真に入れ替えられようとしていた。
「ねえ、しのぶ、どこ?」さつきが大きな声で聞く。「この額を持ち上げてほしいんだけどな。テラスに行ってるんだろうか?」
「そうみたいです」忙しく働いて、ほっぺたを赤くしている司が、生き生きはずんだ声で答えた。「朝倉さんや日村さんといっしょに、テ-ブル入れ替えて、照明の位置も動かすって言ってたから」
「美沙もそっち?」
「いや、南条さんはさっき来て、ミカちゃんといっしょに、後で皆で食べるケ-キ焼いてくれるって言って、キッチンの方に行ってます」
「了解!───あ、ママ、ごめんね」さつきはカウンタ-の中の女主人にあやまった。「一応、お客さんもいるのに、騒々しい声出しちゃって悪い」
いいのよと言うように、ママは軽く片手を上げた。
「おなじみさんだから、少々のほこりと音は我慢していただきます。だって表には、お休みの札出しているんですもの。それでもコ-ヒ-飲みたいって入って来られたんだから───おかわりいかがですか?署長さん?」
「ああ───そうねえ───」カウンタ-に座っている警察署長の灰川百合子は、いっこうに似合わない、赤いス-ツの襟をひっぱって、あいまいに笑った。何かにびっくりしているような、色の薄いどんぐり目、低い鼻と出っ張った歯のぱっとしない顔だちの上、表情も沈んで暗く、自信がなさそうなものだから、冴えなさを絵に描いたようで、魅力のないことおびただしい。
「今日は、あの子たちはいないのねえ」彼女はぼんやり、目を動かした。
「どの子───?ああ───そう言えばそうですね」ママは笑って、さつきの方に声をかけた。「さつきさん!今日は那須野さんと上月さんは?」
「あ、あの二人は、たしか今日、『風と共に去りぬ』の衣装ができて、着てみなきゃならないって言ってたから、まだ寮にいるんじゃないかな、衣装係の連中と。今回、ヒ-ロ-とヒロインなんですよ、遼子と奈々子」
「スカ-レットとレット・バトラ-なんですか?うわあ」椅子の上に立って、天井近くの窓ガラスを拭いていたユリちゃんが声をあげた。「カッコいいでしょうねえ。早く見たいなあ。『チボ-家の人々』の奈々さんのジャックと、那須野さんの政府の高官って、ほんっと、すてきでしたもん」
「峯さんの演出がよかったんだって、ミカちゃんは言っているのよ」ママは笑って、さつきに教えた。「今は、何をやっているの?」
「あ、今はちょっと、つなぎって感じで、半分、お遊びの『一幕物』シリ-ズ、やらせてもらってます」さつきは大きな植木鉢をひっぱって動かしながら、答えた。
「有名な長い話の、あらすじをコピ-して、来た人に配っといて、その中の一場面だけをやっちゃうんです。最初と最後に前後の筋をナレ-ションでつけて」
「何か、面白そう」ユリちゃんが言った。
「とても劇ではやれそうにないのがやれるって点ではいいよね」さつきが身体を伸ばしながら笑う。「『嵐が丘』とか『レ・ミゼラブル』とか『戦争と平和』とか『十二国記』に『封神演義』、『大地』に『クオ・ヴァディス』に『八犬伝』に『水滸伝』、『オデュセイア』から『静かなるドン』、『源氏物語』に『平家物語』って、もうもう、何でもありですよ」
「ちなみに、今夜は?」ママが聞く。
「『失われた時を求めて』じゃなかったかな。おばあさんとお手伝いの会話がずうっと続くだけですけど。ほとんど『あの人の一日』シリ-ズって感じですよね。明日はボ-ルドウィンの『もう一つの国』。イ-ヴとエリックの旅先の場面。あ、何かこれも『一日』シリ-ズっぽいなあ」
ママとユリちゃんといっしょに、さつきが笑っていると、ドアが開いて、竜子とみどりが入って来た。

竜子が大きな傘をたたんでいる間に、みどりは、さつきのそばに来た。「遅くなってごめんなさい、美尾さん。何、したらいい?」
「おお、来てくれたか」さつきは首にまいたタオルで顔の汗をぬぐいながら、もう片方の手をみどりの髪にのせてくしゃくしゃにかきまわしたが、すぐに眉をひそめて、「カウンタ-に座って、あったかいミルクでももらって飲んでなよ」と命令した。「まだ寝てた方がよかったんじゃないの?無理しちゃだめだよ、ベスお嬢さま」
「でも───」
みどりが何か言いかけた時、灰川百合子がかたわらから、突然声をかけてきた。
「ねえ───みどちゃんじゃないの?片山の───」
とびあがって振り向いたみどりの肩が、さつきの胸にぶっつかる。幽霊でも見たかのように、たじたじとあとずさって、みどりはさつきに半ばもたれかかりながら、カウンタ-にも片手をついて危うく身体を支えたようだった。
「やっぱりィ!みどちゃんだよねえ?」百合子の顔はなつかしそうに輝いて、別人のように明るく、優しくなっていた。「どうしたの、あんた、篠原高校に行ったとばっかり思ってたのに。転校したの?」
「灰───灰川のおばさん───?」 みどりは、凍りついたような表情になっている。さつきが、けげんそうな目を、みどりと百合子の頭越しに、竜子と見交わした。
「ええ、転校したの───」小さい声で、みどりがようやく、つぶやいた。
「あっ、そう!?」百合子はうなずく。「じゃ───みどちゃんは今、二年生だっけ?しのちゃんが、一つちがいで、たしか一年生だよね。うちの太郎と同じだから」
「今、一年なの。一年から入り直して───あたし、あの、一年の途中で、あっちの学校、やめたから──」
「そっか───いろいろ、あったもんね。お父さんとお母さん、結局、あのまんま?」 「ええ」みどりは、小さくうなずいた。「別れました。それで───今、あたし、母といっしょなの。母は元気で───おばさんたちに習った彫金、今もやってます」
「ふうん、よかった。心配してたのよ。渚さん、あの頃ずいぶん、何かねえ、あんな風だったから、みどちゃんたちも苦労したよねえ」
「おばさん、今度また、ゆっくり───」
「そう、ごはんでも食べようね。お父さんや、しのちゃんとは、時々会う?」
みどりは、一瞬、また返事につまった。さつきが、かすかに首をかしげながら、じっと耳をかたむけているのを、背中で感じているに違いなかった。みどりが黙っているので、百合子がまた聞いた。
「しのちゃん、いっしょじゃないんでしょ?お父さんとこにいるんでしょ?」
「そうです───あの子───」
「大きくなったでしょうね。小さい時から、お姉ちゃんのあんたより、ずっと身体が大きかったもの。それなのに、よく舌も回らないのに『お姉さま』なんて、みどちゃんのこと呼んでさ、みどちゃんも『しのぶさん』なんて言ってね──『お姉しゃま』とか『しのぶしゃん』とか聞こえるぐらい、まだ二人ともちっちゃかったのに───しつけのいいおうちの子はちがうね、あの呼び方が何とも言えずかわいいねって、幼稚園の保母さんやお母さんたちの間じゃ、いっつも評判だったもんね、知らないでしょう?」
「うん───知らない───」
ため息のようにうなずいて、みどりは力つきたように、カウンタ-の椅子に腰を下ろして、うつむいてしまった。百合子は心配そうにのぞきこむ。
「どうかした?」
「風邪ひいたんですよ。でも、もう治りかけてますから大丈夫」さつきが陽気な声で言って、後ろから、みどりの肩を軽く抱いた。「署長さん。しのぶも、この学校にいるんです。仲のいい姉妹って、あたしたちの間でも評判ですよ」
「あら!しのちゃんもなの?」百合子は、びっくりしたようだった。「あ、それで、みどちゃんも転校したの、ここに?」
「父や母には、内緒なの。二人が一緒の学校にいること───」みどりは目を上げ、百合子を見た。「黙っていてね。おばさんも───」
「いいよ。いっしょに、いたかったんだ?」
「それもあったし、父と母───もとみたいになってくれないかなって思ったんだけど───あたしたち二人で、何とかできないかなって───」
「でも、それはみどちゃん、無理だよ」百合子は首を振った。「ああなっちゃったら、何ていうのか───あんたたちが幼稚園の頃からもうずっと、お母さん、ああだったろ?病気みたいなもんだもんね、しかたがないよ。でも、子どもとしちゃそうだろうね───あんたたち、ほんとに仲がよかったしね──」
「うん、わかってるよ。灰川のおばさん。もう、あたしたちが望んでたようにはならないってこと。父は、再婚したの。母も、好きな人ができたみたいで、もうすぐ、いっしょに暮らすことになってる」
百合子は何度もうなずいた。
「きっと、その方がいいんだよ。あんたたちのお父さんもお母さんも、ちがう相手だったら、うまくやっていけると思うよ」百合子は笑う。すると前歯がのぞいて、彼女はかわいい子ネズミのような、とても愛嬌のある顔になった。「お父さんやお母さんの新しい人とのこと、邪魔しちゃだめだよ」
「しないわよ」
「あんたたちなら、やりかねない」百合子は、苦笑して、さつきを見た。「しのちゃんとみどちゃん、けっこう、思い切ったいたずらするんですよ。幼稚園で、うちの息子の太郎と仲好しだったんだけど、息子がいじめられそうになると、二人でいじめっ子をやっつけてくれたりして。そりゃ、しのちゃんは身体も大きくてけんかも強かったけど、二人で組んで計画たてるのも上手でねえ。お友だちをまとめて、あっというようなこと、やってのけるんだから。サンタクロ-スが中につまってるってだまして、皆にスト-ブくぐらせて真っ黒にしたり、幼稚園の屋根の上にミッキ-マウスの大きな落書きしたり、ね」
「父の結婚式に何かしようかとは、ちょっと考えたわ」みどりが小さい声で言った。
「そら、ごらん!だめよ、もう、そんなことしちゃ。ほんとに、今度、しのちゃんと三人で、ゆっくり、ごはんでも食べよう」百合子は時計を見て立ち上がり、ショルダ-バッグを肩にかけた。「会議があるから、もう行くわ。風邪を早く治しなさいよ」
「うん。太郎ちゃんによろしくね」みどりは微笑んで百合子を見上げて、しっとり優しい声で言った。「大きくなったよね?」
「身体だけはね。でもあいかわらず、弱虫さんでさ」
しぐさまで何だか、さっそうとなって、百合子はてきぱきお金を払い、みどりの腕をぽんとたたいて、「またね!」と言って、出て行った。

しばらく、誰ひとり動かなかった。司や朝子たちも、とっくに手をとめて、ちらちら顔を見合わせながら、カウンタ-のみどりの方を見つめている。ママとユリちゃんも、わけがわからないなりに気まずそうに口をつぐんでいた。
「ユリちゃん。美沙を呼んで来て」さつきが言った。「ケ-キはどうなってもいいからって言って」ユリちゃんがうなずいてキッチンに入って行くと、さつきは今度はママに向かって言った。「ママ、ごめん。夕方までには必ずここの仕事終わらせますから、三十分だけ時間をください。テラスを使わせていただけますか?」
「そんなこと、かまわないけど、さつきさん───どうするつもり?何をするの?」
「そりゃ、この人の返事次第ですよね」さつきは、みどりの腕をつかみ、ひっぱり上げるようにして立たせた。「テラスに来て、皆に事情を説明してもらおうか、田所さん?」 キッチンから、エプロンをはずしながら、美沙が出てきた。「どうかしたの?」
「ちょっとテラスに来て。司、あんたたちも」
朝子と眉美が顔を見合わせながら、梯子から下りて来る。竜子も太いため息をついて、みどりをひっぱってテラスへの階段を上って行く、さつきの後を追っかけた。

もう、雨は上がっていて、空はほのかに明るくなっている。テラスの上で、テ-ブルかけをたたんだり、手すりにかかったガラス玉の飾りを外したりして、忙しく働いていた、京子と通子、それに片山しのぶとは、さつきたちが上がってきたのを見ても気にとめなかったが、すぐに、その奇妙な雰囲気に気がついて、次々、仕事の手をとめた。特にテ-ブルの上にかがみこんで、新しい配置の照明の図面を見ていたしのぶは、すぐにそこを離れて、みどりのそばにやって来た。
「どうしたの?」彼女は低い声でたずねた。
さつきは無言で、しのぶを押し退け、椅子の一つをひきよせて、みどりをその上に押しやった。
「いったい、どういうことなのか、説明してよ。田所さん」彼女は静かな声で言った。「今、下で、あのおっちょこちょいの警察署長がべらべら口をすべらせてしゃべってくれたことによると、あの人の子どもと、あなたと片山さんは、同じ幼稚園に通っていて、母親どうしも知り合いで、それで?片山さんとあなたって、姉妹なの?ご両親が離婚して、お父さんとお母さんに、それぞれひきとられて、それでもいっしょにいたくって、ご両親をできたら再婚させたくて、あなたはいったん入った高校を中途退学して、妹さんと同級生になって、この学校に入り直した?でも、ご両親はもうそれぞれに好きな人がいて、皆がいっしょに暮らせる望みはなくなった?だから、あなたたちが、ここでいっしょにいることは、ご両親には内緒?それは、それでもけっこうよ。あなたたちの問題だわ。でも、それじゃいったい、この間からのレスビアンがどうのこうのという、あの人騒がせな噂は何なのよ?それとも、ひところの少女マンガによくあった、実の姉妹でレスビアンってパタ-ンなわけ?まったくもう、人をバカにするのもほどほどに───」
「美尾さん」しのぶが割って入った。「私から話します───話させて下さい」
「しのぶさん!」鋭い、みどりの声が響いた。「あなたは何も言わなくてもいい。何も話す必要はないわ」
彼女は、誰の顔も見ていなかった。手すりの方に目をそらしたまま、乾いた低い声で、彼女は言った。
「私たちが姉妹でないとも、レスビアンだとも、言った覚えはありません。皆さん方がこっそり見たり、聞きかじったりしたことから、勝手に推測なさっただけです」
「───そういう言い方、するわけね!?」さつきが鋭く、短く笑った。
「そうなのかとも、そうでないかとも、誰もあたしたちに聞かなかったわ」みどりの声は落ち着いていて、冷たかった。「疑って、決めつけて、思わせぶりに遠巻きにして、見ていただけじゃありませんか?」
「それはねえ、そうしかしようのない雰囲気を、そっちが勝手に作ってたからよっ!」さつきは、かみつくように言った。「人にさんざん、気をつかわせて、居心地悪い思いをさせて、面白がって笑ってたわけ?あんたは、いつでも、そうなんだから!悪いことしてもいないのに責められるのが、そんなに快感?潔白なのに弁解もしないで、後で皆に身も世もない思いをさせるのが、そんなに楽しいのっ!?」
「ちょっと、美尾さん!」竜子が、さつきの腕をつかんだ。「みどり、病人ですよ。やめて下さい!」
「そのことだって、腹が立つのよっ!」さつきは頭を振り上げた。「いつだって、かわいそうな被害者、誤解された殉教者みたいな位置に、自分を持って行ってるとしか思えないわっ!この人を責めた人は、皆、悪役になるのよ、それって、この人の計算ずくじゃないの?田所さん、言っておくわよ。覚えのない罪で人に自分を責めさせて、最後に真実がわかった時、回りの人にいてもたってもいられない思いをさせて後悔だの反省だのさせるのなんて、悪趣味だわっ!人間を本当に愛している者は、決して、そんなことしないんだからねっ!小説だったら、終わりの五ペ-ジ、劇や映画なら最後の五分で、お父さんだの恋人だの友人だの主君だの子どもだのに、『知らなかった、悪かった、すまなかった、許してくれ』ってあやまられながら、にっこり笑って死ぬのなんて、本人は気持ちいいかも知れないけれど、それって、ほんとは、鈍感で、ひとりよがりで、最低なのよっ!あんたのやり方、あんたの生き方って、結局、いつでも、それをねらってるのがミエミエでしょうがっ!いいかげんにしなさいよねっ!!」
灰色のほのかに明るい空から落ちる光の中で、その時、みどりが、ゆっくり椅子から立ち上がった。
面とさつきと向かって立つと、少し小柄なだけではなく、やつれて細くなった身体はいかにも弱々しくて、青ざめきった小さい顔には、熱のせいかじっとり汗がにじんでいて、それでも、その目に燃え上がる怒りは、京子や美沙にさえ見られない、すさまじさと冷やかさをたたえていた。
「───黙って言わせておけば、何です?」彼女は低く、言い返した。「罪を着る?ぬれぎぬ?悪いことしたふりをする?何がです?レスビアンのふりをすることが?つまり、美尾さんは、私がレスビアンでなかったことがわかったら、それは私が潔白だったってことになるって言ってるでしょう?レスビアンって、罪なんですか?恥ずべきことだったんですか?私がそうだと思わせておいて、そうじゃなかったっていうことは、罪を犯したように見せて、犯していなかったことで、だからバカにしている───美尾さんが言ってることって、そういうことになりますよね?」
「ちょっと待て、それはちがうだろ───」
「ちがいませんっ!」火を吐くような激しさで、みどりは絶叫した。「美尾さんがさっきから怒っているのは、結局、そういうことでしょう!?常識にとらわれないで、自由奔放で、強いものには何でも反抗するっていう、あなたのセ-ルスポイントが、見せかけだけの嘘っぱちだっていう自分の正体見るのが恐いからじゃないですか!?あなただけじゃないわ。南条さんだって、朝倉さんだって、あたしとしのぶが、女同士で愛しあってるかもしれないって知ったとたんに、態度が変わったじゃないですか。お話の世界ならいい、冗談なら許せる、だけど、本当に、真剣に、そういうことする人間が目の前にあらわれたら、ひとたまりもなく動揺して、嫌悪した。何が、大地の女神なの!理性派が聞いてあきれるわ!」
「お姉さまっ!」しのぶが、みどりの腕をつかんで激しく強くゆさぶった。「もういいから、やめなさい!たくさんよっ!お願いだから、もうやめて!」
しかし、みどりは荒々しく首を振り、身体をゆすって、しのぶの手をふりはらった。
「それだったら、それらしくしてよっ!何にもわかっていないくせに、もののわかったふりしないでよっ!偏見をふりかざす人たちの偏見より、そんなものないような顔してる人たちの偏見の方が、よっぽど人を傷つける。この演劇部が公正で自由で新しいものをうけいれる世界だなんて嘘っぱちはもうやめて!あたしは、ここの、この演劇部の正体を見たわ!ええ、そうよ、美尾さん。レスビアンだと誤解されるのって、快感だったわよ!あなたたちの、とまどった顔、はれものにさわるような態度、あたしたちのベッドシ-ンの一つ一つを想像しては打ち消している目。そういうものを味わうたびに、わかったわ。本当のレスビアンの人たちが───人とちがった生き方や、愛し方をする人たちが、どんな思いで毎日を生きているかが!もし、あたしが本当にレスビアンで、逃げ場がなかったらと思っただけで恐かった。本物じゃない卑怯な自分が許せなかった。けれど、あなた方への憎しみと、軽蔑は、多分、本物以上だわ。本物のレスビアンの人は、きっと、これほどに、あなたたちを憎む勇気はないと思う。だけど、私は───!」
鋭い音をたてて、みどりの頬が鳴った。平手打ちしたのはしのぶで、そのまま彼女は、姉を引き寄せ、自分の腕に抱きしめた。
「もう、行っていいですか?」誰にともなく、彼女は聞いた。
京子がうなずく。それを見たしのぶは、そのままみどりをひっぱって、砂浜へ下りる階段を下って行って、姿を消した。
ほとんど同時に、さつきが身体をひるがえして、店の方への階段を下りて行ってしまった。と思う間もなく、今度は京子が、しのぶたちの後を追って砂浜の方へ
と階段をかけおりて行き、次いで美沙が、さつきを追うようにして店の方へと階段を下りて行った。
残された少女たちは、皆それぞれに、へたへたと手近な椅子や手すりによりかかる。
「す、すごすぎる───」和子が頭をかかえてうめいた。「何なんだ、もう───」
「あ、あの三人に───」眉美も信じられないといった顔であえいだ。「面と向かってあんなこと、言える人間がいたなんて───」
「ショックですわ──」日村通子がつぶやいた。「これはもう、ショック以外の何物でもありませんわ───」
「いやあ───」竜子は、そう言ったっきり、あとがつづかなかった。
「だめだ、あたし。さっきから何を見たのか、よくわかんない」司は椅子の上で、ちぢみあがっていた。「何か、もう、何もかもが、すごすぎて───」
「あたしも」朝子がおろおろ、あたりを見回す。「本当に───今の、あれって───これって───いったい、何だったの?」      ◇
砂浜にかけおりた京子は、二人を探して、しばらく歩いた。そして、大きな流木のかげに、よりかかるようにして座っている二人を見つけて、ゆっくり歩み寄って行った。
砂を踏む足音に目を上げたしのぶが、小さくぺこりと頭を下げる。京子は微笑し、二人の前に、ひざをつくようにして座った。
「みどり。あなたの言うとおりだわ」まじめな声で、彼女は言った。「教えてくれて、ありがとう」
うつむいたままのみどりの唇が、何か言おうとするように何度も小さく震えたが、結局ことばは出なかった。かわりに、しのぶが低い声で言った。
「私も姉も、自分たちのこととか、父と母のこととかを、きちんと皆に話すことができなくて───」
「話せないことなんて、誰にだってたくさんあるわ」京子は静かに、そう言った。「無理に話す必要なんかない」
「私たちの母は、父のことも私たちのことも、きっと愛し過ぎたんだと思います」しのぶは低い声のまま続けた。「いつも、私たちが自分のことを忘れていないか、たしかめようとしつづけました。ありとあらゆる記念日や行事を設定しては、一つでもそれがうまく行かなかったり、私たちが忘れていると、狂ったようになりました。暴力をふるって、父や私たちを傷つけて、とうとう父が疲れてしまって───」
京子はうなずき、砂をすくって指の間からこぼした。なめらかな、細かい砂はさらさらと、風に吹かれて横になびきながら落ちて行った。
「幸福かと言われたら、そうはとても言えない家庭だったと思います。でも、どこか似ていたんです。幸福な家庭に。母は優しかったし、父もかわいがってくれた。いつも、感じていました。何か、どこかを、もう少しだけどうかしたら、何かのはずみに何もかも、うまくいくようになるんじゃないかって、ずっと、そんな気がしていた───」
しのぶの声が細くなって、とぎれる。京子は両手を前にのばして、そっと二人の手にふれた。
「もし、何か私にできることがあったら、いつでも言ってくれるわね?」
しのぶは京子を見返して、みどりは顔を上げないまま、二人はうなずいた。京子が立ち上がって、テラスの方へ戻りはじめた時、後ろから二つの小さい声がした。
「ごめんなさい───」
「ありがとう───」
しのぶとみどりの声なのだが、どちらがどちらかわからなかった。そうなんだ、この二人の声って、よく似ていたんだわ──。振り向かないまま、砂を踏んで歩き続けながら、京子は、あらためてそのことに気がついていた。

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