小説「散文家たち」第20章 サモトラケのニケ

「すぐ、写真部の部室に踏み込みましょう!」斎藤眉美が、荒々しい口調で言った。
「それか、生徒会議室ですよ」大西和子も、かみつくようにつけたした。
二人の間に立っていた緑川優子は何も言わない。目の前のテ-ブルの上に投げ出された写真や原稿から青ざめた顔をそむけながら、ふらふらとあとずさって倒れ込むように、彼女はソファ-に座り込んだ。恐怖と嫌悪と心痛に、その大きな目はいっぱいに見開かれている。
すでに夜中を過ぎている。しかし演劇部室には図書館の横手の夜間用の入り口と廊下を通って出入りすることができ、部員の主要メンバ-はほとんど集まってきていた。村上セイはコンピュ-タ-の前に座って寮生全員の名簿を画面に呼び出し、寮委員会室から送られてくる現在外出中の寮生の名をチェックしはじめている。
王銀花が、やはり嫌悪もあらわに写真から目をそむけて優子のそばに腰を下ろし、黙って優子の手をとって握りしめた。牧野桃代は不愉快そうな当惑した表情で、これも黙ったままで写真を見下ろしている。黒いドレスの日村通子は椅子に座って足を組み、珍しく煙草をくわえて、それも次から次へと早いペ-スでふかしつづけていた。
「早くしないと───早く何とかしないと!」眉美がまた、気が気でないように、あたりを見回して言う。
「そうだよ、一刻を争うんじゃないの?」和子の声もうわずっていた。「ぐずぐずしてたら、あの四人、今ごろ、どんな目にあってるか───」
「あわてなさんな」テ-ブルのそばに立って、片手で胸を抱くようにして、もう片方の手で写真をとりあげて一枚ずつ見ては、そばの奈々子に渡していた那須野遼子が、乾いたそっけない声で応じた。「じたばたしたってしかたがない。この写真にある程度のことだったら、アダルトビデオの女優なんて一日何回もされてるよ。まさか、殺されもしないだろ」
「あの四人はアダルトビデオの女優じゃないよ」ソファ-の袖に腰を下ろして、いらいらとこぶしを握ったりほどいたりしていた竜子が、押し殺した声で言った。「多分、そんなもの、生まれてこのかた見たこともないだろう───畜生!」半分は自分自身に対するいまいましさで、彼女の大きな身体はこわばって、肩の筋肉が盛り上がっていた。「誰でもいい、あの四人に指一本でもふれたら、百倍にもして返してやる!───ちょっと!眉美や和子の言う通りだよ。ここにこうしているぐらいなら、どこでもいいから、怪しいところにかたっぱしから踏み込もう!」
「相手は多分、一人じゃないわ」壁によりかかったまま、白いサマ-セ-タ-の上から舞台衣装のマントを羽織った南条美沙が、はりつめた、低い声で言った。「こちらの戦力を不必要に分散させられない。それに、不用意に踏み込んで、小石川ナンシ-や辛島圭子に言いがかりをつけられたら、今度こそ、演劇部はおしまいだわ」
「そんなこと、言ってる時ですか!?」竜子は目をむいた。「そんなことが今、気になってるんですか、南条さんは!?」
「そもそも、今度のこのことすべてが、それが目的だった可能性もあるわ」美沙は、くいしばった歯の間から言葉を押し出すようにしゃべっていた。「ナンシ-と圭子が手を組んでいる可能性だって、ないとは言えないのよ。もう少し、情報がほしい。今、動くのは危険すぎるわ。わからないことが、多すぎて」
「よくもそう、冷静でいられますよね」竜子も歯をくいしばっていた。「演劇部なんかどうなったって何ですか!まさかほんとに、あの四人が死ななかったら、それでいいって思ってるんじゃないでしょうね?立花朝子が、こんな写真のようなこと一つでもされたら立ち直れるって思うんですか?他の三人だってそうですよ。いや───立ち直れるかもしれませんが、前のようではなくなります。傷つけられて、辱められて───あたしたちが知っているような、あの四人はもう二度と、戻って来なくなりますよ。あたしたちは、永遠に、あの四人を失うんです」
「な~にを、柄にもないロマンティックなこと言ってんのよ、バカっ!」上月奈々子がいきなり竜子の方に振り向き、手に持っていた写真を遼子に押しつけて戻しながら、ほおを染め、目をキラキラさせて、低い激しい声でののしった。「何されたって、どんな目にあったって、それでそんなに簡単に変わっちゃう人間なんか、どっこにもいやしないわよっ!あんたみたいな人たちが、変わるのが当然だみたいに騒いで、そんな目で見るから、それで一番変わるのよ、人ってみんな!やめてよっ、もうそんな、気持ちの悪い話っ!何があったって、司は司、朝子は朝子、変わったりなんかしやしないっ!大きな図体で、そのへんうろうろしちゃ目ざわりだわっ!落ち着いて、黙って座ってなさいよっ!」
奈々子の剣幕に圧倒されたか、竜子は本当に黙ってまたソファ-の袖に腰を下ろしてしまったが、その時、今度は緑川優子が、細い、しぼりだすような声でつぶやいた。
「でも、ここで──いつまで待つの?もしも司がここにいたら───さらわれたのが、あたしだったら、あの子きっと今ごろ、もう飛び出して行ってるわ。何も考えないで、どこに行けばいいのかもわからないで、ただ夢中で───そんな人だもの。なのに私は、今ここで───何もできずにいるなんて───何もしないでいるなんて───」
重苦しい沈黙が落ちた。司がここに、もしいたら───そのことばは、はからずも少女たち皆に、ここに消えているものを思い出させる結果となった。しのぶの落ち着いたまなざしと、暖かな笑い。みどりの澄んだ涼しい声と、時々ぼうっと考え込んで何かに耳をすませるようにする表情。朝子のふっくらやわらかな手と、かすかに甘えてくぐもる口調。司のくるくるよく動く目と、いたずらっぽい笑顔。そのすべてがない空白は、恐ろしいほど大きく思えた。ソファ-に座っていた京子が今度は、たまりかねたように立ち上がる。口を開きかけた、その顔を見て、美沙が首を左右に大きく振った。
「京子。あなたが今そこで、自分を許せないとか、私が悪かったとか、ひとっことでも口にしたら、ほんとに承知しないわよ」いらいらと、へやの向こうを行ったり来たりしているさつきの方へ、美沙はちらと目をやった。「あたしも、さつきも、ずっと、それを言いたくて、必死で我慢してるんだから。言ってしまったらもう、くりかえしつづけて止まらなくなると思うからだわ!言っておくわよ、あなたは何も悪くない。あなたは、あれだけ反対したの。説得したのは、あたしたちなの。何があっても、この件に関しては、あなたに何の責任もない!悪いのはあたしたち───ああもう、これじゃまるで───」
言いかけて、美沙はぴたりと口を閉じる。だが、みどりみたい、と言いかけたのは、その場の誰もがわかってしまって、いっそうはりつめたナイフのように鋭い沈黙が落ちた。 その沈黙を切り裂くように突然、電話のベルが鳴る。皆はっとして飛び上がったが、新名朱実がすばやく受話器をとりあげた。
「こちら演劇部室。堀之内さん?───え、いつですか?───聞いてます───たしかなんですね?───ええ、もちろん───はい───」
朱実は電話を切って、こちらを見つめている一同の方に目を上げる。かすかに、とまどっている顔だった。
「何かわかったの?」さつきが歩み寄って来ながら聞く。
朱実はうなずいた。「公演のあとすぐ、四人のうちの二人を見た者が何人かいるそうです。橋を渡って───」
「それは、もう宿直室で聞いたわ」さつきは失望したように、戻りかけた。
「橋を渡って」朱実は続ける。「美術部室の方へ行った───中に入って行ったかもしれないと言ってる者もいるらしくて──」
「美術部?」さつきは半ば自分に聞き返しているように、問い直した。
朱実はうなずく。「ええ。美術部です」
「そこは今、半数近くが」村上セイがパソコンの前から言った。「寮にいません。無断外出中ですよ。───美術部──?」セイも何かを思い出したようだった。「朱実、あそこだよね、たしか、パソコンいっぱい置いてあったのって?」
「そうだけど、まさか───部長、十和田さんだよ?」
「とにかく、行って聞いてくる」さつきは歩きだしかけて、立ち止まった。「竜子、いっしょに来て。那須野さんと上月さんも」
あわただしく四人が部室を出て行ったあとですぐ、再び激しい音を立てて電話のベルが鳴り出した。

小川のそば、木々に囲まれた美術部室のすべての窓にはあかあかと灯がついていた。今夜はどうかすると夜風が薄ら寒いほど涼しいのに、エアコンをきかせているのか窓はぴったり閉め切られ、入りたがっている羽虫や蛾がガラスにしきりにぶつかって小さな音をたてている。中はざわざわ騒がしく、ノックしても聞こえないのか返事がなかったので、さつきたちは、そのまま入って行った。
十人以上の部員がコンピュ-タ-の前に座ったり、あわただしくへやの中を行き来したりしていた。画面を見ている者、できあがった絵を見せあって何か熱心に話し合っている者───コ-ヒ-の香りがかすかにたちこめている。
「あら、さつき!」テ-ブルの上に広げた少し大きな幾何学模様のような絵を、他の数人とのぞきこんで何か話していた十和田正子が、びっくりしたように目を上げた。海のような色をした長いスカ-フで髪をおおい、余った端をたらして首に結んでいるのが、ひらひら魚のひれのようにゆれている。「何かあったの、こんな夜中に?」
「あなたたちこそ、こんな夜中に、忙しそうね?」それとなく、へやの中を見回しながら、さつきは聞いた。
「夏の展示会の作品を明日、半数近く入れ替えるのよ。今夜は多分、徹夜の作業になるわよね。演劇部は今まで、打ち上げパ-ティ-だったの?うらやましいわ」
たれかかる髪を、せわしく耳にはさみながら、さわやかに正子は笑った。仕事がつづいて少し疲れている様子だが、丸いすっきりした額のその顔は、いつものように落ち着いていて、声も涼しげである。さつきは、かすかな笑いを浮かべた。
「入れ替える作品の中には、ポルノ写真も入っているわけ?」
「何のこと?」正子は、かたわらの少女の方に向き直った。自分の仕事に気を取られてまともに聞いてないようでもあり、あえて目をそらしたようでもある。「ね、その赤が強く出ている方の絵を、入り口を入った正面の壁にかけるようにして。その前に、あの口の曲がった花瓶を三つ並べるわ」
「奥のへやを見せてもらうわよ」さつきは、するりとテ-ブルのわきをすりぬけた。
「奥の───?がらくただけよ」
ようやく少し、さつきの様子がおかしいことに気づいたように、正子はまともにこちらを見た。「何か、さつき───」
返事をしないで、忙しく行き来している部員たちをおしのけて、さつきは奥のへやのドアを押した。あっけなく、それは開いた。こちらのへやはエアコンを入れてないのか、むっとする、こもった熱気が襲いかかる。うすぐらい明かりの中に、古い彫刻や、重ねられたキャンバス、いくつもの木箱がどうにか見てとれた。中央の奥に、黒々とひときわ大きな羽を左右に広げた首のない女の像が立ちはだかっている。サモトラケのニケ───首のない、勝利の女神の像。
鋭い目でひとわたり、へやの中を見渡したさつきは、ためらいのない足どりでまっすぐに、その女神像に歩み寄った。
竜子たちも、あとを追って奥のへやに飛び込む。美術部員の数人が、ようやく追いかけてきて、さつきを見、一人が金切り声で叫んだ。
「美尾さんっ!その女神に近づいちゃだめです、さわってもだめですっ!」
さつきは、びくともしなかった。のばした腕が女神像の羽のつけ根のあたりをつかみ、巨大な像を一気に横に引き倒す。轟音と土ぼこりをあげて床に倒れたそれは、腰のあたりから真っ二つに割れ、入り口近くに固まっていた美術部員たちの中から、恐怖に満ちた鋭い悲鳴がいくつも重なり合ってあがった。
「───さつき!」かけよってきた正子が顔色を変えて、さつきの腕をつかむ。「あなた、気でも狂ったの?」
「その前に、これは何?」
さつきの指さす先には、こわれた女神像の台座があった。いや───像のはばひろい衣の裾にかくされていたのだが、そこには、引き上げて開けるようになっている、鉄の輪のついた丸い蓋がある。表面はなめらかで、麗泉の校章の蘭と炎のマ-クがついているが、ちょうどマンホ-ルの蓋のような、人ひとりは入れる大きさ───地下へ通ずる入り口のような。
さつきは一歩わきに退き、竜子に向かってあごをしゃくった。歩み寄った竜子が、丸い蓋の取っ手をつかんでいっぱいに引いたが、蓋は開かない。顔を真っ赤にするほど力をこめた後で、竜子は首を左右に振りながら手を放して、あとずさった。
「どうやって開けるの、十和田さん?」
腕組みして立ったまま、さつきが静かにそう聞いた。
「こんなもの、今まで見たこともないわ」息をのんで見つめていた正子は、額に手をやった。「何なの、これ───?どこに通じているのかしら?」
「こっちが聞きたいわよっ!そらっとぼけて、この、古ギツネっ!」さつきはもう我慢できなくなったように、正子の首のスカ-フをつかんで引き寄せ、腕もつかんで激しくゆさぶった。「何が、呪いの女神像よ!?そんな話でカムフラ-ジュして、この下はきっと昔の大講堂の地下室か何かなんでしょ!?そこでいったい、何してるのよっ!いいからすぐ、ここを開けさせなさい!ポルノ写真で金もうけして買った汚いパソコンのことは、あの四人が無事に帰れば見て見ないふりしてあげるからっ!」
「さつき、何の話なの?」正子は必死で手を上げて、さつきの腕をつかみながら聞き返した。「あの四人って誰よ、ポルノって何のこと?わかるように説明して───!」
「これですよ」歩み寄った遼子が、ポケットから出した写真の数枚を、トランプのようにくるりと広げて、正子の目の前にかざした。「見えます?この手のちゃちな合成写真が何枚も出回って、とんでもない高値で取り引きされてて、今夜『三銃士』の主役四人が公演のあと、消えたんです───どうやら、合成写真じゃない、本物の、こんな写真を撮られるためにね」
正子は、さつきにのどもとをつかまれたまま、呆然として目の前につきつけられた写真を一枚一枚、目で追っていたが、やがて、さつきに目を戻した時、その強い光をたたえたひとみは、さつき以上にぎらぎらと激しい怒りに燃えていた。
「こんな───こんな薄汚い写真を、美術部が作っていたですって!?私が作らせてたって言うの!?さつき、あんたって人は最低だわ!私がこんなことするなんて、本気であなた、思っているの!?」
「証拠があるんですけどね」竜子が、今や全員、仕事をやめて、こちらのへやに入って来て、ことの次第をかたずを呑んで見つめている美術部員たちの方に、それとなく目を配って、じりじり位置を変えながら言った。「いなくなった四人の内、少なくとも二人が、少し前、こちらに来るのを目にした者が何人もいる」
「たった、それだけで?それだけのことで、こんな汚らわしい事件の犯人に私たちをでっちあげるわけ!?四人とも、正気なの!?」
「出たわね、伝家の宝刀が」さつきがせせら笑った。「自分に都合の悪いことは皆、権力のでっちあげ?何やったって、あんたがやれば、しいたげられた者たちの社会への告発になるとでも思ってるわけ?それで世間が納得しても、あたしは納得しないわよ!絶対に許さない!この、人間のくず!」
信じられないほどのすさまじい力で、正子がさつきをふりはなすと同時に、激しい平手打ちでさつきのほおを打った。よろめいたさつきは、しかしすぐさま、それに負けない強さで正子の顔を手の甲で、はたきかえした。もんどりうって木箱の上に倒れかかった正子が、そのまま転がるようにして、さつきの足にとびかかり、二人はもつれあって、こわれた女神像の上に倒れる。どっと動きかけた美術部員たちの前に立ちふさがるようにして、竜子と遼子、それに奈々子が身構えた。近づいてきた先頭の大柄な一人の部員を竜子が片手で楽々と軽く押し戻すようにして突き飛ばし、奈々子があたりに散らばった木箱をすばやく右や左に蹴りのけて足場を作った、その足の動きのすばやさを見て、進みかけていた数人がたじろいで止まった。別の一人が近寄ろうとして、あっという間に遼子に腕をねじあげられ、泣き声をあげて、そのまま床にしゃがみこむ。その時───
「美尾さん!美尾さん!ホウリュウシ!」
激しく呼ぶ声がして、振り返った美術部員たちを左右に押し分けるようにして新名朱実がかけこんで来た。
「携帯でさんざん呼んだんだけど通じなくって───」彼女は息を切らせていた。「すぐ来て下さい!あれからすぐ、また連絡が入りました。あの四人全員が、塔のへやに上がって行くのを見た者が何人かいるんです!時間的には、こっちに来たのを見られたあとです。こっちに来てから、あの人たち、塔のへやに行っている───それが、見られた最後なんです!」
正子の肩に手をついて上半身を起こしたまま、さつきが竜子と顔を見合わせる。
「すぐ来て下さい!」朱実はくりかえした。「南条さんたちが今、塔のへやに向かってますから!」
さつきは立ち上がったが、つかんでいる正子の腕は放さなかった。そのまま、正子をひきずりあげる。打たれた跡が赤く残ったほおのまま、彼女は低くささやいた。
「いっしょに来てもらうわよ───いいわね?」
流れ落ちる鼻血を平手でぬぐいながら、正子は黙ってうなずいた。細くしなやかな肩はまだ大きく上下に動いているが、彼女は次第に落ち着きを取り戻しているようだった。出て行こうとする一同の前に立ちはだかるように進んできた美術部員たちを、手をあげて彼女は制した。
「ティッシュをちょうだい───騒がないで。何でもないから。すぐ戻るから仕事をつづけなさい。このことは誰にも話さないように。あなたたちも、おしゃべりをしないで、急ぐのよ、作品の整理。夜明けまでにはそんなに時間がないんだから」
顔を見合わせながら、それでも不承不承に納得した表情で美術部員たちはあとずさる。その前を通りすぎたさつきは、正子の腕をつかんだまま、他の四人にとりかこまれるようにして足を速めた。

夕立でも来るのだろうか。星は隠れて空は暗く、時々、突風のような生暖かい風が吹いた。演劇部室に六人が入って行ったとき、へやの中は予想以上にがらんとしていた。コンピュ-タ-の前の村上セイと、電話で何か話している緑川優子だけ。あとの者の姿は見えない。
「皆はどこに行ったの?」さつきは正子を、かたわらのソファ-の上に、つきとばすようにして座らせながら、そう聞いた。
セイと優子はこちらを向いた。どちらの顔も、わずかの間にげっそりとやつれて、混乱と当惑をかくしきれない疲れ切った表情だ。セイが言った。
「新名さんが出て行ってから、またいくつか電話があって───」苦しそうに息をついて、彼女は額の汗をぬぐった。「四人がいなくなったって聞いて心配したファンの子や、友だちが、寮委員会を通さないで直接こっちに情報を入れてきたんです。それで───」 優子が受話器をおいて「まただわ」と低くつぶやいた。「三年生の淵上さんから、さっきの人たちと同じ情報よ。四人が、あの衣装のまま、寮委員会室に入って行くのを確かに見たって───多分、十一時すぎか、もっと遅かったかも──って」
「寮委員会室?───千代のへやに?まさか」さつきが信じられないといった声を出した。「その時間、千代は洗濯室にいたよ。あたしといっしょに」
「ぎりぎりですよね」セイがつぶやく。「美尾さんに会う、ちょっと前なら、千代さんはへやにいたかもしれません。どっちみち、塔のへやより、こっちの方が見られた時間は遅いんですよ」
「そりゃ、どういうこと?千代さんが一枚かんでるってこと?」竜子が、あきれたような大声を出す。「そんなのありかよ?そうなったらもう、何にも信用できないよ!」
「もうこうなったら何でもありよ」奈々子が吐き捨てるように言って、痛みに耐えるように、ぎゅっと眉を寄せた。
さつきも一瞬、途方にくれた迷子のような目になった。「まったくもう」彼女は低くつぶやいた。「こんな思いをさせられるのも、あの四人に何も教えず、何を信じていいのかわからない気分のまんまで長いこと、ひっぱりまわした罰かもしれない。だけどなあ、くそっ、神さまが、あたしたちに思い知らせようってんならともかく、そのとばっちりで、あの子たちまでひどい目にあわせるようなら、神さまだってかまうもんか、地獄の底に蹴りこんでやる。言い訳したって許さないからね!」ひとり言のように、神を脅迫したあとで、さつきはまたセイの方を見た。「じゃ、皆、そっちに行ったの?」
「そうです。朝倉部長が皆を連れて、千代さんに話を聞くと言って行きました。そのあとすぐ、南条さんたちが塔のへやから戻ってきました。あそこには小石川さんも誰もいなくて、沢本玲子さんだけが、一人でパソコン打ってたそうです。こっちのことも気になるので、とにかく沢本さんに詳しいことを聞こうとして、彼女をひっぱって戻ってきたんですけど、その、今の話を聞いて、南条さんたちもすぐ、沢本さんを連れたまま、皆で寮委員会室に行きました。美尾さんたちにも、すぐ来てくれってことでした。行ってあげてください───南条さんが心配なんです」セイは口ごもった。「気づかれませんか?今度の件じゃ、美尾さんより朝倉さんより、彼女が一番、逆上してますよ。南条さんて、変なところで切れるんですよ。一度、町で捨て犬をいじめてた男の子を、偶然つきあたったみたいなふりをして、運河に突き落としたことがあるんです。下級生が、飼ってたハムスタ-に餌やり忘れて死なせたときには、その子をなぐりつけた上に、包丁つきつけて、これで死ねって言ったんですよ。その子は多分、そのせいでノイロ-ゼになって退学したけど、南条さん、後悔している様子なんて、かけらもありませんでした。弱い者が無抵抗で傷つけられる状況があると、あの人、前後のみさかいがなくなって、何をするかわからないんです。本当に、大地の女神が怒って、爆発した火山から溶岩が地上に広がって、何もかも焼きつくすみたいに。気をつけてあげてください───守ってあげて。私たち二人は、ここに残ります」夢中でしゃべりすぎたのを後悔するように、セイはそわそわとパソコンの方にまた向き直った。「寮委員会から、現在外出中の者のリストが届きつづけています。分類して整理して、何かわからないかやってみますから。緑川さんは電話についていてもらわないと」
「わかったわ」さつきはセイと優子の肩にそれぞれ、手をおいた。「あと、頼むわよ。あたしたちが出たらすぐ、入り口にはカギをかけて、誰が来ても入れないで。危険を感じたり、何か新しいことがわかったら、寮委員会室か、あたしの携帯に連絡して」

そのころ、寮委員会室では、千代が再びいつものように、ベッドがわりのソファ-の上にひっくりかえって、寮委員たちがチェックして届けてきた分の名簿に、あらためて目を通しながら何かぶつぶつひとり言を言っていた。
「小石川ナンシ-も今夜はへやにいないのか。ちゃんと外出届を出しているのが油断のないところではあるが。叔父さんたちと釣りだと?ほんとかね?───もちろん、辛島圭子もいない、と。こりゃ下手すると、今夜は寮は半分以上からっぽか?まあ、夏休みにも入っているしな。───沢本さん、椅子がなくって悪いけど、その窓枠のとこにでも腰かけていてくれるかい?こんな夜中に来てくれたのに、お茶も出せなくて悪いけど」
生徒会書記長の沢本玲子は、ちょっとうなずいて、悪い足をひきずりながら黙って窓の方へ行った。冷やかな目でそれを見送った南条美沙が静かに聞いた。
「千代。さっきの質問に答えてくれない?」
「何だったっけね?」
「銃士の制服姿の四人が、このへやに入ったのを見られたのを最後に姿を消したという報告よ。どういうことなの?」
千代は答えないで、黙って名簿を見つづけている。美沙が一歩踏み出した。千代が目を上げ、美沙を見た。
「頭を冷やしな、南条さん」低い声で、千代は言った。「これには何か、たくらみがある。誰かが糸をひいてるんだよ」
「それは誰なの?あなたなの?」美沙は、かすかに微笑んだ。「あの四人を公演のあとで、ここに呼びつけて、それからどこに連れて行かせたの?考えて見れば、あなただったら、あの四人も疑いもしなかったはずだわね」
「そうさ、何しろ王様だからね」千代の声が、からかうような響きを帯びた。「あんたの銃士隊長が呼びつけるより効果はあるかな」
美沙は、しばらく黙っていた。微笑は浮かべたままだったが、その目の光が次第に強くなってゆき、残酷ともいっていいほどの暗い熱がこもりはじめた。
かけこんできた寮委員が、千代に新しい名簿を渡す。
「三階のチェックが終わりました。四階ももうすぐすみます。手間どっちゃって、すみません。無断外出を隠そうとして、残ってる人たちが、なかなか起きてくれなくて。チェックが始まっているって情報が、電話や何かでどんどん伝わって行ってるみたいで」
「ふうん、ま、そうなるだろうね。だから、あたしは常々言っているのさ」千代はつぶやいた。「インタ-ネットと携帯があれば、ヒットラ-は決してあれだけ効率よく、ユダヤ人をだまして収容所に送り込んだりはできなかったろうってね。いやはや、ゲシュタポかKGBみたいなまねさせて悪いけど、これは正義の戦いなんだよ。あと、もう一息、がんばっとくれな」
寮委員の少女は笑って走り出して行く。千代が目を上げると、いつの間にか美沙がすぐそばまで来ていた。
「堀之内さん───」
「ちょい待ち」千代は美沙を制して、電話の受話器を取った。「演劇部室?村上さんかい?新しくわかった無断外出者の名を読むよ───」
その手からいきなり、名簿と受話器がもぎとられる。美沙はそれを両方とも、後ろの京子に放り投げた。
「京子、あなたが報告して。この人、ほんとに名簿のとおりに読んでるかどうか、わかったものじゃないわ」
京子がうなずき、テ-ブルのはしに電話を置いて話しはじめるのを見届けて、美沙は再び千代の方に向き直る。その時、階段をかけあがる足音がして、十和田正子をひっぱったさつきを先頭に、遼子たちがなだれこんで来たが、美沙はそちらを見もしなかった。
「やれやれまあ。十和田さん、あんたもかね」鼻血で顔を汚している正子を見て千代は吐息をつき、窓辺の玲子の方を振り返った。「沢本さんも気の毒に。まったく、あんたらときたら、この次の公演は司馬遼太郎の『燃えよ剣』でもやっちゃどうだい?土方歳三候補ばかりが、こんなにごろごろいようとは。放っといたら、早々にあたしたちの足の裏に百目蝋燭でも立てかねない───」
美沙が無言で身体をかがめかけたのを、片手をあげて千代は止めた。
「落ち着きなって言ってるだろうが」彼女は、ものうい声で言った。「まったくもう、いいかげんにしなよ、美沙。他の連中はともかく、あんたまでが頭に血がのぼって、ふだんあれだけ読んでいるミステリ-小説の極意を忘れてしまったと見えるね」
「───ミステリ-小説ですって?」美沙の声はもうはっきり、殺気だったものを含んでいた。「今、そういうことを、あなた言うわけ?わけのわからないこと言って、人をけむに巻こうとしても───」
「けむが巻いているのは、あんたの頭の中だろうが?」千代はせせら笑った。「こんな初歩的なトリックが見抜けないのかと言いたいよ。あの四人の行方についちゃ、あたし同様、そこにいる沢本さんも十和田さんも、何一つ知ってやしないさ。あの子たちが、ここに来るのを、何人もが見ただって?塔のへやに?美術部に?あのな、夜だよ。しかも、遠くからだよ。どうしてそれが、あの子たちってわかるのさ?」
「そんなの、誰だってわかりますよ!」大西和子が後ろから叫んだ。「あの羽飾りのついた帽子と、ユリの花のついたマントですよ!今夜の公演───だけじゃなくって、この二週間ずっと、学内の者なら誰でも、目に焼きついてますよ、あの服装!」
───美沙が突然、千代の肩をつかんでいた手を放して立ち上がり、凍りついたような表情になった。
「わかったろ?」その顔を見上げた千代が、低く言う。
「何がです?」斎藤眉美が、千代と、呆然としたままの美沙を見比べながら聞く。
千代はまた、吐息をついた。「いいかね、ワトスン君たち。サンタクロ-スの衣装だの警官の制服だのって、やたら目立って、それ見ただけで着ている者が誰なのか、皆がわかってしまうような服が登場した時の、ミステリ-小説の鉄則と言ったら何なんだよ?中身は別人───じゃないのかい?」
「あ───!」遼子と奈々子も顔色を変えた。
「そうだろ、わかりきったことさ」じれったそうに、千代は続けた。「あの四人、どっかで誰かにつかまってすぐ、マントと帽子を取り上げられたんだよ。犯人の仲間がそれを着て、学内中を走り回ったのさ。靴だの顔だの、マントの下の服だのは、この暗さならいくらでもごまかせる。何のためかはわかるだろ?あんたたちを混乱させ、ちがう相手に目をつけさせ、味方を敵と思わせて仲間割れさせるためさ。ちょうど今、あんたたちがやってるようにね───というわけだから、沢本さんも十和田さんも、この人たちのことを怒らないでいておくれ。腹をたてるんだったら、今ごろどっかで笑ってる悪賢い犯人たち相手にするんだね」
まだよくのみこめないように顔を見合わせている演劇部員たちの向こうで、入り口のところにおずおず立って、へやに入るのをためらっているらしい寮委員の棚町久美子を見つけて、千代は手招きした。
「来ていいよ。チェックは終わった?」
「はい。これで全部です」
「ご苦労さん。ついでに、そこの電話で、この名簿見て外出者の名を演劇部の村上さんに報告しな。──まだ何か?」
「あの、谷さんたちが───」
久美子がまだ言いおわらない内に、水泳部長の谷まどかと、陸上部副部長の田中志津とが飛び込んできた。
「しのぶちゃんたち、いなくなったんだって?」まどかが大きな声で言った。「あのねえ、それでさ、うちの部室のそばのプ-ルサイドに立ってたのを見たって者がいるのよ。夜中近くに、あの帽子とマントでさ!」
「うちの部員が何人も、テニス部のコ-トで、あの子たちを見たって言ってるの」志津が言う。「でも、それ何かおかしくない?プ-ルとコ-トって、すごく離れてるのに、時間は同じ頃なのよ。全速力で走れば移動できるけど、何のためにそんなことするわけ?」 「他にも、ブラスバンドの部室の前やら、バドミントン部の近くやらで見かけたってやつもいるしさ」まどかが腕組みする。「どういうことよ?どうなってるの?こりゃああんた、あの四人、行方不明っていうよりも、神出鬼没の瞬間移動、同時存在って言う方がいいんじゃないの?どこにいるのって言うよりも、どこにいないのって聞きたくなるわ」
「その通りです───」つぶやくように遼子が言った。「あの四人が今いるのは、誰にも目撃されなかった場所なんです」
「ええ。姿を見られた場所は全部もう、さがさなくてもいい場所だわ」京子が目を上げて、低い声で言った。「そうだとすると、あと、どこが残っている?」
「写真部の名は、出ていませんね」竜子が凄味のある笑いを浮かべた。
「そうね。でも───」
京子が何か言いかけた時、電話をかけていた棚町久美子が振り向いた。
「朝倉さん!村上さんが至急、連絡したいそうです!」
京子が取った受話器から、いつものセイとはまるで違う、ほとんど絶叫しているような高い、せきこんだ声が流れだしてきた。しんと静まったへやの中で、受話器の近くにいる者には皆聞こえるほど激しい声だ。
「朝倉部長!確認しました!写真部の部員は名簿に乗っている部員が全員、寮に今いません!一人残らず、外出してます!他にそんな部はひとつもありません!写真部だけが、部長の谷口奈美以下全員が、現在、寮には不在です!」
一言も言わずに、京子は受話器を久美子に返し、ぱっと身をひるがえして、まっすぐへやを出て行こうとした。すんでのところに入り口で、さつきがその腕を後ろから抱えて引き戻す。「待ってよ、皆で行かないと───」
「何でよ?なぐりこみに行くんじゃあるまいし、私一人でも多すぎるぐらいだわ」
「あんたのその剣幕は、なぐりこみ以外の何ものでもない」行き先がわかったからか、さつきの声には少しだけ余裕が戻りかけていた。「とにかく、いっしょに行くからね」
かけよって来た美沙の胸に、もう片方の手をあてて、さつきは押し戻した。
「あんたはここにいて、美沙」
「でも───!」
「核弾頭を二つも抱えて乗り込んだのでは危なくて、こっちがけんかができないよ」さつきは、いらいらして歩き出したがっている京子にひっぱられそうになりながら、いたずらっぽくウィンクして、陽気な口調の早口で言った。「いいから、あんたはここにいて。そして三十分たってあたしたちが戻らなかったら、小石川さんに報告して。ついでに、細川先生にも。要するに、学内全部にこの一件を公にして。写真部も気の毒だから、とりつぶしになるようなことは、できればしないですませたいけど、辛島圭子の出方次第じゃ、そうもいかないかもしれない」
「───わかったわ」美沙はようやく納得したのか不承不承にうなずいた。
「千代、あんたも頼むわね」
「まかしときなって」千代は枕がわりの座布団に頭をもたせかけながら、片手をひらひら振ってみせた。「三十分たったら寮中をハルマゲドンみたいな大騒ぎにしてやるよ」
「美尾さん!」竜子が飛び出した。「行きます、あたしも」
「───わたくしも」日村通子がにっこり笑って立ち上がり、黒いドレスのすそを軽く手で払ったと思うと、そのままさっさと出て行って、けっこうヒ-ルの高い靴をこつこつ鳴らしながら階段をかけおりて行ってしまった。
「ちょ、ちょっと日村さん───」竜子があわてて追いかける。「あんたみたいなお嬢さまの出る幕じゃあないっちゅうに!」
さつきをほとんどひきずるようにして、その後から京子が飛び出して行った。
十和田正子がゆっくりと、窓枠に腰かけていた沢本玲子に歩み寄り、手を貸して立たせた。
「美沙」いつもの涼しい落ち着いた声で彼女は呼びかけた。「あたしたち、もう帰ってもいいのかしら?」
美沙は夢からさめたように、愕然とした表情になった。「───ごめんなさい!」彼女は二人をかわるがわる見ながら、途方にくれたように目を伏せた。「どう、おわびしたらいいのか───十和田さんも。沢本さんも」小さい声で彼女は恨めしそうに言った。「さつきったら、きっと、このためにあたしをここに残したのね!もう、自分はさっさと逃げ出して!」
さっきの荒々しい激しさはどこへやら、美沙の目はすっかりまた暖かく優しくなって、恥ずかしさと申し訳なさに曇っていた。「もちろん、どうぞ、行かれていいわ。こちらからあらためて、またおわびにはうかがうわ」
玲子をうながして出ていきかけた正子は、入り口のところでちょっと立ち止まり、戻ってきて美沙の耳に口を寄せた。
「さつきに言っておいてちょうだい」彼女は力をこめて言った。「あのくだらない女神像をこわしてくれて、ほんとにせいせいしたわって!」

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カツジ猫