小説「散文家たち」第17章 従者たち

おばあさまへ
お身体の具合はその後いかがでいらっしゃいますか?ごいっしょできなくて、本当に残念でございます。おばあさまがいらっしゃらないと、夏休みはいつもの夏休みのようではなく、別荘もいつもの別荘のようではありません。ハルちゃんもシンちゃんも、お目にかかれるのを楽しみにしておりましたから、すっかりがっかりしています。昨日は海辺で貝を拾いましたが、おばあさまがいつもいろんな貝の名前を教えて下さっていたのにと淋しい思いがいたしました。
藻波は、ここ数年さびれてきたとの噂も聞きましたが、夏はさすがににぎやかです。道路には若い人たちのらしい色とりどりの車がとまり、夜は浜辺で花火がよく上がっています。海岸通りの店々には花があふれて、テラスには小旗や豆電球も飾りつけられ、立ち寄ってお茶をのむ人たちの笑い声が聞こえています。
そうそう、おばあさまが毎年楽しみにしておられる麗泉学院の夏季公演にも、先日皆で行ってまいりました。今年の劇は「三銃士」です。「ベルサイユのばら」や「アンジェリク」がお好きなおばあさまがご覧になったら、どんなに喜ばれるだろうかと母たちと話しました。
主人公のダルタニアンの恋人が最後に殺されてしまうなど、悲しい場面もあるのですけど、全体としてはとても明るく華やかな、劇というより楽しいショ-を見たような気のする舞台でした。「劇的な感動という点では、去年より落ちるけれど、お休みに気軽に見るには、こんなのもいいわね」と母はおかし涙をぬぐいながら、満足していました。
主役の三銃士とダルタニアンが、絵のようにきれいだったのも、全体がショ-のように見えた原因の一つだったかもしれません。色とりどりの衣装の中に、四人だけがいつも金色の百合の花を刺繍した紺色のマントに、同じ色の大きな帽子をかぶっていたのが、まるで華やかな色彩の中から浮かび上がって来るようで、とても印象的でした。アトスが白、ポルトスが赤、アラミスが黄色、ダルタニアンが青と帽子の羽根飾りの色を違えて、四人の見分けがつきやすくしてくれているのも、心憎いサ-ヴィスでした。
この四人、しぐさも表情も皆見るからに初々しいと思っていたら、全員一年生なのだそうです。そのせいか、一生懸命がんばるほど、回りの上級生に比べて若さが目立ってしまうのが、ちょっとかわいそうではありましたが。
特に、四人のそれぞれの従者をやった上級生たちときたら、上級生とはこんなものだと見せつけているような貫祿、迫力でした。「まるで、こちらが主役のようね」と、叔母と母とがひそひそ話しておりましたが、一人が舞台に出てきたとたんに、客席は息を呑み、ある種の電流が流れたように、ホ-ルが緊張に包まれるのが、はっきりとわかるのですから。
そうは言っても、見た目のきれいさ、かわいさということだけなら、主役の四人も決してひけはとりません。一人ひとりを見くらべて点数でも入れていったら、むしろ、勝っているかもしれませんし、演技だって決して下手ではないのに、並べてしまうと、こうも差がつくものかなあと思ったりもしましたけれど、見ていてだんだん気がついたのは、本当に差があるというより、従者たちが出てくると主役四人が見るからに緊張して萎縮するのです。自分たちだけの時には、皆それなりにいい演技をしているのに、従者が出てきたとたんにそわそわしはじめて、せりふはとちるわ、忘れるわ、剣は落っことすわ、帽子は人のとまちがえるわ───ポルトス役の子なんて、従者に命令する時には目をそらしっ放しだし、ダルタニアン役の子も「ご主人さま!」と呼びかけられるたびに思わずびくっとして、帽子の羽根が動いていました。「───何だ?」と返事をする前に一秒の何分の一かだけ、いつも間があって、「はいっ!」と返事をしそうになるのを、辛うじて呑み込んでいるのが、ありありとわかるのです。
また、従者たちときたら、もうすっかり開き直って、それを面白がっていました。むしろ、そういう役づくりをしていたように思えます。
中でもポルトスの従者ムスクトンをやっていた子は出色でした。大柄で陽気で、しかも身が軽く、けがをして寝ているポルトスのところへダルタニアンが訪ねて来る場面では、二人をそっちのけのほとんど一人芝居で絶妙のおしゃべりを披露し、あげくに舞台の上で料理を作ってお客に配るやら、カウボ-イに習ったという投げ縄で、最前列のご婦人のバッグをかっさらって見せるやら。見ていた子どもたちが大喜びで、幕間の写真撮影の時、彼女の回りには子どもたちが文字どおり鈴なりになっていました。
それから、アラミスの従者のバザンをやった子も印象的でした。背の高い、謎めいた上品な感じの子で───「バザンって、丸顔の眠そうな顔した太った人のはずなのに」と母はぶつぶつ申しておりましたが。
バザンは信心深い人で、ご主人に銃士から足を洗わせて一日も早く信仰の世界に目覚めさせたいと願っているのです。でも、黒ずくめの服を着て、いつもアラミスの後ろにそうっと寄り添い、低い声で肩ごしに「こんなことをなさっている場合でしょうか?──私とのお約束をお忘れですか?いつ、修道院に?」などとささやきかける様子は、まるきりアラミスをマインドコントロ-ルしている美しい死神か、悪魔に見えました。「ぞくぞくするわ、すてきねえ」と、母は最初に文句を言っていたのも忘れて、叔母と二人でうっとりしておりました。
「あなた、昔、イギリス映画の『召使』という題だったかしら、白黒の地味な作品でしたけど、ごらんにならなかった?」と幕間に、母が叔母に聞いていました。「使用人が次第に主人を支配していってしまうお話。何だか、あれを思い出すわ」「私はそれ見ておりませんけれど、多分、姉さんがごらんになったのは、今、ショッピングセンタ-になっている、うちの会社の横にあった小さな名画座でしょう?『オデオン』とか言いませんでしたっけ?私もよくあそこで、ベルイマンの映画を見ましたわ」と叔母が答えて、二人は思い出話で盛り上がっていたようです。
私はまた、舞台が進んでいくにつれて、従者たちの動きを見ていると、向田邦子さんのエッセイで「タレントさんがスタジオで仕事をしている時、それを見守るマネ-ジャ-さんたちの表情の切なさや複雑さと言ったら、いっそ、こちらを主役にして劇を書きたいと思うほど絵になっている」というような一文があったのを、しきりに思い出しました。
と、いいますのも、この四人の従者はご主人たちが何か話したり笑ったりしている時、いつも、それはそれは大事そうに自分の主人をじっと見つめて、チャンスがあれば世話を焼こうとしているのです。主人が仲間に言い負かされそうになったりすると、いてもたってもいられないように身じろぎしますし、うまいことを言ったり素敵な動作をしたりすると、得意そうに客席までを見渡しますし、せりふにつまるとやきもきしますし───どこまで演技か本気なのかわからないのがまたおかしくって、だんだん、どっちでもいいような気になってくるのも、不思議でした。
何しろ、ダルタニアン役の子なんて、一度せりふを完璧に忘れたらしく、ちょっとまごまごしていた後で、いきなり、「プランシェ、私は今から何をするのだったっけ?」と自分の従者に聞きましたもの。プランシェ役の子がまた、びくともせずに、「はい、ただいま、お待ち下さい、ご主人さま」と言って、舞台の袖に行ったかと思うと、十七世紀のフランスにそんなもの絶対あるかと言いたいような卓上予定帳をしらっとつかんで来て、それを見ながら「本日の午後はトレヴィルさまをご訪問の後、あのイギリスのご婦人をお訪ねになる予定になっております。ごらんになりますか?」ですって。それをまあ、二人ともあんまり自然にさらっとやってのけたものですから、満員の会場で笑ったのは、私と母の秘書の有村さんだけでした。
それに有村さんは、アドリブと思って笑ったのではないのかもしれません。その時のプランシェの様子が、まるきり有村さんが母に仕事の予定を確認している時のポ-ズだったから、我が意を得たりと思っただけかも。何しろ、もう、有村さんと、叔母のところのお手伝いさんのレイコちゃんときたら、従者たちがご主人さまに苦労させられる場面になると、大喜びで笑い転げていて、母と叔母が変に思いはしないかと私、心配になったぐらいです。
「まあ!」って、帰り道に皆で浜辺の喫茶店に入って、テラスでお茶をいただいている時に、有村さんがレイコちゃんに言っているのが聞こえました。「映画やアニメで『三銃士』は何度も見たし、本も読んでいたけれど、今日初めて気がついたわ。あの人たち、誰も結婚してないし、恋人といっても貴婦人ばかりだから、奥さんのするようなことって、全部、あの従者たちがやってるのよねえ!」
「ほんとに、私もそう思いました。お料理からお掃除から───着るものの世話から、お手紙の整理まで!」レイコちゃんも目を輝かせて、あいづちをうっていました。「ご主人さまたちは気づいてないんでしょうね。そういう仕事がどんなに大変かってこと。あの人たちが、あんなにカッコよく冒険や恋をして回っていられるのも、あの従者たちがいればこそなんですよねえ。すごいですよね。お給料っていくらぐらいなんでしょう?」
「たしか、プランシェはただ働きのはずですよ」叔母がロ-ズティ-を飲みながら、優雅な笑みを浮かべてやんわり釘をさしました。
レイコちゃんは、ぱちぱちまばたきして、急いで下向いてケ-キを食べるのに専念してしまいましたけど、でも、彼女がそんなことを言いたくなる気持ちにさせるような場面が本当に多かったのです。四人の銃士がいる時に、従者たちはほとんどいつも舞台のどこかにいました。主人がワインをこぼしたときに、あわてて飛んできて拭こうとしたり、その時汚れた白いシャツをせっせと洗濯していたり、マントの百合の花の刺繍のほつれを針でかがり直していたり、長靴の泥を落としていたり───そして、彼らがぴかぴかにみがいたワイングラスを光にすかして汚れがないか確認していたり、投げ渡された帽子の羽飾りをそっと手でなでて埃を払ったり、その帽子を鏡の前で自分がかぶってこっそりポ-ズをつけて見たり、届いた手紙の一つ一つの差出人の名をながめて、バカにしたように肩をすくめたり、心配そうに眉をひそめたり、そっと捨てようとしかけては思い直して目立たないように他の手紙の間に押し込んだりする、そんな様子のひとつひとつには、彼らの仕事への誇り、野心や憧れ、主人への思い入れがひしひしと感じられました。
途中で気がついたのですけれど、おばあさまと去年見た麗泉の夏季公演は「トロイ戦争は起こらない」って、ジロドゥのとっても洒落た反戦劇でしたでしょ。「イ-リアス」で有名なトロイ戦争の起こる直前のトロイの都を描くという───。あの時の主人公、トロイの王子エクト-ルを演じた子、覚えてらっしゃいます?軍の総司令官で戦争の悲惨さをよく知っているだけに、必死で戦争勃発をくいとめようと、妻のアンドロマックとともに努力する好青年を。あの正義派の青年を、明るくおおらかに力強く演じた、あの子が、ポルトスの従者のムスクトンでした。そして、ダルタニアンの従者のプランシェをやったのは、エクト-ルの弟王子で花のように美しいけれど、現代っ子のちょっと軽いパリスを演じていた子です。おわかりになりますでしょう?それはもう、色あせた上着やすりきれたズボンにくしゃくしゃ髪のぼさぼさ頭をしていても、二人とも、なおかつ派手で目立つわけが。
また、あの時、最後に近くギリシャ軍の代表として圧倒的な存在感で登場し、エクト-ルと対決するユリッスを演じた、あのきりりと清らかな中に凄艶さを感じさせた彼女が、アトスの従者グリモ-だし(銃士たちが、敵陣の砦で朝食を食べる場面で、見張りに立った時、たっぷり三十分近く、ぴくりとも動かず石像のように立っていて、シンちゃんたちが感服しきっていました)、謎めいた女予言者の王女カッサンドラを演じた子がアラミスの従者のバザンだったのです。それから、あの時、絶世の美女エレ-ヌを演じた子が、今回は悪女ミラディ-をやっていて、これがもう本当に迫力でした。どこか、あの劇の、最高の美貌でありながら心の奥に暗い絶望をかかえたエレ-ヌと重なり合って、「ミレディ-ってエレ-ヌの生まれ変わりかもしれない」などと、ふっと想像させられました。かつての夫のアトスに銃をつきつけられた時の切なげなまなざし、ダルタニアンの恋人に毒を飲ませる時の追い詰められた青ざめた顔。彼女が最後に殺された時には、こっそり涙をぬぐっている観客が何人もいました。
ああ、それからもうひとつ!あの時、エクト-ルの妻アンドロマック───あの暖かく優しい人妻を、大きなお腹の妊婦になって見事に演じてくれました、あの子───おばあさまが大好きになっていらした子───彼女は何と、今回は立派な口髭をつけて、銃士隊長になっていました。それがまた、すいも甘いもかみわけた、粋でお洒落で威厳もある、隊員たちの親がわりのような伊達男で、ともすればドタバタになりそうな劇全体を随所できりっとひきしめていたのは、さすがです。
まあ、おばあさま。こんな他愛もないおしゃべりに、私は便箋を八枚も使ってしまいました。ご相談したいことがあって書きはじめたのに、肝心のことから逃避しようとしている心の顕れでしょうか。やはり、お目にかかってからお話しした方がいいようですが、実は、母と叔母とが進めております例の私のお見合い話、おばあさまから断っていただきたくて──。二人とも良いお話と夢中になってしまっていて、私の言うことなど聞いてくれません。なぜお断りしたいのかは、お目にかかってゆっくりお話し申し上げます。いつも私のことを一番よく理解して下さっていたおばあさまなら、きっと力になってくださると信じております。
どうぞ、どうぞ、お身体を大切に。一日も早くお元気になられて下さい。今度のこのことがあるからというだけでなく、ハルちゃんもシンちゃんも私も、おばあさまのことを何かにつけて、とても頼りにしています。母と叔母もそうだと思います。
ハルちゃんが撮影してくれた「三銃士」の舞台写真と、おばあさまがお好きな「金のイルカ」のビスケットをお土産に、そのうちおうかがいいたしますから、どうぞ楽しみにしていらしてください。
春奈より

「あんなところで、栗林さんにばったりお会いするなんて、本当に何だか、夢みたいだわ」
緑川優子がうれしそうに、緑がかった薄茶色のテ-ブルの上で細い指を組み合わせながら言った。
「考えて見ると、大学はもう夏休みなんですよね」サングラスを額の上に押し上げて、オレンジ色のノ-スリ-ブのブラウスの肩に、黒いサマ-セ-タ-をまきつけている那須野遼子が、うす紫と金色の洒落た形の椅子の背にもたれかかりながら言う。
「そうよ。ゼミの教授に頼まれて、ここの市立図書館の資料をコピ-しに来たんだけどさ」長袖の白いス-ツをきっちり着込んだ栗林真澄は、ふちどりの金が少し色あせた大きなメニュ-をのぞきながら、細面の顔のふちなし眼鏡を押し上げた。「何、食べる?私はフル-ツパフェにしよう」
「私もそれにします。那須野さんは?」
ここは、藻波市では老舗の部類に入る喫茶店「金のイルカ」の二階だ。階段わきの丸いガラスの柱形をしたショ-ウィンドウには、明治以来デザインも味もかわらないのが売り物のビスケットが、金色の小さいイルカが中央についた薄水色の楕円形の缶に入って飾られている。思い思いの夏の服装の人々であふれる店内に目をやっていた那須野遼子は、我に返ったように笑ってメニュ-をのぞきこんだ。
「こんな高いお店、めったに来ないからなあ。何にしよう?」
「おごるから」真澄は煙草に火をつけながら言った。「遠慮しないで注文しなさい」
「え、ほんとですか?うれしい!」遼子は白い歯を見せて笑った。「ええと、抹茶パフェにします」
「そっちの人は?」
「あ、ごめんなさい、紹介が遅れてしまって──」優子があわてて身体の向きを変えながら、隣の大西和子の腕に手をかけた。「彼女、一年生の大西和子さんです。大西さん、こちらは去年卒業なさった先輩の栗林真澄さんで、今は榊短大にいらっしゃるの。全国大会で三位になった時の劇『青い鳥』での夜の女王の演技は審査員特別賞をうけて───」 「もう、その話はいいったら」真澄は苦笑した。「大西さんて、今度の劇で、ボナシュ-をやってる人ね?」
「ええ、そうですわ」優子が目を輝かせる。「ごらんになっていただけました?」
「それは見るさ。いろんな噂が伝わってきて心配していたんだもの。これでも一応、先輩なんだからね」真澄は軽く三人をにらんだ。「廃部になったって話まで伝わってきたのよ。でも、見て安心した。皆、よくやってるじゃない?大西さんも、すごく上手だしさ。でもあれ、美沙の脚本でしょ?『三銃士』をダルタニアンの大家のボナシュ-の語りで、思い出話から始めるなんて、いつもながらほんとに意表をつくね。さすがだなあと感心しちゃった」
「腰をかがめたボナシュ-が、もみ手をしながらひょこひょこ舞台に出てきて『ええ、皆さま、私は花のパリで、しがない下宿屋を営むあわれな親父でございますが』なんて話しはじめた時には、ちがう劇がはじまっちゃうのか、会場まちがえたのかなって、あわてる観客も多いらしいんですけどね」
「ほら、それより早く注文を」真澄がせきたてた。
「じゃ、コ-ヒ-とケ-キにします」和子は力をこめて、ぱたんとメニュ-を閉じた。「もう見ないようにしよう。見てると全部食べたくなりそう」
真澄は笑ってウェイタ-を呼んで注文すると、また三人の方に向き直った。
「市立図書館て、そんなわざわざコピ-頼まれるような貴重な資料があるんですね」優子が感心したように、ほっそりとした首をかしげて聞く。
「うん、まあね。この町、昔、貿易が盛んだったから、けっこう珍しい船舶関係の文献とかがあるらしい。外国の輸入品のリストとかもね」真澄はウェイタ-が持って来た白い貝殻のかたちの灰皿に煙草の灰を落としながら言った。「ほら、知らない?伝説の蘭の花も、そうやって輸入されたんだっていうでしょ?」
「伝説の蘭の花?」遼子たちは顔を見合わせる。「そもそも、それは何ですか?」
「え、それも知らないのか」真澄は意外そうな顔をした。「京子たちなら知ってるかもね。そうか、でも京子はそんな神秘的な話って、あんまり好きじゃなかったっけ。だから話さなかったのかな。『蘭の会』の由来になったって、例の花。ほんとに、何も聞いたことない?」
「ええ。───でもあれは、塔のへやにある丸テ-ブルに、蘭の花が描いてあるからじゃないんですか?」優子が聞いた。「そうとばっかり、思ってましたけれど。そのテ-ブルを囲んでサ-クル会議と生徒会、寮委員会が会議をするのが『蘭の会』だから、そのメンバ-もそう呼ぶんだと──」
「それは表向きの話。本来『蘭の会』っていうのは、その三つの会議をすべてあわせた学生たちを代表する唯一の会で、とても大きな権力を持っていたらしい。図書館に本部があって、もともとは図書委員会のような役割をしていたって言うよ。ほら、図書館の本の管理や購入も、昔はすべて、学生が決定していたと言われているのは知ってるよね?それは、その図書委員会の仕事だったらしい。それでさ、その役員たちが、自分たちの良心や権威の象徴として大切に守っていたのが、初代の学長のアメリカ女性ア-シュラ何とかさんから贈られた、ものすごくきれいな、ガラスだか陶器だかの蘭の花の置物だったんだって。その置物、アメリカだかヨ-ロッパだかどこかから船で運ばれてきて、この港で陸揚げされて、図書館に飾られたらしいんだけどね」
「そんなの、見たこともありません」優子が長いまつ毛に囲まれた大きな目を見開いて真澄を見つめた。「記念品展示室にでも保管してあるんですか?」
「さあ、どうなんだろ。私たち、あまり興味もなかったから。ただの伝説かもしれないしね。とっくにこわれたのかもしれないし」
パフェやケ-キが運ばれてきたが、皆、今の話に気をとられていて、何となく無言でそれを食べはじめた。
「───きれいな花だったのかしら?」優子が、ちょっと手をとめてつぶやくように言った。「その、蘭の花って。写真とか絵だけでも、残っていたらいいのにね」
「何も残ってない方がいいのかもよ」真澄は首をすくめた。「そうやって、いろいろ想像できる方が。案外、本物を見たらちっぽけで黄ばんで汚い、『これのどこが蘭なの?』って、つっこみたくなるようなものかもしれないじゃないの。そういうことってよくあるじゃない?」
ようやくまた、笑い声があがる。「この抹茶パフェ、すごくおいしい!」遼子が力を込めて言った。「コ-ヒ-も飲んでいいですか?」
「どうぞどうぞ。私もいただくわ」遼子に人なつっこく見つめられて、真澄は満足そうに目を細くし、またウェイタ-を呼んでコ-ヒ-を注文した。「ねえ、あなたたちこそ、市立図書館なんかで何してたの?夏休みの宿題には早すぎるでしょ?今夜も公演があるってのに、あんなところで調べ物だなんて、余裕といえば余裕だね」
「それがですねえ、私たちの方もいろいろあって」
遼子が首を振った時、テ-ブルのそばにふわっと人影が近寄ってきて、やわらかい声がたずねた。
「クリちゃんじゃないの?」
「吉田先輩!」声の方を見上げた栗林真澄は、飛び上がるように腰を浮かせた。「どうして、ここに?」
「うん、ちょっと仕事でね───」
「どうぞ、お座りになって下さい。この人たちは演劇部の───」
「知ってるわ。ロシュフォ-ルの那須野さんに、ボナシュ-の大西さん、それにボナシュ-夫人コンスタンスの緑川さんでしょう?───私、紅茶とチ-ズケ-キね」優子の隣のあいていた椅子に座りながら、薄緑色のワンピ-スに細い赤いベルトをしめた背の高い女性は、近寄ってきたウェイタ-ににっこり笑って注文した。
「大先輩の吉田冬子さんよ」真澄は三人に説明した。「二年の時から部長をつとめて、名部長の名が高かったの。今、テレビで活躍している中園沙織さんと二人で、いつも主役をなさってて」
「そう言われると、年がばれるでしょ」冬子は笑って抗議した。
「仕事って、赤木市役所のですか?」
「うん、今、観光課なの。で、藻波市の町づくりのリサ-チを上司に命令されて、一昨日から波の上ホテルに泊まってるの。今日は一日、商工会の方々と懇談していて、やっと終わったものだから───」
「そういうお仕事の時って、ス-ツなんか着なくていいんですか?」
「以前は私も必ずス-ツを着るようにしてたけど、このごろはこだわらないわ。こういうかっこうの方が、かえって評判よかったりするし」
運ばれてきた紅茶をひきよせながら、冬子は優子たちを見た。
「あなたたちの劇、素敵だったわよ。特にダルタニアンをやってた子───浅見さん?みずみずしくて、はつらつとしていて、怖いもの見たさって感じでミラディ-にひかれて行く子どもっぽさが、本当によく出ていて」
「私はアトスの片山さんが印象に残ったな。力強くて暖かいのに、どこかはかない感じがして、とっても魅力的だった」真澄が言った。
「て、ことは吉田さんはおととい見られたんだ」和子がつぶやく。「栗林さんは、ゆうべ」
「どうして、わかるの?」二人の先輩は目を丸くして和子を見つめる。
遼子は和子をにらんだが、しかたがないというように、抹茶アイスをつつきながら落ちついた声で言った。
「ちょくちょく、アクシデントが起こってるんですよ。ゆうべは浅見さん、おとといは片山さんが出られなくって、代役でした」
「あらあら大変」冬子がおかしそうに笑った。「あるのよね、そういうことって。何がいったいおこったの?さしつかえなかったら、聞きたいわ」
「片山さんは、最後の授業で理科の実験のあとかたづけしてて遅くなったから、急いで寮に戻ろうとして、あまりふだん人の通らない三階の渡り廊下を走ってたら、防火シャッタ-が誤作動して、前後に下りて廊下の途中に閉じ込められてしまったんです。シャッタ-をたたいたり叫んだり、いろいろやって見たんだけれど、もう放課後で誰もいないし、結局夜遅くなって、見回りの先生が来るまで誰にも見つけてもらえなくて、四時間近くそのままで」
「まあ、かわいそうに!」真澄が叫んだ。「怖かったでしょう!?」
「他の子だったらパニックになったかもしれませんね。幸い、しのぶはうちの部でも、落ちついていて度胸があるのじゃ一二を争うみたいな子だから、じたばたしないで見つけられるのを待ってたみたいです。だけどとにかく、劇の始まるのには間にあわなくて、あたしたちも困って、あわてて、結局あちこち役を入れ替えて何とかのりきったんですけど───その次の日、つまり昨日」遼子はちょっと声を低める。「土曜だったから、夕方と夜、ひきつづいての二回公演だったんです。その、夕方の公演で、主役四人がワインをがぶ飲みする場面で、グレ-プジュ-スのはずだった飲み物が、本物のワインになっていたんですよ」
真澄が眉をひそめて聞いた。「それって、いたずら?」
「さあ、どうですか。とんだキリストの奇跡ってやつで」遼子はゆううつそうな笑いを浮かべた。「舞台の上だし、どうごまかしても、全然飲まないってわけにはいかないでしょう?何だかだ言っても、皆相当飲んじゃって、それでも何とかがんばって最後まで劇は終わらせましたけど、幕が下りるころにはめちゃくちゃ酔っぱらってしまってて───ポルトスやった子は案外お酒が強いのか、わりと平気でしたけど、アトスの子とアラミスの子は頭痛はするやら吐くやらで死にかけてたし、浅見さんはとにかく、こんこんと眠っちゃったんです」
「あれって、実際のお酒の席だったら一番手のかからない酔っぱらい方なんですけど」和子が真面目な顔で言う。「眠り上戸って言ったらいいのか、もうどうしたって起きないんです。水をかけようが、ひっぱたこうが、薬飲ませようが、絶対に目を開けないで、ひたすらくうくう、いい気持ちそうに眠りこけてるんだから。これじゃもう、夜の公演までは到底、目をさましそうにないって判断して、前の日と同じようにまた、いろいろ役を入れ替えて、やっと上演したんです」
「そんな、嘘みたい。信じられない」真澄はあっけにとられていた。「ものすごくバランスがとれていて、完成度が高い舞台だったよ」
「それにしても、そのいたずらは悪質ね」冬子は厳しい表情になっていた。「そういうことって、これまであったの?」
三人は顔を見合わせる。
「春から、ときどき──」優子が口ごもりながら答えた。「それに、ちょうど、新しい地下の演劇部室の壁に、ふしぎな大きな壁画が見つかったりしたもので、こういうことが起こるのも、何かそれにまつわる呪いじゃないのかって言いだす部員も出てきたりして、それで───」
「その壁画を描いた作者が誰かを調べていたら、どうも今から二十年か三十年以前の学生じゃないかってことになって来たんです」遼子が続ける。「何人か候補者がいて、一人にはまだしぼりきれてないんですが、ただ、その頃の新聞の地方欄に、あの壁画に関する記事でも何か出ていないかって、あたしたち毎日交代で、市立図書館のマイクロリ-ダ-で古い新聞をチェックしてるんですけど」
「十年間の新聞記事を?」あきれたように、冬子が首を振った。「いくら地方欄だけと言っても、とんでもない膨大な作業だわ。それに、そんなにいろいろやって、その作者をつきとめたら、どうだっていうの?いまいち話が見えないけれど」
「つまり、その壁画が描かれた時のいきさつがわかれば、呪いなどというおかしな話も消えるんじゃないかと───」
二人の先輩は顔を見合わせていたが、どちらからともなく、ほとんど声をそろえて「バカみたい!」と言った。
「何てまわりくどいやり方をしてるのよ?」真澄がじれったそうに言った。「そんなことしなくても、そういう、いろんな事件を起こしている犯人をつかまえさえすれば、呪いだの何だのってくだらない噂は、いっぺんに消えるに決まっているじゃない!?」
「犯人───」優子が息を呑む。
「はっきりさせなければだめよ。事実と向き合わなければ」冬子の口調もきっぱりしていた。「考えたくないのはわかるけれど、あなたたちの話を聞いただけでも、誰だってそう思うでしょうけれど───やっぱり、それは内部の人のしわざでしょう?」

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