小説「散文家たち」第5章 鏡

拝啓
桜の花もいつか散り、木々はもう若葉の色を見せはじめています。今年は少し肌寒い日 が続きましたが、それでも季節は確実に移って行っているようですね。
あなたの今学期の授業料は先日、受験料などを入れたと同じ郵便局の口座に振り込んで おきました。お小遣いも必要だろうからと思って、少し余分に入れてあります。生活費の 方は心配しないでいいと、あなたのお父さんとお母さんはおっしゃっていましたが、お父 さんの会社もこのごろは経営状況は厳しいようですし、まあ、お金はありすぎて困るとい うこともないでしょうから、何かの足しにして下さい。それから、果物のゼリ-の詰め合 わせと紅茶を一缶送ったのは、もう届いたのかしら?届いたかどうかだけでも知らせてく れるとうれしいわ。あれはとてもおいしい紅茶ですから、無事に届いているのでしたら、 お友達といっしょに召し上がってください。あなたはちょっとぼうっとしているから、お 友達からいろんなものを御馳走されっぱなしになっているのではないかと心配です。何か いただいたりしたら、ちゃんとお返しをするように。いただいた以上のものを差し上げた ら、それは失礼ですけれどね。
浜砂寮の住み心地はどうですか。事務長さんにもお願いしておきましたから、多分、海 側の綺麗な部屋にあたっていると思いますが。同室のお友達はどんな方ですか。よい先輩 ならいいですけれど!結構、個性の強い人が多い学校ですから、いやなことはいやですと はっきり断るようにしなければいけませんよ。
それにしても、入学式の時に浜砂寮を見ましたが、あんなに小さい建物だったかしらと 思いました。冷暖房や部屋ごとのキッチンなど、私が住んでいた頃にはなかった設備もた くさんついていて、昔より随分贅沢になっているはずなのに、それでも、古くなったせい か、すっかり汚くなったように見えました。時の流れをあらためて感じさせられます。
こんなことを言ったら、あなたを滅入らせそうだけど、町自体も少しさびれてきている のかも知れません。まあ、だいたいが古くからの避暑地だから、夏以外は静かな所なので すけれどね。でも、私の持ってる株の動きなどから考えても、そこの、藻波市一帯の地価 はどんどん下がって行っているようで、思いきった再開発か何かしない限り、これからの 発展は難しいのじゃないかしら。去年、女性の市長さんが誕生したようですから、女性な らではのセンスを生かして、何かしてくれるといいですけれどね。
そうは言っても、海岸通りや町の広場などはさすがに風情がありますよね。明治の頃は 貿易で栄えた港だったから、その頃の古い建物などは今見てもきれいでしょう?青い瓦屋 根の銀行と、煉瓦作りの市立図書館はもう見ましたか?麗泉学院の建物の一部も、たしか そのころのものですよ。学院の創設者が明治の末のアメリカの女優さんということは、学 院のパンフレットにも書いてあったから、知っているでしょう?それとも、案外在学中に は、あんなもの、読まないのかな。
宗教や思想とは関係なく、科学的で合理的で、自由で芸術を愛する、新しい女性を世に 送り出すということが、確か学院のモット-だったはずです。だから、私がいた頃も、ま あ七十年代という時代もあったわけでしょうけれど、勉強がよくできて、きれいで、社会 的な関心も高くて学外の政治集会に出たりデモに行ったりしている上級生がたくさんいま した。私でさえ、学内のさまざまな政治や社会をテ-マにした討論集会に友達と出て行っ て、話を聞いていたぐらいですもの。生徒総会や寮生大会がしょっちゅう開かれ、時々は 徹夜までして大激論が交わされて、大きな問題については、学生裁判というのがあって、 裁判官と弁護人と検事と陪審員が選ばれて、双方の主張を戦わせた後に結論を出したりと いうことまでやっていました。それにしても、あの頃の女子学生のきれいな人は、本当に きれいだったわ。髪を染めたり爪を染めたり化粧をしたり、そんなことを全然していなく ても、何だか不思議な気がするくらい、きれいに見えたものですよ。
ああ、それから腕時計が故障して受験の時に時間がわからなくて大失敗しそうになった 話をお母さんから聞きました。そんなつまらないことで人生を誤っては大変だから、新し いのを一つ送ってあげます。取引先の社長が、宝石がはめこんであるとか言って、ずいぶ んもったいぶってプレゼントしてくれたのですけれど、文字盤が小さすぎて私には見にく いの。あの社長はどうも私の年をとても若くまちがえていて、老眼になるようなお婆さん とは思っていないようなのよ。かわいい姪にやったと言えば、彼も傷つかずにすむでしょ うし、使ってくれるとうれしいわ。ずいぶん高いもののようですから、お風呂の時などに 取られないよう用心しなさい。
連休は、伯母さんは陶芸教室のお友達とフランスに行く予定です。あなたと会えなくて 悪いけれど、お土産をどっさり買ってきますから、許して下さいな。
敬具
姪御殿
胴長おばさんより

「美沙、あんたって天才だ!」美尾さつきは、皿の上のロ-ルケ-キをつまんで口にほ おばりながら、感心したように首を振り、今目を通し終えたばかりの分厚いコピ-の束を 片手の指でぱらぱらめくった。
「少しだけラム酒を入れて見たの。紅茶の匂いがちょっと強すぎるかなとも思うんだけ ど」美沙はケ-キを切りわけながら言った。「食べる?もう一きれ」
「ケ-キもだけど、この脚本だよ」さつきはコピ-の束をたたいた。「二日でよくも、 これだけ書けたね」
「だから言ってるでしょう?漢文と生物のテスト、もうめちゃくちゃだったって。追加 レポ-ト出さなくちゃならないわ、きっと。特に漢文の野瀬真知子先生は、落第点のテス トを返す時はとても悲しそうになさるから、あれって結構つらいのよね」
昼なお暗い、地下の演劇部室である。へやの向こうとこちらの隅に、司たちが工夫した 色つきの笠をかけた灯がともっていて、さつきたちが今いる一角は海の底のような青い光 に満たされていた。一方、テ-ブルの向こうの、すりきれた長いソファ-が置かれたコ- ナ-は暖かいバラ色の光に包まれていて、緑川優子、上月奈々子、村上セイ、新名朱実、 田所みどり、大西和子、浅見司といった少女たちが、せっせと先日ボ-ル箱から出てきた 衣装や背景の幕の点検や補修に余念がなかった。
「見て見て見て!」奈々子がはずんだ声で叫んでいる。「この赤い飾り帯!こうやって 腰に巻いて、端の房をひらひら垂らしたらもう最高よ!」
「あっ、それ、さっきあった緑色の帯とセットになってるんじゃないですかね」司が腰 を浮かせて、衣装の山を調べはじめる。
「それにしても、しかしまあよく」こちらでは、さつきがまた感心していた。「あのボ -ル箱から出てきたもの皆、何から何までよくとりいれて脚本にしたものだね。冷蔵庫の 残り物料理といおうか何といおうか。美沙、もしかしたらあんたって、狸と宇宙船とサト ウキビ畑と海賊とゴジラとタワシの出て来る劇を書けと言っても、何とか書いてしまうん じゃない?」
「おほめの言葉とうけとっておくわ」美沙は紅茶をすすりながら上目づかいにさつきを 見て笑った。「京子、あなたの感想は?」
「そうね。なかなかいいんじゃない?」さつきと同じコピ-の束を読みふけっていた京 子が答えた。「ええと、題名が『青い地平線』なのね」
「さっき、新名さんとも相談していたんだけど、それに使えそうな背景の幕があったで しょ。夜明けの草原と空を一面に描いたような藍色と水色の」
「そうね。それで・・・舞台は中世ヨ-ロッパとおぼしき架空の国モルギニア。王様が いて王女がいる。この王女は上月さん?緑川さん?」
「どっちかというと上月さんかな。けっこう負けん気の強いお姫さまだから」
「主人公はその国の名門の貴族の兄弟で、双子じゃないけど双子みたいによく似ていて 父親にも区別がつかない。二人のお母さんはもう死んでいていなくて、お父さんとお兄さ んは宮廷の仕事が忙しいので、領地は弟が治めているのだけれど、これがけっこう残酷な 支配者で、厳しく年貢をとりたてて、納められない百姓がいると水牢に入れる、死刑にす る・・」
「犬をけしかけてかみ殺させる、というのも入れようかと思ったんだけど、ブランカじ ゃ迫力ないしねえ」美沙はため息をついた。
「ブランカ?あの、寮の食堂に居ついているおばあさん犬?それはちょっと・・。大き いことは大きいけれど、あんなに白くてふわふわじゃ・・。それに第一、いくらかわいが ってるあなたの言うことをよく聞くと言っても、あの犬はとても人にかみついてくれそう もないわ」
「だから、やめたの」美沙はケ-キを切りながら首を振った。
「で、とにかく、その弟は、百姓に情けをかけたらつけあがる、と思っていて、お兄さ んが忠告しても残酷な支配をやめようとはしない。優しいお兄さんの方は、それで深く悩 んでいて・・・」
「さっきから気になってるんだけど、その二人・・・うり二つの兄弟の騎士の役、誰が やるの?」さつきが口をはさんだ。「この脚本で見る限り、一人二役は無理でしょう。だ けどそんなに似ている二人が、いったいどこにいるって言うの?クロ-ン人間作るにして も時間が足りないだろうしさ」
美沙は笑って伸び上がり「上月さん!」と呼んだ。
「はあい」向こうのソファ-から奈々子がぴょいと立ち上がる。「例の仕事?とりかか ってもいいの?」
「お願いするわ」
奈々子は壁に立てかけてあった大きな鏡の前に行き、椅子を一つとメ-キャップ用の化 粧品の入っている大きな箱とを並べて置いた。柔らかい布で鏡をごしごし拭きながら、彼 女は「みどり!」と呼んだ。「ちょっとこっちに来て!」
銀色の剣の鞘についていた紫色の宝玉を、接着剤で丁寧に付け直していた田所みどりは びっくりしたように顔を上げ、「私ですか?」と聞き返した。
「そう、あなたよ。それに司も。急ぎなさい!」
腰に手を当て、片足を軽く曲げて、偉そうに身体をそらして立っている奈々子を見て、 司もみどりもあたふたと立って鏡の前に来た。向こうから美沙が楽しそうに、もう一つ椅 子を押してきて、前の椅子と並べる。奈々子は慣れた手つきで、さかさにした化粧水のび んを振りながら「二人ともその椅子に座って、じっとしてるのよ」と命令した。「それか らみどり・・・このお下げ、切っちゃっていい?」
「え~っ!?」みどりは椅子から飛び上がった。「で、でも・・なぜですか?」  「わけは、あ、と、で」奈々子は甘ったるい声を出して、後ろからみどりの頬に顔を寄 せた。「いいでしょ?ね?あたしの一生のお、ね、が、い」
「べ、別にいいですけど・・・」自分の顔にくっつけられた、バラ色に輝く小さく美し い奈々子の顔の大きな目がぱちんとウィンクするのを見ながら、みどりは口ごもった。  「うれし~い、大好きよ!」奈々子はみどりの髪にキスして、つやつやと美しい、長い お下げの一本を大切そうに持ち上げる。
「ついでに、眼鏡もはずさせてくれる?」美沙がいたずらっぽく笑って手を伸ばし、み どりのかけていた黒縁のけっこうごつい眼鏡を取った。

喫茶「オリエント急行」の店の横手には、白い柱に蔦がからみつく気持ちのいいテラス があって、もうそろそろ夏の準備なのか、天井には色あせた青と白の大きな帆布の日除け が張られ、白と黄色の縞模様の椅子とテ-ブルがいくつか並べられていた。手すりの向こ うには、日に日に青が濃く鮮やかになって行く初夏の海が広がっている。船腹に赤い筋が 一本入った遊覧船が一隻、悠然と沖を横切ってゆく。
喫茶店に入るのが校則違反になるのだったら、個人的なお客として歓迎するから裏のテ ラスに来い、と「オリエント急行」のママが言ったのが、このテラスだ。今日、そのテ- ブルの一つには四人の演劇部員が、それぞれに皆、あまりさえない表情で座っていた。  一年生の立花朝子が困ったような顔で目を伏せ、向かい側の二年生峯竜子は、そんな朝 子をぎょろりとにらんだ。隣に座った二年生の那須野遼子はさっきからそっぽを向いて、 黙って煙草をふかしつづけている。
「で?」竜子は猫が追いつめた鼠に話しかけるような声を出した。「演劇部をやめるん だって?」
「ちょ、ちょっと待って下さい」もう一人の一年生斎藤眉美は、目をむいて大きく手を 左右に振った。「そんなこと、誰も言ってないです」
「だって今、やめたいと言ったじゃないか?」
「やめたいというのと、やめるというのは、そりゃもう大違いですよ」眉美はまじめな 顔で言った。
竜子は椅子の背に斜めにもたれる。「ほ~う!そんなもんかね」
「そうですよ」眉美はひるまなかった。「私たちが言いたかったのは、ただ、演劇部を やめたくなるぐらいに、あのへやに一人で入って行ったり、ずっと中にいて仕事をしたり するのが苦になるってことなんです!」
「どのへやさ?」
「部室の奥の、あのへやです」眉美は声に力をこめた。「あそこに入って、一人で片づ けとかしていると、すっごく恐くなるんです。誰かにじっと見られてるような・・・何か そんな気、しませんか?」
遼子と竜子は顔を見合わせ、それからめいっぱいバカにした表情を二人の一年生に向け て首を左右に振った。
「それって、もしかしてお二人が」立花朝子がおずおず聞く。「まだ、あのへやに入っ て長いこと、片づけしたことないからじゃありませんか?」
「つまりあんたはあたしたちが仕事をサボっている、と?」竜子が目を細くする。  「そうじゃないけど、でもですね。とにかくあのへやに入って暗い中でライトをつけて ひとりで片づけ仕事をしてるとしますよね。そうしたら」朝子は声をひそめる。「誰もい ないはずの方向から、誰かがじっとこっちを見てるのを感じるんです。暗いすみっこを何 かがすうっと横切るような気がしたり・・・」
「あんたたち」遼子がそっぽを向いたまま、注意する。「その手の話を朝倉京子が何よ り嫌いということを、よもや知らないわけじゃなかろうね?」
「知らないわけがないでしょう?」眉美がすぐに言い返した。「朝倉部長の迷信嫌い、 合理主義、科学万能精神を知らなかったら、麗泉学院の生徒じゃないですよ。だから、あ たしたちだって、おおっぴらに口にすることはできないでいるんじゃないですか!?だけ れども、そのこと、一年生の間じゃもう、けっこう噂になっていて、恐くってしかたがな いから、このごろじゃ誰も一人じゃ絶対に、あの奥のへやには入りません。こういうのっ て、何かやっぱりまずいのとちがいます?このままだと、その内ほんとに一年生の中から 退部者が出かねません。だから次期部長候補の峯さんに、こうして相談してるんじゃない ですか?」
竜子は飲んでいたバナナジュ-スにむせた。「あたしが次期部長候補なんて誰が言った のさ?まったくもう、冗談じゃない。そんなこと何も決まっちゃいないよ」
「だけど、噂じゃ・・・」
「噂、噂、噂!」竜子はテ-ブルを、どんとたたいた。「それしか言うことはないのか い、もう本当に、あんたらときたら!よってたかってこそこそと、あることないことおし ゃべりして、それにまた勝手に自分たちでびくついて!ああ、ああ、ああ、あたしゃ部長 になりたいね。んでもって、部長になったあかつきには、そんなろくでもない噂ばっかり 振りまく奴をつかまえて、雑巾でごしごし口を拭いてやるよ!壁から誰かが見つめてる? 何かい、その内、あのガラクタの中から白骨化した行方不明の女の子の骨でも出てくると でもいうのかい?ハリウッドの、予算節約して若手俳優どっと売り出す常套手段のホラ- 映画じゃあるまいしよ!?」
「でも、でも、ほんとに噂があるんですよ!」立花朝子が泣き声を出した。「演劇部は 何かにたたられてるっていう・・・」
「何だってえ!?」竜子は大きなぎょろりとした目をむきだして、かみつきそうな顔で 朝子をにらんだ。
「だからっ!あのこれ、あたしたちが言ったんじゃないんです。演劇部以外の人たちの 中で、もうかなり広まっちゃってる噂なんです!演劇部は何かにとりつかれていて・・・ だから、片山しのぶさんもあんなことになって・・・落っこちて足折ったし、その後の厳 しい処分だって・・・。だから、きっとまたその内に何かが起こって、今度はまた誰かが 怪我するか・・」朝子の声が震えてつまった。「ひょっとしたら・・・ひょっとしたら、 死んじゃうか・・・きっとまた、何かがある、って・・・」
話している内に朝子は、もう泣きださんばかりだ。ふっくらとした肩をさも怖そうにす くめて、西洋の美人画のようなぽっちゃりと美しい顔をくしゃくしゃにゆがめてべそをか いている。たたられているという噂と、目の前の竜子のにらんでいる顔と、どっちにより 怯えているのかはいまひとつ定かではない。
「ふうん、ああそう」竜子はまるで同情も感動もした様子がなかった。「つまりあれか ね、学院の歴史をひもといて見たらば、片山しのぶの落っこちたあの図書館のバルコニ- で十年前だか二十年前だかに身を投げて死んだ少女がいたってことがわかるわけだね。で もって、そいつは上級生だか同級生だかに実らぬ恋をしていて、片山しのぶの身体を調べ て見たら、その相手の女の子と同じ場所にバラだかケシだかユリだかボタンだかクロッカ スだかアマリリスだか、まあ何でもいいがそういう花の形なんかした不思議なあざが浮か び上がって、どうしても消えない・・・」
「どうせあたしは、臆病でバカです」からかわれていることがわかったのか、朝子はす ねた口調になった。「だけど、ほんとに心配だから・・・峯さんなら話聞いてくれるかも って思ったから、勇気出して話したのに・・。そりゃ、あたしは、ただのマヌケのドジの デブです」
「おいおい、美人で成績トップのあんたがそんなこと言ったら、ただのいやみにしか人 には聞こえないんだって、何度言ったらわかるんだよ」もともと、どちらかと言うと朝子 のことはかわいがっていて、それだけに時々荒っぽいことを言ってしまいがちな竜子は、 音を上げたような声を出した。「まあいいよ、わかったよ。そのことは考えといてやるか らさ、今日はもう部室に行きな。たしか夕方から皆で衣装や小道具の修理するから集まれ って言われてたんだろ?」
「峯さんたちは?まだ行かないの?」眉美が聞く。
「もう一杯ここでコ-ヒ-飲んで行く。すぐ行くと皆には言っておいて」
「無事に、部室にたどりつけたら」那須野遼子がそっぽを見たまま、ぽつんと言う。  「そうそう。無事に部室にたどりつけたらね」立ち上がりかけた下級生二人を見上げて 峯竜子もにやりと笑った。「ほら、もうそろそろ暗くなってる。海岸通りも学校のそばは 結構淋しいし・・・」
「特にあの地下室に下りて行く暗い階段には気をつけた方がいい」遼子が意味ありげな 流し目で二人を見上げて、こちらも薄いきれいな唇に冷たい微笑を浮かべた。「壁の中か らすっと手が出て、あんたの髪をこうやって・・・」
「いや-ん!」遼子の強い長い指先でいきなり、リボンでたばねた髪のはしをつかまれ た朝子は泣き声をあげて必死にふりはらい、眉美と手をとりあって、椅子やテ-ブルにぶ つかりながら、ころげるように店に通ずるテラスの階段をかけおりて行った。
「ありがとうございました!」お盆を持って階段をあがって来ていた店の女の子の一人 ユリちゃんが、あわてて身体をよけながら言う。
遼子は、朝子が髪をふりはらうはずみにほどけて、自分の指にからまって残ったピンク のリボンを持ったまま、竜子と顔を見合わせて吹き出した。
「何なんだろうなあ、ほんとに、あれ!?」
「まあ、こういうオカルトばやりのご時世だもの。合理性、科学万能の麗泉っていって も、だんだん変わって行くのはしかたがないってことか」
「お二人、帰っちゃったんですか?」ユリちゃんがケ-キの皿とコ-ヒ-ポットをテ- ブルの上におきながら、ちょっと階段の方を振り向く。「せっかくミカちゃんの焼いたチ -ズケ-キ持って来たのに」
「心配しないでもいいよ。あたしら二人で全部食うから」竜子は舌なめずりしてフォ- クをつかんだ。「二人の分のコ-ヒ-代もちゃんと払うから」
「え~っ!?」遼子がうんざりしたような声を出す。「あんなバカな幽霊話聞かされた 上に、コ-ヒ-おごってやんのかよ?やってられんな、もう、本当に!」
「なあに、あとでたっぷりしめあげて、とりたてるさ」竜子はフォ-クを宙に振った。  「今日はお代はいりませんって、ママが言ってます」ユリちゃんが、お盆を胸にあてて 笑った。「私の個人的なお客さまですからって」
「そうは行くかよ。演劇部の部員が来るたび、そんなことしてたのじゃ、このお店破産 しちまうぜ」ケ-キをほおばりながら、竜子がユリちゃんを見上げて、口をとがらせた。  ユリちゃんは首をすくめて、ちょっと身体をかがめた。「ここだけの話・・・」
「うんうん」内緒話が嫌いではない竜子は、うれしそうにうなずく。
「那須野さんが来てる時だけじゃないかと思いますよ。うちのママ、那須野さんが何だ かお気に入りみたい。そう思われません?」
「おお、この色男めが。ついにママまで誘惑したか」竜子はうなった。
「まさか」遼子の方は珍しく当惑したように、けげんそうに眉をひそめている。「心当 たりないよ。あたしには」
「あんたは意識的に人を誘惑してばっかりいるもんだから、向こうが勝手に自分に好意 を寄せているのには反応鈍いんじゃないのかい?」竜子は二皿めのケ-キを引き寄せなが らからかった。「そんな風だと、幸せ逃すぜ」
遼子はため息をついて、ケ-キをつっつきはじめた。
「援助交際で、おじんから金をまきあげてた中年キラ-とは知ってたが」竜子はしつこ くからんでいる。「中年女性にも強いのか。ほうほう」
「いいかげんにしないと、海に放り込むわよ」遼子はうるさそうに言った。
「そのケ-キ、おいしいでしょ?」カップやお皿をかたづけていたユリちゃんが、明る い声で聞いてきた。「ミカちゃんが焼いたんですよ」
「うん、すごくおいしい。彼女たしかケ-キ教室に通ってるって言っていたけど、さす がだね」竜子は三皿目のケ-キに目をつけながら言った。「これって絶対、お店に出した ら好評だよ」
「そうしようかとママも言ってて。来週はチョコレ-トケ-キを作るってミカちゃん、 はりきってましたけど」
「彼女もう、高校には戻らないのかしら?」竜子はちょっと気にしたように、声を低く した。
この店のもう一人の女の子ミカちゃんは、高校(麗泉ではない)に入ってすぐ、いじめ にあって学校をやめてしまい、今はここでバイトをしている。赤みがかってふわふわうず まく髪に囲まれた色白の顔のどこか傷つきやすそうな大きな目と、唇のはしにときどきで きる長く深いしわとが印象的な小柄な少女だ。ふだんは明るく元気だが、ときどきわけも なくしょんぼり落ち込んでいることもある。
「どうなんでしょう。今は毎日すごく楽しそうだから」ユリちゃんは言った。「特に彼 女、演劇部の皆さんが好きで、中でも峯さんが好きみたいですよ。高校でたった一人、自 分をかばってくれた同級生に峯さんが似てるらしくて」
「その同級生って、男の子だろ?」遼子が聞く。
「さあ、それは聞きませんでした」ユリちゃんは笑った。「でも、峯さんと話している と彼女何だかほっとするみたいですね。去年の秋でしたか、峯さんが弁慶をやった『勧進 帳』もこっそり見に行ってたみたいですよ。素敵だったって、私たちあとでさんざん話を 聞かされましたから」
「あれま、ミカちゃん、あたしには何にもそんなこと言わなかったくせに」竜子はあき れた。「あんときは確か、緑川優子が義経だったんだよね。関所役人をごまかすためとは 言え、あたしが彼女を杖でぶったたくシ-ンがあって、優子はあんなにきゃしゃでかわい らしいからさ、客席からは悲鳴があがって、あたしゃほとんど悪役だったよ。あの時の関 所役人の富樫って、あんただっけね、那須野さん?」
「いや、あたしはあの時は義経の家来の四天王の一人だった。富樫は誰だったっけかな あ、ちょっと覚えてないや」
「とにかく、今日は峯さんが来てると知ってから、ミカちゃんたら自分の焼いたケ-キ を食べて欲しいらしくて、早く持って行って早く持って行ってって、そりゃあもう、うる さいったらないんです。それでとうとう、お客さまに出す紅茶と抹茶までまちがえて、マ マもあたしも、これはもうだめだと思って、急いで持って行くようにしたんですけど」ユ リちゃんは説明した。「でもよかった。峯さんがおいしいって言って三個も食べたって言 ったら、彼女きっと大喜びですよ」
「チョコレ-トケ-キも楽しみにしてるって言っといて」
「はあい」ユリちゃんはうなずくと、お盆を持って戻って行った。
「さっきの話、どう思う?」遼子が煙草を消しながら、眉をよせて聞いた。
「たたりの話か」竜子もまじめな顔になっている。「さしあたり、京子には話せんよな あ。といって、さつきや美沙やんにも、この段階ではまだちょっと・・・」
「同感。でも、だからって、このままにはしとけないだろ?斎藤さんが言ってたことは 部分的にはそのとおりだ。一年生にそんなに動揺が広がってるなら、ほっとくと、たしか にまずい」
「だけどね、噂ってのは、誰かがひろめるもんだ」竜子は考え込んでいた。「誰がしゃ べってまわってるんだろ?」
「さあ、噂ってやつは、ある程度広まるとあとはもう一人歩きをするからね。震源地を たしかめるのは、もう無理かもしれないな」
「だけど変だよ」竜子は太い首をかしげた。「第一、あたしの耳にはまだ、そういう噂 は入ってきてない。あんたはどっかでそんな話、聞いた?」
遼子は黙って首を振る。
「さっきのあの子たちの話じゃ、一年生の間には相当ひろまっているみたいだったね。 演劇部でも、それ以外でも」
「ということは、一年生の誰かが・・・?」
「そうとは限らん。案外、小石川ナンシ-が・・・」言いかけて竜子は首を振った。  「彼女はそれほどバカじゃない」遼子が竜子の意見を代弁するように言う。
「ああ」竜子はしばらく宙を見つめて考えていたが、立ち上がった。「だめだ。わから ん。おい、もう行こうや。いくら何でもあんまり遅くなっちゃ、京子たちに悪い」
「そうだね」遼子も立ち上がった。「罪滅ぼしに、下でクッキ-買って行こうや」
「お金あるの?」
「まかしときって」遼子はポケットから一万円札を何枚かつかみだし、その一枚を目を まるくしている竜子に渡した。
「何だか最近、金があるなあ、あんた」竜子は不気味そうに遼子を見た。「まさか、ど っかのポルノショップに下着とか、盗み撮りしたあたしらのヌ-ド写真を売りさばいてる んじゃあるまいな」
遼子は白い歯を見せて笑い、片目をつぶって見せた。「いいスポンサ-を見つけてね。 最近ちょっと見入りがいいのさ」
まだ何か言いたそうにしている竜子のぶあつい肩をたたいて、遼子はそのまま大股に階 段の方へと歩きだした。

眉美と朝子が、図書館の地下室へ下りる階段の手前の廊下にさしかかった時には、遼子 が予言した通り、もうあたりは薄暗かった。
「やだ・・・もう!」朝子が立ち止まって情けない声でぼやく。
「何でもう、ここの階段、明かりのひとつもないのかなあ!」眉美がため息をついた。
「ねえ、朝子・・・、何だかあの壁の茶色いの、血の染みに見えない?」
「よしてよ-、もう、やめてよ-」朝子は大きな身体を縮めるようにして、眉美にひし としがみついた。
「しゃあない、目つぶったまま、一気に下りようよ、それしかないよ」
二人がほんとに目をつぶり、手をとりあって階段をけっこう早足で下って行った時、や わらかい何かにふわっとぶつかって、二人は同時にきゃあっと悲鳴をあげた。
「あらあ・・・失礼」暗がりの中から、おっとりと上品な声がひびいた。「おけがはな さらなかったこと?ぼんやりしていて、ごめんあそばせ」
「ひ、ひ、日村さんですか?」
こんな時代離れした優雅なものの言い方と、やや鼻にかかったいとも上品な声は、生ま れてこのかた、まだスカ-トしかはいたことがなく、二本の足を別々にしてズボンに入れ たことがないという噂の高い、超のつくお嬢様、二年生の日村通子しかありえない。眉美 と朝子はあえぎながら、通子の上等の石鹸か、ひょっとしたら香水か、何かとてもいい匂 いのする、ほっそりと背の高い身体をさぐって確かめた。「ど、どうしたんです?どっか らわいて出て来られたんです?誰もいないと思ってたのに・・・」
「ごめんあそばせ・・・」通子は、ほのかな笑いのこもるやわらかい声で繰り返した。 「わたくし、歩くのが遅いものだから・・・あなたがたの声が後ろから近づいてくるのは 耳にしていたのだけれど、こんなに早く追いつかれるとは思っていなくて・・・よけそこ なってしまったみたい」
「ひ、ひ、ひとりでこんな暗い廊下歩いてて、日村さん、恐くなかったんですか!?」
「あらあ、そうかしら?この廊下、そんなに、暗い?別にそんなこと、考えたことなか ったけれど。田舎のわたくしの家の廊下は、もっと暗くて長かったから」通子は二人を両 側から抱きつかせたまま、廊下の奥の方に目をやっていた。「そんなことより、気になり ません?・・・部室で何か、あったのかしら?」
「え?・・・」
「今、お二人がおたてになった声を聞いても、どなたも出ておいでにならないわ。変だ とお思いにならなくて?皆さん、中にいらっしゃるはずですのに・・・」
「ま、まさか・・・」
またしても縮み上がった二人にかまわず、通子はゆっくり歩き出した。部室の入り口の ドアの近く、たった一つついている小さな明かりが、通子の、細い鼻となめらかな肌の、 どこか美しいトカゲに似た顔を照らし出し、その影がゆらゆら、廊下の壁にゆれている。  「日村さん・・・」
廊下のはしに抱き合って、ちぢこまっている二人にはかまわず、通子はドアを開け、中 をのぞいたが、やがて振り向き、笑って二人を手招きした。
おそるおそる、二人は近づき、へやの中をのぞきこむ。
壁にたてかけられた大きな鏡の前に、演劇部員たちが集まって、かたずを呑んだ表情を していた。皆の視線が集まる先には美沙と奈々子が立っていて、満足そうに笑いながら、 それぞれ自分の前に立ったほっそりとした少女の服装や髪型を直してやっている。
少女?だが、その二人は、ちょっと見にはどちらも少年に見えた。童話の王子のような 長いタイツに包まれた足は、二人とも同じようにすらりと長く伸びて美しく、薄紫と金の 衣装に黒いマントをまつわらせたその身体は、しなやかに細い。それもまた二人とも同じ くらいの長さの、ショ-トカットの髪のかかるすんなりとしたきれいなうなじが、いかに もみずみずしかった。
「あら、通子!眉美に朝子も、ちょうどいいところに来たじゃない!?」奈々子が片手 のヘヤスプレ-を高くかかげて、大きくウィンクをして見せた。「誰と誰だか、さあ、わ かる?」
二人の少女の肩に手をかけ、くるりと身体の向きを変えると、奈々子は入り口の三人の 方を向かせた。
「ええ-っ!?」眉美と朝子が声を上げる。
「司よね・・?え、でも待って、みどりなの・・・?」朝子はあわただしく、一人から 一人へと視線を左右に動かした。「嘘・・二人とも、そんなに似てた?」
「そうなのよう!」右の方の少女が途方にくれた声を出して、それでようやく司だとわ かった。「まるで、あたしがもうひとりいるみたいで、とまど~う!」
「もともと、すごく似てるのよ」美沙が後ろで笑った。「髪型と眼鏡でわかりにくかっ ただけで。あとは奈々子のメ-キャップの勝利ね」
「ここまで似てたら、あとは簡単だわ」奈々子はふんふん鼻歌を歌いはじめんばかりだ った。「一番ちがうのは眉だけど、それって一番どうにでもなるしさ。鼻と口とあごはま るでそっくり、目だってそこそこ似ているし。みどり!あんたの目は切れ長で、司の方が 丸いんだから、あんたはなるべく大きく目を開けて、くるくる動かすようにしといてね。 そうしたら、ほんとに誰にも見分けはつかないんだから。自分でもそう思うでしょ?」
「でも・・・」左の方の少女、みどりは落ちつかなげに口ごもった。「あたし、見えな いんですよね。司の顔も、自分の顔も、眼鏡はずすともう全然。あのう、これで騎士をや れとか、剣持って戦えとか言われても、絶対無理だと思うんですけど」
「大丈夫!」さつきが力をこめて言った。「部の予算でコンタクトレンズの一つや二つ 買ってあげるわ。セイ、できるよね?」
「え!?コンタクトですか?」村上セイはあわてて、コンピュ-タ-の方へと走って行 った。「ちょ、ちょっと待って下さい・・・」
それをきっかけに、少女たちは一度にざわめきはじめ、わっと司とみどりの回りに群が った。
「やったなあ!」新名朱実が歓声をあげた。「これでもう『青い地平線』ばっちりやれ るじゃないですか」
「それだけじゃないわ」美沙が言う。「シェ-クスピアの『十二夜』も、『間違いつづ き』も楽勝よ」
「それを言うなら」さつきが指を折って数える。「マ-ク・トウェイン『王子と乞食』 だろ、デュマの『鉄仮面』だろ、ディケンズの『二都物語』だろ・・・」
「ケストナ-の『二人のロッテ』もあるわ」緑川優子がうれしそうに叫ぶ。「宮部みゆ きの『ステップファザ-・ステップ』も、萩尾望都の『ト-マの心臓』も」
「いいわねえ、ユリスモ-ルとオスカ-は、もう決まってるようなもんだし」上月奈々 子がくすくす笑う。
皆にもみくちゃにされながら、司とみどりがようやく顔を見合わせて笑い出し、二人が 手を取り合って顔を寄せ合った時、ちょうどドアから入ってきた竜子と遼子が、その姿を 見て仰天して立ちすくんだ。
「司・・・と司!?」竜子が目を見はる。
「みどりが・・・二人!?」遼子が呆然として息をのむ。
その二人の顔を見て、少女たちの笑いが一時にまた、どっとはじけた。

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カツジ猫