小説「散文家たち」第26章 異形の影

司と和子の部屋で一年生の少女たちが騒いでいたのと同じ頃───
ここは、浜砂寮五階の、空き部屋の一つだった。
むきだしのベッドと、からっぽの本棚だけの、がらんとした部屋に、隅の洗面台が妙に白々と浮き上がって見える。
へやの真ん中には、前の住人が植木鉢の敷き皿に使っていたらしい、ふちの欠けた濃緑色の陶器の皿の上に、小さな蝋燭が灯されて、じいじいとかすかな音をたてて、燃えていた。赤い煙草の火がひとつ、そのそばでちらちらとまたたいて、上がったり下がったりしている。
ここは場所が高いだけに、風の音はひときわものすごい。渦を巻いておしよせる風の塊の中に一瞬くるまれると、寮の建物はもみしだかれて震え、床がかすかにゆらゆらと揺れるのが、はっきり身体に感じられた。
長くなったり短くなったり、伸び縮みする蝋燭の光のゆらぎの中に浮かび上がる三つの顔は、暗がりの中で輪郭がぼやけて、どこか、古い美術館の忘れられた片隅にある絵の中で見るような、静かな美しさをたたえていた。目をこらしていると、それぞれの顔の背後や周囲に、暗い森の木の葉や、さかまいて上がって、そのままに止まった白い波のしぶきや、金色の雲に包まれた奇妙な獣の顔などが、おぼろに見えてくるような気さえするのだった。
三人ともが、何も言わない。風の音だけが長いこと、へやを満たしていた。
美尾さつきが、ゆっくりと、立てていた膝を崩して、煙草を皿にすりつけて消した。
「───この四月──からで多分、いいのだろうが」いつになく慎重な口調で、彼女は言った。「そこから、今まで、あたしたちの回りに起こった、いろいろなことを、三人それぞれに、まとめてみた方がいい。いったい、何があったのか、それをどう思っているのか、簡単に一人ずつ、話してみないか」
「そうね」さつきの向かいに、膝を抱えて座っていた京子が、小さくうなずいた。「起こったことは同じでも、私たちには、それぞれに、違うように見えていた可能性だってあるから」
「賛成だけど、その前に」ベッドに腰を下ろしていた南条美沙が低く言った。「京子。あたしと、さつきとは、あんたに謝らなきゃいけないわ」
ん?という表情で、ふりあおいだ京子の白い顔に、美沙は微笑みかけた。
「あの壁画の作者や背景のことを、あなたに黙って、さつきと二人で、あれこれ調査してみていたこと」
京子は首を振った。それから暗い中では見えにくいと思ったのか、声に出して言った。 「気にしていないわ───どちらにしても」
「どちらにしても?」
「もしも、今起こっているいろんなことに、大した意味などないのだったら、それだけのことだし、もし何か意味があるのなら」京子は、ちょっと言葉を切った。「おたがいに今は、そんなことを気にしている時ではないでしょう」
「ちがいない」さつきが、ふっと笑った。

「それでは、あたしから話して見るわ」美沙が、授業中、先生にあてられて数学の問題を解いている時と同じような、落ち着いた、はっきりした口調で言った。
「四月。あたしと、さつきとが、京子に内緒でやった夜間の練習で、片山しのぶさんが図書館のテラスから落ちて、大怪我をした。翌日、開かれた職員会議や、その他の会議の結果、演劇部は異例の厳しい処分をうけて、あたしたちは皆、役員を辞任し、小石川さんが京子に代わって、生徒会長になった。演劇部は塔のへやを追い出され、図書館の地下の新しい部室に移動した。浅見さんの活躍などもあって、そのへやを片づける内、その奥に誰も知らなかった別の広いへやがあるのを発見。そのへやの、がらくたの中からは、騎士物語と戦争物を中心とした、さまざまな衣装や小道具が大量に発見された───ここまでは、いいかしら?」
二人は、うなずく。風がまた、悲鳴のような音をたてて、建物をゆらがせた。
「その衣装や小道具を使って、五月の新入生歓迎と、六月の創立記念日の劇を、あたしたちは成功させた。この間、小石川さんと、生徒指導の細川先生は演劇部の廃部をねらって、あたしたちの規則違反を厳しくチェックしてきたけれど、それは何とか切り抜けた。その結果、塔のへやに戻る望みは当分なくなった代わり、小石川さんの攻撃も、今のところ一応は止んでいる。小石川さんは、その一方で、十和田さんをサ-クル会議議長に、堀之内さんを寮委員長にした。自分も含めて、年内には、この三人の信任投票を行って、正式に学内に認められたものにしたいと思っているらしい。演劇部に対する、彼女───小石川さんの敵意はまだ消えていないけれど、彼女の片腕の沢本玲子さんは、それほどの対立を望んではいない模様だし、堀之内さんと十和田さんも演劇部とは一応、友好関係を保っている」
「同感」京子がうなずく。
「完璧」さつきが首をかしげて、新しい煙草に火をつけながら、歯の間から言う。
「ところで」美沙は続けた。「演劇部室の奥のへやには、壁一面を使って『水滸伝』と『ロビン・フッド』を題材にした壁画が描かれていた。その作者と、描かれた背景を探ろうとして、七月に入って、あたしとさつきは、美術部の十和田さんに協力を求め、更に沢本さんの協力も得て、校史編纂室の古い学内資料をチェックした。この調査を担当した村上セイさんの話では、その結果、あの絵を描いた可能性のある卒業生の名はかなり、しぼりこまれて来ているとか。その一方で、市立図書館で何かヒントになる記事はないかと、二十年から三十年前の新聞を調べたけれど、こちらは今のところは、これといった手がかりは見つかっていない」
さつきが二人から顔をそむけて煙を吐きながら、ちょっと眉をよせた。京子も何か言いたそうに、ちらと美沙の顔を見る。
「これとは別に」二人にかまわず、美沙は言った。「多分、六月頃からと思われるけれど、あちこちでポルノ小説、ポルノ写真が売りさばかれはじめていた。七月に入ってからは、あたしたちの劇と、あたしたちとを題材にしたものが、大幅にそれに加わった。危険を冒して、あたしたちは、その犯人をつきとめるため、『三銃士』の劇を利用した、おとり捜査を行い、かなりきわどい冒険ではあったけれど、一応、犯人をつきとめて、その本部を破壊した。もっとも、これには疑問も残る。時期的にも内容的にも、あのポルノのすべてを辛島さんと写真部の人たちが書いていたのかどうかは、もっと調査して確かめる必要がある」
いったん、途絶えていた風が、また海のかなたでうなりをあげて、ふくらみはじめる気配がした。蝋燭の炎が背伸びするように、長くゆらいだ。
「あなたの番よ、さつき」穏やかな声で、美沙がうながした。

さつきは話し出す前に、しばらく黙って煙草の煙を吐いていた。
「美沙が言い落としたのか、わざと言わなかったのか、話さなかったことが二つある」彼女はとうとう口を開いて、独特の愛嬌のある気さくな調子で、さりげなく話し始めた。「この二つとも、多分、京子は言いたくないと思うから、あたしが言っちゃうことにしよう。一つは、この間ずっと、あたしたちの回りにつきまとって、振り払っても振り払っても、結局払い落とせない、一つの噂だ───いわく、『演劇部は何かに呪われている』」 暗いのでわかりにくいが、京子と美沙は、それぞれに身体を動かし、ちょっと笑ったようだった。
「どこから、誰から広まるのかわからないけれど、この噂がどうしても消えない。劇の大成功などで、いったん消えたと思っても、いつもちょろちょろ、またどこかから燃え上がって来る。特に一年生の部員たちは、そのことで、いつもおびえがちだ。部員だけじゃない。例の早川女史をはじめとした一年生全体が、かなり、この噂におびえて───興味も持っているのかな」
さつきは、ちょっと顔をしかめて指で前髪をかきあげた。
「もっとも、あたしたちの前で、この噂をはっきり口に出したのは、早川さんと立花朝子しかいない。他の子たちは聞いたり恐がったりしていても、京子に遠慮してなのか、あまり表に出さないからね。そして、その立花さんが、占い師の女に言われたことばとして言ったのは『死んだ女の子がいる。その子が、演劇部の中にいて、皆につきまとって、時々、姿を現そうとしてる』ということだった。どういう呪いかっていうことが、はっきり具体的に語られたのは、立花さんの、あの言葉だけだ」
京子が何か言いたそうにしたのを、さつきは微笑して制した。
「まだ、あたしの番よ───そして、美沙はさっき、市立図書館の新聞チェックに成果はないと言ったけれど、少なくとも一つ、わかったことがある。二十年以前に死んだ女の子が、少なくとも一人いた。関喜志子という名で、十七才。しのぶが落ちたのと同じ、図書館のテラスから落ちて、死んでる」
京子は黙って目を閉じた。蝋燭の火影が、その端正な顔のなめらかな頬に踊り、薄い傷痕を細く浮かび上がらせる。
「で、もう一つは?」美沙が聞いた。

「もう一つはね───」
さつきは煙草をもみけした。かわるがわるに二人を見た大きな黒い目が、強い光を帯びて輝いた。
「やっぱり、この事実から目はそらせない。しのぶの落下事件をきっかけに、起こりつづけている事故の多さよ。公演中に、もちろん、アクシデントはつきものだ。しかし、四月からこのかた、いくら何でも多すぎないか?」さつきは首を振り、自分で答えた。「多すぎるよ!」
「ええ」京子がうなずいた。「そう思うわ。その内の一つもまだ、真相がわかったものはないわ。『プラト-ン』での銃の暴発、舞台の奥に置かれていた蛇───」
「奈々子のけがや、みどりの停学を、それに入れていいのか、それともあれは偶然か、ちょっと微妙なところだけど」さつきは、また顔をしかめている。「あの劇の時、日村さんに、上半身裸になれとささやいて行った人物がいる───もちろん、日村さんの言うことを信ずるならだけど、今は一応、皆の言うことを信じるってことで話を進めないと、嘘を言ってる可能性を考え出したら、きりがないからね。その後つづいた連続上演の時は、目まぐるしすぎて、あたしも全部はつかんでないけど、やっぱり、いろんなことが、起きてた。『ハツカネズミと人間』では、また銃が暴発しかけた。『ふしぎの国のアリス』じゃ、あたしのチェシャ猫のひげに血のような赤い絵の具を塗ったやつがいた。あの頃、司にめちゃくちゃミスが多かったのも、たしかに、あの子はおっちょこちょいで、よくミスるんではあるけれど、いろんないたずらのタ-ゲットになることが多かったせいもある」 「それは、あたしも気づいていたわ」美沙がうなずく。「ただ、司って、のんきっていうか、あれって一種の主婦的感覚みたいなものかと思うけれど、自分がしっかり準備したはずの手袋がソファ-の上から消えてなくなったりしていても、
『あたしは、たしかに置いたのに』って、こだわったり、言い張ったりする前に、新しい手袋見つけに走り出しちゃうのよね。真実を追求するとか、身の潔白を証明するとかよりも、とにかく、その場を早くきちんとしようと思って動いてしまうから。まったく、よけいなお世話だけれど、レイプされた後、シャワ-浴びて証拠を洗い流したりしちゃだめよって、注意しといた方がいいんじゃないかと、時々悩むわ」
「そうだろ。あたしも、いっぺん、あの子が、テ-ブルの上に描いてあった、悪魔召喚の五芒のマ-クを『あれっ、こんなの、さっきはありませんでしたよね、美尾さん?』って言いながら、さっさと拭いて消しちゃったのを見た時には、探偵には向かんやつだと心から思ったもんね。それはさておき、『三銃士』では、しのぶが廊下に閉じ込められ、ワインが本物になった。これが皆、死んだ女の子の呪いなら、よっぽどまめな悪霊だけど、まだその方がいいかもね。京子、あんたは霊なんて信じないんだろ?ということは、こういうことは、人間がやってるんだと、思ってるよね?」
聞いたさつきが後悔したほど、京子は一瞬つらそうな目をしたが、すぐに、かすかに頭を動かし、それから何かを振り切るように、はっきり、うなずいて見せた。
「あたしが言いたいのは───」さつきは大きなため息をついた。「それだけよ」

蝋燭が、クリスマスカ-ドのイラストにでもあるように、白い裳裾のような蝋を周囲に垂らして短くなった。新しい蝋燭に美沙が火をつけ、並べて立てる。二本になった蝋燭の光は少しだけ明るくなって、『若草物語』のマ-チ夫人の長い灰色のスカ-トと青いエプロンの美沙、貧しいフンメルさんのつぎはぎだらけの茶色の服の袖をまくりあげているさつき、一人だけ、シャツもズボンも靴までも黒ずくめで、半ば闇に溶け込んでいる京子の姿を照らし出した。
「知っていることも、考えていたことも、もうあなたたち二人が、ほとんど言ってしまったわ」京子は、優しい静かな目で、じっと炎を見ながら言った。
「だから私は、きっとあなたがたも気になっていると思う、いくつかの疑問について、言ってみる。まず、さつきが言った二つのこと───消しても消しても広まる噂と、起こりつづけるさまざまな事故。この二つの原因になっているのは、同じ人なのかしら?それとも、別の人かしら?」
美沙とさつきは、じっと京子を見つめている。京子は雨戸が閉まったままの、暗い窓の方を見た。
「両方か、片方かに、関わっているかもしれない人が、思い浮かばないわけではない。小石川さん───辛島さん───それに、早川雪江さん───」
びっくりして、ほとんどはじかれたように、聞いていた二人が目を上げた。
「早川さん───?」美沙が繰り返す。「あの子が、どうかした?」
「ただの、とことんミ-ハ-じゃないのさ」さつきは、苦笑をかみ殺していた。「那須野さんと、奈々子のファンで───」
京子はいらだたしそうに、顔をそらした。「ファンはわかっているわよ。でも、いったい、どういうファン?私は、那須野さんとずっと部屋がいっしょだし、あの人は確かにク-ルで荒っぽいけど、それはとても細やかな優しいところもあるのを知ってる。あの人は自分で気づいてないんでしょうけど、人前でわざとして見せる魅力的な表情より、朝、歯を磨いたりしながら窓の外をぼんやり見ている時なんかの、誰にも見られてないと思って気を許してる、何も考えてない表情が、一番、力強くて華やかで美しい。あの人に夢中になって、お金をみついだ大人の人たちも、どこかで、あんな顔を見て、もう一度見たいばかりに、つきあいつづけたのじゃないかと思うほどだわ。上月さんだって、はた目に見えるよりは、ずっと弱くて傷つきやすい人よ。だから、傷つきそうな人を見ると、自分のことのように不安になって、誰よりも先に自分が傷つけてしまうんだわ。でも、あの二人が早川さんのことを話している時の、口調や目つきが、私は気に入らないの。あの二人の、卑しい、貧しい、あえて言うなら邪悪なところが皆出ているような気がして、そばにいるのも、いやになる。それも確かに、あの二人の一部でしょう。でも、そうでない部分もたくさん持っている人たちなのに、あえて、あの二人のそういう面を引き出してしまう、早川さんって何なのよ?たしかに、早川さんに罪はないのかもしれない。ただのファンなのかもしれない───そうだとしても、あの二人、早川さんのことで何かを、私たちに隠しているわ」
「断定的ね」美沙が、とまどったようにつぶやいた。「あなたが、そんな言い方をするなんて、珍しい」
「早川さん自身は、何も知らないでいるのかもしれない。ただ、ああいう人なのかもしれない」京子は吐息をついた。「でも、あの人が無防備に見せている、あのミ-ハ-ぶり───あの病的な空想と好奇心──あれを誰かに、利用されているってことは、ほんとにないのかしら。うまく言えないけれど私は、この四月からの事件全体の、何か背後にあるものが、早川さんのああいう傾向と、どこかで結びついていそうな気がするの。同じことが、辛島さんのポルノ作りにも言える。大西さんたちが見つけたという、図書館の隠し部屋の本の山にも言える。人間の誰もが心の奥に抱いている、ある種の空想───病的で、性的で、抑圧された、闇に葬られる数々の欲望───」
「あの壁画だって、そうかもね」さつきが小さい声で言った。「特にあの、死の場面。人の心の何かそういう、滅びとか、悲惨とか言ったものへの憧れを刺激するっていう点では、共通するよ」
「ねえ───」美沙が小さい声で言う。「三十年前、学内最大の力を持って、栄光を誇っていたという図書委員会が、没落し、解散したのは、なぜかしら?」二人の返事を待たないで、彼女は続けた。「それは、あの、図書館の、いわば裏図書室に隠されて保存されていた、いわゆる、不健康だと烙印を押されて廃棄処分にされた本の山と、きっと関係があるのね?」
「おそらくな」さつきが、うなずく。「あるいは、その当時の図書委員会は、今、あたしたちが問題にしているのと同じ問題に、取り組んで、関わろうとしたのかもな」
「その人たちには、せめて」美沙がつぶやく。「敵が何なのか、誰なのかぐらいはわかっていたのかしら。あたしたちには、まだそれさえも、わかってないわ」
「とにかく私は、今度の件に」京子は、しめくくった。「早川雪江さん本人ではなくても、あの人の表現しているような───そして、誰の心にもある、禁じられ、抑えつけられた空想の世界が関わっていると思えて、しかたがないの。そのことを見逃すわけには、絶対にいかないと思うのよ」

台風の目にでも入ったのだろうか。少しだけだが、風は間遠になっている。さつきが軽く、せきばらいした。
「図書館の隠し部屋のこと、大西さんたちには口止めしたって?」
京子はうなずく。「あの二人、誰にも言わずに、まず私に報告に来てくれたから」
「緑川さんたちは、どうもそれほど慎重じゃなくてな」さつきは苦笑する。「あたしと美沙のところに来るまでに、二年生にはほとんど話してしまったらしい。一年生にはまだだと言うから、一応黙っとくように言ったけど」
「かわいそうなんだよね、ちょっと」美沙が吐息をつく。「司の嘘やかくしごとが下手なのはとにかくとして、あの仲良しの連中の間に秘密を持たせちゃうっていうのは」
「そうね。二年生は知っているのだし、なるべく早く部員全員を集めて、きちんと事情を説明しましょう」京子は言った。「それと矛盾するようだけど、これからは、何を、どこまで、いつ、誰に話すかについて、私たち、慎重にならなければいけないわ」
「うん───?」
あいまいにうなずく二人を、京子はじっと見た。
「さつきが言った通りだわ。事実を見つめなければならない───部員の中に、噂を広めたり、事件を起こしたりしている人がいることが、充分考えられるのだから」
「さしあたり、この三人は」美沙が厳しい表情で言った。「信用できるのでしょうね、絶対に?」
「そう願いたいよ」さつきが苦笑する。「でもな、これまでお互い、相手の深い信頼を裏切り合う役ばっかり、やたらとやってきたもんだから、どうもいま一つ、安心できないんだよなあ」
「考えて見ればそうよね」美沙も、あきらめたように両手を軽く広げた。「イア-ゴ-とランスロットに、聞くだけ野暮な質問だったわ」
「私は、あなたがた二人を信じているわ」京子は別に声に力をこめるでもなく、二人を見ながら、さらりと言った。「裏切らないって信じるんじゃないわ。裏切ったとしたら、それにはきっと、そうするだけの理由が何かあったんだって信ずるわ」
二人はあっけにとられたように、かすかに口を開いたまま、しばらく京子のいつもと同じ、暖かい笑顔と澄んだ目を見ていた。
「ああ、はいはい」まもなくさつきが、ようやく我に返ったように、やたらに咳払いしながら言った。「それで?さしあたり、どうするって?」
吹きすさぶ風の音に、京子はちょっと耳をすましたようだった。「例の、その裏図書室に行ってみる───蘭の花があるという部屋に」
「いつ?」
「今夜」
「この台風の中を?」
「だから絶対、安全でしょう?」
「鍵は?」
「大西さんが沢本さんから、借りっぱなしになってるのを、預からせてもらってる」
「それで、そのかっこうだったのか」さつきは納得いったように、京子の黒いジ-ンズとTシャツ、黒のスニ-カ-を見ながらつぶやいた。「演劇部室に寄って、あたしと美沙が着替える間、待っててくれる?あそこに黒のタイツも靴もあるから」
「ついでに顔に靴墨でも塗る?」美沙が笑った。
京子は二人を見た。「いっしょに来てくれるつもり?」
「あんたを一人で行かせておいて、二人で仲良く千人針でもさしながら、手をとりあってお祈りでもして待ってるっていうの?」さつきが言った。「バカにおしでないよ」

三人が外に出た時、風はまた強くなってきていた。立って歩くのも難しい。吹き飛ばされないように建物伝いに三人は、よろめきながら図書館に向かった。風はまるで壁のように押し寄せてきて、うっかり開いた口の中まで空気をねじこむ。あちこちに立っているはずの街灯もすべて消え、どこからどこまで明かりひとつ見えない闇の中で、海がとどろくように荒れ狂って、石垣に爆発するような激しい音で波をたたきつけていた。橋を渡る時は欄干にしがみついていないと、もぎとられて下の川にたたき落とされそうだった。その川も海の水が逆流しているのか、ごうごうとこもった音をたてている。草や木や何かがちぎれて飛ぶらしく、時々、鋭い痛みとともに何かが身体にぶつかった。ようやく巨大な図書館の影にぶつかり、手さぐりで横手の入り口の鍵を開け、部室に入ってライトをつけて見なれたソファ-やテ-ブルが黄色い光にぼうっと浮かび上がった時は、さすがの三人もほうっと大きな息をついた。
さつきがすぐに、ボ-ル箱の一つを開け、黒いタイツや靴や帽子をとり出して、ソファ-にたたきつけるように置く。二人が着替えている間に京子はライトをかかげて、二つのへやを見て回り、誰もいないか確かめた。
「京子───」さつきが近寄ってきて、やわらかい黒い帽子を京子の頭にすっぽりかぶせて髪を押し込め、黒いマスクとスカ-フで顔をおおう。
京子は笑い出し、いやがって顔を振った。「いくら何でもこれはやりすぎよ、さつき。第一、暑いわ」
「だめ、手袋もしてよね。あんたのその色の白い顔は目立つのよ。マスクがいやなら本当に、顔を黒く塗るわよ」
「いったい、こんな嵐の夜に、誰と出会うっていうのよ?」京子はため息をついて、マスクをつけながら文句を言った。
「それだけに、会ったらそれは、ものすごくとんでもない相手ってことでしょ」さつきは、がんこに言い張った。「あたしの背骨の第二関節がぴくぴくするの。これって危険がある予感よ」
「どうだか。単に寝ちがえたか、斎藤さんを片手で抱き上げた時の後遺症なんじゃないの」京子がつぶやく。
「あれはもう治った」さつきは答えた。「だいたい、斎藤さんがあんなに重くなってるなんて、誰が想像するよ?『カルメン』の時のジプシ-女と言い、『シェ-ン』の時の開拓民のおかみさんと言い、抱くたびに体重加わってきて、こっちの体力が落ちたのかって一瞬すごく、あせってしまう。あの子、絶対ひと月に二キロぐらいのペ-スで太って行ってるのとちがう?───美沙、あんたも、ちゃんと顔かくしてよね」
「くすぐったくて、くしゃみが出そう」美沙も京子と同じように、口をおおったスカ-フの下で、もごもご文句を言った。「それに、あなたが言うみたいな、そんなとんでもない相手だったら、こんなかっこうしてたって、どっちみち、あたしたちのこと見つけるんじゃないの?」
さつきは返事もしないで、ただ首を振っただけだ。 美沙が引き出しから出したペンライトを二人に一本ずつ渡す。三人はそれをつけないまま、手さぐりで、へやを出て、図書館の閲覧室へ入るドアの鍵を開け、広い正面階段を上って行った。
建物の中だとさすがに、厚い壁にはばまれて風の音は遠い。その分、やわらかい底の靴でも、かすかな足音があたりに響くような気がして、息を殺しながら三人は校史編纂室の鍵を開けて中にすべりこんだ。
ペンライトをつけ、あたりを照らす。
変わったところは何もない。旧式なパソコンの小さな画面が静かにライトの光をはねかえし、厚いカ-テンもたれさがったまま動かない。さつきは念のために、そのカ-テンもはらって誰もいないことを確かめると、掃除用具入れの戸を開いた。
バケツやモップに用心しながら、他の二人も次々、入り口の戸をくぐる。最後の美沙が入った時には、さつきはもう、向こうの戸から隠し部屋に出ていた。
しばらく耳をすましていて、風の音しか聞こえないことをたしかめてから、三人は次々ペンライトをつけた。
細い光の筋が三本、洞窟のような細長いへやの中を入り乱れながら飛び交って、本棚の本をちらちら照らし出した。「O嬢の物語」と漫画の「ハレンチ学園」が並び、澁澤龍彦と団鬼六のさまざまな装幀の単行本が入り乱れている。京子が首を振った。
「司でなくても整理したくなる、脈絡のなさね」
「けれども、よくこれだけ、何でもかでも集めたものだわ」美沙が、ちょっとうっとりしている声で言った。「ゆっくり見たいけれど───ああ、あれが蘭の花?」
誰かのライトがかすめたのか、まぶしい七色の色彩が一瞬、闇の中に輝いたのだ。三人のライトが集まると、ガラス細工の蘭の花は、どこか勝ち誇ったようにきらきらと紅や紫や金色や緑の光をあたりに撒いて、みるみる巨大になっていくようにさえ見えた。
「───そこに、階段がある」さつきがライトを横に振った。「下りられるよ」
三人は顔を見合わせたが、やがて、さつきが先頭に立って、その細いはしごのような、らせん階段を下りた。下り立ったそこも、上の階と同じ大きさ、同じような本棚と本が並ぶへやだったが、ここは、雑誌やファイルが多いようだった。背表紙に手書きで細かく、年号や記号を書き込んだファイルがずらりと並んでいて、美沙がそれを読もうとしていると、さつきがまた、小さく口笛を吹いた。
床のすみに四角く切り取られた穴があって、そこから赤く錆びた鉄のはしごが、更に下へと延びている。
ペンライトで下を照らして見ていたさつきは、やがてライトを口にくわえて、また先頭にたって、はしごを下りた。

その下は、石の床だった。砂がさらさらと、石の上に散っている。はしごの下の空間は四方から壁が迫って恐ろしく狭く、三人がやっといっしょに立てるほどしかない。
身体をよじって回りを見ると、一方の壁がかなりぼろぼろの木の扉になっていた。もっとも古い扉のようで、造りはかなり頑丈そうだ。鍵穴も異様に大きい。その鍵がかかっているのか、扉は開かなかった。鍵穴やすきまからのぞいて見たが、真っ暗で何も見えなかった。
ため息をついて、さつきがあたりを見回していると、美沙がしゃがみこんで、ペンライトで床とすれすれの壁を照らした。扉とは反対側に、膝の高さぐらいのダストシュ-トのような木の板がある。古い家の手洗いの戸のように、つまんで横にすべらせる木のかけがねがついていて、それを動かすと板は外へ開いた。
突然、冷たい風と、とどろくような波の音と、潮の香りが吹き上げてきた。風に逆らってドアを押し開けたさつきが、上半身を乗り出して、外をうかがう。なだらかな、すりへった石の階段が更に下へと下りていて、その十数段下には、黒々となめらかに光る海の水が、生き物のようにうねって、ひたひたと押し寄せ、激しく波立って石段にぶつかっていた。
さつきはペンライトを上に向ける。湿って光った岩天井が、すぐ近くでライトの光を反射した。戸外とはとても思えない、比較的穏やかな波の動きから見当はついていたが、ここはどうやら、図書館の地下の海辺の洞窟の中らしい。
いったんライトで四方を照らして見てから、さつきはいったん身体をひいて向きを変えると、外へとすべり出して、石の階段を水のうちよせるところまで下りて行った。
美沙と京子も下りて来て、さつきと並んで石段に立った。
ライトで照らしても、洞窟の向こうは壁がゆるやかにカ-ブしているため、どうなっているのか、よくわからない。
「今、満ち潮よね」美沙が時計を見て言った。「引き潮になったら多分、この壁沿いに通路ができて、歩いてどこかへ行けるのじゃない?」足元の小石を取って、彼女は水に投げ入れて見た。「ほら、壁のそばの水は、そんなに深くはなさそうよ」
「問題は、それがどこに通じているかで───」
さつきが言いかけた時、突然、京子が静かだがすばやいしぐさで、二人の手首をつかんでライトを下へと向けさせた。驚いて彼女の顔を見る二人をひきずるようにして、京子は水の中に踏み込み、階段のかげにしゃがみこむようにして、他の二人もひきよせた。
「何なの?」京子の耳に口をつけて、美沙がささやく。
「光が水に、映るのが見えた」京子がささやきかえした。「通路の、曲がっている向こう───」
実際には、二人はそれほど声をひそめる必要はなかったのだ。岩や石段に打ち寄せる波が、けっこう激しい音をたてていたし、洞窟の中にそれがひびいて低いうなりのようなこだまを返しつづけていたから。しかし、京子のことばに首をのばして通路の向こうをうかがって、たしかに赤い光がちらりと動き、そしてはっきり見えてきた時、さつきと美沙は思わず息を殺して、階段に身体をぴったりくっつけて縮めた。
三人とも、とっくにライトは消している。その細い金属の棒をにぎりしめている手が汗ばんで、ライトの胴が熱くなっていることにも気がつかなかった。光は近づき、水音が聞こえた。波の音とはちがった音だ。何かが、通路を進んで来る。
あの小さい戸のかけがねを、最後に出た京子は閉めておいてくれただろうかとさつきは突然、気になったが、もう聞くわけにはいかなかった。通路を近づいて来る何かは、自分たち以外にそこを通った者がいることに気づかないでいてくれるだろうか。
赤い光が四つか五つ、かたまりあって動きながら近づいてくる。それに照らされて、おぼろに浮かび上がる黒い影が光の周囲にある。マントのような長い布が垂れて、水にひたって広がっている。
波が打ち寄せ、風が岩壁にこだまして、うつろな乾いた叫び声をあげる。
ぬれた布をひきずりながら、影は次々と三人のすぐ近くで石段にあがった。そのまま、階段を上って行く。見上げる三人の目に、影が手にしたライトの赤い光に一瞬、とがった二本の角のようなものを生やした、巨大な頭の形が浮かび上がって、すぐ闇に呑まれた。     ◇
水の中に座り込んだまま、三人はしばらく動けなかった。
これが朝子や司なら、多分とっくに気絶していたところだろう。この三人の神経は、それほどヤワではなかったものの、それでも美沙は両手でしっかり自分の肩を抱きしめて震えを抑えていたし、さつきの息づかいははっきり大きくなっていた。三人とも知らず知らず身体を押しつけあっていたため、わなないているのが自分なのか、他の二人なのか判断がつかなかった。
ただ、立ち上がらなかったのは恐怖に凍りついていたからなのではない。三人ともがわかっていたのだ。あの黒い影が上に行き、どこかにいるかもしれない以上、もと来た道を引き返して階段を上がるわけには行かないことを。かと言って、あの影が来た方角へ、どこに通じているかわからない水路を進んで行く決心もつきかねた。
突然、頭上で音がして、またあの小さい戸が開いた。
何かが出てくる気配がする。階段を下りてくる。ただ、さっきより手間取っていた。何かをひきずり下ろしているような鈍い音がひびく。そして、人間のとも獣のともつかない低い、うめき声が聞こえた。
影が再び三人のすぐそばまで、下りてきた。そして、水の中に入った。何か重い、人間の身体のようなものを抱えながら。それを水になかば浮かべるようにして運びながら、次第に遠ざかって行く。ちらちらと水に反射していたライトの光が、少しずつ遠のき、やがてまったく消えた。
さつきが立ち上がる。美沙がひきとめるように、その腕をつかむ。かがみこんで、さつきがささやいた。
「来たのも、行ったのも五人だった。上には、もういないはずだ。それとも待つかい?まだ、ここで?」
よろめきながら美沙が首を振り、立ち上がった。階段の岩壁につかまりながら、京子も何とか身体を起こす。
「ペンライトを落とさないで」さつきが低く注意した。
石段を上がり、戸を開けようとしてライトをつけた時、さつきはあたりの石の上に、黒い、血のしたたりのような染みがいくつもついているのを見た。無言のまま、三人は戸をくぐって、例の狭い空間に立つ。あのぼろぼろの木のドアは、もう一度押して見たが、やはり開かなかった。
「あの、ひきずられて行った何かは、この中にいたのね」美沙がささやく。「まだ、中に何かとじこめられているのかしら?ドアを、こわせない?」
さつきは首を振り、かすれた声で、ほとんど命令するように言った。「あとにしよう。───またにしよう。とっとと、二人とも、そのはしごを上って!」
あとはもう、あっけないほど何事もなかった。三人は校史編纂室を抜け、正面階段を下りて、横手のドアからいつもの廊下を走って、演劇部室にたどりついた。中に入って鍵をかけ、いつものくせで反射的に壁のスイッチを押すと、いきなり天井の電灯が皆ぱっとついて、まぶしい光が室内を満たした。いつの間にか停電は終わっていたらしい。
さつきは、いつもより神経質にロッカ-の中や机の下までのぞきこみながら、二つの部屋に誰もいないことを確かめた。そして、表のへやに戻ってくると、京子と美沙は放心したような青い顔で、マスクを床に放り出し、ほどいたスカ-フを首にまといつかせたままで、びしょぬれのズボンと靴からしたたるしずくで床に水たまりを作りながら、ソファ-に座り込んでいた。
さつきは、二人の正面に立ち、腰に手をあてて見下ろした。
「服ぬいで着替えないと、カゼひくわよ!」
「そうね」とつぶやいて、美沙はのろのろ、タイツを脱ぎ捨てはじめたが、京子の方は「眠らせて───」と口の中で言いながら、そのままソファ-に横になってしまった。
それを揺り起こそうとして、さつきは、京子の脇に座った。しかし、京子の肩に手をかけたかかけないかの内に、彼女もまた、力尽きたようにソファ-の背に腕を伸ばしてよりかかったまま、頭を横に倒して目を閉じた。
どこか遠くで風がまだ、荒々しいうなりをあげて、吹きまくっている。海の水を吸い上げ、川岸の草をひきちぎり、果樹園の木々を倒しながら、暗黒の中を荒れ狂っている。

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カツジ猫