小説「散文家たち」第39章 みかんの里で
「すご──いっ」
珍しく、片山しのぶが息を呑んで回りを見回した。
「う~ん」さつきもうなった。「何か、これ、夢に出そうだな」
二人は和多田の駅前にいる。田舎の駅にしては立派で、広い駅前広場があって、それがそのまま商店街へと続いている。
その駅のデザインも、広場に置かれた彫刻も、商店街の街灯もすべて、みかんがモチーフになっていた。駅の壁や屋根はオレンジ色と濃いグリーンだし、巨大なみかんの木の彫刻が広場の中央に立っているし、少し離れたところにはみかんの籠をかかえた少女たちの群像が置かれているし、舗道の煉瓦もあちこちに、みかんの模様が入っている。
「あたしは、この色───オレンジ色って、基本的には好きなんだけどさ」バイクから下りながら、さつきがつぶやく。「当分、もういいって感じよね」
しのぶはもう、立ち直っていて、ヘルメットをはずしながら、あたりを見回していた。「喫茶店の名前、『プロヴァンス』でした?」
「だと、思ったけど自信がない」さつきは歩きだしながらぼやいた。「さっき、あの橋のたもとで、オレンジ色の雪だるまみたいな、みかんを二つ重ねた交通標識の人形見た時のショックで、何もかも頭からぶっとんだ気がする。いや、その前に郵便局の前の、オレンジ色のポスト見た時かな。しかも、ごていねいに、上にみかんの彫刻がくっつけてあってさ。この町じゃきっと、クリスマスにはオレンジ色のサンタが出て、なまはげも、正月のお獅子も皆、みかんのお面をかぶっているにちがいない。片山さんよ、あんた、ドラマチックなもの見たら気分悪くなって気絶するっていうけど、こういう趣味の悪いものたてつづけに見るのは、別にいいの?耐えられるわけ?」
しのぶは苦笑した。「ここまでくると」
「そうか、その『ここまでくると』っていうのが、ポイントなんだな」さつきは勝手に納得した。「とにかく、早くその喫茶店見つけて入ろうぜ。建物の中に入れば、いくら何でも、こんな───」
「みかんの顔した人が、オレンジパフェとか注文してたりしてて」しのぶは口のなかでつぶやき、さつきが立ち止まったのに気づいて、振り返った。「あ、すみません。別に深い意味はありません」
「恐ろしい想像、させるなよ」
「ちょっと思いついただけですよ」
「まっとうそうな顔してて、あんたの頭も相当───ちょっと思いつくかね、そういうことを、普通」
「この前、堀之内さんから、面白いビデオ見せてやるって言って、トマトが人間を襲うって変なホラー映画見せられたもんで、つい」
「あいつはそうやって、一年生の精神をじわじわとむしばんで行ってるんだな」 「ここですよ、美尾さん」しのぶが立ち止まった。
木枠のガラス窓のはまった、一見普通の小さい喫茶店だった。白い文字でガラスに小さく「プロヴァンス」と書いてある。ドアを開けると、冷房の冷たい空気と静かな音楽が流れ出してきた。
ゆっくりと二人は中に踏み込んだ。店の中は薄暗く、大きな鉢植えがいくつも置かれて座席と座席の間をついたてがわりにさえぎっている。カウンターの向こうで店主らしい女性が一礼したが、客の姿はほとんどなかった。
浅い階段を下りて、二人は奥へ進んだ。見回すと、壁のすみの席に、古びたスーツケースをひきつけるようにそばにおいた、小柄な少女が一人、ひっそりと座ってコーヒーを飲んでいる。
顔を見合わせて、二人はそちらに歩み寄る。少女の前に立っても、少女は目をあげず、時が止まったように一人ひっそりと座りつづけていた。
さつきが軽く、せきばらいした。
「失礼します。岸辺のり江さんですか?」
少女は目を上げ、さつきを見た。栗色がかった、やわらかくうずまく髪、ぬけるように白い肌。小さい白い水玉模様の濃い藍色のワンピース。小田茜の娘、岸辺のり江は、どこか過去から歩みだしてきたような、古風なもろい雰囲気の少女だった。立ち上がらないまま、彼女は微笑んで、うなずいた。
「はい。私が───」
「お電話でお話した、美尾さつきと言います。こちらが、片山しのぶで、二人とも、麗泉学院の生徒です」
うなずきながら、少女はさつきを見上げている。聞こえていることば以上に、何かにじっと耳をすましているような表情だった。
「いろいろ事情があるんですが、お母様が昔、学校の図書館の壁に描かれた壁画のことについて、お尋ねしたくて───」
少女はさつきをさえぎって、軽く手を前に伸ばした。「どうぞ、お座りになって」
しのぶと、さつきは、言われるままに少女の前の椅子に並んで腰を下ろした。さつきが続ける。
「私たちはたまたま、図書館の、これまで使わなかった地下室を掃除していて、壁一面に描かれた、お母様の描かれた絵を見つけました。その絵のことで、何かご存じでしたらと───」
さつきが、しのぶの方に目をやる。既にしのぶは、抱えてきていたファイルから、壁画の写真を取り出していて、さつきに差し出した。うけとったさつきが、前のテーブルにそれを並べる。
「これなんですけど」と言いかけて、何かを感じた彼女は、ふと目をあげて少女を見つめた。
少女の視線はテーブルの上になく、微妙な位置にただよっている。
さつきが手をとめ、ことばにつまったのを、少女は感じたらしかった。わびるように小さく笑って彼女はうなずき、そして、首を振った。
「お電話でお話しておくべきでしたけれど───」彼女は静かな声で言った。「私は、目が見えないんです」
◇
店主らしい女性が、メニューと水を持って来た。コーヒーを注文して、さつきは写真をかたづけはじめた。「失礼しました。あの───」
「よろしいんです」少女はかすかに笑って言った。「私の方こそ、びっくりさせて、ごめんなさい。わかることなら答えるわ。母について、何をお聞きになりたいの?」
それもどこか古風な、流れるようにきれいな口調だ。同時に、人にいろんなことを聞かれ慣れているようでもあった。夭折した天才画家の遺児として、インタビューをうけたりすることも、ひょっとしたらよくあったのかもしれない。
さつきとしのぶは、顔を見合わせて、考え込んでいた。
「あのですね。───ちょっと待ってください」さつきがコップの水を飲んだ。「すみません。予想していなかったので、───こういう時のことを考えていなくて───つまり、その───」
「ごゆっくり」少女は落ちついて、うながした。
「きっと、あらいざらい、何もかも、お話した方がいいのじゃないかな」しのぶが言った。「多分───」
「その、あらいざらいというのは、いったい、どこまでをさすんだい?」さつきが頭をかかえて聞き返す。
「だからほんとに───全部です」しのぶは言った。
「もしよかったら、そうして下さい」少女がひっそりと賛成した。「母の子どもの頃や若い頃のことを私はあまり、知りません。知っているわずかなことも、小さいときから、いろんな人に聞かれて話している内に、何だか自分のものではなくなってしまっていったような気がするわ。母は自分の過去について、ほとんど話しませんでした。高校時代の母のことをご存じだったら、聞かせていただけるとうれしいです。いいことでも、悪いことでも」
さつきは考え込んでいた。
「私が話していいですか、美尾さん?」しのぶが聞いた。「そこは話す必要ないと思ったら、とめて下さればいいですから」
「───いいよ」さつきは決心したようにうなずいた。「やれ───やってみて」
「やれるものなら、って言いかけました?」
「まあ、いいから」さつきは片手を振ってとぼけた。
しのぶは苦笑したが、すぐまじめな顔になって少女の方に向き直った。
「私も美尾さんも、演劇部なんです」彼女はゆっくり話しはじめた。「学内で、わりと大きな部だったんです。───今もそうですが。ただ、この四月から、私たちの回りでいろいろと、おかしなことが起こりはじめた。公演中の事故とか、そういうのがいろいろ。原因は、対立する部の陰謀だとか、内部の者のしていることとか、いろいろ言われているんですが、ただ、その中で───ええと、あの───」
しのぶは、またちょっと考えこんでから、後をつづけた。
「あなたのお母様が参加しておられた、『蘭の会』───生徒会とサークル会議と寮委員会をすべてあわせたような、大きな力を持ち、特に、図書館の本の管理については全権をにぎっていたと言われる組織です───そのメンバーの一人だった、関喜志子という生徒が、図書館のテラスから落ちて事故死したのをきっかけに、『蘭の会』は崩壊し、同時に、生徒たちが自主的に学院の運営に参加していくことはまったくなくなってしまいました。三十年ほど、前のことです。それは、先生たちがそうしたというより、生徒たちの方でひとりでに、そういう権利を放棄していったようにも見えるのです」
◇
岸辺のり江は、じっと耳をかたむけていた。しのぶが言葉をとぎらせると、澄んだ目を向けたが、口は開こうとしなかった。
「詳しく説明できませんが───私たちにもまだわかっていないことが多くて」しのぶは言った。「そのことと、今、私たちの回りで起こっていることには、何か関係があるのではないかと思っている者が多いのです。私たちの中には」
「あなたのお母様、当時の小田茜さんは」さつきが続けた。「その頃、『蘭の会』の他のメンバーに言っておられたそうなんです。なぜ、このようなことになったのか、すべてを書き残す、と。お母様の場合、それは文章よりも絵だったのではないかと、私たちは思っているんですよ。それも、多分、あの図書館の地下室の壁画ではないかと」
「母が」のり江は、コーヒーが運ばれてきて、二人が口を閉じた時、座りなおして、小声で聞いた。「何を書き残そうとしたのか、その絵を見ただけでは、わからないんでしょうね?」
「あなただったら、もしかして、───見たらわかるかも知れないと思ったんですよ」さつきは言った。「お母様から、何か聞いていらしたりして」
「抽象画なのですか?」
「いいえ。物語の一部です。『ロビン・フッド』と『水滸伝』が描かれています。特に印象的なのは、主人公たちの悲惨な死の場面が描かれていて───ロビン・フッドは腕の傷口から血を流して瀕死で横たわり、『水滸伝』の英雄たちは、それぞれ、首をくくったり、毒殺されたりしています。───心当たりが何かあります?」
しばらく考えていてから、のり江は小さく首を振った。「いえ───ごめんなさい。これと言って何も、思い浮かびません」
さつきはうなずき、それがのり江には見えないことに気がついて、あわてて声に出して言った。「そうでしょうね」
「母が『蘭の会』に入っていたというのは、聞いていました」のり江は言った。「でも多分、母から直接にではないかもしれないわ。祖母が教えてくれたような気がします。母は高校時代のことは、ほんとにあまり話さなかったの。その頃のお友だちは、ほとんどいなかったみたいです。家に来るのは皆、大学時代とか、小中学校の時の友だちでした」
「だいたい、どういう───」さつきは、ちょっとためらった。「どういう感じの方だったんです?どんなお母様だったのですか?」
「そうね───見た目はあんまり、これといって特徴のない、どっちかというとぼ~っとした感じの人だったようです」のり江は、ほとんど聞こえないほどかすかな優しい声で笑った。「でも、すごい分析力のある人で、絵を描く時のやり方も、画家というより科学者みたいだったと祖母は言っていましたね。あんまり、芸術家らしい繊細な人ではなかったって。議論では人に負けなかったし、正しいと思ったことがあると、あとにはひかなかったと聞いてます。『おまえのお母さんはブルドッグみたいな人だ』って、父がよく言ってました。そのたびに私、『お母さんは、そんな変な顔じゃない』って怒ったり泣いたりしたんですけどね」
「あの、でも、じゃ、ブルドッグの顔を、ご存じだったんですか?」しのぶが思わず、そう聞いた。
今度ははっきり、のり江は、声を立てて笑った。「いいえ。目は生まれた時から見えないの。でも、母が教えてくれたの。自分の革のハンドバッグをしわしわにしてさわらせてくれて、こんな感じなのよと言ったり。母は何でも、私が納得するまで徹底的に説明したわ。ブルドッグの顔もだけど、町の政治のことも、画壇のごたごたのことも。まだ小学生だった私をつかまえて、大人に話すように、こまごまと、真剣に」
「それなのに、高校時代のことや、『蘭の会』のことは、何も話そうとなさらなかったんですね?」
「でも、───そうね、でも───避けている感じとはちがったわ」のり江は慎重に言葉を選んでしゃべっていた。「むしろ、今、抱えている問題というか、戦っている理由を私に説明するので、もうそれだけで、時間が足りなかった───過去のことまで話している暇がなかった───そんな印象があります、私には。あのう、母には、とても敵が多かったんですよ。画壇でも、この町でも。交通事故でなくなった時、誰かの謀略だって噂がかなり広まったぐらい。母といつも対立していた市議会の議員さんなんか、随分それで迷惑なさったみたいです」
のり江はまた、くっくっとおかしそうに笑ってつけ加えた。
「その議員さん、今は市長になってるわ。母といつも大げんかしていたのは、町の美観についてだったんですけど、母がいなくなってからは、その人の案がどんどん通るようになって、この町も『みかんの里』らしくなってるみたいですね」
「この世のものとも思えませんよ」さつきが、力をこめて言った。
「母はもっと、昔のままの、のどかでひなびた農村の雰囲気を自然に生かしたデザインで、街づくりをするべきだっていうのが持論でした。でも、死んでしまっては、しかたがありませんよね。母の負けだわ。でも、きっと母はそんなの認めないで、今頃、天国で父にいばっていますわ。『こういう町を見ないですむように、私は目の見えない子を生んだのよ。先見の明だわ』とか言って」
古風ではかなく、弱々しいように見えて、のり江の表情には、どこか剛毅なところがあった。それは、茜の描く、病的なようで明るい絵のタッチとも共通する、ふしぎな、快いちぐはぐさだった。
◇
ひとしきり、そうやって、笑ったりしゃべったりした後で、のり江は軽く身体をひねって、椅子の脇に置いていたスーツケースをひきよせ、さつきの方に押してよこした。
「祖母はもう、足が弱くて、あまり自由に動けませんので、いっしょには来れなかったんですけれど」彼女は言った。「これは、祖母が整理してくれていた、母の持っていた資料です───『蘭の会』関係の。よろしかったら、持って行って、何かの役に立てて下さい」
「いいんですか?」さつきは思わず、半信半疑の声を出した。「これは、お母様の貴重な遺品なんでしょう?お祖母様にも、大切な」
のり江はきっぱり首を振った。
「祖母はもう、弱っています。自分が死んだら、どうせ、誰かが処分するんだから、人に差し上げて、もらっていただけるものなら、その方がいいと言ってます。私も、母の遺品を守って生きるような生き方はしたくありません───亡くなって、もう今年で七年ですもの」
ためらいながら、さつきはスーツケースをひきよせた。古びてこわれそうになっている革の取っ手の脇に、目鼻のついたみかんの小さいシールが貼られている。すりきれて消えかけているそのシールを、さつきは指でなでた。
「みんみんちゃんですね」
「え?」
のり江が、目を見張る。
「あ、このシール───ここに貼ってある、この、人の顔したみかんの絵のこと、茜さんは『みんみんちゃん』と呼んでいたそうなんですよ」
「ええっ!?」のり江は、うれしそうな、おかしそうな声をあげた。「そうだったんですか。それ、母が小さい時から、私をあやして抱きしめる時、いつも言ってた言葉なの。『私のかわいい、みんみんちゃん。大好きなみんみんちゃん』とか。どうして、そんな名で呼ぶのか、わからなかったわ。父も祖母も、私自身も。私、みかんに似てたのかしら?そのシールって、どんな顔?変な顔?」
「う~ん───」
さつきがうなっていると、のり江は笑って、それ以上聞こうとはしなかった。「謎がひとつ解けただけでも、お会いした価値があったわ」彼女は言った。
「じゃ、こちらの謎もひとつ、解いていただけるかしら」さつきが思い出して言った。「今朝、お母様の絵を一つ拝見したんですが、空のすみっこに、何か小さく、棒のようなものが描いてあったんです。汚れとかじゃなくって、明らかに意図的な───それって何なのか、ひょっとしておわかりになります?」
「ああ───」のり江は即答した。「多分、それ、矢です」
「矢?弓矢のですか?」
「ええ。母の絵には、どこか上の方に小さい小さい矢が一つ、描いてあることが多いんです。何の意味があるのか、わかりません。でも、母はよく私や父に、この矢を描かなきゃ、まだ完成じゃないって、言っていたのを覚えています。理由は話してくれなかった。聞いても忘れたのかもしれませんね」
「そうですか───」
うなずいて、さつきは黙る。しばらく沈黙がつづいた後で、のり江がさりげない表情で顔を上げ、二人を見た。
「もし、あなたがたが調べておられる、いろんなことが明らかになって、それが母にも関係のあることでしたら、結果というか、わかったことを、私にも教えて下さいます?」 ひかえめで静かだが、はっきりそれとわかる熱心さが声にこもっていた。 ◇
「一刻も早く戦利品を持ち帰りたいが、この中身もまた、ちらっと見たい」しのぶが下げて歩いているスーツケースを、さつきははずした手袋で軽くたたいた。
「どこかで、お茶でも飲みましょうか?」しのぶは、あたりを見回した。「夕方になって涼しくなってから出発した方がいいかもしれない」
「どうせなら、この町名物の、みかんパフェとかないのかな」
しのぶは首を振った。「喉元すぎれば暑さ忘れるですね。あの店、どうです?その名も『おみかん姫』ですよ」
「うん、いいよ」
さつきは時々こうやって、妙に素直にうなずいて人をびっくりさせることがある。当人には深い魂胆はなく、たとえば、この場合だと、そのどぎついオレンジ色に塗られた店の中に一刻も早く入ってみたいという冒険心が優先するのだ。しのぶが、ちょっとあきれた顔で面白そうに見ている先に立って、さつきは階段をかけ上がり、黄緑色のドアを押し開けた。
中は、オレンジ色のテーブルと椅子が並んでいる他は、わりと普通の店だった。窓際の棚におかれたサルビアの鉢の間に、オレンジ色の太った猫が寝ているのを見つけた二人はすっかり喜んで、そこに行き、猫をなでまわした。毛の色はジャコポに似ていたが、ずっと太ってつやつやしたその猫は、びくりともせずまんまるに丸まって寝たままだった。
「お店の色に合わせてあるんですか?」水を持ってきたウェイトレスに、さつきが聞いた。
「猫?まさかぁ!」ウェイトレスは吹き出し、猫のしっぽがテーブルの上にたれさがってきているのをつまんで、身体にまきつけた。「何にします?」
「夏みかんのゼリーと」メニューを見ながら、さつきが言った。「この、みかんコーヒーって何?」
「え?コーヒーに、みかんのアイスクリームを溶かして飲むんです」
「いいわ、それ下さい」
「どっちを、私が食べるんです?」スーツケースを膝の上にのせながら、しのぶが首を振って聞いた。
「ふっふっふっ」さつきは笑って、椅子にもたれかかり、また棚から下がってきた太い縞模様の猫のしっぽを指でつついた。「それ、開けてみる?」
「そうですね」しのぶは、留め金をさぐっていた。「爆薬や毒薬の解除装置は必要ない───ということにして」
「そう言えば気になる。大丈夫かよ」
「もう遅いったら」しのぶは白い歯を見せてにっこり笑い、ぱちんと音をたてて留め金を開けた。
かすかにしめっぽい紙の匂いがたちのぼり、ほのかな花の香りとまじった。いい匂いのする薄い紙で包まれた、いくつもの原稿用紙の束が重なり合っている。
「ふうん───劇の脚本みたいですね───台本もあるみたい」
「その、蓋のところのポケットに入ってるのは?」さつきが聞く。
しのぶは、表紙が灰色に色あせた、元は紫色だったらしい、中型の日記帳のようなノートをひっぱり出した。
「やった、美尾さん!これ、住所録ですよ。『蘭の会』の全メンバーの!」
「そうかい」さつきは、わざとゆうゆうと椅子にもたれた。「ペンネームと本名も、それじゃわかるね?」
「うん。───あ、いや、はい。───わかります」しのぶは夢中でページを繰っていた。「アスラン───関喜志子。アルデバラン、原須美子。オーランドー、棟方梨恵。タレーラン、波勢真砂子。───すごい、これ全部そろってますよ、美尾さん!」しのぶはちょっと興奮気味だった。「ローランサン、大槇敏美。オランプ、三枝可奈子。ああ、でも、───名前だけわかったって、しかたないのかな───ラントナック、根岸昌代。ブランカ、四方説子。ランボー、細川詩子。───いや、でも、住所も全部、一応書いてあるよ、これ!───ランスロット、領家和美。森蘭丸、吉川まり。でも、この住所、まだ正しいのかな、美尾さん?」
「落ちつけよ、もうちょっと」さつきは笑ってから、ふと首をかしげた。「ランボーの本名、何だった?」
「ん?」しのぶは、運ばれてきた、みかんコーヒーを、どういうものか確かめもせずにひきよせながら、また手帳に目を落とした。「細川詩子です」
「うちの、細川先生かい?」
「あ───」手帳を見つめたまま、しのぶは黙り込んだ。「そうかしら?」
「ふうん───まあ、こうなったら、もう何が出てきても驚きゃしないけどさ。そういや、あの暗さと陰険さは、何か過去ひきずってるようでもあるし」
しのぶはうなずき、気がつかずに何か気持ちの悪い箱をあけてしまったような顔になって、用心深く丁寧な手つきで、手帳をまたスーツケースにしまった。
「おいおい、何を落ち込んでるのさ?」さつきがからかう。
「いや、別に」しのぶはようやく顔を上げ、みかんコーヒーをすすって苦笑した。「何か、あれですよね。知らない人の名ばかりだったらいいけど、こんな、よく知ってる人が突然出てくると、───何か、いやですよね。どきっとする」
さつきは笑って、夏みかんのゼリーの入ったガラスの器をしのぶの前にずらした。「食べない?いけるよ」
しのぶは軽く一礼して、さじでゼリーをすくった。
「私、あんまり、回りのことがよくわからないんですよ」ちょっと唐突に、しのぶは言った。「だからかな。こんな時、どきっとするのかな」
「他人の、思いがけない面を見た時?」さつきは軽く眉をあげた。「あんたに言ってほしくはないぞ」
しのぶは、ちょっとぽかんとさつきを見、しばらくしてから苦笑した。
「ああ───」
「ああ、ってなあ、あんた。まあ、いいけど」さつきが今度は苦笑する。「それとも、あれはどっちかというと、みどりが計画たてて、あんたをひっぱってたのかい?何か、そういう気もするけど」
「う~ん」しのぶは困ったように、指先でほおをさすった。「姉のこと、私、小さい時から、わからないんですよね、あまり、よく」
「へえ?仲いいんだろ?」
「いいんですけど。っていうか、姉はほんとに、いつも私のこと、かわいがってくれたし、かばってくれたし」
「お母さんから?」
「いや───」思い出しているように、しのぶは口ごもった。「母は、私には、ほとんどというか、全然、怒ったことがないんです。父も」
「怒られてたのは、みどりだけ?」
「ていうか、よくわからないんですよ。父も母も姉も、お互いいろいろ傷つけあってたような感じで、誰が誰を一番嫌いなのか、何か見ていてもよくわからなかった」
「同じ家にいたんだよね?」
「前はね。そうだけど───」しのぶは、みかんコーヒーのカップをおいて、さつきを見ながら目元だけで笑った。「美尾さん、私のこと見てて、何も考えてないなって思ったこととか、ありません?人の気持ちがわからないっていうか」
「あんたが?」さつきはぽかんとして、しのぶを見返した。「さあ───いいや。ないと思うけど、誰かにそんなこと、言われたの?」
「いや」しのぶは首を振った。「このごろ、自分で時々思うだけです。家でも、学校でも、自分はほとんど、他人が何を考えてるかとか、考えたことなかったなあって。そんなこと、何も考えないでやってきたなあって」
「それでも困らなかったんだろ。あんた、皆に好かれていたから」
「──────」
「人の気持ちを気にしないやつは、嫌われることもあるけどね」さつきはゼリーをすくって笑った。「何したら好かれるだろう、嫌われないですむだろうってバタバタしてるやつよりも、見てて気持ちがいいからさ、好かれることも多いんだよね」
しのぶは黙って、さつきを見ている。聡明さと無邪気さがひとつになったような、無防備で澄んだ、素直な表情だった。さつきは続けた。
「母を見ていて、そこに気づいたから、好きなように生きることにしたのさ」
「お母さんは、好きなように生きてたんですか?」
「ううん、逆でね。いつも、人に好かれようと気にしてた。それで、とうとうアル中になって、今は精神病院に入ってる。あたしの顔はまだわかるみたいで、行くとやたらにうれしそうな顔して、しゃべりまくって、ひきとめて放さないけどね」
「じゃ、お父さんといるんですか?美尾さんは」
「父はとっくに母と離婚して、再婚したよ。医者だったの。その病院に勤めてた看護婦が一人、あたしをやけにかわいがってくれて、今、その人のところにいるの。独身の、年寄りだけどね。父が養育費を送ってくるのを、いらないって突き返そうとして、しょっちゅうけんかしているよ。『貰っときなよ。あんたも老後はどうなるかわからんだろ』って忠告してやるんだけど、そしたら、いつも火のように怒って、あんたの世話にはならんと言う。ならんだろうね。まあ、昔気質の人だしね」
さつきはにっこり笑って伝票を取り、猫の頭をなでて、立ち上がった。
「そろそろ行こうか。多分、もう外、涼しくなったよ」
しのぶもうなずき、スーツケースを閉めて手に提げ、席を立った。
◇
麗泉学院に帰った数日後、京子と美沙と三人きりになった時、この時のことをさつきは二人に話して、言ったのだった。
「ふだんはさ、おふくろの話なんてあたし他人にしないんだけど、何か、あん時はね。しなきゃいけないような気がした。その前に、小田茜さんが娘に、徹底的にわかるまでいろんなことを教えまくったっていう、あの話にも何か影響されたかなあ。しのぶがさ、何か、変に幼く見えたんだよね。身体も頭も立派なのに、人間のこと何も知らない、オオカミ少年か、人造人間かみたいな。それが、初めて、人間と自分が少しちがうことに気づいて、人間のこと、いろいろ勉強したがってるみたいな。だから、自分のこととかも含めて人間を理解する参考になりそうなことは、何でもしゃべってやらなくちゃって、変な義務感にかられちゃってさ」
「そう言えば、あの子、そうよね」美沙が賛成した。「たしかに、まだ人間じゃないようなところがあるわ。バカじゃないんだけど、何ていうの。ほんとに、動物とか、サイボーグとか、何かそんな感じが。ねえ、京子?」
「そう」京子もうなずいた。「汚れてないっていうか。ふしぎな姉妹よね、あの二人、考えて見ると。みどりは、いつも、どこかに行ってしまいそうな感じがするって言われるでしょう?本当は、ちがう世界の住人で。でも、しのぶも、そうなのよね。ただ、彼女はそのちがう世界から、やってきたばかりで、まだ、この世界のことをよく知らないでとまどっている生き物のように見えるわ」
「演出してると、それが逆に楽よね」美沙が言った。「人間についての先入観がない分だけ、あの子、どんな変な役でも、素直に理解して、まるでその人として生きてきたように演じてくれるもの。あっ、そういう解釈があったかって、ときどき見ていてびっくりするけど、役の性格を考えて見ると、それは突飛でも何でもない、正攻法の解釈なのよ。こちらが理解している以上の役柄の中身を引き出してくれるわ」
「案外、人気が出るかもね、これから」
「あら、さつき、知らないの?」美沙が笑った。「もう、とっくに出ているわよ。秋からはきっと彼女の人気はうなぎのぼりで、学園祭の頃には私たちなんて軽く追い越して、クリスマスには、多分、絶頂に達するわ。『ベン・ハー』の主役はもう決まりかもしれないって、私は思っているんだけど」