小説「散文家たち」第9章 壁画
「ぐちを言う気はないんすけどねえ」
大西和子が、廊下のコンセントからひっぱってきた黒いコ-ドの束をほぐしながら、な かばひとり言のように言った。
迷彩色の軍服の袖をひじまでまくりあげて、青い錨の入れ墨を描いた腕をあらわにした その姿は、一見立派な兵士だが、やや胸とお尻が大きすぎるのを難点だ。
「創立記念日、明日だってのに、ここでこんなことしてていいんですかねえ、私たちっ て」
「あら!?あたしは他の皆みたいに、舞台のセットやライトやテ-プを点検するより、 こんな関係ない仕事をしていた方がいい」
緑川優子が胸に手をあてて、かわいらしく吐息をついた。色白の顔も、ほっそりした手 足も茶色に塗って、ちょっとメキシコ人風になっているが、やさしいはかない顔だちは、 着ている迷彩服に、まだいまひとつ似つかわしくない。
「幕が開くまでいつも胸の動悸がおさまらないの。セットを見るたび、ますます恐くな ってしまって。だから、こんな仕事の方が・・・でも・・」
彼女はそこでふと言葉を切り、京子よりずっと弱々しいけれど、同じ優しさをたたえた 目で二人の下級生・・・大西和子と片山しのぶを見た。
「そうよね。あなたたちには悪いわ。この、奥のへやに入るの、一年生は皆とても恐い と思っているんでしょう?」
和子としのぶは顔を見合わせた。
「・・・ご存じでしたか」しのぶが口の中で言う。
彼女一人は着ている迷彩色の戦闘服が、まったく違和感がない。それどころか、がっし りした厚い肩も、細くひきしまった腰も、本物の兵士でもめったにないのではないかと思 えるほど、軍服にしっくりなじんでいる。明るい率直なまなざしや、すっきりと清々しい 目鼻だちも、まるきり若い軍人だ。
「・・・皆が恐がっているわけでもないんですよ」和子が弁解するように言った。「司 はお掃除するのに熱心で、ほとんど気にしていませんし、あたしやしのぶもわりと平気な 方です。ね?」
あいづちを求められて、しのぶもうなずく。
「暗かったのも、まずいんですよ。こうやって明かりがつけられるようになって、へや の中が明るくなれば皆もまた、気持ち、変わってくるんじゃないですか」
「だからさあ、司に早いとこ片づけようって、あたし言ってたんだけどね」和子が首を 振る。「天井のコンセントの電球をとりかえるための、はしごが置ける場所だけでもあれ ばいいんだからって。でも、すごいごみだもんだから、たったそれだけの空間でも、昨日 まで作れなかった。それにほら、司も忙しかったしさ」
「うん、朝倉さんのバ-ンズと南条さんのエリアスにはさまれた主役のクリスじゃね。 いくら彼女でも、片づけどころじゃないだろう」しのぶは笑いながら、さっき皆で苦労し て狭い通路を廊下まで下ろしてきていた長いはしごを、優子といっしょにへやの中まで運 び込んだ。「ええっと、待てよ。でもこれ、ライトを先に入れたがいいかな」
「だよね、きっと。あたしが先に行く」和子はライトとコ-ドを持って、奥のへやへと 入って行った。
「でも、皆が恐がるのもしかたがないのかもしれないわ」床にひざをついて、もつれな いようコ-ドをほぐしながら、優子が小さい声で言った。「本当の話、私だってこのひと 月の間はときどき、演劇部って呪われているのじゃないかしらって思ったことがあったも の・・・片山さんは?」
「そうですね・・・」
「はしご、入れてもいいですよ!」和子の声がした。
「これをすえつけたら休憩しましょう、緑川さん」壁の方に向いてしのぶに見えないよ うに気をつけながら、苦しそうにほっそりした肩をはずませている優子をちらと見て、し のぶがそう言った。「昼からずっとリハ-サルつづきだったし、このはしご運んだり、ボ -ル箱出したりで、私もう疲れました」
「・・・気をつかわせて、ごめんなさい」優子はほっとしたように、ため息をついて壁 にもたれた。「兵士だったら失格ね。ううん、兵士でなくたって何かあったらきっと、ま っ先に死ぬわね、私」
「何かあったら、でしょう?何もなければ問題ないです」しのぶは優子に笑いかけて、 軽々と一人ではしごを持ち上げた。「そこに座っていらして下さい。お茶も私たちがいれ ます」
「そんなの、悪いわ・・」
「いいから、休んでて下さい。明日、バテちゃったらどうするんです。緑川さん、通訳 の役でしょ?ベトナム語のせりふなんて、他の誰も覚えてないから代役いないですよ」 優子は弱々しく笑って椅子に腰を下ろす。しのぶは彼女にいたずらっぽく片目をつぶっ てみせると、はしごをかついで奥のへやに消えた。
◇
「皆がひきあげてきてもいいように、お湯は多めにわかしておくよ」和子はポットを流 しのそばにいくつも並べながら言った。「まあ、でも、当分は戻っちゃ来ないだろうけど さ。何しろ、校舎の最上階の大教室と、地下のホ-ルと両方が上演会場ときたもんだ。南 条さんも朝倉さんも、階段かけおりながら、カルメンやミカエラから兵士に変わる早変わ りを、もう一二回やってみるって言ってたし」
「何だか、そもそも、それからして、呪いめいてたっちゃ呪いめいてたよね」しのぶが 砂糖のパックを取りだしながら首を振る。「あれだけ村上セイさんが努力したのに、あの 二つしか場所がとれず、それも昼の遅い時間と夜の早い時間とに。おかげで、二つの劇の 上演の間が三十分あるかないかになっちゃって」
「あんなの、呪いでも何でもないって」コ-ヒ-カップを温めながら、和子が怒ったよ うに言う。「絶対、小石川さんのたくらみよ。ですよね、緑川さん?」
「小石川さんが、そこまでするなんて私は思いたくないの・・・証拠があるわけでもな いし」クッキ-の皿を手に持ったまま、優子は悲しそうにぼんやりした。
「時間が重ならなかっただけでも、もうけもんだって思うしかないさ」しのぶが、さば さばした口調で言う。
「みどりが停学くらったのだって、あたしは小石川さん疑ってんだ」和子はがりがり音 をたててコ-ヒ-豆をひきながら、ますます怒った声になった。「司だって、かわいそう だよ。主役もらうのはうれしいだろうけど、せっかくなら、ちゃんとはじめからやりたか っただろうに。二週間前になって急にみどりの代役だもの。もちろん、みどりは気の毒な んていうもんじゃないし」
「あれは・・・」優子が顔を曇らせた。「授業中、田所さんの机の中に変な雑誌が入っ ていて、それを先生に言われるままに田所さんが朗読したんですって?」
「先生がバカなんですよ」和子はうなずいた。「物理の太田咲子。緑川さん、知ってる でしょう?気が小さくて、意地悪で、自分がバカにされてんじゃないかってしょっちゅう びくびくしているババア・・・失礼」優子があきれたというよりは、おびえた目をしたの で和子は口調をあらためた。「あいつが授業中、みどりの机の中にポルノ雑誌があるのに 気づいてひっぱりだして、ギャアギャアわめいたんですよ。恥しらずとか、色きちがいと か・・・ふつう、そんなこと言います?そんなこと言う自分の方が、よっぽど色きちがい じゃないすか。そりゃまあ、あんな雑誌、生まれてこれまで見たこともなかったんだろう から、頭に血ィのぼるのはわかるけど」
「あの人、興奮しやすいもんな」しのぶがコ-ヒ-カップを配りながら、思い出したよ うに言った。「うちのクラスでもこの前、授業中に居眠りしてる者がいるって、クラス全 員一時間立って授業をうけさせられたよ。それがさ、きげんのいい時は何人寝ててもにっ こにこしてるんだから、やりにくいんだよね」
「田所さんはどうして何も言わなかったの?」優子がたずねた。「もちろん、その雑誌 は彼女のものではなかったんでしょう?」
「そりゃそうですよ。休み時間に誰かがこっそり、彼女の机に入れたんです。だから、 それが、あたしは絶対、小石川さんだろうって・・・」
「あの人がわざわざ一年生の教室に、そんなことしに来るか?」しのぶが、げんなりし た顔をした。「まさか。和子の考えすぎだよ」
「自分では来ないよ、もちろん。一年生にはあの人の子分て、けっこういるんだよ。あ たしが目星をつけてるのはさ・・・」
「でも、そんなこと、まだわからないでしょ」細い声をふりしぼって、優子は和子を懸 命に制した。「それよりも、それだったらなぜ、田所さんは、そのことを説明しないで、 言われるままになっていたのかしら?」
「最初はきっと、何が何だかわからなくって、ぼうっとしてただけなんでしょうけど、 ・・・」
急に歯切れが悪くなった和子は、ちらとしのぶの方を見る。と、しのぶも目をそらして 間がわるそうにせきばらいした。
「・・・どうしたの?」優子はふしぎそうに目をみはる。
その、何の疑いもない無邪気なまなざしが、逆に二人の下級生をしゃべる気にさせたよ うだった。
「みどりって・・・あのですね・・・」しのぶが言った。「わりといつも、ああなんで すよね・・・」
「ああって?」
「弁解するのが・・・下手なんですよ」
「て、いうか」和子が唇をかみしめた。「いつもあの人、自分から、ぬれぎぬきちゃう みたいなところがあって・・・」
優子が、よくのみこめないような不思議そうな顔のままなので、和子はつづけた。「入 学してしばらくして、司とか朝子とか眉美とかと皆でおしゃべりしてた時、あたしがおな らしたことがあって、そのときすぐみどりが『あ、ごめん』って言ったんで、あたしずっ こけちゃって、思わず『やだ、もう、何言ってんの、今のあたしよ!』って大きな声でど なっちゃったんです。それで大笑いになって、今考えるとあれでいっぺんにあたしたち仲 良くなっちゃったんですけどね。それからも、気をつけて見てるとずっとそんな風で」
「人がおならをするといつも、自分だって言うの?」
「いくらあたしたちだって、そんなにしょっちゅう、おならなんかしません」和子は抗 議した。「他のことでも皆、そうなんです。皆でお茶飲んだりして、割り勘とかしてお金 集めて計算があわないと、すぐにみどりが『あ、あたしまちがえた』って言って足りない 分を出しちゃうし、『ここにぬれたカサおいたの誰よ?』って図書館で上級生が叱ったり すると、みどりがすぐ『あたしのです』って立って行ってかたづけるみたいな・・・それ だけじゃないよね、あの人、あたしたちなんかには想像もつかないみたいなスケ-ル大き いところで責任感じちゃったりするよね」
「そうなんだ」しのぶがうなずいた。「寮の食堂のオムライスが今日はまずかったって 皆が言うと、調理してるおばさんに自分がアイスクリ-ム下さいって声かけたから、おば さん動揺したのかもしれないって言って元気がなくなったり、そんなのはまあいいけど、 アフリカの飢饉で、子どもが大勢死んだ話を聞くと、去年自分がユニセフに寄付を頼まれ たとき、クリスマスのセ-タ-買いたかったから、ちょこっとしかお金ださなかったから だって落ち込んだり・・・」
「あれって、悪いですよねえ、あのユニセフのパンフレットに書いてあることって」和 子がぼやいた。「ほら、よく書いてあるじゃないですか。あなたが千円寄付したら、それ でワクチンが十人分買えますとか、一万円寄付したら、ひとつの村の井戸水が一年間浄化 できて三百人の命が救えます・・・とか。みどりは、ああいうのって皆逆に読んじゃうん です・・・あの、逆さに読むって意味とちがいますよ」
「うん」優子はあどけない目をみはって、子どものように素直にうなずいた。「それは わかるわ。でも、どういう意味なのかわからない」
「ふつう、ああいうの読んだ人って、『自分が送った百円で、注射針が何本買えて、何 人の子が助かった』っていう風に思って満足するじゃないですか。みどりは、『自分が買 いたいもの我慢して、あと五百円余分に送らなかったばっかりに二十人分のペニシリンが 買えなくて、それだけの赤ちゃんが死んだんだわ』って苦にするんです」
「まあ」優子は花びらのように小さいかわいい唇をぽかんと開けてしまっている。「で もそれは、そういう考え方する人のことまでは、ユニセフだって、ちょっとあの・・面倒 は見られないのではないかしら・・・」
「ごもっともです。そりゃもう誰も、面倒なんて見きれません」しのぶが言った。「ト ラが絶滅しようとしてると聞いて、昔、おじいさんの家にあったトラの敷物が大好きだっ たから、お父さんにほしいとねだったって苦にするような人ですから。じゃ、お父さんは あんたにそう言われて鉄砲かついでインドにトラ狩りに行ったのかって聞いたら、そうじ ゃないけど、自分みたいなそういう好みがつもりつもって、この世からトラを減らして行 ったんだって・・・」
「田所さんがそんな風って、私は少しも気づかなかったわ」
「このごろ、だいぶ治ってきてるからですよ」和子が言った。「あたしたち、いっぺん 皆でみどりをつるしあげたんですよ。あたしたちがした失敗や悪いことの数々を全部ひっ かぶられたら、それってとっても迷惑だって。あたしたちもあんたに横取りされないよう に、犯した罪はすぐ反省するようにするけど、あんたの方も気をつけろって。みどりはし ょぼ~んとしてましたけど、素直な人だから、それ以後ちゃんと努力したみたいで、もう このごろはほとんどそういうことなくなってたんです」
「でも、基本的には治ってない」コ-ヒ-を吹いてさましながら、しのぶが言った。 「そう。だから、どうかするとやっぱり出ちゃう。緊張したり動揺したりすると、特に さ。今度みたいなのって、その最悪のケ-スだよね」
「そのこと、太田先生や・・・他の先生にお話したら?」
「考えては見たんですけどね、皆で一応」しのぶが吐息をついた。「信じてもらえるっ て、思います?」
しばらく考えていた後で、優子は黙って首を振った。
◇
「それに、太田さんが怒ってんのや、みどりの停学になった理由っていうのが、ポルノ 雑誌を持ってたということだけじゃないもんね」和子が言った。「何か、そのへんがごち ゃごちゃしてしまってるんだけど、みどりがクラスの皆の前で、ポルノ雑誌を声出して読 んでみせたっていうことの方が、むしろ問題になってるみたいなとこがあって」
「そこがおかしいんだよな」しのぶが唇をかむ。「だってさ、太田先生が言ったんだろ う、みどりに読めって?」
「そりゃそうさ!見てなかったらわかんないだろうけど、あれってけっこう恐いものが あったんだから」和子はちょっと身震いした。「『読みなさい!今、ここで皆の前で、声 を出して読んで聞かせなさい!』って太田さんはどなりつづけるだろう?みどりの手に何 だかどぎつい色の表紙の本をたたきつけてさ。表紙が見えてりゃまだいいけど、見えてな い生徒は皆、何のことだかわからなくってぽかんとしてたよ。みどりは黙って長いこと、 ぼうっと先生を見てたんだけど、その内に本を持ち上げて、いつもと同じあの声で・・・ 『どこからですか?』って、まるで英語のリ-ダ-か、古典の教科書読むみたいに!」 「太田先生は、どうなさったの?」
「キイィィィっていう感じの声で、『どこからでもいいから、読みなさい!私がいいと いうまで続けなさい!』って。そうしたら、みどり、本当に冷静な落ちついた声で・・・ わあ、だめだ、だめだ、とてもまねできない」
「いいよ、だいたい見当つくから」目を伏せたまま、しのぶが言った。
「もう、濡れた何とかがどうだの、そそりたった何とかがああだの、堪忍してだの、い くいくだの、ずぶずぶだの、ばすばすだの・・・」
「わかったよ。もういいったら」
「あなたたち、誰も、それをとめなかったの?」いつも優しくおとなしい優子の目に、 怒りというにはあまりにも弱々しいが、彼女が見せることのできる感情としては限りなく 怒りに近い色が浮かんでいた。
「恐くって・・・」
「そんな・・。いくら太田先生が厳しい方でも、そんなことをなさっていらっしゃるの なら、それは誰かがとめるのが・・・」
「太田先生が恐いんじゃない、みどりが恐かったんです」和子は言った。「だって、あ の人、それはもう、澄んだはっきりした声で、ひとこと、ひとこと、歯切れいい、しっか りとした口調で、一回もつっかえないし、口ごもったりなんかもちろんしないし、わざと らしく強めるのでもなく、弱めるのでもなく・・・本を持っている手だって震えもしない し、顔色だっていつもと同じで、ただ、読んでいる内容だけが・・・あたし、もう、今思 い出しても何か寒気がしてきます。教室中しんとなって、笑う者はもちろん、泣く者もい なかった。太田先生はずっと泡でも吹きそうな顔でぶるぶる震えてて、とうとう顔色が土 気色になってきて、『やめなさい!』ってどなって、みどりをひっぱたいて本をもぎとっ て、チョ-クの箱とかひっくりかえして白墨そのへんにばらまきながら、わあわあ泣いて 教室飛び出してっちゃいました。みっともなかったですけどね。ちらっと、その気持ちわ かりましたよ。先生もあの時、みどりが怪物みたいに見えたんじゃないかな」
「それで、田所さんは?どうしていたの?」
「そのまんま、黙って椅子に腰をおろして、ちょっとため息ついただけ。あたしたち、 誰もしばらく話しかけるのも恐くって、黙って彼女を見てました。かわりに他の子が何人 も泣きだしちゃって、もう大変・・・。その後すぐ、職員室から呼び出しが来て、みどり は連れて行かれて、そのまま三週間の停学処分です」
◇
壁にかかったふくろう時計が、きしんだ音で八時を告げる。しのぶはちょっと気にした ように奥のへやの方を見たが、優子と和子がまだそれぞれに今の話の興奮からさめきれて いないような顔で、黙ってコ-ヒ-をすすっているのを見ると、自分も静かに姿勢をもと に戻した。
「緑川さんに聞きたいんですけど」和子がちょっと思い切ったように言う。
「・・・え?」優子は夢からさめたように、長いまつげの目をまたたいた。「何・・か しら?」
「あの雑誌をみどりの机に入れたのが、小石川さんたちじゃないとしたら、誰だと思い ますか?」
「そんな・・・突然、そんなこと聞かれても困るわ・・・」
「でも、昔、緑川さんにも同じことがあったんでしょう?机の中に誰かから、ポルノ雑 誌を入れられたことがあるんだって聞いたんですけど」
「和子・・・」しのぶが目を伏せたまま、低い声で注意した。
「いいのよ」優子はかすかに赤くなって、口ごもった。「そうよ・・そういうこと、あ ったわ。でも、私の時は先生がすぐにわかってくださって・・・私も、田所さんのように 落ちついていなかったから・・・おろおろして、うろたえていたから、かえってそれで、 わかっていただけたんでしょうね・・・」
「それって、誰かのいじめですか?」
「ううん・・・ちがうと思うわ。私だけじゃなく、おとなしい子や、気の弱い子の机に よく入れられたの。見つけても恐くて騒げないみたいな子が選ばれていたみたい。その頃 はちょっと、そういう雑誌や小説を回し読みするのが、はやっていたの。見つかったら停 学なんだけど、それがまたスリリングだったのか、町に出た時なんかに、すごい内容の本 をこっそり買ってくるのが競争みたいになっていて、珍しい本だと高く売れたりしたみた い。『密輸品』って呼ばれていたわ。それで、先生に見つかりそうになったりすると、絶 対に疑われそうにない子の机の中にとっさに隠して、あとで取り戻すの。私も、それに使 われたのだろうって、先生方はおっしゃっていたわ」
「みどりのも、それと同じケ-ス?その時の流行が、また復活しかけてんですかね、ど っかで?」
「わからないわ。そういう流行って、ひとりでに起こって、また消えてしまうものだか ら。そうかと思うと、ほそぼそとだけど、ずっと残っていたりして。それに、噂なんだけ ど、この学校には昔から・・・」優子は急に言葉を切って、口に手をあてた。気弱そうな 笑いが、その目に浮かぶ。「でも、京子が怒るかしら?・・」
「なぜ?何の話です?」
優子は和子の勢いに押されたように、ためらい、ためらい、口を開いた。
「いつの時代も、昔から・・・この学校には何かそういう・・・本とか写真をとりひき したり、売りさばいたり・・・そして次第に、それにかかわった生徒たちを仲間にして行 って・・・動物を殺したり、時には人も殺したりする集団というのか組織というのか、何 かそういうものがあって・・・サンド・クラブ・パ-ティ-と呼ばれているんだけど、で も実際にそのメンバ-や集まりを見た人というのは、これまで誰もいないっていうのだけ れど・・」
しのぶと和子は顔を見合わせた。
「その集団の、目的は何です?」しのぶが聞く。
優子はひっそり首を振った。「何もないわ。悪そのものが目的だって言われているの。 死とか、滅びとかを何よりも愛していて、そういうものの魅力にとりつかれた人を次々、 仲間にひきずりこんで行くのだって・・・私が聞いたのでは、そうだったわ。サンド・ク ラブについては、いろいろな話が伝説のように語り伝えられていて、はっきりしたことが わからないのよ・・・」
「誰から聞いたんです、緑川さんは?」和子がたずねた。
「もう卒業した、同室の先輩よ。私って、身体も弱いし、気も弱いし、これといった才 能もないし・・・生きていていいのかしらとか、生きていてどうなるのかしらと思って、 ときどきふっと死にあこがれそうになることがあるの。何か特にいやなことがあったとい うのでもなくて、本当に、別にこれというわけもなく。疲れたなあ、眠いなあっていう感 じかしら・・・誰かに、何かに、自分をまかせてしまいたいというのにも少し似ているの かしら・・・その先輩は、私のそういうところがとても心配だったみたい。私にサンド・ クラブ・パ-ティ-の話をしてくれて、それだけには絶対にひきこまれないようにしなさ いって、くりかえし言ったわ。どんなに美しく見えても、死や、滅びや、苦しみに、ひき つけられていってはだめよ、って・・・」
しのぶと和子は優子を見つめた。すきとおるように白い肌を茶色に染め、戦闘服に太い 革ベルトをしめた兵士の服装をしていても、いや、そうすればするほどますます、弱々し さとはかなさが目立ってきそうな、ほっそりときゃしゃな身体を。笑っているよりは、苦 しげにゆがめていたり、涙をほほに伝わらせたり、青ざめて息絶えていたりする方が何と なく似合ってしまいそうな、どこを探しても強さのかけらもない、愛らしく優しい、その 顔を。
「緑川さんって・・・」和子が初めてそのことに気づいたように、つぶやいた。「強い ふりさえ、しないんだもんなあ」
優子は、ほのぼのと花が光の中に開いていくような笑顔を見せた。「だって、そんなこ と、私にはとても無理だもの・・」
◇
ちょうどその時、階段をかたかたかけおりる音がして、今までかわされていた話とは、 あまりにもかけはなれた生命力のかたまりのような美尾さつきが、胸をはだけて腕まくり した迷彩服姿で騒々しく飛び込んできた。
「わあ、うれしい!何という幸運!コ-ヒ-がわいてるなんて!一杯ちょうだい!」 「他の人たちは?」和子が立ち上がりながら聞く。
「う~ん、どうだろ、まだもう少しかかるだろうなあ。地雷が爆発する音がうまくタイ ミングがあわないって言ってたから。竜子は銃を全部点検して、鍵かけてしまっとかない と眠れないって言ってたし。暴発事件なんて、もう二度とはごめんだからね」
「あれって結局、何だったんでしょうねえ?」和子がコ-ヒ-とクッキ-の皿を、さつ きの前におきながら言った。「朝倉さんのバ-ンズが、ベトナム女の上月さんを撃ったと たん、音と煙だけじゃなく、弾が飛び出しちゃうなんて。もちろん、ほんとの弾じゃなく て、コルク玉だからよかったものの」
「それでも、顔にでもあたっていたら大変なことになるところだったわ」優子が小さく 身体を震わせた。「あれが最初の事故だったわね。次に田所さんが停学になって・・・そ れから奈々子が腕を折って・・・一年生たちが、演劇部は何かにとりつかれていると言っ て恐がるのも何だかわかるみたい・・」
「おいおいおい!」さつきが両手の手のひらで、テ-ブルをぱたぱたたたいた。「他の はともかく、奈々子のあれを呪いだなんて言ったら、そりゃ悪霊に悪かろう。ゲ-ムセン タ-で、ア-ムレスリングの機械の最強レベルに挑戦して腕を折っちゃうバカなんて、オ -メンもジェイソンも到底面倒見てらんないよ!」
「美尾さん、現場にいたんでしょ?」
「店にはいっしょに行ったけど、あたしは本の売り場で雑誌の立ち読みしてたから。ゲ -ム機のとこにいっしょにいたのは司と朝子さ。緑川さんはどうせ知らないだろうから説 明すると、ア-ムレスリングの機械ってのは、要するに手のかたちしたハンドル握って機 械と腕相撲するんだけど、そのハンドルの強さが変えられるようになっていて、1から6 までレベルがあるのよ。奈々子は筋力強いからね。軽いレベルは目じゃないだろ。どんど ん上げて最強にして、しばらくハンドルつかんだまま、ず~っと勝負がつかなかったらし いんだけど、その内突然、腕の骨が折れるバ-ンとすごい音がして・・・」優子が目をつ ぶって身体を縮めたのに気づいて、さつきは話をはしょることにしたようだった。「真っ 青になってうずくまっちゃった彼女を、三人で運んで救急車に乗せてさ。店のオ-ナ-が びびってしまって、学校におわびに来るっていうのを必死でとめたよ。ゲ-ムセンタ-に 出入りしてたなんてバレたら、またまた停学処分者が出るかもしれないってのに、まった くもう、冗談じゃないや」
「あの店、相当びびったんでしょうね」しのぶが言った。「翌日行ってみたら、機械の レベルを下げてましたよ。5までしか上がらないようになってた」
「わざわざ見に行ったの?」
「て、いうか」しのぶはちょっと照れ笑いした。「私も5まではやったことあるから。 奈々子が機械に負けたって聞いて・・・腕を折ったら一応やっぱり負けですよね・・・だ から、ちょっと、その機械見てみたくなって・・・奈々子の仇をうってやるのもいいかな と思ったんですけど・・・。でも、レベルが5までになってて、何だか逃げられたなあっ て気分で帰ってきました」
「やめてくれよな」さつきは不安そうな顔をした。「お願いだからその話、美沙や京子 には聞かせるな。この上あんたまで、それも足の次には腕折って入院なんかされた日にゃ どうなることか、考えただけでぞっとする。マシンなんかと張り合っているひまがあった ら、何でもいいからもうちょっとましなこと何かしていてくれよ。それでなくたって、京 子も美沙もこのごろ、きげんがよくないのに」
「そうですか?」和子が言った。「気づかないけど」
「南条さんがきげん悪いのは、エリアスとカルメンと両方やらなくちゃならなくなった からですよ」しのぶが言った。「何で最上級生にもなって、こんなにこきつかわれなきゃ ならないのかしらって、真剣に怒ってましたもん」
「だって、奈々子が入院した段階で、カルメンの歌もせりふも皆覚えてるの、あの人し かいなかったんだからしかたがない」
「でも」優子が首をかしげた。「奈々子のカルメンも踊りはうまいし、本当に火のよう できれいだったけれど、南条さんだと、どう言ったらいいのかしら・・・大人っぽいとか 色っぽいとかだけじゃなくて、はだしで踊っている足元に、スペインはアンダルシアの、 赤い土ぼこりがまきあがるようだわ。ほんとうに、あの人、大地と太陽とぶどう酒の香り がする。ホセがひかれていくのがよくわかる・・朝倉さんのミカエラが、どんなに清らか できれいでも・・・でも朝倉さん、本当にそんなに最近、きげんがよくないかしら?私も 気づかなかったけれど」
「あたしに対してだけかなあ。最近、あんまり口きいてくれないような気がする」さつ きは片手であごを支えてほおづえをつき、うっとうしそうな目つきをした。「やっぱり怒 らせちゃったのかなあ。先々週の日曜日」
「何かあったんですか?」と、しのぶ。
「うん・・・京子、あたしがレスボス島でナンシ-につかまってるんじゃないかと思っ て朝からひやひやしてたのに、あたしはそんなのちっとも知らないで、昼すぎまで堀之内 千代のへやでぐうぐう寝てたのよ」
「いったい何かと思ったら」しのぶが、あきれた顔をした。「そんなことですか。今さ らそのくらいのことで、朝倉さんは美尾さんに怒ったりなんかしないでしょうに」
「そんなこと言うけど、恐かったんだぞ」さつきは首を振った。「お昼すぎ、あたしが 何にも知らないであくびしながら階段を下りて行ったら、京子が寮の玄関でドアにもたれ てて、しら-っとした目であたしを見て、『美尾さん、あなたが私に対して何か負い目を 感じるのは勝手だけど、それを解消するために小石川さんに子どもっぽい悪ふざけをする のはやめて』って、それだけ言ってすたすた行っちゃった。何だかほんとに、あの人らし くなかったなあ」
「それと関係あるかどうかわかんないけど」和子が言った。「あの人のバ-ンズの演技 って、本当に見てて恐いですよ。エリアスを殺したり、クリスの顔を切ったりする時、何 かいつもの朝倉さんのようじゃない。上月さんの工夫したメ-キャップで、傷だらけのも のすごい顔になってるからかしれないけれど、それだけじゃなくて・・・立花朝子のバカ は、バ-ンズの霊がとりついてるんだって言っておびえてますけど、マジでそれ、笑い飛 ばせないんですよね」
「私はむしろ、あの人のミカエラが恐いの」優子がつぶやいた。「本当にきれいで清ら かだけど何か恐いの。どことなく、これまでの朝倉さんとはちがったものが何か入り込ん でいて・・光り輝いているのに闇につつまれているよう。外国旅行で時々見る、色がはげ て崩れかけた、美しい聖母像のようで・・」
しのぶが首を振り、立ち上がった。
「もう少し、お湯をわかしておきます。それと、奥のへやの仕事、そろそろ片づけてお かないと」
「ああ、そうか・・・いよいよ、明かりをつけるのね」さつきが笑った。
「そうですよ。明るくしたら、変な噂も少しは下火になるでしょう」しのぶはうなずい た。「そう思って、うんと明るい電球を買って来ました。これひとつつけただけでも、へ や全体はけっこう明るくなるはずです」
「手伝うよ」さつきは言って、立ち上がった。
◇
少しは片づいたと言っても、まだまだボ-ル箱やがらくたの山があちこちにそびえる奥 のへやを、どぎついライトの光が照らし出す。今となってはそれももう、けっこう見慣れ た風景だ。心なしか、隣のへやよりこちらの方が空気はどこかひんやりしていた。 「ぶるぶるぶる」さつきが、はしごをつかんでしっかり立て直しながらぼやいた。「何 だか、このへや、日に日に冷気がたちこめて来るなあ。最初からこんなに、寒かったっけ か?」
「外がだんだん暑くなってきたからですね。そんな気がするだけですよ」しのぶがライ トをはしごの上の方に向けながら、落ち着いた声でそう言った。
「お見事」さつきは、はしごによりかかって感心する。
「私が上るわ」優子が紙箱から電球を出しながら言った。「多分、一番軽いから」 「多分だけ、余計だ」さつきは笑って、はしごを押さえた。
しのぶと和子も、反対側からはしごを支える。しのぶは片手で、ライトを上に向けたま まだ。
「何だかなあ、皆で迷彩服着てこうしてるところは、あたしたち、まるっきりどっかの 工兵隊ですね」和子がぼやいた。
「しかしねえ、それにつけても思うけど」さつきが思い出したように言う。「日村通子 があんなにも、この恰好が似合うなんて誰も思わなかったよなあ」
「上月さんと、みどりが怪我して、役があっちこっち入れ代わった結果、あの人とうと うバニ-になっちゃいましたからね」しのぶがうなずく。「殺人好きで、冷酷で凶暴な、 アブナイ兵士に」
「それでもって、全然、違和感ないですもんね」和子は少し気味悪そうだった。「あの 人、ほんとに、ズボンはくのって生まれてからこれが初めてなんですか、美尾さん?」
「じゃないのォ?何でも昔から身体が弱くて、体育の時間はずうっと見学だったって言 うし。衣装あわせした時、やけに感動してたもの。『あらあ、まあ、何て楽に動けるんで しょう。それに足が一本ずつ、きちんと布に包まれていますから、暖かいことったらあり ませんのねえ。まああ、皆さんは、これまでずうっと、こういう気持ちのよさを味わって いらしたのねえ。わたくし何だか、ずいぶん人生を損したみたいな気がいたしますわあ』 なんて、ヘルメットかぶって認識票首にかけながら言ってたっけよ。見てて、相当、不気 味だったぜ」
「そりゃそうでしょう。練習の時、あの人が耳に煙草はさんで、頭にバンダナまいて、 胸はだけて、小銃小わきに『けっ、このくそばばあ、クリス、てめえ、何をぐずぐずして やがんだよ、脳たりんのくそガキもいっしょに、とっととバラしちまわねえかい』なんて 言ってるの聞くたびに、今でも頭がくらくらします」和子が白状した。「それもですよ、 何だかもう、やけにうれしそうに、生き生きして。それでもって、けいこが終わったとた ん、ヘルメットはずしながら、『おっほっほ、田舎の母が、今のわたくしを見ましたら、 きっと気を失ってしまいますわねえ』とか言うんですもん。田舎のお母さんより先に、こ っちがどうかなりそうですよ」
「・・・緑川さん、大丈夫ですか?」和子の話に、はしごの上で優子も笑っているらし く、涼しい小さい笑い声が降ってきたので、しのぶは声をかけた。「コンセント、見つか りました?」
「少し待ってね。古い電球がずいぶん固くはまっていて、今やっとはずれたところ」暗 い天井の方で、優子のかぼそい声がした。「多分、これでいいと思うわ・・・」
それからしばらく、また間があって、突然明かりがぱっとついた。
新しい電球の光は予想していたよりもずっと明るく、かなり広いへやの中を、すみずみ まではっきり照らし出した。そして・・・
はしごの上の優子も、下で支えていた三人も、へやの周囲を見回して息を呑んだ。 しのぶが、落とすのを恐れたように、片手のライトをゆっくり消して、そうっと床に下 ろす。
「これって、いったい・・・何なんですか!?」押し殺した声で、ようやく和子がつぶ やいた。
◇
そこそこ明るい光の中に浮かび上がったへやの周囲は、おおよそ人の背の高さあたりま では、クリ-ム色のタイルが一面にはられている。ところどころに青や赤の美しい花模様 のタイルがまじっていて、うっすらほこりをかぶっているため、光っていないせいもあっ て、華やかなタペストリ-がかかっているように見えた。
しかし、四人の少女たちが目を奪われて息を殺してしまったのは、その上部・・・つま り、人の背の高さあたりから上の壁一面と、天井までのへや全体をおおいつくした、巨大 な壁画だった。
ほぼ正方形の広いへやは、二十畳あまりもあったろう。天井も高く、向かい合う四つの 壁面はいずれも大きな劇場の舞台かスクリ-ンのようだ。
その一方の壁いっぱいに描かれているのは、どこまでも広がる緑の木々の森だった。 ところどころに小川が流れ、ところどころに木の間ごしに明るい光がふりそそぐ空き地 がある他はむしろ薄暗く、木々や下生えが重なり合って、あちこちは闇に近い暗さになっ ている。
それにしても、これほどにさまざまな緑の色があったろうか。そう思わせるほど、木々 の葉や、つたや、草や、苔の色合いはそれぞれ微妙にちがっていた。あるいは深くやわら かに、あるいは冷たく輝き、あるいは透き通るように澄み、あるいは淡く煙っている。そ して、流れる小川のせせらぐ水も、木々の間から見える空も、そこから落ちる光の筋も、 すべてがかすかに緑がかっているのだった。
それらの緑がかさなりあう中に、半ばとけこむように、たくさんの人間たちがいた。彼 らもまた、森の木々や草と同じように濃淡さまざまな緑の色の服を着ている。皆、腰に短 剣をさし、背には弓矢を背負っていた。ある者は小川のほとりにたたずみ、ある者は木陰 で竪琴をつまびき、ある者は弓に矢をつがえて遠くを走る鹿の群れをねらっていた。 それと向かい合った、もう一つの壁には、反対に、緑の色がまったくといっていいほど ない。
上の方は、天井にまでつながって、白に近いほど明るく青い空がいっぱいに広がってい る。下の方の部分は、光をたたえてきらきらと輝く、海とも川とも沼ともつかない、一面 のうす青い水である。
上と下との、澄み渡る青にはさまれて、空に浮かんだ雲のように、白っぽい岩山が重な り合ってそびえていた。岩山の下方には、水辺から高く伸びたやわらかい茶色の芦がいっ ぱいに生えて、風にそよいでいる。空には鳥が舞い、水の中や、芦の葉の間にも浮き巣で 卵を守っている鳥の姿が描かれていた。
こちらの風景の中にも、やはり多くの人がいる。岩の色とどこか似た白っぽい服が多い が、中には赤や青などの美しい色彩の服を着ている者もある。だが、その色もどこか静か にくすんで落ち着き、岩の間に咲き出す花のように、全体の色調にしっくりとなじんでい る。はばの広い刀を手にした者もいるが、その刀の色でさえ、淡い青や渋い金色だった。 彼らのある者は小舟に乗って水の中をのぞきこみ、別の者は岩に座って杯をあげ、一人 は笛を吹いていた。そばの岩の上では、一羽の小鳥が首をかしげてじっと笛に聞き入って いる。
どちらの絵でも、ひげを生やしている者といない者とは、ほぼ半分だが、服装や、して いることから見ると、すべて男性のようだった。
これら二つの壁にあらわされたそれぞれの世界は、二つの壁にはさまれて同時にそれを つないでいる他の二つの壁の中で、ゆるやかに一つにとけあう。
片方の壁では、岩山と森の木々とが入り交じる風景の中で、緑の服の人々と、白い服の 人々が、ともにこちらに背を向けて、画面の奥から押し寄せて来る敵と戦っていた。 敵の姿はまだ遠いのか、はっきり見えない。
しかし、立ちのぼる土煙の中にひるがえっている色とりどりの鮮やかな旗、雨のように ふりそそいできている矢、硝煙にくもって暗くなった空の中を飛んでくる砲弾のような赤 い火の筋などから見ても、かなりの大軍であり強敵らしい。
それでも、画面の手前で戦っている人々に深刻な様子は少しもなかった。大半の者がこ ちらに背を向けているのに、それでもなお、その後ろ姿には何かのんびりとした自信や余 裕が見てとれた。わずかに横顔を見せている人々の多くは笑っていたし、足元の小さい花 を指先でもてあそんでいる者や、小鳥の巣の卵がこわれないように帽子に入れて、そっと 移動させようとしている者もいた。緑の服の若者の一人は落ちてくる矢の中にすっくと立 って、竪琴をひきながら、高らかに何かを歌っていた。白い服の人の一人、やせぎすで、 いかにも聡明そうな表情の男は、静かにひげをひねりながら、片手には半ば開いて垂らし た巻物を持ち、勝利を確信している人の、冷静な面白がっているかのような表情で戦場を 見渡していた。
◇
優子が電球をつけたコンセントは、天井のほぼ中央にあった。天井には他にもいくつか コンセントがあって、いくつかには切れているらしい電球がはまっており、いくつかは何 もついていない。
そのコンセントのひとつひとつを、うまくカムフラ-ジュするように、天井には太陽や 月、土星、星雲、銀河、虹、赤い夕日などが描かれている。
そして、その赤い夕日の光が、血のように広がって流れ落ちる方向に、このへやの最後 の壁があった。
その壁の絵の全体も、夕焼けの照り返しのような、うす赤い光に包まれている。 戦場を描きながらも、あんなに陽気でにぎやかに見えた、さっきの壁のちょうど反対側 に向かい合っているこの壁は、他の三つと比べると描かれている人の数が極端に少ない。 白い服の男が四人、緑の服の男が二人。
風景も、ほとんど何も描かれていない。森もなければ、岩もなかった。赤い光に包まれ た、草もほとんど生えていない、ほこりっぽい空き地。
左のはしに、そんな空き地にひとつぽつんとおいてあるのは異常なのに、妙にリアルな 筆致で、木のテ-ブルがひとつ描かれている。そのはしにつかまって、今にも地面にくず れおちそうになっているのは、浅黒い肌のたくましい若い男だ。黒い髪は乱れて、筋肉の 盛り上がった肩にかかり、男らしい彫りの深い顔は恐ろしい苦痛にゆがんで、灰色に変わ った唇からはどすぐろい血があふれだしている。
テ-ブルの上には、倒れた盃。紫がかった酒がこぼれて広がって、怪しい煙をたててい る。今し方、男は毒を飲まされたのだ。
それを飲ませた相手は、男の向かい側に立っている。なかば、こちらに背を向けて、横 顔だけが見えている。やはり肌の色は浅黒いが、きゃしゃな、どちらかと言えば弱々しい 身体つき。暗い、絶望に満ちたまなざしは、死にかけている男よりも、苦しげにさえ見え る。世界の果てまで見通して、時代のかなたまで見据えて、それでなお希望がどこにもな いことを知ってしまった人間の顔。
そして、よく見ると、彼もまた同じ紫色の酒の入った盃を手に持って、今にも唇に運ぼ うとしているのだった。
画面の中央には、枯れて、肌がつるつるになった大きな木がひとつある。真っ黒いカラ スが一羽、高い枝にとまって、首をかしげて見下ろす下に、二人の白い服の男が、太い木 の枝にぶらさがって、首をくくって死んでいる。
二人とも、もう息は絶えている。足も手もだらりと長くたれさがり、太い縄のくいこん だ首のあたりはどす黒く変わっている。ねじくれたようにゆがんで片方にかしいでいる顔 は、どちらもすでに土気色だ。もはや少し腐敗しかけてさえいるのか、指先や鼻のはしは 蝋色にすきとおりはじめ、わずかに開いた唇からは歯が見えて、額や頬のあたりには蠅が 数匹とまっている。
それでも、二人のその顔には、生きていた時の面影がまだ充分にのこっている。 手前の一人はまだ若い。眠っているようなその顔の表情は清々しいが、小さく寄せた眉 の根は、死の苦しみというよりは、かすかな怒りを示しているようにも見える。
その、やや向こうに下がっている死体は、よく見ると、あの戦場の場面で巻物を手にし ていた聡明そうな男であることがわかる。だが、この死に顔には、戦場の彼には見られな かった疲れと悲しみがいっぱいにただよっていた。髪やひげがもうほとんど真っ白になっ ているところを見ると、歳もとったのだろうか。だが、そうやって疲れ果てた表情であり ながら、よく見ると彼の唇はかすかにゆがんで嘲笑とも微笑ともつかぬ笑いを浮かべてい た。そうやって死んでいく自分自身への、せいいっぱいの抵抗のように。
画面の右端の手前には、緑の服の男が一人、同じ緑の服を着た男の腕に抱かれて草の上 に横たわっていた。
褐色の髪にも口髭にもわずかに白髪がまじっているが、まだ少年のように若々しいその 顔は、目を閉じて明らかにもう死んでいるにもかかわらず、ありありと不安と恐怖の表情 を浮かべていた。あたかも、自分が死ぬことを確信し、近づいてきた死を前にして感じた おびえが、そのまま顔の上にとどまってしまったかのように。
彼の緑の服の袖はひじまでまくりあげられて、ひきしまったなめらかな腕の静脈から、 したたりおちつづける血が、投げ出した手の手首から指を伝って流れ落ち、おびただしい 血の流れが、周囲の草むらを浅い血の池に変えていた。
どちらかというとすらりと細身の彼に比べて、彼を抱きかかえているもう一人の男は、 ひとまわり身体が大きく、がっしりとしてたくましかった。だが、金色の髪とひげをはや した、明るい人のよさそうな顔を深くうつむけて、太い腕でしっかりと血に汚れた男を抱 いているその姿は、鋭い悲しみにうちのめされ、深い孤独にさいなまれはじめていた。 地面にひざをついた彼のズボンも長靴も、すでに血で染まっている。二人の男の手が重 なり合うようにして、いっしょに握りしめている洋弓も、半ば血だまりにひたって見えな くなりかけていた。まだ生きている男の暖かい色の太い指に支えられおおわれた死んだ男 の指は、すでにすっかり白かったが、まるで何かにすがるように、最後の祈りをこめるよ うに、まだかすかに弓にからまっていた。
◇
どれだけの時間が流れたのだろう?
時が、とまったようだった。ようやく、しのぶが口を開いて低く言った。
「誰かがいるとか、見られてるような気がするとか、朝子や眉美が言ってたのは、これ だったんですね」
「らしいね」さつきがつぶやいた。「ライトの光がどうかしたはずみに壁まで届くと、 人の姿がちらっと見えたりしたんだろう」
「これって、いったい・・・」
何かにおびえているようにひそめた声で和子が言いかけた時、階段の方で人声と足音が した。皆が戻ってきたらしい。
さつきは、身体をかがめてライトをつかむと、点灯して天井に向けた。
「プリンセス、電球をはずして、下りといで」彼女は、静かなきっぱりとした声で言っ た。
「でも・・・また暗くなりますけれど・・」
「かまわない」さつきは低く、否応言わせぬ調子でつづけた。「今、こんな絵を皆が見 たら、大騒ぎになって明日の公演どころじゃなくなる。明日が無事にすんでから、あらた めてゆっくり、皆には話そう。さ、早く!」
優子の小さな返事の声は、ちょうど部室にどやどやと入ってきた皆の声にかき消されて よく聞こえなかったが、天井の明かりはすぐに、ぱっと消えた。あとはただ、ぎらぎらと したライトの輝きの中に、銀色のはしごと優子の姿が浮かび上がっているだけだ。
「・・・気をつけて、下りなさい」はりつめた声で、さつきが言った。
「プリンセス、あなたたち、そっちにいるの?」部室との境のドアが開いて、光とざわ めきが流れ込んでくる中に、新名朱実の声がした。「コ-ヒ-、いれてくれてたんだね? もらっちゃっていい?」
「どうぞどうぞ、ご遠慮なく!」さつきが陽気な声で答える。
「あれえ、美尾さん、こっちでしたか?」村上セイの声がした。「さがしましたよ!」
「悪い悪い、いや、サボった罪滅ぼしに、ここの電灯つける手伝いしてたんだけど、ち ょっちい接触悪いみたいでさ。明日もういっぺん、挑戦するよ」
「じゃ、こっちに来てください。最終のうちあわせするそうですから」
ちょうどその時、優子がとんと、はしごから床に下り立った。はずした電球を手にした まま、不安そうに彼女はさつきを見る。
「皆の前でこのこと知らん顔している方が」しのぶも緊張した顔になっていた。「明日 のお芝居よりむずかしそうだな」
「弱気になるな」ライトのコ-ドを巻き取りながら、さつきがささやいた。「大丈夫だ よ。そわそわしてても、上の空でも、皆、明日の公演が心配なんだと思ってくれるさ。行 くよ!」
だが、明るく光のもれている部室の方へ歩みだす前に、優子は一人立ち止まって、もう 一度へやの奥へと目をやった。今はもう厚く重たい闇に包まれてまったく見えないが、さ まざまな表情で青ざめ、血に染まって死んでいた、あの男たちのいた方を。