小説「散文家たち」第19章 写真

時計の針はもう十一時を回っていたが、浜砂寮の一階の風呂場のわきにある洗濯室にはあかあかと灯がついていた。大きなコインランドリ-の洗濯機が二つと乾燥機が一つ、くるくると回っている。窓の外の花壇に立った街灯の光に照らされた花々の色が、ガラス窓の網戸の向こうに白っぽく浮かび上がっている。その窓べの長いベンチに横になって、例によってぶあつい本を読んでいるのは、言わずとしれた堀之内千代だ。ベンチのそばの彼女の足元には、洗濯物入れらしい大きな藤のかごが二つ転がっていた。
「こんなところにいたの?」
白のジ-ンズにアロハシャツの美尾さつきが入ってきて、へやの真ん中にある、もう一つのベンチをまたいで腰を下ろし、片手に持った黒い四角いビニ-ルバッグをかたわらの床の上に置いた。
「ずいぶん、探したわ。あなたって、めったに移動しないことじゃ砂漠のサボテンなみだけど、いったん動きだしたら最後、いくら探しても見つからないっていう点じゃイリオモテヤマネコ以上だわね。最終公演の幕が下りたか下りないかのうちに姿を消したと思ったら、こんな夜中に洗濯なの?」
「洗濯物がたまってたのさ」しゃべりながらあいかわらず千代は、本のペ-ジをめくっている。「ふうん、しかし、海ガメの卵というものは、そんなものじゃああるまい。第二章に書いてたこととも矛盾する───いや、すまんね、こっちの話。何しろ、夜の公演が七時半はじまりの十時五十分終了ときちゃね、家事にいそしむ間もありゃしない」
「家事!?」さつきは、めいっぱい力をこめて言った。「あなたがね!?まあいいわ。探してたのは、説明しておきたいことがあったからなの」
「へえ。何をさ?」けだるそうに寝返りをうって、狭い固いベンチの上で千代は器用に向きを変えた。
「キャストのことよ」
「キャストって?ああ、あれか───一時はまったくどうなることかと思ったが、最終的にはそんなに悪くもなかったじゃないか。主役四人と従者それぞれのカップルが微笑ましかったって、皆の間じゃ好評だよ。もっとも、あんたら四人がそれぞれ、自分のご主人を私生活でも私物化しそうで心配だって、やきもきしているファンもいるがね」
「あらそう」
「特に、あんたが司をね。いや待てよ、竜子が朝子をだったっけ。通子がみどりをだったかな───まあ、そりゃあまり、ありそうにないが」
「わかるもんですか」さつきは膝にひじをつき、手のひらで顔をこすった。「日村さんも、このごろけっこう、みどりと仲がいいみたいだし。彼女ね、劇を一つやるたびに、小道具や衣装のどうでもいいようなのを一つ、堂々と私物化するくせがあるのよ。『記念品ですのよ~』とか言ってね。『カルメン』じゃ、あの変な扇、『青い地平線』じゃ、あの彼女しか似合わない緑っぽいガウン。『三銃士』じゃまだ今のところ何もちょろまかしてないようだから、案外みどりが戦利品なのかも」
「そう言や、さっきその日村さん、黒いサマ-ドレス着て、洒落た帽子かぶって門を出て行くのが見えたけど、こんな遅くにどこに行ったんだろ?」
「外出許可はとってるはずよ」さつきは、派手な花柄のアロハシャツの袖をたくしあげた。「あたしも今から行くんだけど。京子と美沙と峯さんもいっしょに、司たち四人を招いて『野いちご』で、ささやかなお食事会。あそこ、二時まで開いてるから」
「おや、今夜は遅いから打ち上げパ-ティ-は後日、日を改めてと言ってたっけが、じゃ、今夜はあの四人のために特別に?それじゃあんた、皆から、ご主人私物化云々を心配されてもしかたがないね。『アナザ-・カントリ-』の主人公が気に入った下級生の少年を食事に誘う場面をほうふつとさせるじゃないか。ほとんど集団見合いというかダブル・ダブル・デ-トと言うか、しかも、この夜中に?あたしの洗濯より過激だよ。まさかそのまま、手に手を取って、どっかのホテルにしけこむんではあるまいな」
「千代」さつきは両手で頭をかかえたまま、くぐもった声を出した。「ふだんのあたしなら、そういう冗談大好きだけど、今夜の今は、いささか神経にさわる───そのわけは今から説明するけどね」
「何でまた?この洗濯機のうなる音が、あんたの秘められた過去の記憶をよみがえらせでもするのかい?コインランドリ-で犯された幼時体験があるとか?」
さつきは頭を振って立ち上がると、足元のバッグから茶色の大きな封筒を出した。千代の方に近づきかけて、ふと気づいたように立ち止まり、ドアの方に行って中から鍵をかける。けげんそうに見ている千代に肩をすくめて、さつきは「気を散らさないで話をしたいのさ」と言い訳した。「『野いちご』で、あの四人にも、これを見せて、今度のキャストの件について事情を話して謝るつもり。でも、その前にあんたにも説明して、一応、意見も聞いておきたい」
かなり中身のありそうな分厚い封筒が、どさりと千代の胸の上に投げ出された。
「開けて、中身を見てちょうだい」さつきは言った。

千代は黙って、読みさしの本をわきのガラス窓にたてかけ、封筒の紐をほどいて、中から大小さまざまの写真や、ワ-プロらしい文字で印刷された紙の束を出して、ちらと眉をひそめながら目を通した。
「順序をごちゃごちゃにしないでよ」さつきが注意する。「一応、ナンバ-はふってあるけど」
洗濯機の一つがピ-と音をたてて、すすぎと脱水を終わったことを告げて止まったが、千代もさつきも、そちらを見ようともしなかった。
骨ばった長い指で千代はていねいに写真と紙をそろえながら、ゆっくりと見て行った。何度か小さく首を振る。
やがて彼女は、いつもの落ち着いた声で言った。
「こんなものが、出回ってるのかい?」
「けっこう、見せるでしょう?」さつきは、いつもの冷やかで陽気な、からかうような口調を取り戻していた。「その、あたしと美沙が、シェ-ンと少年の父のメイクのまま、裸で抱き合っている写真とか」
「鞭で打たれている、京子の鳴神上人というのもなかなか」千代も鼻で笑った。
「その原稿の方は、読んでみた?」
「ちらちらとはね。ものによっていささか出来不出来の差はあるようだが、それなりに傑作ぞろいじゃないか。バッサニオ-とアントニオ-がシャイロックから犯されるこの場面なんて、あとでゆっくり読みたいぐらいだ。『JUNE』に出しても恥ずかしくない。二人のことば使いなんか、いかにもそれらしくて感じが出てるし、一方であんたと京子をどことなく連想させる描写になってるってのも芸が細かい。ポ-シャが一人称で語る、性の遍歴ってやつも力作だね。彼女の自慰やレイプされる場面の写真とセットになってるとこなんざ、心憎いサ-ビスじゃないか」
「言うまでもないことだけど、その写真の方、身体はどれも、あたしたちんじゃないからね」
「そうかい?」千代はわざとらしく、びっくりして見せた。「じゃ、このベッドで四つんばいになって浣腸されてるのも、あんたじゃないんだね?」
さつきはうんざりしたような顔で、ベンチのはしに腰を下ろした。「第一に、あたしのヒップはそんなに大きくない。第二に、このあたしが黙ってそんなことさせるかよ?ようく、見てよね。その身体、縛られてもなきゃ、誰かにおさえつけられてもない。好きでやってるんでなかったら、おびえて言われるままにじっとしていたんだとしか思えない」
「ちがいない。いや、それにしてもよくできてる。あたしゃ写真にゃくわしくないが、こんな合成写真って、そう簡単にできるのかい?パソコンなんかを使ってるの?」
「その小説もどきの数々と同じように、写真にも、かなり質のいいのと悪いのがあってね。けっこう、ちゃちなものもあれば、コンピュ-タ-で処理したらしい、相当よくできてるものもある」
「で、こういうのの製造元は?」千代は写真の一枚を持ち上げて、つくづく見上げながら聞いた。「この、ギャングの親分が子分をバックで攻めてるのなんかも、うまくできてるなあ───え?何か言った?」
「そんなもの、うっとりながめてるなよな。製造元ですって?わかるもんか。わかったら今頃のりこんでって、火をつけてやってるよ」
もう一台の洗濯機も音をたてて、洗濯の終了を知らせた。さっきから初めて、千代がさつきの方を見た。
「そう言ったって、どうかして手に入れたんだろ?この写真?この───小説っていうか、私家版ポルノもさ」
「うん、初めて見たのは、ひと月前。例の連続上演が終わって『三銃士』の準備にかかりかけてた頃さ。プリンセス───緑川優子さんのクラスの委員長してる中野さんが、こんなものがあるのを知っているかって言って持ってきた。彼女、プリンセスのファンで親友でもあるんだけど、ずっと心配していてね、演劇部でいろいろ事件が起こってるのを。それで、この写真とポルノのことも、緑川さん自身には内緒で、直接、部長の京子のとこに持ってきた。クラスの子が持ってたのを取り上げたんだけど、その子の名は出さないって約束してるから、言うのは勘弁してくれってことだった。とにかく、その子も、誰からか買ったんで、その売った子というのもまた、別の誰からか買ったらしい」
「買った?これは売られてるのかい?それも写真とポルノとセットで?」
「ボランティアでこんなの作って配るやつもいないだろうじゃないか」さつきは首をすくめた。「写真とポルノがセットかどうかは今んとこまだ、わかんないけど、その値段たるや───」
「ちょいと待ちな、何で値段がわかるのさ?中野さんは、買った子の名を言わなかったんだろ?」
「その何日か後で、南条美沙が、同室の例の早川雪江に問いただしたら、彼女がけっこう、ごそっとたくさん持ってたんだよ。写真も、ポルノも。彼女はそれ皆、友だちや上級生から買ったって言ってんだけど、いやもう、その値段を聞いて、あたしはいっそ、自分でこの手の写真作って売ったろかって一瞬ちらと思ったぐらいさ。末端価格、ン万円。一枚でだよ!その、ギャング二人のHの写真なんて、一枚五万七千円だったってんだからもう」
「嘘だろう?」さすがの千代も口を開けた。「それで、早川嬢はそれ皆、買って、楽しんでたのかい?あの子のミ-ハ-精神も、ほんとに行き着くとこまで行くなあ」
「楽しんでたんじゃなかったらしいよ。少なくとも本人はそう言ってる」さつきは、ほろ苦い笑いをうかべた。「あのさ、彼女、我々のファンとして、こういう写真やポルノが出回ってるのが、たまんなかったらしい。だから自分が買い占めて、なくしてしまおうと思ったんだって。つくづくバカだと思うけれども、あの子ならやりかねないと思わせるところが偉大よね。それにしても、そんならさっさと捨てるか焼くかすりゃいいものを、じっと抱えて持ってるってのがアヤシいって言えばたしかにそうなんだけど、それも、あの子に言わせるとね──見るのはもちろん、さわるのも、すっごくイヤで、処分しようと思ったんだけど、曲がりなりにも、あたしたちの顔が映ってたり、役の名前が文章の中に出てきたりするものを、捨てたり焼いたりはとてもできなかったんだって───それも言われてみると、そうかなとも思うでしょう?美沙に全部ひきわたす時、早川さん、いっそ、ほっとした顔してたって言うんだわ」
「ふうん」千代は吐息をついた。「哀れよのう───って言いたくなるね何となく。それで?」
「それで?早川さんに売ったって子も何人かつかまえて、しめ上げたし、他のル-トで手に入れて持ってたやつも見つけて、いろいろ聞いてみたけど、やっぱり発売元はつかめなかった。互いの顔も見ないまま、パソコンや電話やメモで連絡とりあって、現物と金をどこかにこっそり置いておく場合なんかも多いらしい」
「だけど、言っちゃなんだが、こんなことやりそうなやつと言ったら───」
「ああ、わかってる。そりゃあ、辛島圭子しかいないさ」さつきは、それがわかっていても何もできないという無力感にかられたように、肩を落として首を振った。「金のためなら何でもするやつだからね。撮影には写真部の機材を使えばいいんだし」
「ということは、この身体の方のモデルも、あそこの、かわいそうな部員たちってことかい?」
さつきは汚いものにふれたような苦々しい、いやな顔をした。
「やりかねないって気もするわ。ただね、写真の方はともかくとして、この小説がわからない。あんたも、ざっと見て思うでしょ?ものすごく稚拙なのもあるけど、中には芸術作品といっていいほどのものもある───いや、よく見ると稚拙なのだって、もしかしたら、わざとそういう文体で書いているんじゃないかって思わせるところさえある。どっちにしたって、こんなもの、辛島圭子には頭をねじきったって書けるわけがない。写真部員にそんな文才のあるやつがいるって話も聞かないしね。実のところ、あたしと京子はマジで少々、美沙を疑ってるぐらいだ。少なくとも、彼女に匹敵するぐらいの才能がなきゃ、こんなの書くのは無理だって思う」
「となると、単純に考えて文芸部か新聞部か───」
「それもなあ───たしかに文芸部には、山中貴美子とか、岩田レミとか、筆のたつのは何人かいた。穂積禎子が前にあそこの同人誌に書いてた小説なんて、ちょっとこのポルノと似てなくもない。でも、知ってのとおり、文芸部は赤字を出して廃部になるまで去年一年、内輪もめがひどくってさ、中心メンバ-が何人も飛び出してる。山中さんはたしか今、SF研究会だろ、岩田さんはどこだっけ───美術部にも何人か行ってるし、ほとんどのサ-クルに部員がちらばってしまってる。言いかえれば、ほとんどのサ-クルに、このくらいのポルノが書けそうな部員がいるってことさ」
「それでも、元文芸部員が一番多く、まとまってるのは、やっぱり新聞部だろ?」
「うん、まあね。それにあそこには、コンピュ-タ-扱わせたら全校一と言われてる沢本玲子がいるからな。彼女なら、こんな写真もその気になれば楽勝で作れるかもね」
「ふうむ」千代はまた、考え込んだ。「もし、小石川ナンシ-がこのことに何か関係してるんなら、金というより、あんたたちへのいやがらせが目的だろうな。金をとっているのは、ただのカムフラ-ジュで」
「まあ、そこのところをもうちょっとはっきりさせたくて、あんなキャストを組んだんだけどね」
「あんなキャスト?」千代は一瞬話が呑み込めなかったようで、けげんそうに聞き返した。

「だから『三銃士』のキャストだよ」疲れたように、さつきは言った。「京子や美沙と三人で相談したんだけど、対策立てようにも、犯人探そうにも、一番問題なのはね───この写真とポルノがさ、ただ、このところの演劇部の爆発的人気を利用して金かせぎをしようとしてるだけなのか、それとも、あたしら三人をタ-ゲットにした嫌がらせか、そこのところがはっきりしない」
「確かに、見てる限りじゃ、ここに登場してるのは、あんたたち三人が中心だよな。他はほとんど登場してない」
「でも、それはしかたがないの。舞台の写真撮影を許可したのは、『シェ-ン』の上演からだった。こんな写真に使えるほど大量の、主役のいろんな表情をおおっぴらに撮影できるようになったのは、あれ以後のことなのよ。そして、フラッシュの嵐の中でも平気で演技ができるのは、さしあたり、あたしたちだけだって判断してたから、あの時期の舞台の主役は皆、あたしたち三人だった。だから───特にあたしたちへの嫌がらせでなくって、ただの金もうけが目的でも、結局はあたしたちしか登場しない写真になるのはやむをえないわけなのよ」
「───そうか──」千代は写真と紙の束を封筒に入れ直して、さつきに返しながら、初めて納得がいったようにうなずいた。「だから『三銃士』では───」
「主役を皆、一年にした」さつきは言った。「最初はあたしたち三人が、三銃士になるはずだったのよ。ポルトスをあたし、美沙がアラミス、ダルタニアンには下級生を誰か使って。でも、それじゃ多分、こういう写真や小説の作られ方には、これまでとあまり大した差は出ないはず。だから、次には、峯さんと日村さんとを加えて、今の従者役で四人の銃士を考えて見た。だけど、それでも、あたしと京子が主役に二人も入ってちゃ、やっぱり変化は見えにくい。結局、劇全体が失敗する危険は覚悟の上で、無理は承知で、今みたいなキャストを組んだの。もし、目的がただの金もうけなら、司たちには気の毒だけど、今度は彼女たちの顔写真を使った、この手の写真が出回るだろう。そうじゃなくって、あくまでも、あたしたち三人が目的なら、美沙の銃士隊長か、ひょっとしたら従者のあたしたちのポルノ写真がやっぱり制作されるだろう。とにかく、どういう反応があるかで、今後の対策立てる判断材料っていうか、何かの手がかりをつかまなきゃならない。それを見るための、可能な限りぎりぎりまでの変化をつけたキャストだったの。峯竜子と日村通子だけには事情をうちあけて協力を頼み、あたしたち三人といっしょに、舞台の上で主役の四人にいつもはりつき、客席の動きに注意してもらうようにした。何かおかしな動きをしている客がいないか、主役の誰かがカッコいいポ-ズをした時、誰のファンということなく、のべつまくなし、いろんな表情を撮影している者がいないか、チェックしてもらっていた───そんなわけでさ──」
千代はさっきから、彼女には珍しく妙に厳しい表情になって、何かしきりに考え込んでいる。沈黙が落ちて、乾燥機の回る音だけが、ごうんごうんと低くひびいた。千代に何度か考え込んだ目でじっと見つめられて、さつきがちょっと、そわそわする。
「司たちには、悪かったと思ってる」彼女の方も珍しく、少し弱気な弁解口調になっていた。「千代、怒るんなら、あたしを怒ってくれていい。でも、わかってよ───シャ-ロック・ホ-ムズがワトスンに何べんも言うせりふじゃないが、あの四人、特に司と朝子ときたら、思ったことがいつも全部すぐ顔に出ちまう。隠し事がいっさいできない。事情を全部うちあけた上で、いわば二重の演技をさせるのは荷が重すぎると判断したのよ。それでも、やってて苦にはなってた。京子は初めから反対だったし───あたしと美沙で無理矢理説得したんだけど。とにかく今日、今から、司たちには、ちゃんと謝る。『野いちご』で一回めしを食わせたぐらいじゃ、チャラにできることじゃないってのはわかってるけどさ」千代が黙りこくっているので、さつきはますます気がとがめた間の悪そうな顔になり、ちらと腕時計を見て立ち上がった。「もう行くよ。十分も遅れてるから」
「───さつき」千代が、まとまりかけた考えを手さぐりしているような、妙におぼつかない、せっぱつまった声を出した。「あんた、それって、ちょっと危ないんじゃないか?───」
「危ないって?」
「いや、その───」千代は落着かなげに身じろぎして、ベンチから身体を起こした。「あのな、もし、その犯人が───こういうの作ってるやつが、あんたたち三人に対する嫌がらせとか、そういうのでやってるんだったらいいけど、もし、純粋に金のためだけだったとするわな───演劇部の人気者の、あられもない写真てやつを売りさばいて、金を手に入れたいだけで、こういうことをやってたとしたら───今度は、しのぶや、司たちの、そういう写真を作ろうとするわな、当然のこと───」
「ああ。恐らくね」さつきは吐息をついて、うなずいた。「それも、あの子たちには悪いと思うよ。そういう写真が出回るのは───。でも、それを手がかりに、犯人をつかまえられれば、あの子たちもわかってくれると思うから───。こんなこと言っちゃ何だけど、いたぶられるのは他人の身体なんだからね。それと、紙の上の空想でだけ。司たちが実際にやられるわけじゃないんだから。それが、せめてもの慰めだし、どこかでそんな目にあわされている子たちのためにも、早く発売元をつきとめて───」
「そこだよ、さつき」千代は立ち上がりながら言った。「あんたたちの、その計画が根本的にヤバいのは。なぜ、考えてみなかった?そういう写真を作る一番簡単な方法は───こんな、合成だの何だのって手間をかけないで、本人たちをそのまま使って、本番の、生の写真をとるのが一番いいに決まってるじゃないか?当人たちを連れてって、実際にこういうこと皆、やらせるのが」
さつきは、何を言われているのかよくわからないらしく、目ばたきしながら千代を見つめた。
「だって、それはないでしょう───」彼女は口ごもった。「あり得ないわよ。これまでだって、なかったんだし───」
「あんたや、京子や、美沙ならね!」今や次第に自分でも確信が強まったのか、千代の口調も強く、激しくなっていた。「あんたたち三人をさらって行って、こんな写真のかっこうさせて、撮影したのをバラまくような度胸のあるやつなんて、そりゃいたら、あたしもお目にかかりたいさ。あんたらみたいなライオンとトラとドラゴンみたいな三人組に、おいそれと手出しができるやつなんて、この学内にいるわきゃないよ。だからこそ───だからこそ、合成写真だったんだろ、これまではさ!───でも、あの四人なら?」
さつきの顔から文字通り、みるみる血の気がひいて行った。何も言わずに開いたままの唇までが白くなっている。千代は、たたみかけた。
「そりゃ、しのぶはちょっと手ごわいさ。スポ-ツ万能で、しっかりもしてる。だけどあの子もあんたたちに比べりゃ、身体は大きくても基本的にはいいとこのお嬢さんだ。悪知恵は働かないし、気性もそんなに激しかない。ましてや、あとの三人と来ちゃ───朝子だろ?みどりだろ?司だろ?どっからどこまで、典型的な、さらわれるお姫さまってタイプだろうが?目をつけられたらそれっきり、さしずめ、今夜が一番危ない。最終公演が終わったばかりで、四人の人気はピ-クに達して、商品価値は一番高い。多分、衣装もまだ着たままだろ。そのまま、どっかにまとめてさらえば、今夜一晩、時間はありすぎるほどあるんだから───」
麗泉では、携帯電話もポケットベルも使用禁止になっている。こっそり持っている少女は多いが、見つかればメッセ-ジは皆チェックされ、機械は没収されるので、誰も用心していて、人前ではめったに使わない。だがさつきは今、ほとんどあたりかまわずと言った様子で、バッグの底から赤いケ-スに入った携帯電話をつかみ出し、それとはっきりわかるほど震えている指で何度もまちがえながら番号をプッシュした。
「美沙?──ああ、美沙!?」安堵と不安の入り乱れる声で彼女は叫ぶように言った。「さつきよ。遅れてごめん。でも、あの、そこに───しのぶたち、来てる?司も───他の子も。──何でよ~っ!?」数秒間、相手のことばに耳を傾けていた後で、さつきは絶叫に近い声をほとばしらせた。「どうして、おかしいと思わなかったの?四人とも来ないなんて───第一、司が時間に遅れるわけないじゃない!?───わけは、あとで話すわ。今すぐ戻って来て!部室で待ってる。食事なんて、キャンセルして!あの子たち───あの四人───さらわれたんだわ、美沙!あの───あの写真や小説作ってる連中によ!───落ち着いてるわよ。落ち着いてるわよ、あたしなら!すぐ来て!───いいわ、とにかく急いで!」
携帯のスイッチを切ると、さつきはぐったり両手を身体のわきにたらしたまま、低くつぶやいた。
「もし、あの四人に何かあったら───そうしたら、あたし───」
あとは言葉にならないまま、彼女は激しく首を振り、頭を高くあげて千代の方へと向き直った。
「千代、協力して!」
「もちろんさ」千代は音を立ててガラス窓を閉めると、洗濯物も洗濯籠もそのままにして、さつきの腕をつかんでへやを出ながら、スイッチを押して灯を消した。「宿直室に行って、外出許可をチェックする。それから寮委員を召集して、寮のへやを調べさせる」
薄暗い廊下を一散に走って行く二人の足音が遠ざかる。暗くなった洗濯室では、窓の外から流れ込む淡い街灯の光の中で、乾燥機だけがごとんごとんとゆっくり回りつづけていた。

浜砂寮には昔から、舎監の先生というものはいない。前は女性の事務員が警備をかねて一人おかれていたが、十年程前から経費節減と称してそれも廃止され、今は清掃会社から派遣されて寮の掃除をするおばさんたちが、交代で二人ずつ、食堂のわきの宿直室と呼ばれる小部屋に泊り込んでいた。この部屋には、学長の自宅や、藻波市の警察への直通電話も設置されており、緊急の事態には即座に連絡できるようになっている。
「外出許可の書類なんて、かたちだけのものだわ」さつきが廊下を走りながら、千代に向かってそう言った。「あたしたちがきちんと提出してるのは、ナンシ-や先生たちにしっぽをつかまれたくないからよ。出さないで、どっかに行ってる人は多いんだから、あれを見たって誰が今、寮にいるのかいないのかなんて、わかりゃしないわよ」
「だから、いいのさ」そう答えながら千代は立ち止まり、ドアの一つを荒っぽくノックした。
それほど間もなくドアが開いて、花柄のパジャマの少女が一人、眠そうな顔をのぞかせた。寮委員の一人、棚町久美子だ。
「久美さんよ、ご苦労だけどね」千代はいつもの、人を食った口調で言った。「小石川ナンシ-かヒットラ-が乗り移ったらしくて、今夜、夜空を見ていたら急に、寮の規律をきちんとしたいって野望にめざめてしまってね。───目はさめたかい?じゃ、寮委員を至急全員、寮委員会室に集めておくれ。外出許可を出さないで、無断で外出してるやつがいないかどうか、今から全室をチェックする」
「は、はい───わかりました───今ですね?」まだ夢を見ているのではないかという顔つきではあったが、浜砂寮の大抵の寮生たちと同様に、千代の気まぐれにはなれているのと、基本的には千代を信頼している久美子は、パジャマのボタンをはずしながら、うなずいた。
「そう、一刻を争うよ。あたしが責任をとるから、携帯でものろしでも、テレパシ-でも何でも使いな」千代は言った。「それからね。演劇部員は別口の命令がある。全員、至急、部室に行かせな」
「わかりました」ドアのかげで久美子はもう、ジ-ンズをはきはじめている。
「───おっと、もうひとつ、これが一番、大事だった」千代は、こぶしでドアをたたいた。「『三銃士』の劇見たね?主役の四人を覚えているね?」
「片山さんたちですね?」
「そうそう。あの四人が外出許可を出さないで、町に遊びに行ってるって情報がある。たしかかどうか確かめたいから、今日の公演終了後、あの四人の姿をどっかで見た者がないかどうか、徹底的に聞きまくりなさい。どんなことでも、すぐにあたしに報告するんだよ。いい?」
「了解しました。それで、千代さんは、今から?」
「うん、宿直室で外出許可のリストを取って、すぐ、委員会室に行く」
久美子がうなずき、へやの中に戻るのを見て、千代とさつきは再び走り出した。

宿直室の中からは、テレビの音が聞こえていた。千代がしつこくノックしつづけていると、ようやくドアが開いて、おばさんたちが顔をのぞかせた。寮の中では唯一、畳じきのそのへやで、おばさんたちはどうやらテレビの深夜番組を見ながら、お酒を飲んでいたらしい。焼酎のカップや、袋のままで開いたピ-ナッツやさきいかが、テレビの前に散らかっていた。
「お楽しみ中すみませんね」千代は、まるで人情派の刑事のような、あいそいい声を出した。「あたし、寮委員長の堀之内と申しますが、ちょっと寮生の無断外出の抜き打ちチェックをしたいんで、今夜提出されている、外出許可の書類を見せていただけませんか?できたら貸していただけるとありがたいんですが」
「ちょっと待ってよ───ええとねえ───」おばさんたちは赤い顔で、へやの中へのそのそ引き返し、そのへんに置いてあった箱やかごの中を探した。「あれは、どこにおいたんだっけね───あんたたち、よかったらどうぞ入って、さがしてちょうだい」
二人は中へ踏み込んだ。テレビの画面では、裸に近い女が数人、ステ-ジの上で踊っている。おばさんたちといっしょに、そのへんの書類をかきまわしていると、小柄な方のおばさんが「あら、あんた、劇に出てたでしょ?」と、さつきに向かって言った。「この前の休みの日、嫁と孫連れて、一緒に見たのよ。よかったわあ!ねえ、あんた、見た?」
「見たさあ!」勢いよく答えた方のおばさんは、よく果樹園でジャコポに餌をやっている、赤ら顔の、ごましお頭のおばさんで、いちだんと赤くなっている顔で、金歯がいっぱいの口を大きく開けて笑った。「こう見えてもさ、あたしはお芝居が好きなのよ。昔、青年団でやる田舎の村芝居で、男役なんかよくしたもんさ。『国貞忠治』の板割の浅太郎とかね」酔って、いいきげんになっているらしく、おばさんの口はいやに軽かった。「いいよ、西洋のでも日本のでも、やっぱり、ちゃんばらっていうのはさ。わくわくしちゃうよねえ。お嬢さんたちは、でも、板割の浅太郎なんて言っても、きっと知りなさらないでしょう?ねえ?」
「ええ、知りませんわ。すみません」さつきは上の空で答えた。「おかしいわ。昨日までの許可証の控えは、ここにあるんだけど」
「そうでしょう?変ですねえ」おばさんは酒の匂いをさせながら、指輪をはめた太って節くれだった指で、あたりの紙をひっくりかえした。「なくなるってことは、ないはずなんだけどねえ───ねえ、もしも、その内、役者が足りなかったら、あたしにもぜひ、声かけて下さいよ。ねえ?あんまり長くなかったら、せりふぐらい覚えられるし、ちゃんばらは昔から得意だったんだから。今でも、あのせりふ、言えるもんねえ。『親分、水くさいことは言いっこなしだぜ。この浅はなあ───』、ああ、ありましたありました!」
大きく首を回してみえを切りかけたおばさんは、手をのばして柱にかかっていたクリップにはさんでとめてあった、外出許可の申込書の束を取った。
「どっかにあるはずと思ってたんだから───これでしょう?」
千代はうけとってうなずき、そのまま飛び出そうとしかけた。
「ああ、ちょっと。借用証を書いていってよ、一応ね」小柄な方のおばさんが言って、ノ-トを差し出した。
千代がノ-トにペンを走らせている間に、さつきは二人のおばさんに聞いた。
「劇を見て下さってありがとうございます。───あの、ひょっとして、今夜、あの主役やってた四人の子の誰かにお会いになってませんか?劇が終わったあとで───この一時間ちょっとの間に」
「ええとね───さっき、ごみ捨てに外に出た時、橋の上を二人歩いて行くのが見えたよ」小柄な方のおばさんが言った。「ちょっと待ってよ、あれは昨日のことだっけ───いいえ、やっぱり、あれは今日だよ。遠くだし、街灯の光だったから、帽子の羽根の色は何色かわからなかったけれど」
「二人───どっちに行きました?」
「さあ?橋を渡って、校庭の方に───何だか急いでいたようだったね。あっと言う間に見えなくなったよ」
さつきはうなずき、もう一度「ありがとうございます」と頭を下げると、千代といっしょにへやを出た。
「いいか~い、役者が足りないときは、声をかけるんだよう!」ますます、ごきげんに酔っているらしいおばさんの、陽気な叫び声が後ろから追いかけて来た。

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